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1. 住む。2014年 5月号

薄墨の桜 まえかわ・ひでき美術家。造形作家。淡路島生まれ。 1989 年武蔵野美術大学油絵学科卒。 1996 年、 1 年間の渡仏。彫刻、絵画、生活道具などで個展、グループ展、ワークショップなどを重ねる。 286 年頃より、「像刻」シリーズを開始。著書に像刻作品集「ヴォメル」、物語集「ズフラ」がある。 族が、あの手触りと温もりが私の前から居なくなる。それを思うと、 薄紅黄金、萌黄に亜麻色。八つ瀬川のそのずっと先。饅頭のよ もう胸が痛くて。一方で勤めがこの先いつまでも変化なく延々と続うに重なる山々は淡い錦に萌え、本当に咲っているようだった。ふ くことには漠然と不安なくせこク、 。しつも通りックこれまで通りツが わふわもこもこと山の手触り肌触りが感じられそうだった。 壊れてしまうとどうなるんだろう、それが怖くて、たまらなくて。 モクモク : : : 不意にくすぐったいあのモクモクした感触が私の頬 はっと、気かついたときには、胸がいつばいになってしまってい に甦った。懐かしい。ああ、そうか、こんなに永い、 永かった一緒 た。見ず知らずの人に私、なんでこんなこと。また人に迷惑をかけ の時が過ぎたんだ。私の中の堰が切れた。涙が後から後からこばれ ている。なんで私はこう : た。もう立っていられなくなって私はしやがみこんで、子供みたい 「そんなに : : : おおげさに提えんでもええのとちゃいますか」 にわんわん声をあげて泣いた。後ろに静かに立っているはずの男の 柔らかな温い春風のような声だった。 存在など忘れて私はずっとそうしていた。気がついた時にはあたり 男はそう言ってハンチングを取った。五分刈りの髪には白いもの はすっかり薄闇に覆われていた。 が思いのほか多い。そしてずっとその先へ視線を巡らせた。崩れか そっと顔をあげた。再びあの山が見えた。その時、夕日を浴びた けた城郭のお堀のさらに向こうに八つ瀬川が静かに流れていた。 無数の白いものが一斉に山肌から舞い上がった。幾億の花弁が、遠 「この花の下をね、数えきれんほどの人間の一生が過ぎていったん く山肌に降り注ぐ雨のようにきらきらと輝いて見えた。私はようや です。僕らの一生はあっという間です。鳥や虫はもっと一瞬です。 く涙を拭いて立ち上がった。 それもこれもこの桜は見送って来た。それでもなんにも変らす千五 「来週からでも、会社には行ったほうがええと思います。いや、悪 百年ですわ。毎年当たり前のように僕らを楽しませてくれる。こん かったけど、マスタ 1 との話がちょいちょい聞こえて来たもんで : ・」 だけ長生きやと、もはや自然現象と区別がありませんな。 少し、ばつの悪そうな男の声は、私の背中にそっと置かれた温か な手のようにえた。 それでも命です。僕らと一緒。こんな岩みたいな盤石な命はふつ う、人間の知らん間に枯れてじわじわ朽ちて行くものやと皆思うと それから二日後の朝、結局、モクモクに静かにお迎えが来た。私 るでしよう ? でもね、それは違うんです。ふっとね、その瞬間が は一言。良く頑張ったねと言って、冷たくなった頭を何度も何度も 確かにあるといわれております。あ、今、お迎えが来た。とね。僕優しく撫でてあげた。やつばりまた泣いたけれど、ほっかりと心に みたいな生業の人間はそこに立ち会いたいと強く思います。看取っ 穴は空いたけれど、そのエッジは想像よりもすいぶん柔らかなもの てやりたいと思います。千五百年のうちの一瞬です、たった一度で に姿を変えていた。彼を見送ることができた私は運がいし 、と思った。 す。あんたさんは別に人間のために咲き続けてくれたわけやない そうかもしれない。ク 今まで通りツなんて、大切にしようにも本当 それでも、よう頑張ってくれはりました。と精一杯労って送ってや は何処にもないのだろう。喪失がもたらす多少いびつな日常の形も また、あるようにあるだけなのだ。私もそう思えるようになりたい。 でもね、そんな願いはかないません。運ですわ。立ち会えるかも 月曜日、出勤前に、あの人に一言お礼が言いたくて兎のドアを開け しれん、だめかもしれん。延命や株分けやと大騒ぎしたり感傷的に た。けれど席はあの人の形にほっかり空つほになっていた。 大げさに思い入れても、どうにもならんのです。合図があるわけで 仕事、終わられたみたいですよ、とマスタ 1 もありませんしな。向こうはただ、あるようにあるだけです」 通りに出ると、柔らかな風に乗って、雪のような無数のかけら達 「あるように、あるだけ : ・・ : 」 が、私の頬を撫でたあと、勢いよく風に舞って空に消えていった。 ほれ、あの山も咲うてますで。 わろ 149

