なんと、見ず知らすの人から家と土地を相続し てしまったのである 建築家も現場監督も、ばく。 「お父さん、プランコ押して ! 」 車道から坂道を少し下り、家の前に到着すると 2 人の子どもがはちきれんばかりの勢いで山田さ の んに駆け寄ってきた。 6 歳になった望意くんと 4 歳の妹の梓卯ちゃんである。初めての訪問客にも につこりと屈託なく、まるで人見知りをしない 見ると、敷地のちょうど真ん中に大樹のクスノ キがすっくとそびえ、空に伸ひるように枝葉を広 げていた。その太い枝から長い長いプランコが吊 りさかっている 夫妻からい子どもたちへの去年のクリスマスプ レゼントなのだそうだ。もちろんイプのひと晩で の設置はむりなので、去年はサンタが山田家に合 宿したことになっているとか、いないとか 結局、譲られたのは、その地に建っていた空き 家 3 軒。改築後のいまのようすからはとても想像 できないが、返事をもらって見にきた時は帯が 鬱蒼とした繁みに覆われ、そこに朽ちかけた家が ほろりと埋もれてある状態だったそうだ。家主の 、も、ら、つほ、つ , も、 気前よさか理解できなくはない。 、も、ら、つほ、つ」。 - 当物 右家具はすべて古いもので、左 / 左上梁は約半分が腐食で 地域で取り壊された民家からの使えす、必然的に吹抜けに。階 掘り出しものも多い 下、庭に向けて、山田さんが景 左 / 右上はしごをかけ、玄関色を味わいながら読書をするた からも 2 階に上れるよ、つに。 めの机が置かれている 左 / 右下もとの家にあった茶左 / 左下リサイクル図書は断 簟笥を逆さにして、キッチンの熱材用に大量入手したもので 作業スペ 1 スをつくった。 「全然読んでません ( 笑 ) 」 「さすがに、これはかなりャパイと思いました よ ( 笑 ) 。畳から花は咲いてるわ、柱は腐って るわ、壁には日独伊同盟締結なんて新聞が貼っ てあるわ。ヘビの抜け殻もあったし、近所の人 からはタヌキが住んでた噂も聞いた。それでも 行けるところまで行ってみよ、つと思ったのは、 やつばりこのクスノキかな。こんなでつかい 木の下に住めるなら、なんでも大丈夫な気が するでしよ。これまでもこの土地を何十年と 見守ってきてくれたんだし」 かくしてその時から、山田さんの大奮闘がはじ まる。ますはこの無謀ともいえる改築工事を引き 受けてくれる工務店が見つからず、東京で内装デ ザインをしている知人のってで見つけた名古屋の 大工さんが、ようやく首を縦にふってくれた。名 古屋からの通い。しかも他の仕事が入っていな い空き日の作業という条件で低賃金にしてもら ったため、 2 年ものエ期を要することになった。 3 軒のうち、さすかにどうにもならなかった真 ん中の家は、更地にして車もおける石畳の庭に。 他の 2 軒は、使える柱と梁を再利用して、奥まっ た家を自宅に、路地に面してあった家を山田さん が所属する法人「岡崎まち育てセンター りた」の事務所に改築した。 どちらも設計から自分でおこなった。 「頼むお金なんてないから見よう見まねで。とい うか、細かいことが気になる性格だから、たぶん 人にやってもらっても納得いかないケースか多い んですよ。だったら自分でやろうと建材や備品 の選びから調達、ビスひとつでも室内はプラスの ビスはいやだとか妙なこだわりがあったから、 大工さんもあきれて『もう自分でやって』 ( 笑 ) 」 施主にして設計士兼現場監督、もちろんトンカ チノコギリももって、友人家族の手を借りながら も、おおかたを自分でつくった家といっていい この町で。 4 ワ 1
連載前川秀樹物語集 x 「なにやっている人 ? 」 を整え、男の視線の先へ目をやった。先ほどの淡紅色の霞のただな もや マスターはほんのわずか目じりのしわをきゅっとよせて答えた。 かに、ひときわ大きな靄がもりもりと地面から沸き立つように眼下 その辺は自分で聞いたらいいじゃないですか に迫って来た。私は思わぬその勢いに気押され一歩後ずさった。 しばらく迷ったが、二杯目のラバンプレンドを注文し、私は席を 「樹齢千五百年、あれが薄墨の桜ですわ」 地元では昔から当たり前すぎて、呼び名などすっかり忘れていた。 立ってその初老の男性の隣のテ 1 プルに着いた そういえばそんな名前だった。よくよく見れば、その盛り上がる靄 いつもいらっしゃいますよね」 「こんにちは : んん、あなたもね」 のふもとにチラチラと見え隠れする花見客の姿がある。まるで砂糖 菓子に群がる蟻んこのようだった。それほど大きいのだ。県外での 「わたし、実家がこの近くで、学生の頃からの常連なんです」 方がその名は通っているのだそうだから、あの蟻んこのような人々 「 : ・・ : そうですか」 はこれを観に遠くから訪れた人たちなのかもしれなかった。 