イ , 0 1 がぎづめ 碑は至るところに建てられていたが、碑文が確 カラクムル遺跡で発見された「炎の鉤爪」王のも 認できるものはほとんどなかった。素材が石灰 のと思われる墓 ( 複製 ) 。王は 697 年に亡くなっ 岩だったため、数世紀にわたる風化によって消 たとされる。埋葬布の上にヒスイや貝殻のビーズ こで見つかった、蛇を表 えてしまったのだ。 が置かれ、土器も数点、埋葬されていた。 すマヤ文字は 2 点だけだった。 う本として、考古学者のニコライ・グルーべとの 英国人の若い研究者サイモン・マーティンは 共著で出版されている。そしてマヤ世界の中 蛇の謎に興味を抱き、カラクムルとそのほかの 心に、 1 世紀にわたって君臨したのが蛇の王た 小規模な遺跡で発見された蛇のマヤ文字につ いて、できる限りの情報をかき集めた。そして、 ちだったのだ。マーカス同様、マーティンも蛇 王朝をプラックホールになぞらえる。彼らが周 都市国家同士の戦争や主要な政変などと結び 辺都市をすべてのみ込むほど桁外れの強大な 付けて、蛇頭紋章文字を使っていた一族とそ 力をもち、マヤ帝国と呼んで差し支えないほど の王朝に関する全体像を組み立てていった。 「ティカルの歴史はその遺跡から知ることが の王国を築いたからだ。 できます。でもカラクムルについては、周囲の 同盟でつながる都市国家 遺跡から知るしかないのです」とマーティンは 5 世紀末のマヤにおいて、ティカルは最も有 話した。「各地でばらばらに見つかった蛇に関 力な都市国家の一つだった。その地位を維持 する記述から、カラクムルの歴史が少しずっ明 できたのは、ティカルよりもはるかに大きく豊かだ らかになってきました」 調査の成果は、古代マヤ世界の諸王国の った都市テオテイワカンの後ろ盾があったから 複雑な歴史を記した「古代マヤ王歴代誌」とい だと、考古学者たちは考えている。 古代マヤ蛇の王国 87 CONACULTA,INAH, MEXICO 、撮影場所 : MUSEO ARCQUEOLOGICO DE CAMPECHE FUERTE DE SAN MIGUEL
入り口の上に、全長 8 メートルもある帯状の装 グアテマラのラ・コロナ遺跡で見つかった浮き彫 飾「フリーズ」が残されていた。保存状態は完 り。後に蛇王朝のユクヌーム・チェーン 2 世とな 璧だった。しつくいのフリーズは珍しい上に破 る王子が、サクニクテと呼はれていた都市国家を 損しやすい。そこには 3 人の男性が描かれて 訪問した際の様子が描かれている。 いた。 1 人はホルムルの王で、数体の奇妙な怪 如として、マヤの歴史で最も刺激的な時代の 物の口から姿を現している。それらの両脇に ど真ん中に躍り出たのです」 は冥界の生き物がいて、それぞれが羽毛の生 えた巨大な蛇にからみつかれているのだ。 蛇王朝と最強都市ティカル 工ストラーダ = べリはフリーズの底辺に注目し 蛇王朝の存在が最初に明らかになったの た。ホルムルの歴代の王名を刻んだマヤ文字 は、ティカル遺跡だった。ティカルは蛇王朝にと が一列に並んでいる。それを見た途端、彼は って宿敵の都市国家であると同時に、帝国の ものすごい発見をしたことを悟った。その中央 建設に向けて第一歩を踏み出した土地でもあ 近くに「にやりと笑う蛇」という文字があったの る。ティカルは数世紀にわたって、マヤ低地の だ。それは、彼のこれまでの研究生活におけ 覇権を握っていて、その遺跡も 1950 年代以 る最も衝撃的な発見だった。 「『カーヌル』という文字を見つけたのです」と 降、マヤ研究者の関心を独占してきた。領土 彼は話した。「これを発見するまで、私たちは は広大で、人口も最盛期には 6 万人近くあっ マヤの研究者として無名でしたし、ホルムルの た。 750 年にティカルを訪れたマヤ人は、その 遺跡もよく知られていませんでした。それが突 優美な建築物に魅了されたに違いない。 古代マヤ蛇の王国 85 GUATEMALAN MINISTRYOF CULTURE AND SPORTS 、撮影場所 : LACORONA LAB, GIJATEMALA CITY
