内職として編んでいた笊や籠も確 かに手間ひまのかかる手仕事は、自 給換算すれば割に合わない。でも金 銭には代えられない社会の価値、役 割があります。僕は、日々の暮らし のものごとくらいは自分でやれるよ うになりたいと思っています。日本 は便利になりすぎて、みんな何もし なくなりましたね。昔の人は日々の 暮らしから多くのことを学んでいた。 古いものを修理再生していると、作 った人の思いが伝わってきます。世 代を超えた技術や思想を理解すれば、 それは次の新しいものを創造するき つかけになる」。 雑木林で拾った枝で、子供たちに 玩具を作る捨てられる大谷石をも らい、ロケットストープを作る。い まの暮らしに必要な多くのものを、 四井さんは自力で作る 「すぐ近所に廃品回収業者のリサイ クルショップがあります。廃品は、 地域の暮らしの縮図、面白いですよ 行ってみましよう」 燔分ほど車で走ると、富士川街道 沿いのショップに着く家具や家電、 食器、電動工具や農機具、何かの部 品、鉄屑 : ・ よく見ると、使える ものは修理、再生している様子。 「廃品を眺めていると、人々の暮ら しぶりが見えてくる。この辺りでは 農機具が多いうちのトラクタ 1 も ここで買いました」。 四井さんが、鉄屑を溜めたコンテ ナの中から水彩パレットを拾う。絵 日常で使う道具は、 なるべく自分でつくりたい。 壊れたら直して、 また長く大切に使う。 再生する思想は、 人や物を、地域社会を 大切にすること。 木工機器でお勧めなの は帯鋸。仕ロなど細かな加 工や製材に便利 2 木工の作業場は、正面 の堆肥小屋の横。木屑が出 たら箒で堆肥小屋に直行。 3 高遠町で見つけた古い 木皿。割れを針金で括った 跡がある。穀物を掬、つのに 使ったものだろうか 4 ・ 7 雑木林で拾った枝 などで、息子たちに玩具を 作る。「非電化リモコンカ ー」と命名した車の材料は、 桃園の剪定した枝 5 捨てられる大谷石でロ ケットスト 1 プを製作。ひ と掴みの枝で湯が沸く。 6 古材から削り出した、 握るとなんだか気持ちのい いオプジェ。 直す、 つくる、 手の力。 104
Spring 2014 no. 49 食の安全性と補助金行政 国の農家の足を引っぱる」といわれ、スイスの面積は、九州よりわすか 減反補助金 減反割り当てが強要された。いろい に大きい程度である。森林が国土の 減反政策は、「コメを作らなけれはろな「転作奨励」がはかられたが、 ・ 8 % を占め、山岳や湖水など、 お金を出す」という、世界史上類例成功例がある一方、失敗例も多く、生産に適さない面積も全体の % ・ 5 のない農業政策である。 農業から離れる人が増え、全国で 4 % を占める。農業も林業も、日本よ 減反とは、政府がコメの生産目標 oo カ所を超える限界集落が生まれ、り環境が厳しいと見てよいだろう。 を決め「それを農家に割り当てて、今、参加を前に、減反保証がスイスの第一次産業従事者数は、 コメの生産量を減らす政策であるが、悪者にされ、廃止へと誘導された。全労働者人口の 4 % 、第二次産業従 そうすると、小規模農家は経営が立農家は、まさに踏んだり蹴ったりで事者が占める割合は % % 、第三次産 ちゅかなくなる。そこで減反に協力ある。 業はれ % なので、就業構造も日本に した農家に補助金を支給することで世界の 2 割が飢えている、という似ている。したがって農業規模は小 政府は、、 る規模農家を保護してきたのに、そして日本にとってコメは数さく、飼育頭数は搾乳牛川 5 頭程 のである。 少ない国内自給可能なのに、コメが度といわれる。どうしてそれで専業 歴代政府は、農家という大きな票余るからと田んぼを潰し、ペンペン経営が成り立っているのか。 