2. 住む。2014年 5月号

住まいと隣り合う仕事場。一階作業場はいま、工事進行中 震災で実家は半壊。原発の避ない、文化も違う場所ですから。んに話しかけている。短い期間 いまはね、もう迷ってません ことだ。場所か変わっても、建 難区域にはならなかっ、たものの、でもまわりの人に、とてもよく に、安藤さんたちかどれだけ人ここへ来て、ほんとによかった物か変わっても、暮らし方は変 直後は線量が高く、当時は一歳してもらいました。住吉は気候 との関わりを大事にしなからこ と思ってます」と晴れやかに微わらない こで暮らしてきたか、その密度笑んだ。 友美さんはいま、故郷の会津 だった創英くんのことを考えて、もよく、台風も少ない下町っ 家族会議の末に移住を決意した。 ほいあったかさもあって、住みかうかがえる 毎年春と秋の田植えと稲刈の木綿を使った小物の制作にもカ 長男は家を継ぐもの、外に出るやすいです」と英寿さんか一一一口う 友美さんは当時のことを「私時期には福島に帰る。英寿さんを入れている。自宅の一角に設 けたアトリエにあるミシンを踏 など思ってもみなかった。けれ安藤さんたちの話を聞いている は正直なところ迷っていました。 は「こうやって三年間、行った ども迷いはなかったという「大と、まるですっと前からそこに 大阪は土地勘もないし、仕事だ り来たりしていると、大阪と福んで、手提げや名刺入れなどを つくる。着物の仕立ての注文も 阪に知り合いがいたわけではな住んでいるみたいに、近所の人ってどうなるかわからないで島は近いですよ」と言った。 も誰のことを一番に考えるのか、 蔵に住んでいたときと同じよ受け、反物の卸しもやっている いんです。できるだけ福島からのことや、大阪や京都のたくさ んの友人知人の話題が出るエそのためにどうするのがいいカ、 遠いところへと思いました」。 うに、自分たちで手を加えなが「会津木綿のよさをたくさんの人 ら住まいをつくってそこで住み に知ってもらえたら」。春に店 たまたま大阪に店舗付き賃貸住房や店舗を飛び出してワークシ と思ったらやはり福島を離れる 宅を見つけたので、ともかく一 ョップを開いたり、仕事の行動ほうかいいんだと思いました。 働く家が働く場所でもあるこ舗が完成したら、ショップ「ク 日も早くと考えて大阪に決めた。 ラニスム」でも本格的に販売を 範囲も広い。四歳になった創英子供の健康には代えられない。 とは、代々の農家の家に育った 「覚悟してきました。友人もい くんが、達者な大阪弁でお母さ ともかく行ってから考えようと。英寿さんにとってはごく自然な始める予定だ

3. 住む。2014年 5月号

拝啓、家を探しています。 車は入れないので、駐車場に止めて歩いて来て ノださい 山田さんにはそう言われていた たしかに東岡崎駅からそう遠くない市街地なの に、車道からその界隈に入るや道は狭まり、迷路 のように入り組んでいるグ 1 グルマップがしめ す位置はただの草むらで、途方に暮れていると、 「こっち、こっち ! 」 むこうで大きく手をふる笑顔の人がいる。この 物語の主人公の登場である。 山田高広さんは岡崎市南部の田園地帯で生まれ 育った。名古屋の大学を出て一年ほどアメリカに 留学し、帰国後は東京の輸入商社につとめたが、 6 年前、長男の出産を機に岡崎に帰ってきた。 自分の故郷には変哲がなさすぎると、ずっと思 っていたそうだ。徳川家康が生まれた城下町。そ んな物語はあまりに遠く、自分のものとして感じ、 られない 「戦争で岡崎が爆撃されたのは終戦のほんの一か 月前敗戦宣言があと少し早ければ昔のいい感じ のまちなみが残ったんだと思うと、ほんっと海し いですよね。戦後は復興開発で大きな道路が定規 みたいに敷かれていって。焼け残ったこのエリア 、すッ いイ 44 左 / 上敷地は車道に近く、右して使う予定。 隣は地域の駐車場になっている。左 / 下モザイクのように石を そこからの景観。右が自宅、左一個一個はめてつくった石畳の が路地に面して建つ「りた」の庭が自慢。破格の値で入手した 事務所。自宅の板壁の段板は庭愛車パンダは雨漏りがするため、 道具や材料をストックする棚と傘をさしながら運転する。 オにいい意味で取り残されて いるんです」 6 年前、勤務先からはアメリカ駐在の話もも ちかけられていたが、言葉も文化も違う社会で 人と本当に通じあえるのか、留学時代の苦い経 験も思い出されて廩重になった。そこが子ども の故郷になるなら、なおさらだ。 同じ頃、田舎の旧友からの便りで、岡崎で町 づくりのを立ちあげるから一緒にやらな いかという誘いを受けた。アメリカか、岡崎か はたまた東京に残るか決め手は友人がロにした 「町が面白くないなら、自分たちで面白くしてい 」というひと言だった。 「たとえば、わざわざ遠くの面白い公園に行くな ら、近くの公園を自分たちで面白く変えていくほ うがすっと楽しいそういうことを仕事としてで きるのはいいなと思いました。力の及ばないこと もあるだろうけど、それは生まれてくる子どもに すてきな故郷をつくってあげることにもなる よし、賭けてみようと」 ろっく 年間暮らした岡崎に六供町のような場所が残 ることは知らなかった。帰郷して、家族の理想の 居場所を探しつづけるなかで再発見し、一瞬にし て心を決めた。 ぜったいにここに住みたい 空き家らしい家はたくさんあったが、不動産屋 に情報が出るエリアではない。そこで山田さん、 思いのたけを手紙にしたためて、かたつばしから 家のポストに投函してまわったというのだ。家主 かどうしてもわからない空き家は、役場の登記簿 で調べて郵送した。 何十通と出して、返事がもらえたのはたったの 一通。しかし、そこにはこうあった。もう数十年 も手を入れていないポロ屋敷ですが、それでもよ ろしければ土地ごとお譲りしましよ、つ、と この町で。