「あの、大変不躾なのですが、何のお仕事をなさっているのですか」 「おそらく、あと一、一一年しかもちませんやろう : : : 」 男からの答えはなかった。ただ私のことをちらりと一瞥してまた あんなに勢いがあるのに ? 」 「え、あの千五百年がですか ! ? 窓の外に目をやるだけだった。二杯目のコ 1 ヒ 1 が冷める頃、仕方 なく私も窓の外に目をやってみて、私は思わず、ああ、と小さく声 「まあ、はっきりとは言えません。けど寿命は何にでもある」 どきりとした。あの、なぜそんなことがわかるのですか ? をあげた。道路を隔てて城のお堀の一角が見え、それに沿って見事 な薄紅色の霞がたなびいているではないか。気がっかなかった。「き 「あれの面倒を見てきたのが僕ですさかいな。僕だけやありません、 僕の親父も爺さんもあれの、いや、あれの一番生きやすい環境を守 れいですねえ」ゆっくりと、私は誰にいうでもなくつぶやいた。 ってきました。命がけでね。いや、そんな大げさやないな、せいぜ 「あなたは、ちょっと重たい顔してはりますね」 は ? 一瞬誰の話かと戸惑ったが、いつものようにこの時間、他 い手伝えることを精一杯整えてきただけ。それが務めでした」 ・ : 言い淀む 「要するにあなたのお勤めは : : : 」 に客など居ない。私のことだった。あの、それって : 「僕はしがない造園業ですわ。ク桜守りと呼ぶ人もおります。近年、 私を遮るよ、つに彼はさらにこ、つ言った。ちょっと、そこまで僕につ きおうてくれませんか ? なんなのだろう。見ず知らずである。言 あの樹の生気が陰ってきたようやというので、仕事でこの町まで診 に来ました」 葉遣いからこの町の人間ではないだろう、かといって観光客にも見 えない。だのに私は、あ、はい。 と気が付いたら返事をしてしまっ 「それで、あと一、二年、と」 ていた。 「ええ、これまでも先代もずっとその前にも、何度もテコ入れを施 して綺麗に咲いてもらいましたが、まあ今回はさすがに仕舞いやと カロン。男は席を立っとさっさと会計を済ませ、通りに出て歩き 出そうとしていた。私には言い返したいことも聞きたいことも山の 思います。一度だけ、同じくらいの老木を看取りました。似てます」 とりた ようにあったが、 あわてて後を追うしかなかった。いくつかの曲が 看取るという言葉が再び心に突き刺さった。そんな : てて何かを聞かれたわけでもない、しかしいつの間にか私は自分か り角を過ぎ、やがて男は見慣れたお堀の石橋を黙って渡った。お城 ? ら話し始めていた。モクモクのこと、会社のこと、家族のこと。取 花見にでも誘われたのかしら ? その予想はそれなりに的を射てい り留めもなく。男ははあ、とかへえ、とか気のない相槌を打ってく たらしく、いくつもの石段を登りきったところ、見晴らしがよく、 花見客の少ない石垣の上に来て、ようやく男は立ち止った。私も息れるだけではあったが、それでも付き合ってくれた。遠からず、家 148
まるはがね いを演出したアイアンシリ 1 ズて、良い技術を身につけること てるけど、ヨーロッパは全鋼で、やない 日々まだ悩んでいる最 柄も刃も同じ硬度。それでは切中です」。研ぎの作業場に置か など、 T と一 KA の人気商品があができました。親父は、依頼が くると何でもやってみようとい れ味は長描ちしない。ここ川年れたトレイの中に、錆びた和鋏 る。 T と一 KA は 2008 年に立 ち上げたプランドだ。 う職人でした。裁縫工場、造園 ほど海外とお付き合いができてとピンキング鋏が一丁ずつ入っ 初めて知りました。日本の職人ている。どちらも土中から発掘 「裁ち鋏の製造工場が海外に移屋、革製品の工房、専門の職人 は律儀に手を抜かずに、少しでしたかと思うほどばろほろだ。 っていく時代に、一般の人たちたちが使う特殊な鋏を何でも作 もええものを求めて作るんやね。研ぎ直しを頼まれたという。 に向けた製品を出そうと考えまる。そのために必要な工具や加 それは完璧主義とはまた違う話。「えらいもん送ってきますやろ した。もちろん多鹿治夫鋏製作工機を揃えて、なければオリジ 「そこらへんにあるような鋏は、職人にはそれぞれのやり方があ ( 笑 ) 。付鋼の鋏は何度でも研ぎ 所の技術力があればこその展開ナルの加工機を自分たちで作ら です」と大輔さん。先細りの地なあかんのです。しかし人がや作りたくない。ちょっと見は同る。播州の職人が作った鋏なら、直せる。ピンキング鋏はうちで は作ってないんやけど : : : 研げ りたがらない仕事は、やつばりじでも、うちが出すのは、うち誰が作ったのか分かります。自 場産業を心配する両親からは、 ませんと断るのは簡単だけど、 跡を継ぐことは勧められなかっ難しいんですね。そういう意味のスタイルを貫いた鋏。そこら分というものが、作る鋏に宿る それは鋏に失礼やと思う」。長 それから鋏は、 たそうだ。