田を確保するため、これまでずっと草を生やす農民に減反奨励金が出さスイスでは山間地で酪農を営む農 継続してきたが、安倍政府は 5 年後れ、結果、日本の原風景が失われ、家に、平地で酪農を営む農家の数倍 の 2018 年度から廃止する方向に自然環境は変化し、生態系に影響をの所得補償が支払われている。理由 舵を切った。この直接のきっかけに与え、伝統ある農業文化が失われては山間地のほうが平地より数倍のコ なったのは、 ( 環太平洋 パーしまった。 ストがかかるからである。農家だか ン トナ 1 シップ協定 ) の締結を前提に 日本の農業・林業政策は、泥縄式・ら補償金を支払うのではなく、農業 ョ してのことである。海外から安い米場当たり的で、その度に膨大な予算困難な場所だけど、自然の維持、地 が大量に輸入されることに対抗するが費やされてきた。その最たるもの域景観の手入れ、農家の離農、壊村 シ には、農家を集約化する必要があり、が減反政策である。 を防ぐための労働に対して、所得補 そのために小規模農家を支援する、 償が行われているのである。 ポ で検索すると、悪条件の場 減反政策が邪魔になったのである。スイスの農業政策 ロ 1970 年代から始まった、この 所で、わずか肥頭の搾乳牛を飼って プ強制的な生産調整、強制的な一律減スイスの建築家ピータ 1 ・ズムトいる農家の年収は 6 万スイスフラン 反は、農業現場に深い傷を残すこと 1 の建物は辺鄙なところに建ってい ( 約 530 万円 ) に上るという農家 になった。制度的には「農家の自主るものが多い。レンタカ 1 を借りての話がでていた。スイス農業局の調 フ オ的な取組み」という立場を取 0 たが、建物を探し回り、山奥の道を車で走査によると、スイス国内の農家が年 実質的に義務化された制度だった。 っていたら、人が転け落ちそうな急間に受け取る直接支払いの平均額は、 当初、「自主選択での減反」がいわ傾斜地で、牛やャギがゆったりと牧平地部で約 380 万円、山間部では ス れたが、「逆らうと他の補助金配分に草を食む姿が見られ、辺鄙な土地の約 550 万円。スイス国民の 1 人当 ン も影響を与える」「一単位農協の否定農業が生き生きと営まれていることたり所得は約 410 万円なので、そ 的な見解や協調性のない動きが、全に驚いた。 の額に驚いた。日本でいえは、辺鄙 セ 隊・畦上圭子 ・ 49 Sense of Proportion Spring 20 料 no. 49
気ッよ が剥にせの利ン重 のなき一津る 所まよじけ、 戸 。前再ラを白囲デる 場のち通付 一出でヨ会切り装全梁はり合 あ レに来シる仕塗完や板張組る体をプ夫と雰るめ 居家が 柱地材のい解のらエ窓いなし 間で ののの階取グ外きはく はのしに楽た 2 に窓の。行スつをし一戸スの野成間て、もか 大元な の面な面口を一が。間白レ 納一しい集の寝はのて所風か場がえ 愛もシ が具ッう宅壁る正入房ケんぶ居のカ兼ペだ古ス板てク用 0 台子懐干長植 ン濯ま 障か濯生を 自と月す出工用さ並とろク室スき。一と 関建サ ロりのこ洗、コ にくエのと療美がエ 一寝トむ場ル畳敷シ洗始 、、、、は袋 レは . り・・リ・ . のは レ」奥天下るリへ宅医友物リ箱ダ一はびプはをのたがた イ、側くネ 小ト本はべ室遊ス階団所っ場し 宅け「念面。の明ト房自 ・目た「 . 歹 曵正段納をア工も白スのア、側 2 イ寝のて 2 布台あ現更。トが南っト 変た内をに ラ好し 一綿は間 関。と階収下はて 玄まっ 2 るた足 3 扉くるケ木 4 の居 5 プ 6 恰が 7 に 8 家用をね 9 室川キう そのままでは朽ちていくものが、手を加えればちゃんと機能するのが気持ちいし えているとい、つ。親しくしてい として、築二百年は経っているれ育った。親の転勤で引越しが は一階にキッチンなども整備しすにとことん工夫しました」。 