4. 住む。2014年 5月号

史的建造物だけでなく、ささやかな庶民の昔の暮 らしの跡を遺す民家も再生させて未来に伝えたい。 更新ではなく継承。黙っていたら消えてしまう小 ゞ、ほくたちの Z o の さな物語を語り継ぐことカ 仕事と思っています」 希望が見つかる町。 「まちとは、その通りを歩いている一 人の少年か、彼がいつの日かなりたい と思うものを感じ取れる場所でなくて はならない」 山田さんが座右の銘にしている建築家ルイス・ カ 1 ンの言葉だ。たまたま巡りあった言葉だった 力しい町とはどんな町かと訊かれれば、まっさ きに引用する。つまりそれは雑多な人間がそれぞ れに幸せそうに生きる町であり、「ここではない どこか」に行かずとも夢や希望が見つかる町とい 、つことだろ、つ 「親だけではない、いろんな背中がある町がいい うちの子どもたちも家づくりの経過をずっと見て、 大工さん、屋根屋さん、電気屋さん、庭師さん、 世の中にいろんな仕事があることは見て感じてく れたと思う。建売りやマンションをほっと買った 、ら、、、つい、つ、わ十 , こよ、、 。。 ( し力なカつ」。トノは / \ と、も、 庭師の仕事を知らすに庭師になりたくないと言、つ 作図・水谷学 ⑤ ① ① 山田家 ・岡崎まち育て センター クスノキ ・・ドウダンツッジ ナンテン ・アオキ キンモクセイ モミシ ・ムクゲ ・キウイ ・トウカエデ ・エノキ トウカエデ ・キンカン カキ モチ センダン 、 1 っ朝 人間に、なってほしくはないですから」 ひょんなことからオハケ屋嗷をもらづた父親 の奮闘記も、いっか彼らが友だちに語れる笑い 二ⅱになれよ 一生懸命につくった家を大人 になった彼らがど、つとらえるかは知らないか 未来の答えは未来を生きる彼らか出せばいい、 山田さんはそんなふうに思っている なくなってからでは取り戻せないもの。いま は、それを守るだけだ。 0 0 0 車両の入れないこの町には、不動産的には「死 に地」と呼ばれる空き地がほっほっとあるが、新 築不可を逆手にとった永遠の原つばを、みんなの ためのすてきな場所に生かす方法も日夜考えてい る。たとえば、お年寄りの好きな落語や芝居がか かる青空劇場。お天気の日は草むらに座布団を並 べて、ひとり暮らしの老人も、ここに来れば誰か に会える。あ、いたいた、いやいやどうも、なん て、昔の寄りあいのように。 「あと、ばくは、町全体が老人ホームっていいな あって思うんです。それぞれは家で気ままに暮ら し、つかす離れすで、みんなに目を配る人も同様 に暮らす。いまの老人ホームって自由がないでし よ。」遅、つ世代とは隔絶されるし。ばくは老後こそ 自由に楽しく過ごしてほしいし、何より自分がそ うしたい。好きなものを食べて、出かけたい時に 出かけて、窓の外では子どもかはしゃぐ声か聞こ えて。この町だったら、できるんじゃないかな」 じつは一緒に路地を歩きながら、山田さんか、 さらにもう 1 軒、 4 軒目の空き家を譲り受けてい たことが発覚した。もと小さな裁縫工房で、屋内 には可愛らしい昭和モダンの仕切り壁がある いますぐはむりだけど、いっかそこも改築して みんなの食堂にできたらと考えている。自分では なく、同じ志をもっ誰かに譲り渡して、おいしい 朝ごはんを食べさせてほしいのだそうだ。 やりたいことは、山積みである この町で。

