第四章 初めてのイベント「テレビズナイト」 インディーズアルバム『オレンジボール』 Z < O O の兄 数々のイベントに出演 9 ワ」 -0 : 0- っ 0 年 伝説となった「テレビズナイト」 メジャーへの道 ・デビュー 0 ( よいよメジャー 東京でケリラライプをやる ・デビュー ファースト・シングルでメジャー ファースト・シングルは予想外だった シングル第 2 弾「上海ハニー」のヒット 1 ヒットの手ごたえ惶 立て続けのリリース 2 学園祭ライプ ファースト・アルバム 3 1 05 9
がわすか 1 ヶ月しかないというのは、驚きのスケジュールといえるだろう しかも発表された曲は、アグレッシプだったファーストとうってかわって、 ないよう コミカルな内容のポップスだった。 デビュ 1 ・シングルでオレンジレンジについてのイメ 1 ジをある程度っ くっていた人たちは、セカンド・シングルを聴いて「あれ ? 」と思っただ ろっ こと おんがくせい ファーストとセカンドでは音楽性が大きく異なっていた。しかしこれは とくちょ一つ 彼らの特徴だったし、ねらいでもあった。「キリキリマイ」で見せたハ 1 み「り・よ / 、 ドな面もオレンジレンジの魅力だけれど、それだけではない。セカンド・ シングルの「上海ハニーのようなメロディアスなポッブナンバーもまた しめ 持ち味のひとつなのだ。それを示すために、リリ 1 ス間隔を短くして、特 こと 色の異なる曲を立て続けにリリ】スしたのである。 おどろ ていど 1 20
/ 、ら ファ 1 スト・アルバムに比べて、時間をかけて作ることができた。寺間 きび いきお 的に厳しい状况の中で勢いで作ったファースト・アルバムに胼いはない が、セカンド・アルバムを作るなら、ふだんはできないことにもチャレン ジしてみたい、 というメンバ 1 の気持ちが強くなっていた。 6 人それぞれが成長してきて、やりたいことに取り組みたいという前向 しせい きな姿勢が芽生えていた証拠だ。 そのときにやれることを全部詰め込んだという点では、ファースト・ア ルバムと同じだが、メンハ】がこめたものの大きさが違っていた。前作よ むずか りも難しいことにもチャレンジし、やり遂げる面白さも体験した。 じむしょ 事務所がレコーディング用のスタジオを作ったこともあって、自分たち のスタジオでゆっくりと時間をかけて作れた点も大きかった。スタジオに はキッチンもあるので、おなかが空いたら料理を作って食べるのも楽しか じよ - っ J よ - っ しょ一つこ ちが 1 62
0 第 4 章メジャーへの道 ・シングル第 2 弾「上海ハニー」のヒット リリースしたファ 1 スト 0 「キリキリマイ」は、メンヾ 自信満々で ていど の予想に反して、あまり売り上げは伸びなかった。チャートは位程度ま まんまいていど まい十こっ でしか上がらず、売り上げ枚数も 2 万枚程度だった。沖縄でワンマン・ラ じっせき イプを開催して 1000 人近いファンを集めた実績があるだけに、全国で はっき いきお もその勢いを発揮できるかと思っていたメンハ 1 たちは、とまどいを隠せ なかったようだ。 せま だん ひま スが迫って けれども落ち込んでいる暇はない第 2 弾シングルのリリ】 いた。セカンド・シングル「上海ハニ】」は 7 月日、ファースト O 発 スされたのである 売からわすか 1 カ月後にリリ】 か′ル・か / 、 丿丿 1 ス間隔 新人ア】ティストとしては、ファーストからセカンドへの 1 だん の
「チャンピオーネ」の大ヒットで、オレンジレンジは一躍名前が知られる ハンドになったのである そんなオレンジレンジとは、どんなバンドなのだろうか ・メンバーを紹介してみよう オレンジレンジは 2 0 0 3 年 6 月 4 日に、ファースト・シングル「キリ オキリマイ」でメジャ 1 デビュ 1 した。そのときのメンバ】は「— O だったい げんざい へん の 6 人。 2005 年の夏に「」が脱退して、現在は 5 人編 成のバンドになっている かんたん , レよ - つか 簡単なプロフィ 1 ルを紹介しておこう しょ - つかい ーちゃく
