がら仕上げていくという、 いつもと同じ作業だった。 かし たんとう サビ部分の歌詞はが担当した。実はがサビを 書くことはあまりなかった。でも、美しいメロディ 1 ラインを聴いて、台 かし 本を読んだときに、サビの印象的な歌詞が浮かんできたため、「どうして もオレに書かせて ! と主張したという シンプルなタイトルも印象的だ。は「花は、最終的に枯れ がんば るじゃないですかそれはわかってるけど、きれいに咲こうと頑張る。そ 、つしょ むか ういうはかなさは、人間も死を迎えるという点で一緒だなと思ったんです がんば がんば よ。花は頑張れるのに、人間は頑張れないのかっていう問いかけですね」 —•- 』 2 0 4 年Ⅱ月号 ) かれ 彼らにとっては初めてのラブソングであり、初めてのバラ 1 ド曲である えいが 映画の主題歌としてにもたびたび取り上げられ、発売直後から大ヒノ しゅち - よ一つ 158
った。うまくいかなかったこと、はがゆかったことなどに落ち込むよりも、 楽しかったこと、気持ちよかったことのほうがずっと大きく、メンバーの それぞれが「またやりたい」と思った。 このようにライプを重ねてきたことが、メンバーそれぞれの精神面も成 長させた。 ストリートでライプをするときは、なるべく人がいるところ、ただし通 じゃま えんそう かれ 行の邪魔にならないような場所が狙い目だ。彼らがよく奏場所として選 んだのは、国際通りの三越前そこはバス停なので、バス待ちの人が集ま えんそう っている。聴くつもりはなくても、目の前で演奏していれば自然に耳に入 えんそう ってくる。それが作戦だ。実際に、バス停でオレンジレンジの演奏を聴い てファンになったという人もいる はんのうちよくせつ ライプでは、お客さんの反応を直接感じることができるどんなに上手 第 3 章高校生バンドがんばる じっさ、 ねら せいしんめん
しんけん 出なかった。。 とうすればうまくできるのかそれを真剣に考えた結果、み けつろん んなが出したのは「もうひとりポーカルを入れよう」という結論だった。 きっかけになったのは O の一言だ。 き 「うちの弟はラップが好きだし、山嵐はよく聴いているから、誘ってみよ こうして新しく入ってきたのが O である。 o は o の 2 歳下 の弟だ。最初にバンドに加入したときは、まだ中学 3 年生だった。ちょう きょつみ やまあらし どラップに興味を持ち始めたころで、山嵐やなどの日本人ラ き フをよく聴いていた。 もともとラップは、アメリカの黒人たちの間で始まった音楽だ。韻をふ わかもの よ みながら歌詞をつづるスタイルが若者たちの人気を呼んで、世界に広まっ かし ていった音楽である。そのため、どうしても英語歌詞で歌われることが多 やまあらし さそ 瓣 0 ・ 0
さいの一つ で、音楽的な才能を急成長させているのである。 むちゅう 音楽を聴いたり楽器の練習に夢中になるから、どうしても青空の下で走 り回る時間が少なくなっていく ところが、オレンジレンジの場合は、ヾ ノンドを組むまでは音楽とはほと えん んど縁のない生活を送っていた。ヒット曲を聴いたり、カラオケで歌う程 おさなころ 度で、幼い頃にビアノ教育をうけることもなかった。 ハンドを組むまでは仲間たちとスポーツを楽しむことが多かったとい かれ う。大自然がいつばいの沖縄で生まれて育った彼らにとって、青空と広い 海がいつも身近にあったのだから、部屋のなかにこもりきりになるよりも、 外で遊ぶほうが自然だったのだろう オレンジレンジの音楽には、青空や海がよく似合う。それも沖縄の空と 海がびったりなのだ。
ねんれい こども メンバ 1 と年齢が近い世代だけでなく、ちいさい子供にも好かれ、彼らの ねんれい 親の年齢に当たる世代にも、オレンジレンジのヒット曲はなじみやすいと とくちょ一つ いう特徴がある その理由のひとっとしてあげられるのが、親しみやすいメロディ】と、 わかりやすい歌詞がうまくマッチしている点があげられる。メロディ】だ ひび けがよくてもだめだし、どんなにいい歌前でも聴く人の心に響かなければ 意味がないが、彼らのヒット曲は、メロディ 1 と歌詞が見事にマッチして ひび ( て、聴く人のむにストレ 1 トに響くのだ。 かし しかも、その歌詞がなんとなくュニーク。韻をふむための言葉合わせか ようそ ら生まれた、言葉遊びの要素も関係しているかもしれない。それは、曲の タイトルを見ただけでもよくわかる。「上海ハニー 「以心電信」「ロコロ ション」「男子•- •- 。」「お願いー セニョリータ」 かし かれ