5. 住む。2014年 5月号

なんと、見ず知らすの人から家と土地を相続し てしまったのである 建築家も現場監督も、ばく。 「お父さん、プランコ押して ! 」 車道から坂道を少し下り、家の前に到着すると 2 人の子どもがはちきれんばかりの勢いで山田さ の んに駆け寄ってきた。 6 歳になった望意くんと 4 歳の妹の梓卯ちゃんである。初めての訪問客にも につこりと屈託なく、まるで人見知りをしない 見ると、敷地のちょうど真ん中に大樹のクスノ キがすっくとそびえ、空に伸ひるように枝葉を広 げていた。その太い枝から長い長いプランコが吊 りさかっている 夫妻からい子どもたちへの去年のクリスマスプ レゼントなのだそうだ。もちろんイプのひと晩で の設置はむりなので、去年はサンタが山田家に合 宿したことになっているとか、いないとか 結局、譲られたのは、その地に建っていた空き 家 3 軒。改築後のいまのようすからはとても想像 できないが、返事をもらって見にきた時は帯が 鬱蒼とした繁みに覆われ、そこに朽ちかけた家が ほろりと埋もれてある状態だったそうだ。家主の 、も、ら、つほ、つ , も、 気前よさか理解できなくはない。 、も、ら、つほ、つ」。 - 当物 右家具はすべて古いもので、左 / 左上梁は約半分が腐食で 地域で取り壊された民家からの使えす、必然的に吹抜けに。階 掘り出しものも多い 下、庭に向けて、山田さんが景 左 / 右上はしごをかけ、玄関色を味わいながら読書をするた からも 2 階に上れるよ、つに。 めの机が置かれている 左 / 右下もとの家にあった茶左 / 左下リサイクル図書は断 簟笥を逆さにして、キッチンの熱材用に大量入手したもので 作業スペ 1 スをつくった。 「全然読んでません ( 笑 ) 」 「さすがに、これはかなりャパイと思いました よ ( 笑 ) 。畳から花は咲いてるわ、柱は腐って るわ、壁には日独伊同盟締結なんて新聞が貼っ てあるわ。ヘビの抜け殻もあったし、近所の人 からはタヌキが住んでた噂も聞いた。それでも 行けるところまで行ってみよ、つと思ったのは、 やつばりこのクスノキかな。こんなでつかい 木の下に住めるなら、なんでも大丈夫な気が するでしよ。これまでもこの土地を何十年と 見守ってきてくれたんだし」 かくしてその時から、山田さんの大奮闘がはじ まる。ますはこの無謀ともいえる改築工事を引き 受けてくれる工務店が見つからず、東京で内装デ ザインをしている知人のってで見つけた名古屋の 大工さんが、ようやく首を縦にふってくれた。名 古屋からの通い。しかも他の仕事が入っていな い空き日の作業という条件で低賃金にしてもら ったため、 2 年ものエ期を要することになった。 3 軒のうち、さすかにどうにもならなかった真 ん中の家は、更地にして車もおける石畳の庭に。 他の 2 軒は、使える柱と梁を再利用して、奥まっ た家を自宅に、路地に面してあった家を山田さん が所属する法人「岡崎まち育てセンター りた」の事務所に改築した。 どちらも設計から自分でおこなった。 「頼むお金なんてないから見よう見まねで。とい うか、細かいことが気になる性格だから、たぶん 人にやってもらっても納得いかないケースか多い んですよ。だったら自分でやろうと建材や備品 の選びから調達、ビスひとつでも室内はプラスの ビスはいやだとか妙なこだわりがあったから、 大工さんもあきれて『もう自分でやって』 ( 笑 ) 」 施主にして設計士兼現場監督、もちろんトンカ チノコギリももって、友人家族の手を借りながら も、おおかたを自分でつくった家といっていい この町で。 4 ワ 1

