フマュンと共同研究責任者のカリフォルニア 大学サンタバーバラ校の幹細胞生物学者デニ ス・クレッグは、幹細胞を人工素材と組み合わ せた、数ミリ角の「幹細胞デバイス」を開発中 だ。 2 人はこれを単にパッチ ( 継ぎ当て ) と呼ん でいる。パッチの土台は、心、臓ペースメーカー などのコーティングにも使われる高分子素材の 薄膜で、クレッグがそこに胚性幹細胞 ( ES 細 胞 ) から分化させた細胞 12 万個を配置する。 フマユンとクレッグは、このパッチを加齢黄斑 変性の治療に使おうとしている。まず視野の中 心部がほやけて徐々に暗くなり、暗い部分が 広がって、ついには何も見えなくなる病気だ。 加齢黄斑変性による失明は全盲の 5 % を占め るが、完全に治せる治療法はなく、特に萎縮 型には打つ手がなかった。加齢黄斑変性では、 網膜の最下層で視細胞層への栄養補給や老 廃物の処理を担う、網膜色素上皮の細胞が 変性する。フマユンらは、幹細胞から分化させ た上皮細胞をパッチに載せて送り込めば、変 性した細胞の代役を果たすと期待する。動物 実験では、パッチを適切な場所に挿入すること で細胞の定着効率を高めることができた。 臨床試験は始まったばかりで、 2018 年に完 了する予定だ。うまくいけば、加齢黄斑変性な どの病気による失明の治療に役立っかもしれ ない。幹細胞由来の細胞を体内に定着させる 方法がわかれば、眼科以外でも有用だろう。 幹細胞の可能性 幹細胞の臨床応用の可能性には、失明の 治療を目指す多くの研究者が注目している。カ リフォルニア大学アーバイン校のヘンリー・クラ ッセンもその一人だ。クラッセンは 30 年にわた り、幹細胞から特定の細胞へ分化する途中の 前駆細胞を使った研究に取り組んできた。前 駆細胞によって、悪くなった網膜の細胞を置き 換えたり、再生させたりする方法を探っている。 50 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 - 9 すでにマウス、ラット、猫、大、豚では視力の 改善に成功し、現在は網膜色素変性症の進 行例を対象に臨床試験を進めている。 方法は簡単で、注射針で目の中に 50 万 ~ 300 万個の前駆細胞を注入する。これがさま ざまな細胞に分化し、病気の網膜を助けてくれ ると、クラッセンは考えている。この治療を受け た患者のなかには、効果を実感している人た ちもいる。カリフォルニア州在住の 50 代の女性 クリスティン・マクドナルドは網膜色素変性症で ほとんど視力を失っていた。 2015 年 6 月に片 方の目にこの治療を受けると、家具の位置や目 の前の道が以前よりよく見えるようになったとい う。適切な細胞を適切な場所に導入すれば、 あとは細胞がちゃんと仕事をしてくれる
網膜をよみがえらせる 視覚は脳の活動の半分近くを占めているともいわれる。光を感知して信号を送る網膜の層に損傷が生じれば、 現時点では治療が不可能な失明に至ることがある。だが、現在は試験段階にある網膜のさまざまな 治療法 ( 下 ) の有効性が確認されれば、視力の回復が可能になるかもしれない。 細胞バッチの移植 変性した視細胞層の下に幹細胞由来の上皮細胞のバッチを 移植すると、死んだ細胞が新しい細胞で置き換えられる。 細胞の注入 網膜の前駆細胞を硝子体に注入すると、細胞が放出する 因子の作用で、遺伝性の変性と視力喪失の進行が抑えられる。 網膜色素上皮 網膜 網膜 移植された 細胞バッチ 斑 黄 硝子体 視細胞 網膜の拡大図 人工網膜 ( アーガス ) カメラ付き眼鏡、画像処理装置、電極チップでシステムを 構成し、死んだ視細胞を迂回する。欧米で認可済み。 人工網膜 ( アルファ ) 光を電流に変換するマイクロチップを網膜の黄斑部の 死んだ視細胞の間に埋め込み、視神経に電気信号を送る。 