しかし就職して家をでは、失敗しながら努力もしての鋏では、こんな切れ味は味わというか : やつばり美しい方がええ。たと年使われ、くたびれた鋏に再び きた。うちにしかできない仕事、ってもらえません」。 出て 1 年半を過ぎた頃、治夫さ 命を与える。 えば小さな入隅をもっときれい だから今があるんかな、と思う」。 んが体調をくずして入院した。 とうすればいし 「びかびかに磨いて、ひずみを に磨きたい、、、 帰郷した大輔さんは、それから ホームページで T と一 KA を知長く切れ味の持続する か ? 息子と二人で知恵をしば上げて、刃と刃裏をきーんと研 の 2 年間、祖父から直伝で鍛造 った人々から問合せがくる。デ美しい鋏を作る ぐ。これからまた長いこと切れ り、やってみる。かといって、 ート、セレクトショップ、遠 の技術を習った。 るようになります」。 「私らは当たり前に付鋼でやつやればすぐできるというもんじ く海外からも取引を求められる 「息子は最初に良い手に教わっ 右剪定用の鋏のパーツ。 1 ・ 3 組み立てた鋏を、目の 細かい砥石で研磨する最終段階、 「刃付け」作業。温度が上がら ないように水を掛けながら、注 意深く、一気に刃を付ける。 2 竹夫さんが長年使う金槌。 硬いカシの柄が指の形に擦り減 っている。 4 錆びにくいステンレス鋼で作 る台所用「 KITCHEN SHEARS 」、 7 , 5 側円。分解して洗えるセパ レートタイプは 8 , 0 円。 5 剪定用、和鋏など、需要に 応える品揃え。 6 裁縫用の「裁鋏竹二作 SLD 」 240mm 12 , 500 円。 * 価格は税抜き。 ◆ く多鹿治夫鋏製作所〉 兵庫県小野市上本町 131-1 Tel. 0794-62-2302 http://www.takej i-hasami.com 134
価値観はいろいろあって当たりまえ、大切なの はそれを統一することではなく、それぞれが自分 の家や暮らしにもっと向き合うこと、「思い」や 「労力」を注いで、自分だけの「物語」をもっこ とではないかと山田さんは考えているそれぞれ かそれぞれに細部として光ること 「開発で景観が変わっていくのは寂しいけれど、 自分が住みたくないからといって高層マンション の建設を止めることはできないし、デイベロッパ ーさんにだって生活はある。だったらますは、自 分のいるところだけでも愛情を注いで好きな場所 にしていきたい。ひとりひとりかそ、つい、つ思いを もてば、誰もが自分の家の窓から見える景色にも っと関心をもてば、そこから何かか変わっていく んじゃないかな」 住み継ぐ、語り継ぐ 六供町の朝は、シュッ、シュッと、誰かが路地 を箒で掃き清める音ではじまる。山田さんも毎朝 「今日こそは」と思うが、早起きの老人たちに先 をこされてばかりである この町の人は、路地を自分の家のつづきと考え ている。だから、コミか落ちていれば自然に拾う し、通る人の目にうれしいようにと庭先もとと のえる。その感覚は、車がいきかう公道に面し 0 右「りた」の事務所、 1 階の左 / 右下路地に面した入口。 会議室。常勤は 3 名。 開け放せば、石畳の庭を介して 左 / 上最初は波トタンの素地中で働く人と路地を行く人がご のままのシルバー色だったが、 く自然につながりあえる まぶしいという声が近所からあ 自宅と事務所ともに、造作お がり、白いペンキで塗り直した。 よび設備は友人である岩瀬貴己 窓は、もともとついていた引きさん ( ついたち意匠考案室 ) に相 違いの窓を 1 枚ずつ使って単純談。自分たちでできない部分は、 な突き出し式に。 よい職人さんを紹介してもらった。 た家の人にはもちえないものだろう 「掃除をしても自分側の半分が、きっとせいぜ 道幅の距離感でコミュニティーの質は変わ る狭い道は、すれちがえば挨拶せざるをえな いし、家のなかにいる人ともつい目が合っちゃ うから、どうしたって声をかける。この路地を 歩いていると、昔は人と人を分断するためじゃ なく、つなぐために道はあったんだって思う。『り た』の事務所を引き戸にして開け放せるようにし たのも、なかで仕事をする人と路地が庭を介して つながるようにしたかったからなんです。自分の 家族を含め、通りかかった人がばくたちに話しか けすにはいられないよ、つになったらいいなあと」 山田さんに先導されて、私たちも路地を歩いて みる。小さな家庭菜園、股引姿で洗濯物をとりこ むおじいさん、軒先で噂話に夢中のおばさんたち に、生け垣の穴からこちらを監視する洋服を着た 大。そして何度も歩いているだろうに、 「いい あ、この狭さ ! この細さ ! うひょ 1 」とスキ ップせんばかりにご機嫌な山田さん 彼がこの町を選んだいちばんの理由は、車が入 ってこない路地で子どもたちに兀気に遊びまわっ てほしかったからだった。自分も子どもの頃、家 の前の路地が遊び場だった。落書きもしたし、友 だちとゴムボール野球もした。ポールを田 5 いきり 打てば、どこかの家の塀を超えるのはわかってい たが、わかりながら打って、拾いに行って怒られ ることをまたひとつの遊びとして楽しんだ。迷惑 をかけて、かけられて、人と人が濃密につながっ た町に子どもは守られ、育てられていた。 「セキュリティーシステムや高い塀とかって、本 当の心の平安になるのかなそれより、隣のじい ちゃんが見ててくれるしとか思ってるほうかすっ といい古いまちなみを残すとい、つのは、そ、つい う人のつながり方を残すということ。いわゆる歴 この町で。 2