ュカタン半島 ツイバンチェ 0 カラクムル サクニクテ ( ラ・コロナ ) ペリース 0 ティカルホルムル ー☆ベルモバン ワカ。→ - 十 ナランホ ( 工ル・ベルー ) 推定 ペテン盆地カラコル 0 ドス・ヒ。ラス 0 0 ホンジュラス湾 . メキシコ 0 0 バレンケ モラル・レフォルマ - 凶十シコ湾 覇権をめぐる戦い 6 世紀までは、ティカルがマヤの超大国だっ た。蛇王朝はおそらくツイバンチェを拠点に 赤い文字で記した都市国家と同盟関係を築い ていき、 562 年にティカルを倒す ( 黒い文字 はティカルの同盟国 ) 。 635 年までに、蛇王 朝はカラクムルに遷都。 695 年 8 月 5 日、テ イカルの王「雲を払う神」が蛇王朝に勝利する ( その時点では、灰色で示したニつの国も蛇 王朝と同盟関係にあった ) 。 進軍ルート ( 562 年 ) 0 km 60 地図中の国境は現在のもの ( 600 年代初頭に建設 ) 。カンクエン ( 657 年に建設 ) グアテマラ キリグア 0 ホンジュラス コノヾン 蛇王朝の足跡が次に確認できるのは、はる か西方の洗練された都市、パレンケだ。メキシ コ湾や中部の高原につながる山々に囲まれた 豊かな都市で、現在は、しつくい塗りの優美なピ ラミッドや 4 階建ての監視塔などが残っている。 人口は 1 万人ほどと、決して大きくはなかっ たが、文化の中心地であり、西部地域との交 易の入り口となるため、野心に満ちた若い大国 にとって格好のターゲットとなった。この時の 蛇王朝の王は「渦巻き蛇」という名で、先代の 王たち同様、同盟国の軍を使って侵略戦争を 行った。パレンケの女王「風の吹く場所の心」 は、蛇王国軍の猛攻撃に抵抗したものの、 599 年 4 月 21 日に降伏した。 蛇王朝に見られるような領土拡張への強い 衝動は、古典期のマヤには珍しい。マヤ人は 往々にして結東カに欠けていたとみられること が多く、対外的な野心をもたないと考えられて いる。だが、蛇の王たちは違った。 「パレンケに対する攻撃は、より大きな計画の 一部だったのです」。メキシコ国立自治大学で 碑文の解読を専門とするギジェルモ・ベルナー 92 ルはそう語る。「戦争の目的は、富の収奪では なく、覇権の拡大にあったと思います。蛇王朝 は帝国を築こうとしていたのです」 帝国建設の意図があったかどうかは、マヤ 考古学者の間でも意見が分かれる。マヤには 帝国建設という発想がほかに見受けられない し、地理的な条件から見ても、大変難しいと考 える人が多い。それでも、蛇王朝の足跡を見 ていると、どうしても拡張主義的なパターンが浮 かび上がってくる。彼らは東部の有力都市と同 盟を結び、南部の都市を征服し、北部の人々 と交易した。パレンケはマヤ地域の西の端とな る。だが馬や常備軍が存在しない世界で、どう やってこれほどの広域を支配できたのだろう。 広大な地域 ( 日本の本州の半分弱 ) に対し て影響力を維持し続けるには、それまでのマヤ には存在しなかったような統治機構が必要とな る。また、ヒスイがたくさん採れる南部の都市 に近い場所に、新たな首都を構える必要があ った。カラクムルへの遷都を裏づける記述は見 つかっていないが、蛇王朝は 635 年に、それ までカラクムルを治めていたコウモリ王朝に代わ JEROME N. COOKSON, NG STAFF 出典 : DAVID FREIDEL, WASHINGTON UNIVERSITY 爪 ST. LOUIS