エネルギ 供給 カメラ付き限鏡 エネルギー供給 ワイヤレス 受信器 電極チップ 網膜 網膜 マイクロチップ 死んだ視細胞 視神経 網膜の拡大図 視神経 画像処理装置 遺伝子治療 第 2 段階 ウイルスが正常な RPE65 遺伝子を届けると、タンバク質が 作られ、視細胞は光を電気信号に変換できるようになる。 第 1 段階 視覚に必要なタンバク質をコードする RPE65 遺伝子を、無害化し たウイルスに組み込み、損傷した視細胞の近くに注入。 RPE65 遺伝子を 組み込んだウイルス 網膜色素上皮 網膜 正常な RPE65 選伝子 ウイルスの 影響を受けた 視細胞 視細胞 網膜の拡大図 網膜の拡大図 MANUEL CANALES. NGM STAFF; PATR ℃ HEALY. イラスト : EM に Y M. ENG 出 R.•MARK S. HUMAYUN. UNIVERSITY OF SOUTHERN CALIFORNIA; HENRY KLASSEN. IJNIVERSITYOF CALIFORNIA. 旧 VINE; ROBERT MACLAREN. UNIVERSITY OF OXFORD; JEAN BENNETT, UNIVERSITY OF PENNSYLVANIA
視力を奪う病気 視覚障害はさまざまな原因で引き起こされ、複数の原因が重なることもある。 原因として代表的な緑内障、白内障、屈折異常は、いずれも治療が可能で、 眼球の前側で起きる。眼球の奧に位置する網膜の付近で起きる 加齢黄斑変性は、完全に治せる治療法が今のところない。 で 目合 な場 常た 正見 緑内障 眼球内の房水が過剰になり、 眼圧が高くなって視神経に損 傷が生しる ( 眼圧は正常範囲 の場合もある ) 。早期に見つ かれば、手術や投薬で進行を 抑えられる可能性がある。 白内障 世界で失明の主な原因となっ ている。タンバク質の凝集な どが原因で水晶体が濁ってし まい、網膜に集まる光が遮ら れたり、ゆがめられたりする。 手術で視力を回復できる。 脈絡膜 毛様体 前房 網膜ー 黄斑 硝子体 加齢黄斑変性のうち、 欧米で多い萎縮型 ( ド ライ型 ) と呼はれるタ・、一、 イプでは、変性した細 胞が蓄積し、網膜の萎 縮が進行する。 視神経 水晶体 虹彩 チン小帯 視細胞の萎縮 加齢黄斑変性 屈折異常 網膜の中心部にある黄斑は、 近視、遠視、乱視は光の屈折 が適正に行われす、網膜に光 物を見るうえで重要な部位。 がうまく焦点を結ばないこと 黄斑の下の網膜色素上皮の から起きる。レンズや手術で 細胞が変性すると、光の情報 矯正できない場合、視覚障害 を処理する視細胞 ( 光受容細 の最も一般的な原因となる。 胞 ) に支障をきたす。 MANUEL CANALES, NGM STAFF; PATRICIA HEALY. 写真 : DESIGN p ℃ s INC, NATIONAL GEOGRAPH ℃ CREATIVE(Ü像の加工は NGM STAFF による ) 出典 : VISION LOSS EXPERT GROUP; S にⅥ 0 PAOLO MARIOTTI, WORLD HEALTH ORGANIZATION; UNITED NATIONS DEVELOPMENT PROGRAMME
人工網膜のおかげで 何かがばうっと見えても、 大抵は何だかわからない。 だが闇に光が差し込んた、 それだけでも奇跡だ。 人工網膜チップのおかげで、ルイスは白と黒 のコントラストがはっきりした大きな時計を見て、 時間がわかるようになった。マクラーレンのチ ームと一緒に病院の周りを歩いたときには、何 十年かぶりで建物の窓と壁の見分けがついた という。だが視力の改善はわずかで、ルイスは 今も手の感触と、袞えつつある左目を頼りにほ とんどの日常動作をこなしている。人工網膜は 使うのが面倒で、普段は作動させていない。 初期の試作品ではこうした限界は想定内だ と、 20 年以上前から開発に取り組んできたドイ ツ人の眼科外科医エバハルト・ズレンナーは言 う。「視覚を完全に再現するものではありませ ん。