それにしても、曲がりなりにも建物と土地を無 償で手に入れた幸運にはじまる山田さんの家づく りの話を聞いていると、運とはさだめではなく、 情熱が呼ぶものかと素直に思えてくる たとえば自宅の外壁を全面板張りにできたのも、 たまたま近くの建材屋に大量の返品が出て、安く 買うことができたからだ。家の内壁と床に使った のはパレット材用の無垢のツガだが、これも滋賀 の業者に売れ残りの余剰品が出たと聞いて足を運 び、 1 枚 1 枚木の表情を見て選んだばかりか、表 面を削る機械も自分でかけたというから、そのパ ッションには脱帽以外のなにものでもない なにを見て暮らすか 自宅の母体になった家は大正 6 年の建造で、そ もそも古材を使いまわして増改築をくり返した歴 史が、柱にたくさんあるホゾや釘穴に穿たれてい た真っ黒だった天井の梁も家族や知人を巻き込 んでせっせと水ぶきして磨き、窓や戸や雨戸、使 える建具もぜんぶ洗いあげて再利用した。 凝り性の山田さんが、なかでも妥協なく考えぬ いたのが窓の位置であり高さだった。 風の通り道はもちろん、居間でくつろぐ時、音 楽を聞いている時、料理をしている時、朝に目 ざめてすぐ : : : それぞれの状態の時、そこにど 右 / 右上もとの家についてい くれた妻・佳子さんの、唯一の た雨戸を玄関の戸に。猫ドアな希望だった床暖房を完備余裕 ができたら薪スト 1 プもつける らぬ子どもドア付き 右 / 右下右側が寝室。家族 4 予定。意匠に関しては知人であ 人で一緒に寝ている る「アンティークスタミゼ」の 右 / 左上昔から惹かれるのは吉田昌太郎さんに適宜アドバイ 金びかではない古いもの スをもらった。大工は「 re:wor 左夫の無茶を笑って見守って ks 」の小鳥井敦さん。 んな景色が映し出されていてほしいか。 たとえば吹抜けの 2 階の窓からは、階下から 見あげた時に空だけが見えるようにしたかった。 昼は青空、夜は星空。しかし難問は電柱と電線 だ再利用の窓枠の大きさは決まっていたし、 他の窓の高さや壁とのバランスもある。実際に 数センチずつずらしては試し、ぎりぎり電柱が 消えて空だけになるフレ 1 ミングを探しあてた 時は央哉を叫んだ。 今日も、その窓からはきれいな青空が見えてい る。その景色を私たちに見せる山田さんの誇らし げな顔といったら。 「人まかせにしないで、自分でつくってよかった のは、やつばり第一に家というものの構造か学べ たことです。電気の配線や断熱材、壁のなかがど うなってるかわかっているのは安心だし、自信に もなる。これから何かあっても自分で直して凌い でいけると思うし、反対に、自分ではできない、 プロに頼まなければいけないことか何かが明確に なったのもよかった」 家をつくり、それは自分が生涯の仕事として選 んだ町づくりにとても近しいとも気づいたそうだ。 家も町も細部の集合体だが、細部は独立してあ るわけではなく、かならず別の細部とつながりあ って存在している。心地いいと感じる全体が生ま 1 イ / / 平れるのは、そのつながり方が有機的にうまくいっ た時で、そうなった時はじめて、細部のひとつひ とつが他ならぬそのものでしかありえなかった意 味が見いだされる。その家の心地よさは窓の高さ だけのせいではなく、しかし窓の位置はその場所 でしかありえなかった。 町の細部とはもちろん、人であり、家や暮らし であり、お店や施設や、道や交通手段、そうい、つ 多様な細部を調和よくつなげるのはたやすいこと ではない。 この町で。