・ファースト・アルバム らくよ、つ 「ビヾ☆ロック」に続いて 4 枚目のシングル「落陽」がⅡ月日にリリ 1 ちが スされた。「上海ハニー」「ビバ☆ロック、と続いてきた路線とは一味違っ たミディアムな曲だ。 大ヒットしたオレンジレンジのインタビューには、 かならずといってい ( - さいじゅ - っ しつもん ほど「沖縄在住」に関する質問が投げかけられていた。 オレンジレンジⅡ沖縄というイメージを強める効果も大きかったが、 なによりも心強かったのが、メンバーを支えてくれた沖縄の人々と土地だ ったのである。やはりメンノ ヾ】にとって、沖縄をれることは考えられな かったのだ。 まいめ 134
のファースト…とすぐにわかるようなものにしたかった。 も ふ 時代性や話題性を盛り込んで、数年後に振り返ったときに、ずい分昔の っ振り返っても、デビュ ことだったように感じてしまうのも嫌だった。い しんせん ーの新鮮さが感じられるアルバムにしておきたかったのだ スケジュールに追われて時間のない中、メンバ 1 それぞれが時間をやり くりしながら歌詞作り、リズム録音、ポ】カル録りなどを黙々とこなして、 ようやく完成したことに、メンハーたちは自信を持ったという。「やれは ぜったい できる」ことを実感した。本当に時間ぎりぎりで「もう絶対無理 ! 」とあ きらめかけたこともあったけれど、どんなことでも努力すればできるのだ 巻という自信がついた。 第 4 章メジャーへの道 こ ふ 0 13 /
おなじみのシーンだった。 はんのう 沖縄でのライプで毎回いい反応が返ってきた曲だったから、メジャ 1 デビューについても、ひそかな自信もあった。そこそこの手ごたえがある だろうと予想していたのだ ・ファースト・シングルは予想外だった の へ ャ ジ メジャ 1 ・デビュー初 O 「キリキリマイ」は「キリキリマイ」「サム メ ろ一つどく 4 5 」「キリキリ ライマニア。「キリキリマイ 5 やまだひさし朗読・ 第 マ・イ 5 ・ 1 TI eo O 5 」「テンテコマイ」の全 5 曲 しゅ - つろく を収録したマキシシングルとして発売された。 るジャケットには、プロレスラーのようなマスクをつけたオレンジをモチ
たようだ。何しろ初日の「 O 」のライプでは、 レコード関係者ばかりで、ファンは数えるほどしかいなかった。 じよ一つ」よ - っ ひか メジャ 1 ・デビューを控えていただけに、 こうした状况には少々がつく えんそう ぬ ぬ りしたが、 演奏は手を抜かなかった。そこで手を抜いてしまったら、自分 が自分でなくなってしまうと感じたからだ。 ・ファースト・シングルでメジャー・デビュー 5 月のゴ 1 ルデンウィークに東京渋谷でライプを初体験したオレンジレ むか ンジは、翌 6 月には記念すべき時間を迎えることになる。ついにメジャ ・デビューを果たすのだ。メジャーとしての最初のシングル「キリキリ ミュ 1 ジ " ク・レコ】ドからリリ 】スされ マイ」は、 6 月 4 日にソニ
ないか、と思い立ったのである ここラっし小お一つ がオレンジレンジにライプを依頼。この依頼に快く応じたオレン 」一つ 2 はい ジレンジは、「後輩へるコンサ 1 ト」というタイトルのライプをやるこ とになったのだった。会場は山内中学校の体育館だ。当日は生徒や先生、 せま らが集まって、狭い体育館内はものすごい熱気に包まれた。 ライプの中で、メンバ 1 は自分たちの中学校時代の思い出を語った。不 登校の生徒に対して、「こうしたほうがいい」などといったアドバイスを 送るといった配慮はとくになかった。ただメンバーが語ったのは、音楽や 部活などで毎日楽しく過ごしてきた思い出ばかりだったから、自然に、話 ないよう の内容も楽しいものになった。このライプの中で、みんなと一緒に校歌を 歌ってそれを録音していた。 るそして、ファースト・アルバムを作るときに、「最後にはこの歌声を入 第 4 章メジャーへの道 、つしょ 139