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検索対象: 住む。2014年 5月号
99件見つかりました。

1. 住む。2014年 5月号

が必要です。破片が一つ二つならセ ロテープで留めてずれないようにで きるけど、小さな破片が幾つもある と簡単じゃないそんな場合はまず 部分的に接着しておおまかなパ 1 を作り、後で全体を組み立てる。あ るいは、主成分がシアノアクリレー ト樹脂の瞬間接着剤で一気に固める のがお勧め。医療用にも使われてい た成分だから、食器にも安心して使 えます。はみ出した接着剤は、釉薬 か取れないように軽く削り取る。僕 ーや医療 はカミソリ刃のスクレー 用のメスを使います」。 再生する喜び、往時の ~ を一暮らしや知恵を知る喜び。 「修理するときに感じるのは、かっ てそこにあった長い時間、実在した 人々、昔の職人の知恵と丁寧な仕事 ぶりです。修理は、そのもの自体の ことをよく知らないとできません どんなふうに使ったのか、どうやっ て作られたのか、素材は何だろう 一生懸命、知る努力をする。自分な 道具を直すときは、 まず道具を理解すること。 使われてきた長い時間を感じて、 往時の知恵を探る。 古い道具はたんなる物ではなく、 文化の断片たと思う。 1 鋸を万力で挟み、ヤス リで研ぐ。長年、山仕事に 使われていた鋸のようだ。 2 廃棄物置場などで拾っ て磨いた数々の鋏。 3 作業場の大工道具。傷 んだ木柄は付け替える。 4 乾電池 ( 充電式を使 用 ) で着火する古いガスコ ンロに羽釜型の土鍋。 5 油汚れを落し、ひび割 れを溶接した鋳物の鍋 6 割れた土鍋の蓋を金継 ぎする。はみ出した接着剤 はメスでこそげる。 7 赤錆だらけの羽釜を金 属プラシで磨くと、黒い鉄 の地肌が現れた。 101

2. 住む。2014年 5月号

薄墨の桜 まえかわ・ひでき美術家。造形作家。淡路島生まれ。 1989 年武蔵野美術大学油絵学科卒。 1996 年、 1 年間の渡仏。彫刻、絵画、生活道具などで個展、グループ展、ワークショップなどを重ねる。 286 年頃より、「像刻」シリーズを開始。著書に像刻作品集「ヴォメル」、物語集「ズフラ」がある。 族が、あの手触りと温もりが私の前から居なくなる。それを思うと、 薄紅黄金、萌黄に亜麻色。八つ瀬川のそのずっと先。饅頭のよ もう胸が痛くて。一方で勤めがこの先いつまでも変化なく延々と続うに重なる山々は淡い錦に萌え、本当に咲っているようだった。ふ くことには漠然と不安なくせこク、 。しつも通りックこれまで通りツが わふわもこもこと山の手触り肌触りが感じられそうだった。 壊れてしまうとどうなるんだろう、それが怖くて、たまらなくて。 モクモク : : : 不意にくすぐったいあのモクモクした感触が私の頬 はっと、気かついたときには、胸がいつばいになってしまってい に甦った。懐かしい。ああ、そうか、こんなに永い、 永かった一緒 た。見ず知らずの人に私、なんでこんなこと。また人に迷惑をかけ の時が過ぎたんだ。私の中の堰が切れた。涙が後から後からこばれ ている。なんで私はこう : た。