ろんな時代の跡を感じられるようにしたり、まるで戦前戦後の住宅史の縮図敬意を表して新しくつくったところも堺市。アートの勉強をするために二十 のようだ。 たかった」とあかねさん ある家のなかにさまざまな表情がで代で米国に渡り、ミネソタ、ポストン、 きた。 サンフランシスコと移り住んだ。在米 柳沢さんによると、この家の本体は 柳沢さんいわく「普通は町家を改修 何を残して何を撤去するか、新たに中に結婚、長男が就学年齢になったの 昭和十年頃に竣工しており、その後今すると、中の間取りをいじったり壊し つくるものはどうするかあかねさん、を機に、二十年ぶりに日本で暮らすこ 回の改修に至るまで、最低三回ほど大たりして設備を取り付けてしまうケー 幅な増改築をしている解体しながら、スか多いですが、ここは敷地を広げてダイモンさん、柳沢さんそれぞれの意とを決めた。ダイモンさんが日本に移 まるで遺跡の発拑をするように、過去外に水回りを張り出したことで、中は見を出し合い、現場を見ながら決めた。住しても、米国の会社と年に数回行き の改装をさかのばり調査した結果わか本体のまま残っていた。それが幸いし コンピュータエンジニアであるダイモ来すれば仕事ができる環境が整ったこ ったことだ ( 左頁参照 ) 。 とも大きかった。 ました。京町家にしては庭が広く、恵 ンさんは自宅でパソコンを使、つことも もとは間ロ二間、奥行き五間、総二 まれた条件の家だと思いました」。す多く、そのため至るところにコンセン 「堺は子育てには向かない気がして、 階の二軒長屋としてつくられた典型的でに十年も空き家になっていたこの家トを設置した。一見するとどこにある神戸もちょっと違う。京都なら環境も な京町家だった。現在、玄関とアトリ を最初に見たとき、いろんな時代の建か目立たないように、場所も細かく吟 しいと思い、賃貸の家を探しました」。 工になっているスペースが「ミセ」と 材や間取りが混在していて面白かった味テレビが表に出ているのか嫌なの当時は、町家に住むつもりはなかった。 AJ い、つ 呼ばれる土間で、階段のある西側に、 で、一階の四畳半の押し入れにテレビ 自分たちの手には負えないと思ってい 奥の庭まで抜けられる「通り土間」が を隠すことを提案した たという。「ごく普通の一軒家」を借 何を残して のもダイモンさんだ。 あった。階段は反対側の東側にあって、 りて暮らした。中古住宅を買おうとい 何を撤去するか 階はいまとほとんど変わらない間取 子どもたちが見たいと う話になり、そのときも町家はさけて 現在、階段にしているスペー こうした履歴をふま きには、襖を開いて和五十軒ほども見ていくなかで、熱心な スは通り土間の上の「火袋」として設 え、郷田さんたちは過 室で見る「だらだら不動産屋の強いすすめで現在の家に出 会う出張中だったダイモンさんには、 けられた吹抜けだった。 去の痕跡も残したいと と見続けることかない のもいい。 このあと、昭和二〇年代に「ミセ」希望した。単に昔の建 多目的に使グーグルアースで物件を確認してもら を街路側に拡張。さらに昭和四〇年頃材やパーツを再利用して新しくつくり うことができる日本の和室は、合理的ったそうだ。あかねさんは「外観を見 には、通り土間かなくなり階段を設置替えるのではなく、昔に戻すという復で素晴らしい」という ても町家とは思ってなかったです。購 もともと階段があった東側に、隣の敷元でもなく、「古いものを残して重ね「つくっている最中がとても楽しかっ入してから柳沢さんに見てもらって初 た。すっとっくり続けていたいくらい」めて、町家ですよっていわれたくらい 地を購入して台所を拡張した。縁側も描きすること」、そして今回の改修も 南側に拡張している。外壁もこの時期またこの家の通過点であることが感じとダイモンさんは笑った。気に入ってで。最初に見たときの光の入り方が好 に、現在のモルタル仕上げに変更した られるように、「新しく使う材料も経 いるのは、「昔の階段があったところきでした。それに玄関のガラスの間仕 切り」。庭があるのも気に入った。家 らしい。やがて昭和五五年頃には、台年変化を味わえるものにすること」をの壁と新しい土壁か同時に見えるコー テーマに計画を進めた ナー」だ 所と縁側をつなぐコ 1 ナーや街路側に づくりが一段落したいま、この庭の整 倉庫が増築され、現在の規模が確立し 基本の部屋の配置は変えすに、断熱 備に余念がないふたたび柳沢さんや 一一十年ぶりに日本で暮らす たと思われる 造園家と一緒に集まって構想を練る などの性能をあげ、床のように基盤と 郷田さん一家は、五年前に米国からダイモンさんかいきいきと打ち合わせ 時代の特定は、使われている建材やなるところは全面的にやり直した。空 = = 備から推測した。床下に防空壕跡か 間の形を残した部分、部材を転用した京都に引っ越してきた。ダイモンさんをしていた 部分、本来あったものをそのまま残しや子どもたちは、初めての日本暮らし 家の運は人の運。そしてまた、家は 見つかったり、建具が木製からサッシ だった。あかねさんの生まれは大阪の人で、人は家で変わっていく に替わったり、土壁がべニヤで覆われた部分。左官壁のように、昔の面影に