物を認識して、動き回る助けになればい い」。アルフアはその役目は果たしている。ズレ ンナーの話では、自分の名前が読めるようにな った患者や、婚約者の顔を初めて見た患者も いるという。アルフアの初期モデルを使った患 者 29 人の半数近くが、役に立っと感じている。 ルイスも手術を受けたことに感謝している。 マイクロチップのおかげで何かがばうっと見え ても、大抵は何だかわからない。だが闇に光 が差し込んだ、それだけでも奇跡だと彼女は言 う。左目もいつか失明するだろう。そのときまで に、この人工網膜 ( あるいはその後継バージョ ン ) で、今やっていることが全部できるようにな っていることを彼女は願っている。 アルフアの臨床試験に参加した動機は「子ど もたちのため」だとルイスは言う。双子の目に現 48 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016-9 時点で問題はないが、網膜色素変性症は遺 伝性で年齢とともに発症のリスクが高まる。「後 に続く人たちの役に立てるかもしれませんから」 マクラーレンは人工網膜チップの臨床試験 で重要なことを学んだと話す。まず、光センサ ーが視細胞の代わりになることがわかったのは 大きな前進だ。さらに、そこから得られる視覚 刺激が従来と異なる状態であっても、その解 釈の仕方を学習できることもわかった。マクラ ーレンは言う。「視細胞を失っても、ほかの神 経細胞が健在なら視力回復の可能性はあるの です。まさかここまで実証できるとは思いませ んでした」。こうした成果が弾みとなり、遺伝子 治療や幹細胞治療の研究にも拍車がかかった と、マクラーレンは考えている。 人工網膜がヒントに 米国力リフォルニア州では、人工網膜の研究 を土台に生まれた幹細胞治療の臨床試験が 行われている。リーダーの一人、マーク・フマ ユンが初めて取り組んだ大きな研究プロジェク トは、 2010 年代前半に実用化された第 1 号の 人工網膜「アーガスⅡ」の共同開発だった。電 極を搭載したマイクロチップを網膜に挿入する のはアルフアと同様だが、電極の数はわずか 60 個。光センサーの機能はチップではなく、 眼鏡に搭載した超小型カメラと、ベルトなどに 装着する画像処理装置が担う。カメラのとらえ た画像を、処理装置が電気信号に変換。これ を網脱内の電極チップが受信し、視神経へ伝 えるというシステムだ。外部のカメラを使うため、 無意識に生じる、マイクロサッカードと呼ばれる 微小な眼球運動は利用できない。マイクロサッ カードの働きは完全には解明されていないが、 視覚に重要な役割を果たすとみられている。 それでもアーガスⅡは、現在フマユンが開発 中の、幹細胞を使った治療に大きなヒントを与 えてくれた
全盲の人の数は 世界中で約 3900 万人、 およそ 200 人に 1 人の割ムだ ロロ 0 中程度から重度の視覚障害者は 約 2 億 4600 万人もいる。 試験段階にある治療の場合、片方の目に治 療を行い、他方と比較できるのも好都合だ。ま た、目には「免疫特権」と呼ばれる性質があり、 異物が侵入しても激しい拒絶反応を起こさな ーーい & ~ そのため遺伝子治療など、ほかの臓器で はリスクを伴う治療も比較的安全に試せる。 目は神経科学の分野でも注目度が高い。瞳 孔から観察できる網膜は、眼球の内側を覆うニ ューロン ( 神経細胞 ) の層で、視神経で脳と結 ばれている。目と同様に、脳も免疫特権をもつ 部位なので、目で成功した治療は、脳や脊髄 にも応用しやすいと考えられる。 目のこうした利点を生かして現在、遺伝子治 療や再生医療、バイオニック医療などの研究 が集中的に進められている。そうした成果は、 将来ほかの臓器でも大いに役立つ可能性があ る。「目は心の窓」というが、それだけではない。 先端医療の可能性と限界を探るうえでも、目は 格好の窓となってくれるのだ 人工網膜で見る世界 ちょっと想像してみてほしい。