もう立っていられなくなって私はしやがみこんで、子供みたい 「そんなに : : : おおげさに提えんでもええのとちゃいますか」 にわんわん声をあげて泣いた。後ろに静かに立っているはずの男の 柔らかな温い春風のような声だった。 存在など忘れて私はずっとそうしていた。気がついた時にはあたり 男はそう言ってハンチングを取った。五分刈りの髪には白いもの はすっかり薄闇に覆われていた。 が思いのほか多い。そしてずっとその先へ視線を巡らせた。崩れか そっと顔をあげた。再びあの山が見えた。その時、夕日を浴びた けた城郭のお堀のさらに向こうに八つ瀬川が静かに流れていた。 無数の白いものが一斉に山肌から舞い上がった。幾億の花弁が、遠 「この花の下をね、数えきれんほどの人間の一生が過ぎていったん く山肌に降り注ぐ雨のようにきらきらと輝いて見えた。私はようや です。僕らの一生はあっという間です。鳥や虫はもっと一瞬です。 く涙を拭いて立ち上がった。 それもこれもこの桜は見送って来た。それでもなんにも変らす千五 「来週からでも、会社には行ったほうがええと思います。いや、悪 百年ですわ。毎年当たり前のように僕らを楽しませてくれる。こん かったけど、マスタ 1 との話がちょいちょい聞こえて来たもんで : ・」 だけ長生きやと、もはや自然現象と区別がありませんな。 少し、ばつの悪そうな男の声は、私の背中にそっと置かれた温か な手のようにえた。 それでも命です。僕らと一緒。こんな岩みたいな盤石な命はふつ う、人間の知らん間に枯れてじわじわ朽ちて行くものやと皆思うと それから二日後の朝、結局、モクモクに静かにお迎えが来た。私 るでしよう ? でもね、それは違うんです。ふっとね、その瞬間が は一言。良く頑張ったねと言って、冷たくなった頭を何度も何度も 確かにあるといわれております。あ、今、お迎えが来た。とね。僕優しく撫でてあげた。やつばりまた泣いたけれど、ほっかりと心に みたいな生業の人間はそこに立ち会いたいと強く思います。看取っ 穴は空いたけれど、そのエッジは想像よりもすいぶん柔らかなもの てやりたいと思います。千五百年のうちの一瞬です、たった一度で に姿を変えていた。彼を見送ることができた私は運がいし 、と思った。 す。あんたさんは別に人間のために咲き続けてくれたわけやない そうかもしれない。ク 今まで通りツなんて、大切にしようにも本当 それでも、よう頑張ってくれはりました。と精一杯労って送ってや は何処にもないのだろう。喪失がもたらす多少いびつな日常の形も また、あるようにあるだけなのだ。私もそう思えるようになりたい。 でもね、そんな願いはかないません。運ですわ。立ち会えるかも 月曜日、出勤前に、あの人に一言お礼が言いたくて兎のドアを開け しれん、だめかもしれん。延命や株分けやと大騒ぎしたり感傷的に た。けれど席はあの人の形にほっかり空つほになっていた。 大げさに思い入れても、どうにもならんのです。合図があるわけで 仕事、終わられたみたいですよ、とマスタ 1 もありませんしな。向こうはただ、あるようにあるだけです」 通りに出ると、柔らかな風に乗って、雪のような無数のかけら達 「あるように、あるだけ : ・・ : 」 が、私の頬を撫でたあと、勢いよく風に舞って空に消えていった。 ほれ、あの山も咲うてますで。 わろ 149