家具でも家でも道具でも、古る材木屋から工務店を紹介して母屋と、蔵がある広い屋敷で生多く、そのたび違う家に住める て、イベントにあわせてカフェ もらい、設備、電気などそれぞまれ育った。年のうち三カ月くのが面白かったという。設計の もできたらと考えている いものを直して使うのは楽しい らいは出入りの大工が来て修繕仕事を知ったのは中学生くらい 解体はまず補強から。何に苦と英寿さんはいう。「そのままにれのプロとチームを組んで設計 のとき意匠系の設計を学びた や普請をしているような家で、 心したといって、建物に水平垂すれば朽ちていくものが、手をから施工まで請け負っている いと、京都の大学へ行った。東 英寿さんの名前も棟梁がつけて 直がひとつもないのが大変だっ 加えればちゃんと機能するのが で、さっ 0 たけ一口田 - 島か・らくれたという。子どもの頃から京よりもゆ 0 くりした町がいい たという。下地を起こして、ま気持ちいいんです」。 と、京都を選んだ。最初の就職 道具の使い方を教えてもらい、 っすぐにするところから始めた 六月に工事を始めて、八月に一迅いレ」こ , っへ は東京、のちに福島へ戻った。 ものをつくることが自然に身に ものの、永い年月をかけて歪んは無理矢理のように引越して住 友人を介して知り合ったとい 安藤さん一家は、福島県の出ついた。「古いものが当たり前の だものは、元に戻してもホゾなみながらっくった。秋には大阪 う友美さんと英寿さんは、結婚 どが弱っている。最後は「ある市立大学が主宰した「オ 1 プン身だ。三年前に大阪に引越してようにあって、だから直して使 ったり、新たに生まれ変わらせしてから英寿さんの実家の蔵に きた。東日本大震災がきっかけ 程度見ないふり」をして、構造ナガヤ」にも参加して、二日間 たりすることがいまも好きなの住んだ。だから屋号は「クラニ 上支障が出ない範囲で目をつぶで百人近くが来場した。そのせだった。 スム」。実家の農業を手伝いな いか、最近は家具の相談だけで 福島県の中通りに英寿さんのかもしれません」という った。「お金をかければいくらで がら、設計事務所を始めた。 友美さんもまた、福島で生ま もいろいろできるけれど、かけ なく店舗や家の改装の相談も増実家はある。大きな農家の長男 0 -4 8
ショウに出ていただいた。長田弘さ んにお会いできたのが、私個人的に はものすごいうれしいことだった。 ューヨークに年住んでいるアーティスト 篠原有司男と乃り子夫婦の映画「キューテ で、このところなぜかいろいろ仕事 ィー & ボクサー」を渋谷の映画館に見に行く。 の依頼かある。展覧会をしてもらう白いにラ ? しル十 , くしゃれ 渋谷パルコでそのニ人の展覧会もしていると聞 という動きがちょっと影響してなの いていたので、まずそちらを先に見る。展覧会 か。でも〈フは体調のこともあり、ほ 会場に入ったとたん咳が出始め止まらなくなる ば断っている。最近は「したいこと どうも立体の作品に使われている接着剤かなに しかしない」だけじゃなくて「無理 かか私には合わないみたい。篠原っ しなくてはならないことはしない」を夬りにし 「ティ及クサーの映の、え 有司男は年代にはモヒカン刈り 犬 2 ンング。ヘイン一、「クも侚一台か , ん。ている。でも「頂ける仕事はできるだけする」 の前衛アーティスト ( この頃は、 が若い頃の考えだった。それか美術館でも並べ 現代アートとい一つくくりはなかっ ていただける大量の作品になったんだと思う。 た ) として有名だった。それなの 出来る時にはしておくものだと思った。 にパルコの展覧会会場には若い人 0 月ロ日久しぶりのお休み か多かった。でも映画館は案外空 いていた。中央あたりの席を買っ 仕 て座った。始まると画面を見上げ る感じだったので前過ぎだったと 思ったけど、見ているうち』にな らなくなった。面白かったからだ と思う。歳を越えた篠原さんは 今もアーティストを続けられてい て幸せ。