初期のテレビよ り低画質で、明暗の差が激しく、ちらちら揺れ る、ばんやりとした白黒画像。リアン・ルイスか 人工網膜を通して見ているのは、まさにそんな 世界だ。英国ウェールズの都市カーディフに 住む 50 歳の女性ルイスは、網膜色素変性症と 診断された。遺伝子の異常により網膜の視細 胞 ( 光受容細胞 ) がうまく働かなくなり、視野か 42 NATIONAL GEOGRAPHIC ・ 2016 - 9 周辺部からほやけてくる病気で、視野が徐々 に狭まり、最終的には失明する。 ルイスの場合は発症が早く、はいはいしてい た赤ん坊の頃から薄暗い廊下に出ていくのを 異常に嫌がった。有刺鉄線に突っ込んだこと もある。それでも学校に通い、大学を卒業し、 バーテンダーの仕事もこなした。その後、右目 が完全に失明してからも本と文房具の店で 20 年間働いた。商品の配置を記憶し、手の感触 で文房具を識別していたのだ。その店が閉店 した後はほとんど家にいて、双子の子育てに 専念した。子どもたちはもう十代後半だ。 2015 年 6 月、ルイスはオックスフォード眼科 病院の手術台に横たわりい全身麻酔をかけら れた。 10 時間後に意識を回復したときには、右 目に人工網膜チップを埋め込まれていた。「こ れまでに手がけたなかで一番複雑な手術でし た」と執刀医のロバート・マクラーレンは言う。 ルイスの網膜の層の間に、 1600 画素の光セン サーを搭載した小さなマイクロチップを挿入し たのだ。「アルフア」と呼ばれるこの装置が、網 膜の中心部の死んだ視細胞に代わって光を電 気信号に変換し、それが既存の神経回路網を 経由して脳に伝わる仕組みだ。 装置が作動し始めると「信じられないことか 起きました」と、ルイスは振り返る。「突然、自分 の前に何かがあるのを感じたんです」。それ が何かはわからなかった。ルイスの脳は、マイ クロチップからの電気信号を物の形や場面で はなく、明暗の激しい光の点滅やちらっきとし て認識した。「画像という感じではなく、ある部 分が周りと違うことがわかるだけでした」 以後、ルイスはこの光を視覚として解釈する ための訓練を重ねてきた。マクラーレンの研究 室で行う視機能の回復訓練もその一環だ。ル イスは「大の苦手よ」と笑うが、訓練のおかげ で、ちらっく光のパターンから人と木を見分け られるようになった。 ( 48 ページへ続く )
ロ 0 ー 文 = デビッド・ドブズサイエンスライター 写真 = プレント・スタートン 球がぐるぐる動いたり、白目をむいたり、片方だけ寄り目になったり。 の子の目はどこかがおかしいークリスチャン・ガーディノが生まれてす ぐ、母親のエリザベスは異常に気づいた。授乳中も母親の顔ではなく、 一番明るい光一一室内なら電球、屋外なら太陽を見つめている。 クリスチャンの目を最初に調べた医師は厳し 調を合わせて、明るい戸外へと歩み出た。 い表情になり、専門医の受診を勧めた。専門 クリスチャンは目が見えるようになったのだ 医では網膜電図をとることになった。特殊なコ 「信じられないでしよう ? 」と、母親のエリザベス ンタクトレンズを装着し、光を照射して網膜の反 が言った。クリスチャンは前を歩き、隣には遺 応を調べる検査だ。正常な網膜は光に反応し 伝子治療の臨床試験を行った研究チームの て視神経に電気信号を送る。測定装置はこの 責任者ジーン・ベネットがいる。「まさか、あん ときに生じる電位変化をとらえて波形のグラフを なに早く効果が出るなんて」。最初に片方の目 描き出すが、クリスチャンの網膜ははっきりした を治療してから 3 日後に、クリスチャンは彼女の 反応を示さず、グラフの振幅はわずかだった。 顔が見えるようになった。「この子は母親の顔 診断された病名は、レーバー先天性黒内 を知らすに育つのかと思っていました。それが 障。視力はすでにかなり悪く、今後も大幅な改 、今では・・ ・・」。工リザベスは、助けなしに歩い 善は望めない。