3. 住む。2014年 5月号

住まいと隣り合う仕事場。一階作業場はいま、工事進行中 震災で実家は半壊。原発の避ない、文化も違う場所ですから。んに話しかけている。短い期間 いまはね、もう迷ってません ことだ。場所か変わっても、建 難区域にはならなかっ、たものの、でもまわりの人に、とてもよく に、安藤さんたちかどれだけ人ここへ来て、ほんとによかった物か変わっても、暮らし方は変 直後は線量が高く、当時は一歳してもらいました。住吉は気候 との関わりを大事にしなからこ と思ってます」と晴れやかに微わらない こで暮らしてきたか、その密度笑んだ。 友美さんはいま、故郷の会津 だった創英くんのことを考えて、もよく、台風も少ない下町っ 家族会議の末に移住を決意した。 ほいあったかさもあって、住みかうかがえる 毎年春と秋の田植えと稲刈の木綿を使った小物の制作にもカ 長男は家を継ぐもの、外に出るやすいです」と英寿さんか一一一口う 友美さんは当時のことを「私時期には福島に帰る。英寿さんを入れている。自宅の一角に設 けたアトリエにあるミシンを踏 など思ってもみなかった。けれ安藤さんたちの話を聞いている は正直なところ迷っていました。 は「こうやって三年間、行った ども迷いはなかったという「大と、まるですっと前からそこに 大阪は土地勘もないし、仕事だ り来たりしていると、大阪と福んで、手提げや名刺入れなどを つくる。着物の仕立ての注文も 阪に知り合いがいたわけではな住んでいるみたいに、近所の人ってどうなるかわからないで島は近いですよ」と言った。 も誰のことを一番に考えるのか、 蔵に住んでいたときと同じよ受け、反物の卸しもやっている いんです。できるだけ福島からのことや、大阪や京都のたくさ んの友人知人の話題が出るエそのためにどうするのがいいカ、 遠いところへと思いました」。 うに、自分たちで手を加えなが「会津木綿のよさをたくさんの人 ら住まいをつくってそこで住み に知ってもらえたら」。春に店 たまたま大阪に店舗付き賃貸住房や店舗を飛び出してワークシ と思ったらやはり福島を離れる 宅を見つけたので、ともかく一 ョップを開いたり、仕事の行動ほうかいいんだと思いました。 働く家が働く場所でもあるこ舗が完成したら、ショップ「ク 日も早くと考えて大阪に決めた。 ラニスム」でも本格的に販売を 範囲も広い。四歳になった創英子供の健康には代えられない。 とは、代々の農家の家に育った 「覚悟してきました。友人もい くんが、達者な大阪弁でお母さ ともかく行ってから考えようと。英寿さんにとってはごく自然な始める予定だ