アーティストの奥さんは、 どこもここも苦労か多いのよねえ 月 4 日から約 1 カ月間「三重県立美術館」 で挿絵展をしてもらっている。イへントと して、詩人の長田弘さんにお願いをしてトーク 暮らしの絵日記 0 月 ~ ロ日いい映画だった 0 月ロ巨いい展覧会よ 三 - 田 + 、竓ト、 2 プ ' 2 は 事か忙しいと休みがとれない。土曜日も日 曜日も祭日も仕事が入ってしまうことが多 で、久しぶりに昨日今日の土日は家で写真ンはん、タ - ) はん ともに一 = 谷さのトレーを の整理をしているこういう日は外に出たくな儷 , ・リ・ いので、買い置きや貰い物で 3 食なにかしらっ くって食べる。津の餅菓子屋で買った粟餅は焼 いてチースとのりを巻いて昨日の昼に食べたし、 今日の昼は貰った京都の白みそといつも使って いる麦みそを合わせた野菜たっぷりのみそ汁で 雑煮にもした。アンチョビとねぎのスハケティ ーは、いつつくってもおいしい貰い物のりん ごを白菜とサラダにして、冷凍庫のごはんはエ ビとタマネキのみじん切りで炒めごはん。これ は今日、日曜日の夕食。それにしても一人暮ら しは自分さえよければいいので、ありあわせの 第ニ十五回 0 お理になるけど、けっこう楽しい休みで家に いる日は一人が好き の前、もたいまさこさんに仕事 でお会いした時、事務所の社長 の安藤さんから、 0 0 で放映 されたドラマ『パンとスープとネコ 日和』の O>Q を頂戴した ( うちは 0 0 と契約していないので見 られなかった ) 。その > をプロ ジェクターで 2 日に分けて見た。物 語は世田谷の松陰神社という商店街 の裏通りの住民の話。ほんとうの松 陰神社通り商店街は住人の生活商店街だから、 八百屋、魚屋肉屋、そば屋、和菓子屋、おで んだね屋といった昔なからの店にまじって小さ なしゃれた文房具屋などもある。だからドラマ いかにもありそう。出演 の設定の食べ物屋は、 ー林聡美さん、もたいまさこさん、光石研さ ん、加瀬亮さんなど。面白かった。 私は服を作っている。服を考えるのは私で、 生産進行管理や、販売や、卸や、その他い ろいろの仕事をスタソフがしてくれている さい会社なので、報告確認を大切にしてしつか りつながってやっている。でも初めての生産業 務だったから、最初はうまく流れなかった。大 きすぎるワンピースをたくさん作ってしまった シビアに数出ししすぎ、売れたのでリヒー 0 ( 月一口 ~ 日面白かったです 0 一月 ( ロ日洋服屋になりました 大橋歩
手を広げれば、道の端から端聞こえるような環境。まさに私 をぐるっと廊下か巡り、お世辞 た。「日曜日は何してる ? って、と食堂を一室空間にするため、 まで届きそうな路地。その奥に、 たちが思い描いていたイメージ 柱や壁を取り払わなければなら にも使い勝手の良い間取りとはお客様人ひとりに声をかけた 柔らかくむくった瓦屋根の平屋通りでした」 一言えない。天井も低く、圧迫感んです」。「住宅解体ショ 1 」やないそれを補うために、新し が見える。周囲は、白漆喰の壁 い耐震壁を分散して配置するこ 新建材をたくさん使った新築かあった。トイレは汲み取り式、「漆喰塗り体験 ! 」と銘打った とにした。 にいぶし瓦の屋根、板塀の家並住宅には最初から興味がなかっ 台所や浴室の壁は汚れていた イベント感覚の工事には、多い み。京都と大阪の境にある京田た。夫妻は、長男の笑吉君が生一方で、奥の和室や洋室は状態時で一日十人ほどが集まった。 同じ時期、チームに強 まれた頃から、自分たちにとっ 辺市。かって農村だったという、 が良く、そのまま使えそうだっ昼食は裏庭で、スマイル特製カカなメンバ 1 か加わった。子ど のどかさを残したこの町の一角て必要なものとそうでないものた。台所・食堂と水回りだけを レ 1 でもてなした。