クリスチャン - みる会図書館


検索対象: NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版 2016年 9月号
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1. NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版 2016年 9月号

ロ 0 ー 文 = デビッド・ドブズサイエンスライター 写真 = プレント・スタートン 球がぐるぐる動いたり、白目をむいたり、片方だけ寄り目になったり。 の子の目はどこかがおかしいークリスチャン・ガーディノが生まれてす ぐ、母親のエリザベスは異常に気づいた。授乳中も母親の顔ではなく、 一番明るい光一一室内なら電球、屋外なら太陽を見つめている。 クリスチャンの目を最初に調べた医師は厳し 調を合わせて、明るい戸外へと歩み出た。 い表情になり、専門医の受診を勧めた。専門 クリスチャンは目が見えるようになったのだ 医では網膜電図をとることになった。特殊なコ 「信じられないでしよう ? 」と、母親のエリザベス ンタクトレンズを装着し、光を照射して網膜の反 が言った。クリスチャンは前を歩き、隣には遺 応を調べる検査だ。正常な網膜は光に反応し 伝子治療の臨床試験を行った研究チームの て視神経に電気信号を送る。測定装置はこの 責任者ジーン・ベネットがいる。「まさか、あん ときに生じる電位変化をとらえて波形のグラフを なに早く効果が出るなんて」。最初に片方の目 描き出すが、クリスチャンの網膜ははっきりした を治療してから 3 日後に、クリスチャンは彼女の 反応を示さず、グラフの振幅はわずかだった。 顔が見えるようになった。「この子は母親の顔 診断された病名は、レーバー先天性黒内 を知らすに育つのかと思っていました。それが 障。視力はすでにかなり悪く、今後も大幅な改 、今では・・ ・・」。工リザベスは、助けなしに歩い 善は望めない。治療法はない。大きくなっても ている息子を指し示した。「まるで奇跡です」 つえ クリスチャンの目はわずかしか見えす、白い杖 クリスチャンの目に起きた奇跡は、 20 年に及 が手放せないだろう。医師はそう宣告した。 ぶ地道な研究の成果だ。ベネットらはクリスチ その言葉通り 2012 年、 12 歳のとき初めて米 ャンの網膜で問題を引き起こしている遺伝子の ペンシルべニア大学シェイエ眼科研究所付属 変異を特定し、正常な遺伝子のコピーを導入 のクリニックを訪れたクリスチャンは杖をつき、 する方法を探った。臨床試験を始めた段階で 母親に手を引かれていた。ところが 2016 年 1 は、改善の兆しがみられれば十分だとベネット 月、私が目にしたのは研究所を杖なしで歩く彼 は考えていた。それから 9 年。予想以上の手 の姿だった。冗談を飛ばし、おしゃべりしなが 応えに、当のベネットも驚いている。 ら、少年は研究スタッフの一団の先頭に立っ ベネットは、この研究で得られた成果を過度 て、広々としたロビーを歩いていく。 に強調することも、残された課題を軽視するこ 「うわあ ! 」やがて建物の出口に近づいた彼 とも避け、慎重な態度を貫いている。 は、驚きの声を上げた。目の前には巨大な回転 ドアがある。クリスチャンは一人だったが、立ち 米デューク大学アイセンターで行われた、人工網膜「アー 止まりも、ためらいもしなかった。落ち着いた足 ガスⅡ」の埋め込み手術。外部カメラからのデータを受信 どりでドアの間に足を踏み入れ、その回転に歩 し、視神経を通じて脳に送信する仕組みだ。 36 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 - 9

2. NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版 2016年 9月号

そんなベネットも、クリスチャンをはじめとする 患者たちへの効果を目の当たりにして、こうし た遺伝子治療がほかのタイプの視覚障害にも 有効かもしれないと考えるようになった。ベネッ トらが開発した技術を応用すれば、先天性の 視覚障害の治療や予防が早い段階で可能に なり、ことによると胎児の段階で対処できるかも しれない。そんな期待も芽生え始めた。 こ 10 年ほどで、幹細胞を用いた再生医療 や、人工器官を体内に埋め込むバイオニック 医療の研究も進み、全盲の人が視力を回復し た事例が出てきた。幹細胞は未分化の細胞で、 さまざまな組織や器官に分化できる。網膜の 損傷は失明につながることが多いが、幹細胞 を使って、傷んだ細胞の置き換えや再生を行う 治療で有望な結果が出始めている。バイオニ ック医療では第 1 世代の人工網膜が開発さ れ、長年視力を失っていた患者が手術でマイ クロチップを目に埋め込み、ばんやりとだが物 が見えるようになった事例が報告されている。 こうした進歩を背景に、ほんの 10 年か 20 年 前には考えられなかった構想が語られ始めた。 人類がかって天然痘を根絶したのと同じよう に、失明をも克服しようというのだ。 そんなことができるのか ? 資金集めなどの活 動に取り組む人たちは、可能だと考えている。 大学時代に緑内障で失明した実業家のサンフ ォード・グリーンバーグは、 2020 年までに失明 をなくすことに最大の貢献をした個人または団 体に 300 万ドル ( 3 億円 ) 相当の金塊を贈呈す ると発表した。米国立眼科研究所も先進的な 研究に多額の助成金を交付している。世界保 健機関と国際失明予防機関の共同事業「ビジ ョン 2020 」では「 2020 年までに回避可能な視 覚障害をなくす」という目標を掲げる。こうした 動向を踏まえ、メディアもベネットの研究のよう な最新の成果を興奮気味に伝えている。 だが、米カリフォルニア大学アーバイン校の 40 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 - 9 幹細胞研究者へンリー・クラッセンはくぎを刺す。 「一番難しい病気の治療法をすぐ見つけたい というなら、幸運を祈るしかないですね。そう 簡単にはいきませんよ」。大半の研究者が同 意見だ。ベネットも、クリスチャンを救った遺伝 子治療 ( ほかの研究チームによる追試例はま だない ) が注目されるのは、これまでは期待し た効果が出なかったり、かえって症状が悪化 したケースばかりだったからだとみている。 目は先端医療の実験場 ベネットは遺伝子治療の失敗例も山ほど見 てきた。最近の論文では、同じレーバー先天 性黒内障でも、原因遺伝子が異なるタイプへ の応用には克服すべき課題が多いと指摘して 0

3. NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版 2016年 9月号

0 米国力リフォルニア州で映画を見るテリー・バイランド ( 中央 ) 。網膜色素変性症で失明したが、人工網膜アーガスⅡの 開発に患者として協力し、眼鏡に搭載されたカメラや電極チップの助けで再び物が見えるようになった。 いる。クリスチャンは PE65 という遺伝子に変 よそ 200 人に 1 人の割合だ。また中程度から重 異があったため、無害化したウイルスをベクター 度の視覚障害者が約 2 億 4600 万人。介助す ( 運搬役 ) にして正常な遺伝子を組み込み、目 る家族なども含めれば影響は数億人に及ぶ。 の細胞に導入した。だが、ほかの原因遺伝子 このことを考えただけでも新たな治療法の開 の多くは大きすぎてべクターに収まらない。し 発は有意義だが、眼科の先端医療が活発な かも変異遺伝子がもっと早くから損傷を引き起 理由はほかにもある。目は外部からアクセスし こすものや、遺伝子を導入しにくい部位に作用 やすく、新しい治療法を安全に試みるには最 適な器官なのだ。目の病気では、病変や治療 するものが大半で、治療が難しい。幹細胞や 人工網膜にもそれぞれ同様の問題があり、い の効果を直接観察できる。機能についても、 ずれもすぐには解決できない。試行錯誤を重 見えるか見えないかは本人に聞けばすぐわか ねながら、少しずつ前進するしかなさそうだ。 る。さらに瞳孔の拡大や縮小、視神経の電位 全盲の人の数は世界中で約 3900 万人、お 変化など、測定可能な客観的指標もある。 失明治療の最前線 41