治療法はない。大きくなっても ている息子を指し示した。「まるで奇跡です」 つえ クリスチャンの目はわずかしか見えす、白い杖 クリスチャンの目に起きた奇跡は、 20 年に及 が手放せないだろう。医師はそう宣告した。 ぶ地道な研究の成果だ。ベネットらはクリスチ その言葉通り 2012 年、 12 歳のとき初めて米 ャンの網膜で問題を引き起こしている遺伝子の ペンシルべニア大学シェイエ眼科研究所付属 変異を特定し、正常な遺伝子のコピーを導入 のクリニックを訪れたクリスチャンは杖をつき、 する方法を探った。臨床試験を始めた段階で 母親に手を引かれていた。ところが 2016 年 1 は、改善の兆しがみられれば十分だとベネット 月、私が目にしたのは研究所を杖なしで歩く彼 は考えていた。それから 9 年。予想以上の手 の姿だった。冗談を飛ばし、おしゃべりしなが 応えに、当のベネットも驚いている。 ら、少年は研究スタッフの一団の先頭に立っ ベネットは、この研究で得られた成果を過度 て、広々としたロビーを歩いていく。 に強調することも、残された課題を軽視するこ 「うわあ ! 」やがて建物の出口に近づいた彼 とも避け、慎重な態度を貫いている。 は、驚きの声を上げた。目の前には巨大な回転 ドアがある。クリスチャンは一人だったが、立ち 米デューク大学アイセンターで行われた、人工網膜「アー 止まりも、ためらいもしなかった。落ち着いた足 ガスⅡ」の埋め込み手術。外部カメラからのデータを受信 どりでドアの間に足を踏み入れ、その回転に歩 し、視神経を通じて脳に送信する仕組みだ。 36 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 - 9
0 米国力リフォルニア州で映画を見るテリー・バイランド ( 中央 ) 。網膜色素変性症で失明したが、人工網膜アーガスⅡの 開発に患者として協力し、眼鏡に搭載されたカメラや電極チップの助けで再び物が見えるようになった。 いる。クリスチャンは PE65 という遺伝子に変 よそ 200 人に 1 人の割合だ。また中程度から重 異があったため、無害化したウイルスをベクター 度の視覚障害者が約 2 億 4600 万人。介助す ( 運搬役 ) にして正常な遺伝子を組み込み、目 る家族なども含めれば影響は数億人に及ぶ。 の細胞に導入した。だが、ほかの原因遺伝子 このことを考えただけでも新たな治療法の開 の多くは大きすぎてべクターに収まらない。し 発は有意義だが、眼科の先端医療が活発な かも変異遺伝子がもっと早くから損傷を引き起 理由はほかにもある。目は外部からアクセスし こすものや、遺伝子を導入しにくい部位に作用 やすく、新しい治療法を安全に試みるには最 適な器官なのだ。目の病気では、病変や治療 するものが大半で、治療が難しい。幹細胞や 人工網膜にもそれぞれ同様の問題があり、い の効果を直接観察できる。機能についても、 ずれもすぐには解決できない。試行錯誤を重 見えるか見えないかは本人に聞けばすぐわか ねながら、少しずつ前進するしかなさそうだ。 る。さらに瞳孔の拡大や縮小、視神経の電位 全盲の人の数は世界中で約 3900 万人、お 変化など、測定可能な客観的指標もある。 失明治療の最前線 41
英国のオックスフォード眼科病院で、視機能の回復訓 練に励む 50 歳のリアン・ルイス。人工網膜からの信号 を脳がうまく処理できるようになるのが目標た。ルイス のようなケースから、視覚系の神経回路はかなりの程 度まで再編や再生が可能なことがわかってきた。