朋子さんやもの同級生の親、松本剛さん を区分するよ、つになったとい、つ リフォームしようと決めたが、 に、松野下さん一家の住まいは 子どもたちも壁塗りや食事作り現役の大工である。時間がある ある 時に来てくれることになった。 若い頃にはジャンクフードも食それでも予算は限られていた を手伝った。 築五十年とも、もっと古いとべたし、病気になれば点滴もしそこで工務店に完全に委託する 話はさかのばり、古家を購入電動工具の使い方の指導をはじ も言われるこの家の来歴はよく た今は、添加物まみれの食品 のではなく、かなりの部分を した秀毅さんが真っ先に相談しめ、経験的な視点から構造をア わかっていない。三年前、松野も自然治癒力を無視した薬品も —で行うことにした。専門のたのはバ 1 の常連客で建築家のドバイス。施工では筋交いを入 下秀毅さんがネットの不動産情おかしいと思う。家も同じ。余技術が必要な耐震補強や電気・ 濱田猛さんだった。「構造的なれたり、補強金物を取り付けた ことを診てほしい」と持ちかけ 報で見つけた時には、九年間空計なものは排除したいし、足り 水道・ガスといった工事はプロ りといった素人にはできない作 き家の状態だった。一五〇坪のないものは自力で補う余地のあ に依頼。解体や床張り、壁塗り られた濱田さんは現場を訪ねた。業を引き受けてくれた。 敷地に三〇坪ほどの建物。家族る家がいい は自分たちでやるというのであ「きれいな家やなというのが第 プロの助つ人の手を借り、仲 四人で住むのには申し分のない この家は夫妻にとっては魅力る 印象。床下を覗いたら、ほと 間が集まって楽しげに工事は進 広さだ。裏には畑ができそうな的だったが、路地が泣き所。道 んど傷んでなくて、改修できるんだようだが、プロセスは山あ 仲間を集め、 庭もある。何より、この家の佇一。田ゞ 巾カ一・八メ 1 トルしかないた と判断しました」 り谷あり。「むちゃくちゃしんど かった。とくに解体は、もう一 松野下家—チームのメン まいが求めていた家にび 0 たりめ、建築基準法では再建築が認フロの手も止日り・て 合ったのだと、妻の朋子さんはめられないのだ。車が入れない 1 となった濱田さんの担当は、度やれと言われたら、プロに頼 一言、つ から駐車場もない。だから格安 ーを閉めるのは早 秀毅さんは大阪市内で「スマ耐震設計と資材の発注。まず現みます」。 イル」というバーを営んでいる。状を調査し、望む間取りにする朝。平日は毎日、それから一時 「平屋で、昔から住み継がれてで購入できた。 きた家で、日当たりのいい縁側 にはどんな耐震補強が必要か計 間ほど電車に揺られて現場に入 買った当初は、台所に続いてそこに集まる客に手伝ってもら があって、静かで鳥の鳴き声が三畳の和室があった。その周り いながら工事を進めることにし算していった。具体的には台所り、眠る間もなくエ具を手にし ノを第を 仲間たちと半年間 こっこっ改修した古家 自然素材を選び、 一土に還る家でありたい。 1 幅 12 メートルの路地の奥 に建つ家。秋は、庭の紅葉の美 しさが目を引く。 2 子どもたちがのびのびと遊 べる北庭。パオを作る計画も。 3 古い大きなテープルを囲む 松野下さん一家。夏は暑く、冬 は寒い家だから、これから手を 加えていく楽しみがある。
かっての増築を 物語る土間空間 「内」であって 「外」の気配 天窓からの ほどよい光か、心地 3 ダイニングテープルは、 アトリエの机と同じもの。椅 子はダイモンさんの友人のお 父さんが、縫製工場をやめた ときにもらったものなど すれも米国から持って来た。 4 庭は一年ほど前から手を 入れてきた。これからさらに 整えていく計画 5 テラス脇に新設した浴室。 壁と浴槽エプロンは耐水合板 の上に防水の素地仕上 げ。深みのある質感がよい 、、 0 しし : 第す・もみ 右頁食堂につながる通路で もある台所。モルタルで仕上 げた床は、床暖房が入ってい る。土間風だが、土足ではな く靴は脱いで生活している 天窓から入る光は、時刻 やその日の天気によって刻々 と変わる取材日は雨。 2 「細部を見ながら家のこと を考えました」とダイモンさ ん。釘一本、残すもの、そう でないものを見極めた