1 たままでも充分満足だった。だが、やがて歯が抜けるようにこの店からも職 人さんたちが消えていって、空いている席に新参者も座れるようになった。 ばくがその日、カウンタ 1 の端に座ると、しばらくして、つしろの小上がりか ら声がかかる。何度かここでお見かけした椀木地師の爺ちゃんだった。こん なふうにして出会って、仕事が始まるのもいいもんだ。それから七年が過ぎ、 二〇一四年。初めていっしょに飲んだ数日後に訪ねたときから、池下満雄さ んの仕事場は少しも変わっていない。いや、おそらくここは、昭和の初めく らいに轆轤が電動化された時から、ずっと変わっていない。ただ、往時には 六名いたという職人さんたちがみんないなくなり、たった一人になってしま っただけだ。古い木造校舎の教室のように広々とした仕事場に現役の轆轤が 一台と、もうすぐ七六歳になる池下さん。木製建具のガラス窓には木粉がこ びりついて光がいい感じに黄色く見える。一つだけぶら下がった裸電球の笠 は、木地を挽いて作られている。プリキの薪スト 1 プに火が入っていて、か けつばなしの薬罐がチンチンと鳴っている。大地の大きな揺れに揺さぶられ て人と人が出会い、それまで忘れられていたもの、隠れていたものたちが、 たくさん転がり出てきた。ばくは、その恩恵をいただくことになる。 埋もれた時間の中から、転がり出てきたのは、古い荒型だった。荒型とは、 前々回にお話ししたとおり、椀木地を挽くための材料となる欅材の固まり。 専門の「型師」という職人さんが作ってくれる。 「ずいぶん古い型ですね」 「ああ、うちのじいちゃんが若い頃に入れた型やさけな、百年は経っとる」 「すごい。明治時代の荒型ですか」 「こんなんで椀を挽いたら、ビシッとも狂わんよ」 知らない人が見れば、埃を被った汚い木の塊にしか見えない。がそれは、 見たこともないような素晴らしい材料だった。現在、木型は電動の旋盤を使 って作られている。それ以前は、木目に沿って、手斧を使い内側を刳り、外 側を鉈で削り、形を整えた。ここに積み上げられている型には、手斧で削っ た目跡がそのまま残されている。近づいてよく見ると欅の木目が細かく詰ん でいる。手に持っと、見た目の重厚さに反して意外なほどの軽やかさだ。 「こんなん、まだうちの蔵にいくらでもあるさけ、見てってください」 案内された蔵の中は、まさに宝の山だった。何千個という荒型が小山のよ うに積み上げられていた。 「いい材料ばっかしなんやけどなあ。いまじゃ、こんな横木の型を使うもん がどこにもおらんよ、つになってしも、って : : : 」 そうなのだ。産地で使う荒型が、すっかり横木取りから縦木取りに入れ替 わってしまい、古い材料は忘れ去られて、時間の底に埋もれてしまっていた のだ。それが大きな地震で時間の表面に再び露出してきて、ばくは出会って しまった。 「池下さん、こればくに使わせてください。じつは、ほくはこれまで横木の 木地だけで椀を作ってきたんです。これ全部、ばくの木地にします ! 」 「ああ。わかったよ」 池下さんは、何も聞き返さずに静かに肯く。 この材料は、次の世代のために先人が残してくれたものだ。百年前の、し つかり眠った材料をいまの人が使い、ほんとうならば、ばくたちは未来のた めに材料を仕入れて残しておかなければならない。それが、あたりまえのこ とだったのだ。だが、 その循環はもうすでに途切れてしまっている。池下さ んは、そんなこともあたりまえだというように呟いた。 「もう私の代で、ここも終いですから」 それからこの仕事場を訪ねるたびに過去と現在の時間が錯綜してクラクラ と目眩がする。 五百年を遡り 池下さん蔵の中で荒型が、どっしりと座っていた。僕はその心地よい重さ を確かめながら、二〇〇七年三月二十五日の能登半島地震、そのひと月ほど 前に奈良で手に入れたばかりの古い椀の姿を重ね合わせていた。桃山の椀で ある。 てがいもん 東大寺の西の外れに、転害門という山門がある。ここまで、足を延ばす観 光客はまばらだ。広大な東大寺境内で、創建当初のまま偉観を残すのはこの こ、つり・よ、つ 門のみ。正倉院と同じ時代の建物だ。ゆったりと弧を描く天平風の虹梁を仰 ぐと、日本の工芸の歴史が見えてくる。東大寺で使用される什器を作る漆工 房が、かってこの門の近くにあり「転害 ( 手掻 ) 坊」と呼ばれていたと聞い うつわのことわり 1 137
頷かせてしまう。この人自身が一昔前の商人を絵に描いたような風情なのだ。 ばくは、面倒な直し物を引き受けても、お代をいただくことはない。そのか わりに、この地方で出る古いぬりものの半端なのを分けてもらう。 「赤木さん、こんなん見たことあるかね」と、ある日持ち込んできたのは、 江戸中期ごろと思われる古い四つ椀だった。 「赤木さん、これはな『親は反らずに子は反った』ゅうてね、なかなか珍し いもんよ」 見ると、いちばん外側の大きな飯椀は、普通の丸い形で、ロ当たりの部分 がちょっと出っ張って、丸くなっている。この出っ張りを「玉縁」という。 内側に、さらに三つの椀が入子になっているが、この三つは玉縁の椀と形が はぞり ぜんぜん違う。椀のロに近い端の部分が、外側に反っている「端反」の形。 