テオテイワカンはティカルから西方に 1000 キ ロほど離れた高地に位置していた。現在のメ キシコ市の近くだ。両都市は数世紀にわたっ て交流を続け、マヤの絵画や彫刻、土器や武 器、都市計画などには、テオテイワカンの影響 が色濃く反映されていた。だが 6 世紀に入っ て状況は一変する。テオテイワカンがマヤ地域 から手を引いたため、ティカルは自分たちの手 で国を守らなければならなくなったのだ。 そこへ、蛇の王たちが登場する。彼らがど こからやって来たのか、現在のところわかって いない。蛇王朝は、古典期よりも数百年前か ら存在していて、各地を転々としながら、巨大 都市を建設していったのではないかと考える研 究者もいる。だが、それも想像の域を出ること はない。明らかに「蛇」とわかる最も古いマヤ 文字が見つかった場所は、カラクムルの北東 125 キロ、現在のメキシコ南部に位置するツィ バンチ工という遺跡だ。 どこを拠点にしていたかは不明だが、 6 世紀 88 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 - 9 初頭にティカルが無防備になったことを、蛇の 王が気づき、 2 代にわたって、大胆な侵略作戦 を企てたことは明らかになっている。まず、「縛 られた石のジャガー」という名の王が、数十年 の歳月をかけてマヤ低地の各都市国家を表敬 訪問して回った。 現代人から見れば、縁談をまとめたり、球技 に興じたりするための当たり障りのない訪問の ように思えるが、マヤにおいては、贈り物や社 交的な訪問、友好関係の強化などを通じて、 他国を支配下に置くことが多かった。こうした 外交を通じた支配こそ、蛇王朝の王たちが得 意としていたものだったようだ。 程なくティカルの南東に位置する都市国家カ ラコルと、西に位置する好戦的なワカが、同盟 国だったティカルを裏切って、蛇王朝の味方に ついた。蛇の王は、ティカルの北、東、西に位 置する都市国家からも、地道に忠誠を取りつ けていき、ついには巨大なティカル包囲網を築 き上げる。こうして、同盟国とともに一斉蜂起し
2 ~ 3 年のうちに統治体制も崩壊し、「炎の鉤 爪」王の死とともに、帝国建設の夢はついえ た。それ以降、蛇王朝は影響力を残しつつも、 二度と元のような権勢を振るうことはなかったと いうのが、多くの考古学者たちの見方だ。 750 年頃までには、蛇の牙は抜けてしまった ようだ。カラクムル近郊の都市では、コウモリ王 朝の復活を祝う石碑が建てられ、蛇を踏みつ ける戦士の姿が描かれている。 800 年代に入 ると、ティカルは蛇の王に加担したということで、 ワカ、カラコル、ナランホ、ホルムルといった都市 を罰した。 だが、ティカルの権勢が蛇王朝の域にまで 高まることはなかった。 800 年代の半ばになる と、古典期マヤは崩壊する。人口過剰か政情 の不安定化か、長引く干ばつのせいか、その 理由はわかっていないものの、秩序を失った 都市は次々に放棄されることとなった。 蛇王朝が健在であれば、古典期マヤは崩 壊せずに済んだのだろうか。 695 年の戦いで 「炎の鉤爪」王がティカルに勝利していたら、 歴史はどう変わっていただろう ? 「古典期マヤが崩壊を免れた可能性はあっ たと思います」と、考古学者のデピッド・フレイ デルは語る。「マヤの中心部を一つの統治体 制の下にまとめられなかったことが、武力衝突 を繰り返して乱世に陥り、干ばつによる影響を 拡大させてしまった大きな原因ですから」 いつの日か、その答えが見つかるかもしれな い。 40 年前には、蛇の王たちは噂のなかの存 在でしかなかった。だが、私たちは今、彼らが マヤ史上、最大かっ最強の王国を築いたこと を知っている。 考古学の歩みは、じれったいほど遅いもの だ。さまざまな断片を寄せ集めて、研究者たち は一貫性のある過去の世界像を組み立てよう と試みる。 そして専門家の間でも見解は分かれる。