たことがある。転害門の西面には立派な注連縄が結わえられている。それは、 たびしょ たむけやまはちまんぐう この門をお旅所として、手向山八幡宮の神が降りてきて祭礼を行うからで、 八幡は鍛冶の神。ちなみに手向山八幡宮は、七四九年、東大寺建立の際に造 営の守護神として大分の宇佐八幡宮から勧請され、現在も大仏殿の東側に鎮 座している。神仏習合の最も古い例の一つだそうだ。 鍛冶神八幡の祭礼が行われる転害門の近くで、日本最古の刀鍛冶集団とい われている手掻派が、鎌倉から室町時代に刀剣の制作を行っていた。鍛冶師 と木地師は深い繋がりがある。椀などの木地を挽くためには、金属の鉋が必 要で、現在も椀木地師は自らの使う刃物を製造するために鍛冶の仕事もこな さなければならない。椀木地師の仕事場には、轆轤とともに、必ず鞴が備え られている。とすると、鍛冶から派生した木地師の集団もこの門の近くにい て、挽かれた木地に漆を塗る工房もあったのではないか。そんな想像を膨ら ませている。 転害門からの帰り路、古い町並の一角にある古道具屋で、五客揃い皆朱の 入子時代椀と出会った。悠然たる構え、たつぶりした大きさ、朱漆の冴え、 裏側の黒漆の透け具合、断紋と呼ばれる表面の細かな亀裂から江戸期以前の ものだと思われる。同様の椀は、現在も少なからず出回っているが、惚れ惚 れするような形の良いのはなかなか見ることがない。この椀には一瞬で目が 留まる。残念なことに、もともと四つ組の椀のうち、いちばん外側の大きい のがない。箱を見ると、一つ欠けた三つ組みの状態のまま、かなり古い時代 から使われているようだ。 かす この椀のように朱塗りが長年の使用で掠れて、下地漆の黒色が露出してい ねごろ るものが一般的に「根来」と呼ばれている。道具屋でそれなりの値段が付け られているが、中世から近世にかけて、日本各地の寺社を中心に制作、使用、 流通していた類型の椀などがほとんどで、和歌山県根来寺由来のものと特定 できるものは皆無だ。それにしても、根来寺だけが何か特別なものを作って いた訳ではなさそうなのに「根来」という名称が一種のプランドのようにな っているのはなせなのだろうか たっちゅう 根来寺は、一一四三年に創建され、最盛期には二千余の塔頭、七十万石の 寺領を有したが、一五八五年、豊臣秀吉に攻め滅ばされ、一山灰燼に帰した。 出土品などから、当時の根来寺で漆器が制作されていたのは確かだが、伝世 ふいご ふさったらい のもので根来寺で作られたものと確認されているのはただ一点「布薩盥」 ( 茨城県・六地蔵寺蔵 ) のみ。由来が確認されているものは、丸盆、前机、 足付盥などいずれも室町から桃山期の数点。「根来に根来なし。反椀に昔を 思う山桜かな」と歌われる由縁である。、比べて、東大寺、春日大社周辺には 同様の漆器が多く残っていて、「奈良根来」とも呼ばれている。 「桃山は保証しますよ」と店主。さらに「完品を求めてばかりだと、本当に 良い物を逃しますよ」と追い打ちをかける。もちろん、あるに越したことは ないか、いちばん外側の椀の形はなくても、すでにしつかりとばくの脳裏に 映像が見えているので大丈夫。手に取った瞬間から、この椀の写しを作るこ とでもう頭はいつばいなのだ。 輪島に帰る。なにも言わずに、工房の作業机の前にポンと置いておく。そ の頃、ぼくは次の作品展の仕上げに没頭していたが、目の端の方には必ずこ の椀があった。若い職人さんたちも、やがてその存在に気づき、いつの間に やら手にとって眺めたりしている。