4. 住む。2014年 5月号

拝啓、家を探しています。 車は入れないので、駐車場に止めて歩いて来て ノださい 山田さんにはそう言われていた たしかに東岡崎駅からそう遠くない市街地なの に、車道からその界隈に入るや道は狭まり、迷路 のように入り組んでいるグ 1 グルマップがしめ す位置はただの草むらで、途方に暮れていると、 「こっち、こっち ! 」 むこうで大きく手をふる笑顔の人がいる。この 物語の主人公の登場である。 山田高広さんは岡崎市南部の田園地帯で生まれ 育った。名古屋の大学を出て一年ほどアメリカに 留学し、帰国後は東京の輸入商社につとめたが、 6 年前、長男の出産を機に岡崎に帰ってきた。 自分の故郷には変哲がなさすぎると、ずっと思 っていたそうだ。徳川家康が生まれた城下町。そ んな物語はあまりに遠く、自分のものとして感じ、 られない 「戦争で岡崎が爆撃されたのは終戦のほんの一か 月前敗戦宣言があと少し早ければ昔のいい感じ のまちなみが残ったんだと思うと、ほんっと海し いですよね。戦後は復興開発で大きな道路が定規 みたいに敷かれていって。焼け残ったこのエリア 、すッ いイ 44 左 / 上敷地は車道に近く、右して使う予定。 隣は地域の駐車場になっている。左 / 下モザイクのように石を そこからの景観。右が自宅、左一個一個はめてつくった石畳の が路地に面して建つ「りた」の庭が自慢。破格の値で入手した 事務所。自宅の板壁の段板は庭愛車パンダは雨漏りがするため、 道具や材料をストックする棚と傘をさしながら運転する。 オにいい意味で取り残されて いるんです」 6 年前、勤務先からはアメリカ駐在の話もも ちかけられていたが、言葉も文化も違う社会で 人と本当に通じあえるのか、留学時代の苦い経 験も思い出されて廩重になった。そこが子ども の故郷になるなら、なおさらだ。 同じ頃、田舎の旧友からの便りで、岡崎で町 づくりのを立ちあげるから一緒にやらな いかという誘いを受けた。アメリカか、岡崎か はたまた東京に残るか決め手は友人がロにした 「町が面白くないなら、自分たちで面白くしてい 」というひと言だった。 「たとえば、わざわざ遠くの面白い公園に行くな ら、近くの公園を自分たちで面白く変えていくほ うがすっと楽しいそういうことを仕事としてで きるのはいいなと思いました。力の及ばないこと もあるだろうけど、それは生まれてくる子どもに すてきな故郷をつくってあげることにもなる よし、賭けてみようと」 ろっく 年間暮らした岡崎に六供町のような場所が残 ることは知らなかった。帰郷して、家族の理想の 居場所を探しつづけるなかで再発見し、一瞬にし て心を決めた。 ぜったいにここに住みたい 空き家らしい家はたくさんあったが、不動産屋 に情報が出るエリアではない。そこで山田さん、 思いのたけを手紙にしたためて、かたつばしから 家のポストに投函してまわったというのだ。家主 かどうしてもわからない空き家は、役場の登記簿 で調べて郵送した。 何十通と出して、返事がもらえたのはたったの 一通。しかし、そこにはこうあった。もう数十年 も手を入れていないポロ屋敷ですが、それでもよ ろしければ土地ごとお譲りしましよ、つ、と この町で。