カ ラクムル遺跡の発掘を監督している考古学者 のラモン・カラスコは、蛇の王たちはツイバンチ ェを拠点にしたこともなければ、没落もしていな いと考えている。まったく同じ証拠を見て、異 なる結論に達しているのだ。 だから考古学者たちは手がかりを求め続け る。 1996 年にカラスコはカラクムル最大の建造 物の調査をしていた。紀元前 300 年頃に創建 された美しいピラミッドだ。てっぺん近くに、彼 は部屋を発見した。「その部屋の天井部分か ら、内部をのぞき見ることができました」とカラス コは言う。「数本の骨と副葬品、それに厚く積 もったほこりが見えましたよ」 墓所だったその部屋を発掘するまでに、カラ スコたちは 9 カ月という時間を要した。ようやく 内部に入れたとき、カラスコはかなり大物の王 を見つけたことを知った。遺骨は上等な埋葬 布にくるまれ、ビーズが巻かれていた。 王だけではなかった。近くの墓には若い女 性と子どもが殉葬されていた。王の遺体は「泥 とほこりに覆われていました。ヒスイのビーズが いくつか見えましたが、仮面は見えませんでし た」。そこでカラスコははけを取り出して、そっ と泥を取り除いていった。「最初に見えたのは 目でした。その目は過去の世界から私を見す えていました」 それは来世で王をたたえるためにかぶせら れた美しいヒスイの仮面の目だった。後の分析 によると、この王はかつぶくの良い体格をして いたようだ。肥満体だった可能性もある。 墓は美しく飾られていた。遺体の脇にはヒス イの頭飾りが置かれ、その隣には笑う蛇の頭を あしらった皿があった。そして、そこには「炎 の鉤爪王の皿」と記されていた。ロ 筆者工リック・バンス ( Erik Vance) は、 16 年 7 月号「謎 だらけのホホジロザメ」などを担当。写真家デビッド・コペ ントリ—(David Coventry) は 2016 年 7 月号「古代 ) シ ャの神々」などの記事を手がけている。 古代マヤ蛇の王国 97
蛇の王国 マヤを支配した 大胆で野心的な「蛇王朝」の王たちはを武万と外交を駆しィ マヤの歴史上、最も強間な同盟関係を築いていった。
てティカルに攻め込む準備が整うが、「縛られ た石のジャガー」王は、自らの外交作戦が実を 結ぶ前に他界する。その大事業は次の王 ( お そらくは彼の息子 ) である「空の目撃者」に託さ れた。この若き王は一度会ったら忘れられない ような人物だったようだ。堂々たる体格をして いて、見つかった頭蓋骨には無数の戦いで負 った傷がいくつも残っていた カラコルの祭壇に刻まれた碑文によれば、 562 年 4 月 29 日、「空の目撃者」王が、ティカル の時代に幕を下ろしたという。蛇王国軍を率い た王は、ワカから東に向かってティカルに攻め 込み、同時にカラコルが、近隣都市のナラン ホ、そしておそらくはホルムルとともに挙兵し、 軍を進めた。 蛇王国と同盟国の軍勢は、一気にティカル を打ち負かし、制圧した。ティカルの王は自ら が建てた祭壇の上で、石のナイフで生け贄に されたようだ。冒頭のホルムルの壁画が部分的 に破壊されたのは、この時だったと考えられる。 GUATEMALAN MINISTRYOFCULTURE AND SPORTS 、 130 点の画像を合成 ホルムル遺跡で見つかった長さ 8 メートルのフリ ーズ。複雑で神秘的な図柄は、この都市国家と 蛇王朝との強い絆を示している。中央に配されて いるのは 590 年頃に亡くなったホルムルの王で、 フリーズは王墓の装飾の一部としてつくられた。 ティカルとテオテイワカンをたたえる壁画は、新 たな盟主である蛇の王への忠誠の証しとして、 ホルムルの人たちが壊したのだろう。それを工 ストラーダ = べリが 1400 年以上後に発見した のだ。こうして蛇王朝の時代が幕を開けた。 勝利から 10 年後、「空の目撃者」王は 30 代 前半で他界する。 2004 年にツイバンチェのピラ ミッドから複数の墓が見つかり、ヒスイの仮面、 黒曜石や真珠とともに、放血の儀式に使用さ れた骨製の針も発見された。針の片側には「こ れは、空の目撃者王の血のささげ物である」と 記されている。ティカルの空白期には、全部で 8 人の蛇の王がいたが、遺骨が発見されてい るのは彼を含む 2 人だけだ。 古代マヤ蛇の王国 89