数週間が経ち、大きな地震で桃山の椀も 工房の床を転げ回り、すぐに拾い上げて無事を確かめたばかり。 「この椀をお願いできませんか」 ばくは初めて池下さんの仕事場を訪ねたその日に、そうお願いしていた。 どういうわけか、出かける前から、桃山の椀はばくの懐の中にあり、すっか り暖かくなっていたのだ。 初出し ばくがまだ弟子だった頃に、親方の仕事場に通ってくる古道具屋の爺さん かいた。といっても、どこかに骨董店を構えているわけではない。「初出 し」を仕事にしているのだ。田舎の旧家をまわり、蔵の中で眠っている古道 うぶだ 具を掘り出して買い付ける。集めたものは、専門業者だけが参加できる初出 し市で、竸りにかけてお金に替える。東京や、名古屋の骨董商がその橋本さ んの家までやって来て、直接買い付けて行くこともある。橋本さんは、ほく が独立してからは、ばくの工房にもときどき顔を出すようになった。傷みの ある古いぬりものの修理などを頼みに来られるのだ。作務衣にサンダル履き、 ハンチング、雄弁の随所に諺、格言の類がちりばめられ、聞く人を一方的に 名前のない道 138
父にもつ大江が、東京帝国大学建築学憧れたのだろう。しかし、戦争によっが同居していることだ。そこには、大差しを手に入れたのである。帰国後、 科に入学したのは 1935 年、日中戦て、そうした建築を手がけることはで江が後に掲げることになる「混在併大江は、続く年館の設計を大幅に修 争へと突き進む苛酷な時代だった。そきず、大学卒業後、文部省や三菱地所存」という独自の建築思想の萌芽を読正し、学生ホールを中心とする内外の んな中、同級生の丹下健三 ( 1913 で調査や工場の設計に携わり、木造小 み取ることができる。 空間に、異質な日本的要素を盛り込ん 、 2005 年 ) は、ル・コルピュジェ住宅の試作など、わずかな仕事を経験 は、浦年館の建設中だった 19 でいく。それは、単なるデザインの変更 1 しただけで敗戦を迎える。 のソヴィエト・パレスのコンペ案 ( 54 年の 3 月から半年間、初めではなかった。晩年に自ら述懐したよ 930 年 ) に見られる、人間の存在を そして、戦後にようやく手がけるこての海外出張の機会を得る。視察先のうに、南禅寺の伽藍を参照しつつ、多様 超越した記念碑的な造形に心酔する。 とができたのが、 1952 年に始まるアメリカでは、ミース・ファン・デで豊かな学生の生活を受けとめる襞の しかし、大江が心ひかれたのは、外国法政大学のキャンパスだった。厳しい ル・ロ 1 工やグロピウスら、ル・コルような陰影のある空間を目指したのだ。 の建築雑誌に掲載されていたワルタ財政状況の下、大江は、全体計画を検ビュジェと共に最前線で活躍していた こうして、法政大学は軽快さと質実 ・グロピウスのバウハウス・デッサ討しつつ、最初に大学院校舎の年館建築家と直接会い、それぞれの最新作さが同居する近代建築として誕生する。 ウ校舎 ( 1926 年 ) やイギリスの建を完成させる ( 1995 年に解体 ) 。 のイリノイ工科大学 ( 1951 年 ) やそれは、大内が求めた戦後の開かれた 築家リュベトキン & テクトンの集合住それは、文字通り、インターナショナ ード大学 ( 1950 年 ) などを大学の姿でもあった。だが、竣工から 宅ハイボイント— ( 1936 年 ) に代ル・スタイルの白く輝く近代建築とし見学している。しかし、大江がもっと ほば半世紀、多くの学生が大切な時間 表される、白い壁と黒い窓枠を基調とて実現する。そして、続いて設計したも感銘を受けたのは、意外にもギリシを過ごした校舎は、近く建て替えられ するインタ 1 ナショナル・スタイルののが、この浦・年館である。興味深アのパルテノン神殿だった。その圧倒て姿を消すという。大江と大内が求め 建築だった。