5. 住む。2014年 5月号

1 たままでも充分満足だった。だが、やがて歯が抜けるようにこの店からも職 人さんたちが消えていって、空いている席に新参者も座れるようになった。 ばくがその日、カウンタ 1 の端に座ると、しばらくして、つしろの小上がりか ら声がかかる。何度かここでお見かけした椀木地師の爺ちゃんだった。こん なふうにして出会って、仕事が始まるのもいいもんだ。それから七年が過ぎ、 二〇一四年。初めていっしょに飲んだ数日後に訪ねたときから、池下満雄さ んの仕事場は少しも変わっていない。いや、おそらくここは、昭和の初めく らいに轆轤が電動化された時から、ずっと変わっていない。ただ、往時には 六名いたという職人さんたちがみんないなくなり、たった一人になってしま っただけだ。古い木造校舎の教室のように広々とした仕事場に現役の轆轤が 一台と、もうすぐ七六歳になる池下さん。木製建具のガラス窓には木粉がこ びりついて光がいい感じに黄色く見える。一つだけぶら下がった裸電球の笠 は、木地を挽いて作られている。プリキの薪スト 1 プに火が入っていて、か けつばなしの薬罐がチンチンと鳴っている。大地の大きな揺れに揺さぶられ て人と人が出会い、それまで忘れられていたもの、隠れていたものたちが、 たくさん転がり出てきた。ばくは、その恩恵をいただくことになる。 埋もれた時間の中から、転がり出てきたのは、古い荒型だった。荒型とは、 前々回にお話ししたとおり、椀木地を挽くための材料となる欅材の固まり。 専門の「型師」という職人さんが作ってくれる。 「ずいぶん古い型ですね」 「ああ、うちのじいちゃんが若い頃に入れた型やさけな、百年は経っとる」 「すごい。明治時代の荒型ですか」 「こんなんで椀を挽いたら、ビシッとも狂わんよ」 知らない人が見れば、埃を被った汚い木の塊にしか見えない。がそれは、 見たこともないような素晴らしい材料だった。現在、木型は電動の旋盤を使 って作られている。それ以前は、木目に沿って、手斧を使い内側を刳り、外 側を鉈で削り、形を整えた。ここに積み上げられている型には、手斧で削っ た目跡がそのまま残されている。近づいてよく見ると欅の木目が細かく詰ん でいる。手に持っと、見た目の重厚さに反して意外なほどの軽やかさだ。 「こんなん、まだうちの蔵にいくらでもあるさけ、見てってください」 案内された蔵の中は、まさに宝の山だった。何千個という荒型が小山のよ うに積み上げられていた。 「いい材料ばっかしなんやけどなあ。いまじゃ、こんな横木の型を使うもん がどこにもおらんよ、つになってしも、って : : : 」 そうなのだ。産地で使う荒型が、すっかり横木取りから縦木取りに入れ替 わってしまい、古い材料は忘れ去られて、時間の底に埋もれてしまっていた のだ。それが大きな地震で時間の表面に再び露出してきて、ばくは出会って しまった。 「池下さん、こればくに使わせてください。じつは、ほくはこれまで横木の 木地だけで椀を作ってきたんです。これ全部、ばくの木地にします ! 」 「ああ。わかったよ」 池下さんは、何も聞き返さずに静かに肯く。 この材料は、次の世代のために先人が残してくれたものだ。百年前の、し つかり眠った材料をいまの人が使い、ほんとうならば、ばくたちは未来のた めに材料を仕入れて残しておかなければならない。それが、あたりまえのこ とだったのだ。だが、 その循環はもうすでに途切れてしまっている。池下さ んは、そんなこともあたりまえだというように呟いた。 「もう私の代で、ここも終いですから」 それからこの仕事場を訪ねるたびに過去と現在の時間が錯綜してクラクラ と目眩がする。 五百年を遡り 池下さん蔵の中で荒型が、どっしりと座っていた。僕はその心地よい重さ を確かめながら、二〇〇七年三月二十五日の能登半島地震、そのひと月ほど 前に奈良で手に入れたばかりの古い椀の姿を重ね合わせていた。桃山の椀で ある。 てがいもん 東大寺の西の外れに、転害門という山門がある。ここまで、足を延ばす観 光客はまばらだ。広大な東大寺境内で、創建当初のまま偉観を残すのはこの こ、つり・よ、つ 門のみ。正倉院と同じ時代の建物だ。ゆったりと弧を描く天平風の虹梁を仰 ぐと、日本の工芸の歴史が見えてくる。東大寺で使用される什器を作る漆工 房が、かってこの門の近くにあり「転害 ( 手掻 ) 坊」と呼ばれていたと聞い うつわのことわり 1 137