6. 住む。2014年 5月号

ろんな時代の跡を感じられるようにしたり、まるで戦前戦後の住宅史の縮図敬意を表して新しくつくったところも堺市。アートの勉強をするために二十 のようだ。 たかった」とあかねさん ある家のなかにさまざまな表情がで代で米国に渡り、ミネソタ、ポストン、 きた。 サンフランシスコと移り住んだ。在米 柳沢さんによると、この家の本体は 柳沢さんいわく「普通は町家を改修 何を残して何を撤去するか、新たに中に結婚、長男が就学年齢になったの 昭和十年頃に竣工しており、その後今すると、中の間取りをいじったり壊し つくるものはどうするかあかねさん、を機に、二十年ぶりに日本で暮らすこ 回の改修に至るまで、最低三回ほど大たりして設備を取り付けてしまうケー 幅な増改築をしている解体しながら、スか多いですが、ここは敷地を広げてダイモンさん、柳沢さんそれぞれの意とを決めた。ダイモンさんが日本に移 まるで遺跡の発拑をするように、過去外に水回りを張り出したことで、中は見を出し合い、現場を見ながら決めた。住しても、米国の会社と年に数回行き の改装をさかのばり調査した結果わか本体のまま残っていた。それが幸いし コンピュータエンジニアであるダイモ来すれば仕事ができる環境が整ったこ ったことだ ( 左頁参照 ) 。 とも大きかった。 ました。京町家にしては庭が広く、恵 ンさんは自宅でパソコンを使、つことも もとは間ロ二間、奥行き五間、総二 まれた条件の家だと思いました」。す多く、そのため至るところにコンセン 「堺は子育てには向かない気がして、 階の二軒長屋としてつくられた典型的でに十年も空き家になっていたこの家トを設置した。一見するとどこにある神戸もちょっと違う。京都なら環境も な京町家だった。現在、玄関とアトリ を最初に見たとき、いろんな時代の建か目立たないように、場所も細かく吟 しいと思い、賃貸の家を探しました」。 工になっているスペースが「ミセ」と 材や間取りが混在していて面白かった味テレビが表に出ているのか嫌なの当時は、町家に住むつもりはなかった。 AJ い、つ 呼ばれる土間で、階段のある西側に、 で、一階の四畳半の押し入れにテレビ 自分たちの手には負えないと思ってい 奥の庭まで抜けられる「通り土間」が を隠すことを提案した たという。「ごく普通の一軒家」を借 何を残して のもダイモンさんだ。 あった。階段は反対側の東側にあって、 りて暮らした。中古住宅を買おうとい 何を撤去するか 階はいまとほとんど変わらない間取 子どもたちが見たいと う話になり、そのときも町家はさけて 現在、階段にしているスペー こうした履歴をふま きには、襖を開いて和五十軒ほども見ていくなかで、熱心な スは通り土間の上の「火袋」として設 え、郷田さんたちは過 室で見る「だらだら不動産屋の強いすすめで現在の家に出 会う出張中だったダイモンさんには、 けられた吹抜けだった。 去の痕跡も残したいと と見続けることかない のもいい。 このあと、昭和二〇年代に「ミセ」希望した。単に昔の建 多目的に使グーグルアースで物件を確認してもら を街路側に拡張。さらに昭和四〇年頃材やパーツを再利用して新しくつくり うことができる日本の和室は、合理的ったそうだ。あかねさんは「外観を見 には、通り土間かなくなり階段を設置替えるのではなく、昔に戻すという復で素晴らしい」という ても町家とは思ってなかったです。購 もともと階段があった東側に、隣の敷元でもなく、「古いものを残して重ね「つくっている最中がとても楽しかっ入してから柳沢さんに見てもらって初 た。すっとっくり続けていたいくらい」めて、町家ですよっていわれたくらい 地を購入して台所を拡張した。縁側も描きすること」、そして今回の改修も 南側に拡張している。外壁もこの時期またこの家の通過点であることが感じとダイモンさんは笑った。気に入ってで。最初に見たときの光の入り方が好 に、現在のモルタル仕上げに変更した られるように、「新しく使う材料も経 いるのは、「昔の階段があったところきでした。それに玄関のガラスの間仕 切り」。庭があるのも気に入った。家 らしい。やがて昭和五五年頃には、台年変化を味わえるものにすること」をの壁と新しい土壁か同時に見えるコー テーマに計画を進めた ナー」だ 所と縁側をつなぐコ 1 ナーや街路側に づくりが一段落したいま、この庭の整 倉庫が増築され、現在の規模が確立し 基本の部屋の配置は変えすに、断熱 備に余念がないふたたび柳沢さんや 一一十年ぶりに日本で暮らす たと思われる 造園家と一緒に集まって構想を練る などの性能をあげ、床のように基盤と 郷田さん一家は、五年前に米国からダイモンさんかいきいきと打ち合わせ 時代の特定は、使われている建材やなるところは全面的にやり直した。空 = = 備から推測した。床下に防空壕跡か 間の形を残した部分、部材を転用した京都に引っ越してきた。ダイモンさんをしていた 部分、本来あったものをそのまま残しや子どもたちは、初めての日本暮らし 家の運は人の運。そしてまた、家は 見つかったり、建具が木製からサッシ だった。あかねさんの生まれは大阪の人で、人は家で変わっていく に替わったり、土壁がべニヤで覆われた部分。左官壁のように、昔の面影に