そんなベネットも、クリスチャンをはじめとする 患者たちへの効果を目の当たりにして、こうし た遺伝子治療がほかのタイプの視覚障害にも 有効かもしれないと考えるようになった。ベネッ トらが開発した技術を応用すれば、先天性の 視覚障害の治療や予防が早い段階で可能に なり、ことによると胎児の段階で対処できるかも しれない。そんな期待も芽生え始めた。 こ 10 年ほどで、幹細胞を用いた再生医療 や、人工器官を体内に埋め込むバイオニック 医療の研究も進み、全盲の人が視力を回復し た事例が出てきた。幹細胞は未分化の細胞で、 さまざまな組織や器官に分化できる。網膜の 損傷は失明につながることが多いが、幹細胞 を使って、傷んだ細胞の置き換えや再生を行う 治療で有望な結果が出始めている。バイオニ ック医療では第 1 世代の人工網膜が開発さ れ、長年視力を失っていた患者が手術でマイ クロチップを目に埋め込み、ばんやりとだが物 が見えるようになった事例が報告されている。 こうした進歩を背景に、ほんの 10 年か 20 年 前には考えられなかった構想が語られ始めた。 人類がかって天然痘を根絶したのと同じよう に、失明をも克服しようというのだ。 そんなことができるのか ? 資金集めなどの活 動に取り組む人たちは、可能だと考えている。 大学時代に緑内障で失明した実業家のサンフ ォード・グリーンバーグは、 2020 年までに失明 をなくすことに最大の貢献をした個人または団 体に 300 万ドル ( 3 億円 ) 相当の金塊を贈呈す ると発表した。米国立眼科研究所も先進的な 研究に多額の助成金を交付している。世界保 健機関と国際失明予防機関の共同事業「ビジ ョン 2020 」では「 2020 年までに回避可能な視 覚障害をなくす」という目標を掲げる。こうした 動向を踏まえ、メディアもベネットの研究のよう な最新の成果を興奮気味に伝えている。 だが、米カリフォルニア大学アーバイン校の 40 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 - 9 幹細胞研究者へンリー・クラッセンはくぎを刺す。 「一番難しい病気の治療法をすぐ見つけたい というなら、幸運を祈るしかないですね。そう 簡単にはいきませんよ」。大半の研究者が同 意見だ。ベネットも、クリスチャンを救った遺伝 子治療 ( ほかの研究チームによる追試例はま だない ) が注目されるのは、これまでは期待し た効果が出なかったり、かえって症状が悪化 したケースばかりだったからだとみている。 目は先端医療の実験場 ベネットは遺伝子治療の失敗例も山ほど見 てきた。最近の論文では、同じレーバー先天 性黒内障でも、原因遺伝子が異なるタイプへ の応用には克服すべき課題が多いと指摘して 0
NATIONAL GEO GRAPHIC 2016 年 9 月リ マヤで強大な勢力を誇った 「蛇の王国」。その都たっ たカラクムル遺跡から見 つかったヒスイ製の仮面 からも、王国の繁栄が伝 わってくる。 CONACULTA,INAH; PHOTOGRAPHED AT NATIONAL PALACE, MEX ℃ 0 CITY マヤを支配した蛇の王国 現在のメキシコから中米にかけて栄えたマヤ文明。いくつもの都市国家がひしめくなかで、 同盟関係を基盤に、帝国と呼べるほど勢力を拡大した王国があった。蛇の王国だ。 毛皮プームは 傷つけられる 太平洋不吉な熱い波 失明治療 愛しき大峡谷 なぜ再来したのか 見えてきた光 太平洋北東部に、水温が異 米国で屈指の人気を誇る 常に高い広大な海域「暖水 ファッション界に毛皮が再 先端医療の進歩とともに、 人工網膜や遺伝子治療な 景勝地、グランドキャニオ 塊」が出現。生物の分布に び返り咲き、ヒップホップ ど、失明治療への新たな道 ンに開発の波が押し寄せて 異変が生じ、有毒な藻類の 界や十代の若者にまで愛 が開けつつある。適切な治 いる。大峡谷の横断に挑ん 大発生など、かってない異 好者の層を広げている。 療やケアを必要な人に届け だ探検家たちが、原生の自 常な事態に見舞われた。そ 方、生産の現場では、毛皮 られれば、視覚障害をなく 然を台無しにする人間の営 れは未来の海が直面する 用の飼育動物の扱いが見 すことももはや夢ではない。 みを目の当たりにした。 悲劇の前兆なのか ? 直されつつある。