「でも、形の違う椀が入子に組んであるって不自然ですねえ」 やすまぜん 「こんなんは、八隅膳にしかないけどな、もちろんあたりまえに同じ格好の 椀が重なっとるのが多いぞ」 八隅膳というのは、四角い膳の角の部分を小さく切り落として八角形にし たもの。隅切膳とも言う。本来はこの膳の上に、さきほどの四つ椀、豆子 ( 小鉢の一種 ) 、楪子 ( 小皿の一種 ) などすべて朱色の漆器が組み込まれ、こ のあたりでは、まとめて家具膳と呼んでいる。じつは、江戸時代に高品質な 家具膳を多く生産し全国に流通させたのが、現在の輪島塗の起源なのだ。 江戸も中期から後期になると、この八隅膳は急速に廃れて、作られなくな る。取って代わったのが宗和膳だ。宗和膳は、八隅膳より一回り小ぶりだが、 脚が付いて高さがある。真横から見てみると、脚の内側が弧を描いて末の方 で広がったようになっているので、両脚に囲まれた空間は、緩やかな円相を 描いている。角は隅切りから丸隅に変わる。上縁など、全体の厚みも八隅の ごっい感じから、薄めで繊細に。角張った印象の八隅膳と比べると、全体に 曲線が多用されて、おだやかでやさしい印象を与える。併せて上にのってい る椀も小さくなり、形も変化する。今どき、骨董市などで一山いくらの感じ で、安く売られている膳と椀の組み物がたいがいこの宗和膳だ。 「赤木さん、宗和になるとな、まだ若い。この辺りでな八隅だと、江戸中は あると見な」 「ええ、でも橋本さん、どうして江戸末になると八隅膳が廃れて、宗和膳ば ちゃっ つかりに変わってしまったんでしようね。なんか、理由があると思うんです 「さあな、そんなこたあ、わしは知らん。ただな、宗和には値が付かんけど、 八隅は銭になるっちゅうことや。さあ、赤木さんこの「親は反らずに子は反 った』いくらで買う ? 」 「えっと、千円 ! でどうでしようか」 「はあ 1 ん。話にも糞にもならんわ。こんなんでもな、東京の道具屋なら、 『根来や根来や』ゅうて、いい値段で買うて行くもんよ」 「これも根来と言うんですか」 「ほうよ。「能登根来』よ」 「なるほどね。ところでこの椀いただいてもいいんですか」 「あんたみたいな箸にも棒にもかからんような輩には、くれてやるわ」 「ありがとうございます ! 」 そんなわけで、ばくのところには、江戸期の能登で使われていた古い椀が たくさん集まっている。たいていが輪島で塗られたものだ。もちろん、その 中から、形の気に入ったものを何点か選び、写して、作り始めた。作品の名うつわのことわり 1 前は、もちろん「能登根来椀」。輪島塗と同じ本堅地で下地し、古作と同じ ぬりたて く本朱と弁柄をプレンドした上塗り漆を塗立にして仕上げた。輪島塗とは何 か、その起源をちゃんと突き詰めてみようと漠然と思い始めたのは、その頃 からだろ、つ。 そのようにして時代椀に触れ、写し続けているうち、ばくの中にいくつか の疑問が浮かび上がってきた。能登半島地震の起きる十年ほど前の話である。 では、この家具膳、なにに使われたものなのか。もちろん、日常に使われ たものではない。現代では、婚礼や葬儀などの儀式も、それらにともなう供 応も、個人の住宅で行うことがすっかり無くなってしまったけれど、かって はそれがあたりまえのこと。家具膳は、そうしたハレの場の特別な道具だっ た。儀式や、供応が、家庭や地域から式場や葬儀場などのサービス産業に取 って代わられてしまうと、家具膳は不用のものとなり、立派な蔵の中で長い 間眠り続け、やがて棄てられ始めた。 古い家具膳の椀を見つめていると、その形が繋いでいる過去と、失われた 未来が見えてくる。ばくは、八隅膳と宗和膳、一一組を並べて考えつづけた。 139
史的建造物だけでなく、ささやかな庶民の昔の暮 らしの跡を遺す民家も再生させて未来に伝えたい。 更新ではなく継承。黙っていたら消えてしまう小 ゞ、ほくたちの Z o の さな物語を語り継ぐことカ 仕事と思っています」 希望が見つかる町。 「まちとは、その通りを歩いている一 人の少年か、彼がいつの日かなりたい と思うものを感じ取れる場所でなくて はならない」 山田さんが座右の銘にしている建築家ルイス・ カ 1 ンの言葉だ。たまたま巡りあった言葉だった 力しい町とはどんな町かと訊かれれば、まっさ きに引用する。つまりそれは雑多な人間がそれぞ れに幸せそうに生きる町であり、「ここではない どこか」に行かずとも夢や希望が見つかる町とい 、つことだろ、つ 「親だけではない、いろんな背中がある町がいい うちの子どもたちも家づくりの経過をずっと見て、 大工さん、屋根屋さん、電気屋さん、庭師さん、 世の中にいろんな仕事があることは見て感じてく れたと思う。建売りやマンションをほっと買った 、ら、、、つい、つ、わ十 , こよ、、 。。 ( し力なカつ」。