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が必要です。破片が一つ二つならセ ロテープで留めてずれないようにで きるけど、小さな破片が幾つもある と簡単じゃないそんな場合はまず 部分的に接着しておおまかなパ 1 を作り、後で全体を組み立てる。あ るいは、主成分がシアノアクリレー ト樹脂の瞬間接着剤で一気に固める のがお勧め。医療用にも使われてい た成分だから、食器にも安心して使 えます。はみ出した接着剤は、釉薬 か取れないように軽く削り取る。僕 ーや医療 はカミソリ刃のスクレー 用のメスを使います」。 再生する喜び、往時の ~ を一暮らしや知恵を知る喜び。 「修理するときに感じるのは、かっ てそこにあった長い時間、実在した 人々、昔の職人の知恵と丁寧な仕事 ぶりです。修理は、そのもの自体の ことをよく知らないとできません どんなふうに使ったのか、どうやっ て作られたのか、素材は何だろう 一生懸命、知る努力をする。自分な 道具を直すときは、 まず道具を理解すること。 使われてきた長い時間を感じて、 往時の知恵を探る。 古い道具はたんなる物ではなく、 文化の断片たと思う。 1 鋸を万力で挟み、ヤス リで研ぐ。長年、山仕事に 使われていた鋸のようだ。 2 廃棄物置場などで拾っ て磨いた数々の鋏。 3 作業場の大工道具。傷 んだ木柄は付け替える。 4 乾電池 ( 充電式を使 用 ) で着火する古いガスコ ンロに羽釜型の土鍋。 5 油汚れを落し、ひび割 れを溶接した鋳物の鍋 6 割れた土鍋の蓋を金継 ぎする。はみ出した接着剤 はメスでこそげる。 7 赤錆だらけの羽釜を金 属プラシで磨くと、黒い鉄 の地肌が現れた。 101

8. 住む。2014年 5月号

ショウに出ていただいた。長田弘さ んにお会いできたのが、私個人的に はものすごいうれしいことだった。 ューヨークに年住んでいるアーティスト 篠原有司男と乃り子夫婦の映画「キューテ で、このところなぜかいろいろ仕事 ィー & ボクサー」を渋谷の映画館に見に行く。 の依頼かある。展覧会をしてもらう白いにラ ? しル十 , くしゃれ 渋谷パルコでそのニ人の展覧会もしていると聞 という動きがちょっと影響してなの いていたので、まずそちらを先に見る。展覧会 か。でも〈フは体調のこともあり、ほ 会場に入ったとたん咳が出始め止まらなくなる ば断っている。最近は「したいこと どうも立体の作品に使われている接着剤かなに しかしない」だけじゃなくて「無理 かか私には合わないみたい。篠原っ しなくてはならないことはしない」を夬りにし 「ティ及クサーの映の、え 有司男は年代にはモヒカン刈り 犬 2 ンング。ヘイン一、「クも侚一台か , ん。ている。でも「頂ける仕事はできるだけする」 の前衛アーティスト ( この頃は、 が若い頃の考えだった。それか美術館でも並べ 現代アートとい一つくくりはなかっ ていただける大量の作品になったんだと思う。 た ) として有名だった。それなの 出来る時にはしておくものだと思った。 にパルコの展覧会会場には若い人 0 月ロ日久しぶりのお休み か多かった。でも映画館は案外空 いていた。中央あたりの席を買っ 仕 て座った。始まると画面を見上げ る感じだったので前過ぎだったと 思ったけど、見ているうち』にな らなくなった。面白かったからだ と思う。歳を越えた篠原さんは 今もアーティストを続けられてい て幸せ。アーティストの奥さんは、 どこもここも苦労か多いのよねえ 月 4 日から約 1 カ月間「三重県立美術館」 で挿絵展をしてもらっている。イへントと して、詩人の長田弘さんにお願いをしてトーク 暮らしの絵日記 0 月 ~ ロ日いい映画だった 0 月ロ巨いい展覧会よ 三 - 田 + 、竓ト、 2 プ ' 2 は 事か忙しいと休みがとれない。土曜日も日 曜日も祭日も仕事が入ってしまうことが多 で、久しぶりに昨日今日の土日は家で写真ンはん、タ - ) はん ともに一 = 谷さのトレーを の整理をしているこういう日は外に出たくな儷 , ・リ・ いので、買い置きや貰い物で 3 食なにかしらっ くって食べる。津の餅菓子屋で買った粟餅は焼 いてチースとのりを巻いて昨日の昼に食べたし、 今日の昼は貰った京都の白みそといつも使って いる麦みそを合わせた野菜たっぷりのみそ汁で 雑煮にもした。アンチョビとねぎのスハケティ ーは、いつつくってもおいしい貰い物のりん ごを白菜とサラダにして、冷凍庫のごはんはエ ビとタマネキのみじん切りで炒めごはん。これ は今日、日曜日の夕食。それにしても一人暮ら しは自分さえよければいいので、ありあわせの 第ニ十五回 0 お理になるけど、けっこう楽しい休みで家に いる日は一人が好き の前、もたいまさこさんに仕事 でお会いした時、事務所の社長 の安藤さんから、 0 0 で放映 されたドラマ『パンとスープとネコ 日和』の O>Q を頂戴した ( うちは 0 0 と契約していないので見 られなかった ) 。その > をプロ ジェクターで 2 日に分けて見た。物 語は世田谷の松陰神社という商店街 の裏通りの住民の話。ほんとうの松 陰神社通り商店街は住人の生活商店街だから、 八百屋、魚屋肉屋、そば屋、和菓子屋、おで んだね屋といった昔なからの店にまじって小さ なしゃれた文房具屋などもある。だからドラマ いかにもありそう。出演 の設定の食べ物屋は、 ー林聡美さん、もたいまさこさん、光石研さ ん、加瀬亮さんなど。面白かった。 私は服を作っている。服を考えるのは私で、 生産進行管理や、販売や、卸や、その他い ろいろの仕事をスタソフがしてくれている さい会社なので、報告確認を大切にしてしつか りつながってやっている。でも初めての生産業 務だったから、最初はうまく流れなかった。大 きすぎるワンピースをたくさん作ってしまった シビアに数出ししすぎ、売れたのでリヒー 0 ( 月一口 ~ 日面白かったです 0 一月 ( ロ日洋服屋になりました 大橋歩