おそらく、大江は、それ いのは、この校舎に、インタ 1 ナショ的な存在感の中に変わらぬ建築の本質た自由な精神は継承されるのだろうか らの建物に、清潔で透明感のある、よナル・スタイルの軽快さと、年館にを見出し、最先端の技術によって楽観今こそ、そこに培われてきた風景を心 り人間に親しい建築の姿を見て、強く はなかった禅寺のような日本的な空間的に突き進む近代建築を相対化する眼に刻んでおきたいと思う。 山を , 元 外濠越しに見る法政大学 53 ・ 55 ・ 58 年館 ( 1 的 4 年撮影 ) 00000000.000.0 に 55 ・年館の正面外観 145
A 題喜火屋 プローチは、三谷さんが初 期のころによくつくった作 ロ。ワークショップでは、 予めプロ 1 チの形に切り抜 いた木の縁を削り、色をつ けて仕上げる。 ストープの傍らに置かれ たのは、松の古材のテープ ル。 2 台を向かい合わせに して、正方形の大きなテー プルにした。 三谷さんの暮らす家にも、木を削るなんて久しぶり、 三谷さんのギャラリ 1 「川 と言いながら、気長にてい センチ」にも、薪ストープねいに縁を削ってやすりを かける。初めてここで顔を がある。小さくてもこれだ けで室内は充分暖かい。燃合わせた人たちも、ひとっ えている間は、薪を足したのことに没頭しながら、 り置き方を変えてみたり。 つの間にか言葉を交わすよ 、つになっていた。 そんな薪スト 1 プの世話に、 いつの間にか大人が夢中に この日、「川センチ」の なる。長い冬も、薪スト 1 台所と薪スト 1 プで料理の プと付き合う日々と思えば腕をふるったのは、冷水希 待ち遠しくさえなってくる。三子さん。松本の一本葱、 三谷さんの薪ストープは肉厚の美女しいたけなど、 料理もできる。スト 1 プの信州の冬野菜を料理する。 上では煮込み料理、内部で蕎麦の生地をパズルのよう な形にしたス 1 プ蕎麦パス はオープン料理だ。 雪の散らっく日、三谷さタなど、楽しい料理に会話 んは「川センチ」に、みんも弾む。帰り際の合い言葉 なを迎えることにした。暖は「できあがったプローチ かな火のそばで木のプロー をつけてまた会いましょ チを仕上げるという。木のう」。 薪ストープを囲んで 1 松本駅近く、六九商店 3 料理を担当したのは冷ったプローチに色をつける。 街にある三谷さんのギャラ水希三子さん。蕎麦の生地初めての人もいっしか夢中。 をランダムな形にして、蕎 6 「火のあるところに自然 「 10 センチ」。たばこ に人は集まります」と三谷 屋さんだった建物を改修し麦パスタにする。 た。看板はかってのもの。 4 薪ストープの火で暖かさん。薪ストープのそばの い「 10 センチ」で、プロー 冬のワークショップ。 2 ストープのそばのテー プルを囲み、ストープの上チをつくる参加者たち。 7 思い思いの色に仕上が 5 まわりをていねいに削った雪だるまのプローチ。 で温めたスープをいただく。 「薪ストープの上では ことこと煮えるスープの鍋。 傍らのテープルでは コリコリと木片を削る音」 わ ( 一 = 工を不イ
改修を重ねて 住まわれてきた家 あえてその痕跡を 活かし、新旧の ハランスよい 混在を愉しむ 右頁居間からアトリエまで 見通す。板壁は、既存の家の 畳下地に使われていた杉板に 柿渋を塗った。 和室から居間を見る。居 間のソフアはダイモンさんが 独身時代から使っていたもの センタ 1 テ 1 プルは、あかね さんの実家近くの、廃業する という仕立て屋から以前貰い 受けた裁縫台。 2 和室の雪見障子や欄間は、 もともとあったものの再利用。 , 3 古い部屋の床板を移設し て、縁側風のスペ 1 スを新設 したことで、もとは六畳だっ た和室は四畳半に。縁側に小 さな書斎コ 1 ナ 1 もっくった。 4 和室から食堂を見る。陰 影のグラデ 1 ションが、居心 地のよさをつくる 47