6. 住む。2014年 5月号

隠居部屋だった離れを 庭に開いた現代的な空間に。 母屋の西側に位置する平屋のは筋交いや構造用合板で耐震補 離れは昭和初期に建てられたも 強し、屋根などの必要な箇所に ので、先々代から先代へと使わ断熱材を入れた。 れてきた隠居部屋だった。一一間 力強い小屋組をあらわした空 続きの和室を縁側が字にまわ間新しい木の床は縁側だった り、北側は物置という間取り スペ 1 スまでひろがり、東南の 戦後すぐには、空襲で焼け出さ角は主庭に向かって大きく開い れた親戚や知人の家族が避難しているここからは四季折々に てきて住んだこともあったとい 変化する庭、さらに遠く山の眺 う。やかて世代は代わり、ほとめを楽しむことかできる。物置 んど使われることもなくなってだったところには水まわりと階 いた。東京で暮らす長男が帰っ段を設け、小屋裏の寝室への動 てきたときに住める家を、とい 線とした。母屋とは渡り廊下で う思いから、離れを改修したの つないだ。 は五年前。十九年前に母屋と納離れがこんなに居心地のいし 屋の改修設計を手がけた建築場になるとは、夫妻にとっては 家・神家昭雄さんに依頼した。 予想以上のことだった。長男が 再生にあたっては建物をほば所帯をもてば、程よい距離のあ 骨組みだけにして、梁や柱、土る二世帯住宅になるはずったの 台の傷んだ部分は取り替えた。 だが、まだそれはしばらく先の 基礎はコンクリートを打ち、壁ことになりそうだ。 1 。ワ 1

7. 住む。2014年 5月号

たことがある。転害門の西面には立派な注連縄が結わえられている。それは、 たびしょ たむけやまはちまんぐう この門をお旅所として、手向山八幡宮の神が降りてきて祭礼を行うからで、 八幡は鍛冶の神。ちなみに手向山八幡宮は、七四九年、東大寺建立の際に造 営の守護神として大分の宇佐八幡宮から勧請され、現在も大仏殿の東側に鎮 座している。神仏習合の最も古い例の一つだそうだ。 鍛冶神八幡の祭礼が行われる転害門の近くで、日本最古の刀鍛冶集団とい われている手掻派が、鎌倉から室町時代に刀剣の制作を行っていた。鍛冶師 と木地師は深い繋がりがある。椀などの木地を挽くためには、金属の鉋が必 要で、現在も椀木地師は自らの使う刃物を製造するために鍛冶の仕事もこな さなければならない。椀木地師の仕事場には、轆轤とともに、必ず鞴が備え られている。とすると、鍛冶から派生した木地師の集団もこの門の近くにい て、挽かれた木地に漆を塗る工房もあったのではないか。そんな想像を膨ら ませている。 転害門からの帰り路、古い町並の一角にある古道具屋で、五客揃い皆朱の 入子時代椀と出会った。悠然たる構え、たつぶりした大きさ、朱漆の冴え、 裏側の黒漆の透け具合、断紋と呼ばれる表面の細かな亀裂から江戸期以前の ものだと思われる。同様の椀は、現在も少なからず出回っているが、惚れ惚 れするような形の良いのはなかなか見ることがない。この椀には一瞬で目が 留まる。残念なことに、もともと四つ組の椀のうち、いちばん外側の大きい のがない。箱を見ると、一つ欠けた三つ組みの状態のまま、かなり古い時代 から使われているようだ。 かす この椀のように朱塗りが長年の使用で掠れて、下地漆の黒色が露出してい ねごろ るものが一般的に「根来」と呼ばれている。道具屋でそれなりの値段が付け られているが、中世から近世にかけて、日本各地の寺社を中心に制作、使用、 流通していた類型の椀などがほとんどで、和歌山県根来寺由来のものと特定 できるものは皆無だ。それにしても、根来寺だけが何か特別なものを作って いた訳ではなさそうなのに「根来」という名称が一種のプランドのようにな っているのはなせなのだろうか たっちゅう 根来寺は、一一四三年に創建され、最盛期には二千余の塔頭、七十万石の 寺領を有したが、一五八五年、豊臣秀吉に攻め滅ばされ、一山灰燼に帰した。 出土品などから、当時の根来寺で漆器が制作されていたのは確かだが、伝世 ふいご ふさったらい のもので根来寺で作られたものと確認されているのはただ一点「布薩盥」 ( 茨城県・六地蔵寺蔵 ) のみ。由来が確認されているものは、丸盆、前机、 足付盥などいずれも室町から桃山期の数点。「根来に根来なし。反椀に昔を 思う山桜かな」と歌われる由縁である。、比べて、東大寺、春日大社周辺には 同様の漆器が多く残っていて、「奈良根来」とも呼ばれている。 「桃山は保証しますよ」と店主。さらに「完品を求めてばかりだと、本当に 良い物を逃しますよ」と追い打ちをかける。もちろん、あるに越したことは ないか、いちばん外側の椀の形はなくても、すでにしつかりとばくの脳裏に 映像が見えているので大丈夫。手に取った瞬間から、この椀の写しを作るこ とでもう頭はいつばいなのだ。 輪島に帰る。なにも言わずに、工房の作業机の前にポンと置いておく。そ の頃、ぼくは次の作品展の仕上げに没頭していたが、目の端の方には必ずこ の椀があった。若い職人さんたちも、やがてその存在に気づき、いつの間に やら手にとって眺めたりしている。数週間が経ち、大きな地震で桃山の椀も 工房の床を転げ回り、すぐに拾い上げて無事を確かめたばかり。 「この椀をお願いできませんか」 ばくは初めて池下さんの仕事場を訪ねたその日に、そうお願いしていた。 どういうわけか、出かける前から、桃山の椀はばくの懐の中にあり、すっか り暖かくなっていたのだ。 初出し ばくがまだ弟子だった頃に、親方の仕事場に通ってくる古道具屋の爺さん かいた。といっても、どこかに骨董店を構えているわけではない。「初出 し」を仕事にしているのだ。田舎の旧家をまわり、蔵の中で眠っている古道 うぶだ 具を掘り出して買い付ける。集めたものは、専門業者だけが参加できる初出 し市で、竸りにかけてお金に替える。東京や、名古屋の骨董商がその橋本さ んの家までやって来て、直接買い付けて行くこともある。橋本さんは、ほく が独立してからは、ばくの工房にもときどき顔を出すようになった。傷みの ある古いぬりものの修理などを頼みに来られるのだ。作務衣にサンダル履き、 ハンチング、雄弁の随所に諺、格言の類がちりばめられ、聞く人を一方的に 名前のない道 138