9. 住む。2014年 5月号

たことがある。転害門の西面には立派な注連縄が結わえられている。それは、 たびしょ たむけやまはちまんぐう この門をお旅所として、手向山八幡宮の神が降りてきて祭礼を行うからで、 八幡は鍛冶の神。ちなみに手向山八幡宮は、七四九年、東大寺建立の際に造 営の守護神として大分の宇佐八幡宮から勧請され、現在も大仏殿の東側に鎮 座している。神仏習合の最も古い例の一つだそうだ。 鍛冶神八幡の祭礼が行われる転害門の近くで、日本最古の刀鍛冶集団とい われている手掻派が、鎌倉から室町時代に刀剣の制作を行っていた。鍛冶師 と木地師は深い繋がりがある。椀などの木地を挽くためには、金属の鉋が必 要で、現在も椀木地師は自らの使う刃物を製造するために鍛冶の仕事もこな さなければならない。椀木地師の仕事場には、轆轤とともに、必ず鞴が備え られている。とすると、鍛冶から派生した木地師の集団もこの門の近くにい て、挽かれた木地に漆を塗る工房もあったのではないか。そんな想像を膨ら ませている。 転害門からの帰り路、古い町並の一角にある古道具屋で、五客揃い皆朱の 入子時代椀と出会った。悠然たる構え、たつぶりした大きさ、朱漆の冴え、 裏側の黒漆の透け具合、断紋と呼ばれる表面の細かな亀裂から江戸期以前の ものだと思われる。同様の椀は、現在も少なからず出回っているが、惚れ惚 れするような形の良いのはなかなか見ることがない。この椀には一瞬で目が 留まる。残念なことに、もともと四つ組の椀のうち、いちばん外側の大きい のがない。箱を見ると、一つ欠けた三つ組みの状態のまま、かなり古い時代 から使われているようだ。 かす この椀のように朱塗りが長年の使用で掠れて、下地漆の黒色が露出してい ねごろ るものが一般的に「根来」と呼ばれている。道具屋でそれなりの値段が付け られているが、中世から近世にかけて、日本各地の寺社を中心に制作、使用、 流通していた類型の椀などがほとんどで、和歌山県根来寺由来のものと特定 できるものは皆無だ。それにしても、根来寺だけが何か特別なものを作って いた訳ではなさそうなのに「根来」という名称が一種のプランドのようにな っているのはなせなのだろうか たっちゅう 根来寺は、一一四三年に創建され、最盛期には二千余の塔頭、七十万石の 寺領を有したが、一五八五年、豊臣秀吉に攻め滅ばされ、一山灰燼に帰した。 出土品などから、当時の根来寺で漆器が制作されていたのは確かだが、伝世 ふいご ふさったらい のもので根来寺で作られたものと確認されているのはただ一点「布薩盥」 ( 茨城県・六地蔵寺蔵 ) のみ。由来が確認されているものは、丸盆、前机、 足付盥などいずれも室町から桃山期の数点。「根来に根来なし。反椀に昔を 思う山桜かな」と歌われる由縁である。、比べて、東大寺、春日大社周辺には 同様の漆器が多く残っていて、「奈良根来」とも呼ばれている。 「桃山は保証しますよ」と店主。さらに「完品を求めてばかりだと、本当に 良い物を逃しますよ」と追い打ちをかける。もちろん、あるに越したことは ないか、いちばん外側の椀の形はなくても、すでにしつかりとばくの脳裏に 映像が見えているので大丈夫。手に取った瞬間から、この椀の写しを作るこ とでもう頭はいつばいなのだ。 輪島に帰る。なにも言わずに、工房の作業机の前にポンと置いておく。そ の頃、ぼくは次の作品展の仕上げに没頭していたが、目の端の方には必ずこ の椀があった。若い職人さんたちも、やがてその存在に気づき、いつの間に やら手にとって眺めたりしている。数週間が経ち、大きな地震で桃山の椀も 工房の床を転げ回り、すぐに拾い上げて無事を確かめたばかり。 「この椀をお願いできませんか」 ばくは初めて池下さんの仕事場を訪ねたその日に、そうお願いしていた。 どういうわけか、出かける前から、桃山の椀はばくの懐の中にあり、すっか り暖かくなっていたのだ。 初出し ばくがまだ弟子だった頃に、親方の仕事場に通ってくる古道具屋の爺さん かいた。といっても、どこかに骨董店を構えているわけではない。「初出 し」を仕事にしているのだ。田舎の旧家をまわり、蔵の中で眠っている古道 うぶだ 具を掘り出して買い付ける。集めたものは、専門業者だけが参加できる初出 し市で、竸りにかけてお金に替える。東京や、名古屋の骨董商がその橋本さ んの家までやって来て、直接買い付けて行くこともある。橋本さんは、ほく が独立してからは、ばくの工房にもときどき顔を出すようになった。傷みの ある古いぬりものの修理などを頼みに来られるのだ。作務衣にサンダル履き、 ハンチング、雄弁の随所に諺、格言の類がちりばめられ、聞く人を一方的に 名前のない道 138