トノは / \ と、も、 庭師の仕事を知らすに庭師になりたくないと言、つ 作図・水谷学 ⑤ ① ① 山田家 ・岡崎まち育て センター クスノキ ・・ドウダンツッジ ナンテン ・アオキ キンモクセイ モミシ ・ムクゲ ・キウイ ・トウカエデ ・エノキ トウカエデ ・キンカン カキ モチ センダン 、 1 っ朝 人間に、なってほしくはないですから」 ひょんなことからオハケ屋嗷をもらづた父親 の奮闘記も、いっか彼らが友だちに語れる笑い 二ⅱになれよ 一生懸命につくった家を大人 になった彼らがど、つとらえるかは知らないか 未来の答えは未来を生きる彼らか出せばいい、 山田さんはそんなふうに思っている なくなってからでは取り戻せないもの。いま は、それを守るだけだ。 0 0 0 車両の入れないこの町には、不動産的には「死 に地」と呼ばれる空き地がほっほっとあるが、新 築不可を逆手にとった永遠の原つばを、みんなの ためのすてきな場所に生かす方法も日夜考えてい る。たとえば、お年寄りの好きな落語や芝居がか かる青空劇場。お天気の日は草むらに座布団を並 べて、ひとり暮らしの老人も、ここに来れば誰か に会える。あ、いたいた、いやいやどうも、なん て、昔の寄りあいのように。 「あと、ばくは、町全体が老人ホームっていいな あって思うんです。それぞれは家で気ままに暮ら し、つかす離れすで、みんなに目を配る人も同様 に暮らす。いまの老人ホームって自由がないでし よ。」遅、つ世代とは隔絶されるし。ばくは老後こそ 自由に楽しく過ごしてほしいし、何より自分がそ うしたい。好きなものを食べて、出かけたい時に 出かけて、窓の外では子どもかはしゃぐ声か聞こ えて。この町だったら、できるんじゃないかな」 じつは一緒に路地を歩きながら、山田さんか、 さらにもう 1 軒、 4 軒目の空き家を譲り受けてい たことが発覚した。もと小さな裁縫工房で、屋内 には可愛らしい昭和モダンの仕切り壁がある いますぐはむりだけど、いっかそこも改築して みんなの食堂にできたらと考えている。自分では なく、同じ志をもっ誰かに譲り渡して、おいしい 朝ごはんを食べさせてほしいのだそうだ。 やりたいことは、山積みである この町で。
つ : 第を誉 本公 い オ黄 い改小 ルを紅れ んち場む へ松 ( よ 、 10 る受所様たる 本を と葉オ に丘修さず上本三 。けが子小 。はに っ 市谷 し も こ月 の しな が さ朝林なた住に 彳野 し始赤 を てま た つ のさ の の 彳冬 く林 な靄 中ん の らたま 目 っ工ま いる 向、 る色檎わ 建 の畑て い 納こ 心が たでに ん よ 房 づ畑 り か三す物な いがと屋ろ地暮 た カゞ つ 則 う場 の谷るがかひてあ 。から だ の い の に所 。畑た中秋 、る牛改住らす さ と よ に ろ 、軒年が工 鉢 に 林 ん 小修宅少の 力、 っ ァ で の 伏ら 灯檎開祝 にを 、 , 月 つ房小屋 し地 しは 田 じ、待 り の佇を の高を 山はプ がか た の北 て う衣熊 を ら と い く 常ら祝そ出 タトー 7 ム ラ松 い さ けが る ひ ァふ ン し、 ア 秋さ つ食な も し祭れ ま イ 本 ッ をイ も かて見 んそ の し る に で 日 の ァ も ト 奏オ 力、の いにがし な のだ と と ら のん め か プのや て の ア ん 実に る間を者食大て よけ食 ら とかす がらが風 り かか 日 でリ る り任 のかに分同卓切も で事プん好 馬区 の ぐ ン ら 日 プ 示 し の る っ つ さけ楡らかか士を 楽 ル膝 、す ルなき野ま を や現 の ハそで た に っ メ 料 。打ち の ち タト っ背 日免 ン く アれがに掛 で囲 し レばし る と ふだ ひ つ 、け木 ムも と 大の 椅、 ハ 理 むて ん に 不火 コ た つけ でた に よ よ つ つ と林た料 角牟う つで子にた食 の く っ 切時 を あ 、の 1 の 1 し、 つ けこ美 。と巻 な檎細理 と とす 、ん事 小尢た だ間 を デは る る 持家でを つを川店 味 と を よ さ気ち イ 、丘 し カ の ど付 た使亜は 心で し知が谷 日暮オ 。ち のすす な と の 思っ ルオ ヴ ′ッ 1 一 顰ド、、をッ 林檎の木の下で 3 「楡の木料理店」の看板 1 三谷さんの工房のそばに ある林檎畑。根曲がり竹で は、二谷さんがつくった。 4 松本の街と、美ヶ原高 編んだ林檎籠は、かっては 原、鉢伏山の山並みが見え この地でよく使われていた。 る松本ならではの特等席。 2 林檎畑に現れたのは、 猫メイクを施した「くもの 5 りんごチップとロース す力ルテット」。まるで童 トナツツのカラメリゼ。信 話のなかのワンシーン。 州の実りの小さなひと皿。 手料理を囲んで楽しむことも、 日々の暮らしのなかの 『小さな祝祭』だろうと思う」