・ツアーの合間に発表された 7 枚目「チェスト」 「ロコロ】ション」発売後、約 2 ヶ月の全国ツアーにでかけたオレンジレ ンジだったが、 この期間にも次のシングル発売に向けて製作活動が行われ こ一つえん ていた。 2 ヶ月で公演、全国幻ヶ所を回るハードなスケジュールが組ま れていたというのに、ライプだけでなく、レコーディングの作業も行われ おどろ ていたというのは驚きだ。 ーどうちゅう ツアーの移動中の作業だったため、いつどこで録音したのか、メンバ きおく ーそカ の記億もあいまいになっているようだ。ツア 1 で忙しい最中に、ホテルの きおく 部屋で作業していたという記慮だけは残っているという しゅ一つろく なぜこんなにハ ードなスケジュールのなかで収録しなければならないの ぎもん か、という疑問を感じたこともあった。やらなければならないことがたく やく まいめ せいさく 152
O はギターを続ける道を選んだ。 MJ カ たんとう 担当の楽器がギターに決まったとき、家の倉庫を探してみたら、運よく 中古のギタ 1 が見つかった。まだ使えそうだったから、それで練習を始め ることになったのである。ところが練習を重ねていくうちに、中古のギタ ーは使い勝手が悪く、音もよくないと気づいた。 」よ - つみ ギタ 1 についてどんどん興味を持ち始めた z 0 ()* O は、中古ギタ】で 、刀・刀イ、 なっとく は納得できなくなって、思い切って新品のギタ 1 を買った。当時の価格で 一」つか ノドを組む 9 万円近くする高価なギタ 1 だった。だから、高校で新しいバ、 たんとう ときにも、せつかく買ったギターをやめず、そのまま担当するようになっ たのである ・ボーカリストーー 0 0 0
とちゅっ のプロ活動だったため、金曜日の途中で高校を抜け出して上京。仕事をこ なして、月曜日朝一番の飛行機で沖縄に帰って、そのまま学校へ直行する という日々だった。ライプが終わったら、一息つく間もなくすぐに移動す る。打ち上げなどには参加できなかった。 たいがく せんねん 学校を退学して音楽活動に専念したほうがいいのではないか、とⅱまな かったといえばうそになる何よりもつらかったのは、寺間に追われなが なっとく らのプロ活動だったので、納得のいくまで音楽に時間をかけられなかった しき ことだ。。 フロのミュージシャンという自覚が芽生え、意識すればするほど、 なや 悩むようになった。 しかし、そんなときに >- O の支えとなったのは、何よりも沖縄の仲間 ざっし たちだった。。 フロになってテレビや雑誌に登場する人気者となった O に対して、いつもと同じ態度で接してくれた。みんなの前では、ミュ】ジ 火」火」 と・つ 132
い いに盛り上がったり、その反対に盛り上がらないままで終わってしまう こうしたことも数々のライプで勉強していくものなのだ。 まだ持ち歌の数の少なかったオレンジレンジのステ 1 ジは、ト 1 クの時 間も多くなる。最初の頃は 1 曲終わるごとに O O や— O —、 < O が何か話すのがいつもの流れ。とはいっても、まだまだトー クがうまいわけではないし、ばらばらにしゃべって話がまとまらないうち に曲に入ってしまうこともたびたびだった。ステ 1 ジ構成がちぐはぐにな じよっ J よ - っ ることはよくあったが、 ノバ】はそんな状況さえ面白くて楽しくてたま らなかった。 ストリ】トでライプをするときは、通行人に立ち止まってもらわなけれ ば、じっくりと曲を聴いてもらえないおしゃべりだけでは、なかなかむ ちょうせん るすかしいので、それぞれがモノマネに挑戦することもあった。— O 第 3 章高校生バンドがんばる ころ こ - っせー
」がスタ 1 トした。約 2 ヶ月にわたって、ホ 1 ル級会場を使用したワ ンマン・ライブツアーと、ライブハウスを使ったライブツアーを同時に進 へんそくてき 行していくという変則的なツア 1 である しょ ) つかー スケジュールを一部紹介すると、 6 月日には札幌で「ラ・ワンマンリ サイタル」、Ⅱ日は青森のライブハウスで「三十路でゴメン て 、日には秋田のライブハウス、日には郡山のライプ っ か 向 ハウスで「三十路でゴメン << 0 ;.* 」、四日には仙ムロ で「ラ・ワンマンリサイタル」、日・日は新潟で「ラ・ワンマンリサ 章 イタル 幻日からは「三十路でゴメン < 0 *-a > と 第 して長野 ( 幻日 ) 、金沢元日 ) 、富山日 ) 、鹿児島 ( 日 ) 、熊本 ( 7 ードなものだ。 月 1 日 ) といったハ ふつう る普通、チャート 1 位を記録するようなヒットをあげたバンドが全国ツア ( やく