8. 住む。2014年 5月号

ろんな時代の跡を感じられるようにしたり、まるで戦前戦後の住宅史の縮図敬意を表して新しくつくったところも堺市。アートの勉強をするために二十 のようだ。 たかった」とあかねさん ある家のなかにさまざまな表情がで代で米国に渡り、ミネソタ、ポストン、 きた。 サンフランシスコと移り住んだ。在米 柳沢さんによると、この家の本体は 柳沢さんいわく「普通は町家を改修 何を残して何を撤去するか、新たに中に結婚、長男が就学年齢になったの 昭和十年頃に竣工しており、その後今すると、中の間取りをいじったり壊し つくるものはどうするかあかねさん、を機に、二十年ぶりに日本で暮らすこ 回の改修に至るまで、最低三回ほど大たりして設備を取り付けてしまうケー 幅な増改築をしている解体しながら、スか多いですが、ここは敷地を広げてダイモンさん、柳沢さんそれぞれの意とを決めた。ダイモンさんが日本に移 まるで遺跡の発拑をするように、過去外に水回りを張り出したことで、中は見を出し合い、現場を見ながら決めた。住しても、米国の会社と年に数回行き の改装をさかのばり調査した結果わか本体のまま残っていた。それが幸いし コンピュータエンジニアであるダイモ来すれば仕事ができる環境が整ったこ ったことだ ( 左頁参照 ) 。 とも大きかった。 ました。京町家にしては庭が広く、恵 ンさんは自宅でパソコンを使、つことも もとは間ロ二間、奥行き五間、総二 まれた条件の家だと思いました」。す多く、そのため至るところにコンセン 「堺は子育てには向かない気がして、 階の二軒長屋としてつくられた典型的でに十年も空き家になっていたこの家トを設置した。一見するとどこにある神戸もちょっと違う。京都なら環境も な京町家だった。現在、玄関とアトリ を最初に見たとき、いろんな時代の建か目立たないように、場所も細かく吟 しいと思い、賃貸の家を探しました」。 工になっているスペースが「ミセ」と 材や間取りが混在していて面白かった味テレビが表に出ているのか嫌なの当時は、町家に住むつもりはなかった。 AJ い、つ 呼ばれる土間で、階段のある西側に、 で、一階の四畳半の押し入れにテレビ 自分たちの手には負えないと思ってい 奥の庭まで抜けられる「通り土間」が を隠すことを提案した たという。「ごく普通の一軒家」を借 何を残して のもダイモンさんだ。 あった。階段は反対側の東側にあって、 りて暮らした。中古住宅を買おうとい 何を撤去するか 階はいまとほとんど変わらない間取 子どもたちが見たいと う話になり、そのときも町家はさけて 現在、階段にしているスペー こうした履歴をふま きには、襖を開いて和五十軒ほども見ていくなかで、熱心な スは通り土間の上の「火袋」として設 え、郷田さんたちは過 室で見る「だらだら不動産屋の強いすすめで現在の家に出 会う出張中だったダイモンさんには、 けられた吹抜けだった。 去の痕跡も残したいと と見続けることかない のもいい。 このあと、昭和二〇年代に「ミセ」希望した。単に昔の建 多目的に使グーグルアースで物件を確認してもら を街路側に拡張。さらに昭和四〇年頃材やパーツを再利用して新しくつくり うことができる日本の和室は、合理的ったそうだ。あかねさんは「外観を見 には、通り土間かなくなり階段を設置替えるのではなく、昔に戻すという復で素晴らしい」という ても町家とは思ってなかったです。購 もともと階段があった東側に、隣の敷元でもなく、「古いものを残して重ね「つくっている最中がとても楽しかっ入してから柳沢さんに見てもらって初 た。すっとっくり続けていたいくらい」めて、町家ですよっていわれたくらい 地を購入して台所を拡張した。縁側も描きすること」、そして今回の改修も 南側に拡張している。外壁もこの時期またこの家の通過点であることが感じとダイモンさんは笑った。気に入ってで。最初に見たときの光の入り方が好 に、現在のモルタル仕上げに変更した られるように、「新しく使う材料も経 いるのは、「昔の階段があったところきでした。それに玄関のガラスの間仕 切り」。庭があるのも気に入った。家 らしい。やがて昭和五五年頃には、台年変化を味わえるものにすること」をの壁と新しい土壁か同時に見えるコー テーマに計画を進めた ナー」だ 所と縁側をつなぐコ 1 ナーや街路側に づくりが一段落したいま、この庭の整 倉庫が増築され、現在の規模が確立し 基本の部屋の配置は変えすに、断熱 備に余念がないふたたび柳沢さんや 一一十年ぶりに日本で暮らす たと思われる 造園家と一緒に集まって構想を練る などの性能をあげ、床のように基盤と 郷田さん一家は、五年前に米国からダイモンさんかいきいきと打ち合わせ 時代の特定は、使われている建材やなるところは全面的にやり直した。空 = = 備から推測した。床下に防空壕跡か 間の形を残した部分、部材を転用した京都に引っ越してきた。ダイモンさんをしていた 部分、本来あったものをそのまま残しや子どもたちは、初めての日本暮らし 家の運は人の運。そしてまた、家は 見つかったり、建具が木製からサッシ だった。あかねさんの生まれは大阪の人で、人は家で変わっていく に替わったり、土壁がべニヤで覆われた部分。左官壁のように、昔の面影に