10. 住む。2014年 5月号

重いコートを脱いで 暮らしのフィールドを気ままに歩き回る 僕の生活散歩 木工デザイナー 生活の基本になることをきちんと身につけたい、 小さなことでも素直に表し、大事なことは声高でな と思う若いひとか増えているように思います。僕のくても伝わる環境になっていったのだと思います 展覧会にもご夫婦でいらして、じっくり相談しなが そして年代日本は経済的に世界第一一位の大国 ら決めている風景をよく見かけますが、話を聞くと と言われるようになり、街は世界中のもので溢れま 料理が好きで、器や家具にも関心かある小さなこ した。海外旅行も盛んで、多くの人が世界を旅し、 とまでよく考えているな、と感心するばかりです 食もファッションもインテリアも「すべて見た」と 展覧会にこうした代、代のお客さまが目立っ 言った感じになりました。でも、僕たちは溢れるモ て増えたのは 2 0 0 0 年を越えてからでした。これノと飽食のなかで、地に足のつかないこの国の様子 は僕だけではなく、他の作家やギャラリ 1 に聞いてを「何かおかしい」と感じていました。だからハフ も同じ答えが返ってきます。だからこの頃急に何か ル経済がはじけ、右肩上がりの成長期も、狂騒の時 が変わったのでしよう丁度雑誌「クウネル」や「住代も終わって、かえってホッとしたような気持ちに む。」が、 2002 年春に同時に創刊され、新しい なった。ようやく地に足のついた日本になる、そう 思ったのでした。 工芸ギャラリ 1 や作家もこの時期にすごく増えて、 なんとなく社会の気分が「生活」や「普通」へと向 そして、少し落ち着きを取り戻した世の中で、僕 かっていたよ、つに思います たちが手を伸ばしたのが「生活」や「手に触れるこ ちょっと遡って年前の 19 71 年のことです とのできる具体的なもの」ではなかったのでしよう 音楽好きの友人に薦められて「はっぴいえんど」を かただ、僕たちを縛り付けていた古い制度や頑固 聞きました。音色が新鮮で、それまでどこか野暮っ な父性も、見方を変えれば現実に自分をつなぎとめ たかった日本語のポップスが、まるで「重いコート る結び目でもありました。それがあったから、気ま を脱ぎ捨てたように」軽やかになり、洋楽を聞くのまに反発することもできた。だから僕らは自由と引 と変わりない音になりました。そして恐らくここが き換えに、社会との結び目を失い、自己責任を背負 分水嶺のようになって、この後歌謡曲は袞退し、変 ひとりひとりかハラハラで、孤独になってしま わりに現在のポップの流れが主流になっていった った。そして部屋の中に引きこもるしか自分を守れ ないようになっていったのでした。 のです。時代は重厚長大から軽重短小に変わってい った。もちろん「重いコ 1 トを脱ぎ捨てた」のはポ そこでもう一度、それぞれが自分のカで現実との ップスばかりではありませんでした。美術では李禹結び目を作り直す必要があった。お米を研ぎ、野菜 煥が「点」を発表、絵筆を「修行僧のように」点、 を切って、今晩自分が食べるお惣菜を作る具体的 点、点とただ置いていくだけという、足し算の自己なものに手を触れ、その感触を確かめながら、自分 表現とは違う、ミニマムな作品を作り始めました。 のために暮らしを作っていく手を動かし、そこに また演劇では野田秀樹が土着や情念といった「重集中することから自分の生活にリズムを作り、静か い」コートを思いきりよく脱いでみせ、透明で軽みな調和を作っていく僕たちがあの時「生活」に求 のある舞台を作っていきました。そのようにして時めたのは、このように自分と社会との結び目を作る 代は「大きな物語」というコートを脱いで、もっと ことではなかったのかと思うのです