9. 住む。2014年 5月号

ショウに出ていただいた。長田弘さ んにお会いできたのが、私個人的に はものすごいうれしいことだった。 ューヨークに年住んでいるアーティスト 篠原有司男と乃り子夫婦の映画「キューテ で、このところなぜかいろいろ仕事 ィー & ボクサー」を渋谷の映画館に見に行く。 の依頼かある。展覧会をしてもらう白いにラ ? しル十 , くしゃれ 渋谷パルコでそのニ人の展覧会もしていると聞 という動きがちょっと影響してなの いていたので、まずそちらを先に見る。展覧会 か。でも〈フは体調のこともあり、ほ 会場に入ったとたん咳が出始め止まらなくなる ば断っている。最近は「したいこと どうも立体の作品に使われている接着剤かなに しかしない」だけじゃなくて「無理 かか私には合わないみたい。篠原っ しなくてはならないことはしない」を夬りにし 「ティ及クサーの映の、え 有司男は年代にはモヒカン刈り 犬 2 ンング。ヘイン一、「クも侚一台か , ん。ている。でも「頂ける仕事はできるだけする」 の前衛アーティスト ( この頃は、 が若い頃の考えだった。それか美術館でも並べ 現代アートとい一つくくりはなかっ ていただける大量の作品になったんだと思う。 た ) として有名だった。それなの 出来る時にはしておくものだと思った。 にパルコの展覧会会場には若い人 0 月ロ日久しぶりのお休み か多かった。でも映画館は案外空 いていた。中央あたりの席を買っ 仕 て座った。始まると画面を見上げ る感じだったので前過ぎだったと 思ったけど、見ているうち』にな らなくなった。面白かったからだ と思う。歳を越えた篠原さんは 今もアーティストを続けられてい て幸せ。アーティストの奥さんは、 どこもここも苦労か多いのよねえ 月 4 日から約 1 カ月間「三重県立美術館」 で挿絵展をしてもらっている。イへントと して、詩人の長田弘さんにお願いをしてトーク 暮らしの絵日記 0 月 ~ ロ日いい映画だった 0 月ロ巨いい展覧会よ 三 - 田 + 、竓ト、 2 プ ' 2 は 事か忙しいと休みがとれない。土曜日も日 曜日も祭日も仕事が入ってしまうことが多 で、久しぶりに昨日今日の土日は家で写真ンはん、タ - ) はん ともに一 = 谷さのトレーを の整理をしているこういう日は外に出たくな儷 , ・リ・ いので、買い置きや貰い物で 3 食なにかしらっ くって食べる。津の餅菓子屋で買った粟餅は焼 いてチースとのりを巻いて昨日の昼に食べたし、 今日の昼は貰った京都の白みそといつも使って いる麦みそを合わせた野菜たっぷりのみそ汁で 雑煮にもした。アンチョビとねぎのスハケティ ーは、いつつくってもおいしい貰い物のりん ごを白菜とサラダにして、冷凍庫のごはんはエ ビとタマネキのみじん切りで炒めごはん。これ は今日、日曜日の夕食。それにしても一人暮ら しは自分さえよければいいので、ありあわせの 第ニ十五回 0 お理になるけど、けっこう楽しい休みで家に いる日は一人が好き の前、もたいまさこさんに仕事 でお会いした時、事務所の社長 の安藤さんから、 0 0 で放映 されたドラマ『パンとスープとネコ 日和』の O>Q を頂戴した ( うちは 0 0 と契約していないので見 られなかった ) 。その > をプロ ジェクターで 2 日に分けて見た。物 語は世田谷の松陰神社という商店街 の裏通りの住民の話。ほんとうの松 陰神社通り商店街は住人の生活商店街だから、 八百屋、魚屋肉屋、そば屋、和菓子屋、おで んだね屋といった昔なからの店にまじって小さ なしゃれた文房具屋などもある。だからドラマ いかにもありそう。出演 の設定の食べ物屋は、 ー林聡美さん、もたいまさこさん、光石研さ ん、加瀬亮さんなど。面白かった。 私は服を作っている。服を考えるのは私で、 生産進行管理や、販売や、卸や、その他い ろいろの仕事をスタソフがしてくれている さい会社なので、報告確認を大切にしてしつか りつながってやっている。でも初めての生産業 務だったから、最初はうまく流れなかった。大 きすぎるワンピースをたくさん作ってしまった シビアに数出ししすぎ、売れたのでリヒー 0 ( 月一口 ~ 日面白かったです 0 一月 ( ロ日洋服屋になりました 大橋歩

10. 住む。2014年 5月号

左 / 織り紐。緯糸 : ヒマラヤウール、経糸 : 綿・麻 *2 , 000 / m ( 幅 lcm ) 右 / ウール縒り紐。 Y200 / m たかばた 現在は高機で織りますが、 織るときにどうしても出てし まう残糸があります。工房で はヒマラヤゥールも使ってい ますが、苦労して遊牧される 羊たちの毛を紡いだものは最 後の最後まで使いたいと思い、 どんな小さな糸屑もとってお きます。 まずは小さな機をこしらえ て、 1 Ⅷ程の小幅の紐を織り ます。経糸は綿や麻など、緯 糸は原色のヒマラヤゥールを 使い、茜や藍など草木染めの 色をさし色にしています。 さらに、織り紐に織り込む にも短すぎる糸は、村の人が 木の繊維で縄を綯うのと同じ 方法で紐を綯ってみたら、丈 夫できれいなウール縒り紐に なりました。綯うことでどん な短い繊維も残さず使えるこ とがとても嬉しい。紐は首飾 りやプレスレット、小物や眼 鏡の紐にしたり、服につけた りと、多様に使えます。 他にも、手紡ぎ糸を織った 布で服を作る時にでる端布も 愛おしく、ちくちくと縫い合 わせて鍋つかみやティーマッ トなどを作ります。そして最 後に、屑のようになってしま ぎれ った小さな布も、紐を綯うよ うにして布縒り紐を作ります。 はぎれ 間合せ : 真木テキスタイルスタジオ tel. 0425-95-1534