この王はさらに、カラクムルの西に交易路を 整備して同盟国同士を結び付けた。また考古 学者たちは、蛇王国と結び付きの強い同盟国 には、独自の紋章文字が見られないことに気 づいた。ひとたび蛇の王の支配下に入った王 たちは、豪華な生活を続けたものの、国王とい う肩書の使用を控えたのだ。 一方、蛇の王たちは「カロームテ」という称号 を使うようになった。「諸王の王」という意味だ。 「彼らは統治の手法を変えたのだと思います。 当時にしては、かなり斬新だったはずです」と 話すのは、ラ・コロナ遺跡を研究するグアテマ ラ出身の考古学者トマス・バリエントスだ。「個 息子 ) である「炎の鉤爪」を紹介している。結 人的には、これはマヤにとって、歴史的な変化 果的には、蛇王朝を破滅へと向かわせることに だったと考えています」 蛇の王たちは、かっての宿敵ティカルへの目 なる王だ。 配りを常に怠らなかった。ティカルはたびたび 蛇王朝の最期 反乱を起こし、復讐を試みた。 657 年、ユクヌ ーム・チェーン 2 世は、同盟各国にてこ入れを ュクヌーム・チェーン 2 世は 86 歳前後という かいらい 高齢でこの世を去ったとされる。当時の寿命か した後、近隣の傀儡王「空に槌を振るう神」と ともに、ティカルに攻め込んだ。それから 20 年 らすると、その半分も生きられれば幸運だった 後、ティカルは再び反旗を翻した。ュクヌーム・ が、マヤの王たちはぜいたくな暮らしを送り、タ マルという軟らかい蒸し料理ばかりを食べてい チェーン 2 世は再度、同盟国とともに反乱を制 たため、歯の状態も極めて良かったと考えられ 圧し、この時はティカルの王を処刑している。 力の差が歴然としているのに、なせティカル る。貧しい下層階級はたいてい栄養不良だっ は何度も蛇王朝に刃向かうことができたのだろ たが、支配階級は肥満していた可能性があり、 なかには糖尿病を患っていた者もいたようだ。 う。専門家によると、マヤの王たちは同盟関係 「炎の鉤爪」王はまさにそんな男だったので の維持に細心の注意を払い、敗北した王を生 はないかとみる研究者もいる。彼は、ユクヌー かしておくことが多かったという。もしかしたら ム・チェーン 2 世が亡くなるはるか前から王国 古典期の戦争は、おおむね儀式的なものだっ の運営を任されていたはずだ。そして、偉大 たのかもしれない。あるいは敗戦した王の同 な父をもつ息子にありがちなことだが、そのカ 盟国が命乞いをしたのかもしれない。あるいは 量は父に遠く及ばなかった。ティカルは度重な マヤの王たちには、相手を全滅させるほどの る惨敗にもめげず、 695 年に再び反乱を起こし 軍事力がなかったということかもしれない。 た。戦いを率いたのは、「雲を払う神」という 理由は定かではないが、二度目の反乱後、 ュクヌーム・チェーン 2 世はティカルの新王と和 堂々たる名の若き王だった。「炎の鉤爪」王は、 平交渉を行った。そしてその時に、いずれ王 ティカルの若造を叩きつぶそうと兵を挙げた。 国を継ぐことになる自分の後継者 ( おそらくは しかし、蛇王国軍は大敗を喫した。その後 蛇の王を示す紋章文字は、マヤ地域の至るところ で見つかっている。 かぎづめ っち CONACULTA,INAH, MEXICO
6 56 年頃、蛇王朝の同盟国た った都市国家ワカ ( 工ル・ヘル ー ) て、「シャカーの王座」とい う王か埋葬された。墓には高さ 1 0 ~ 23 センチほとの彩色土 偶を使って、冥界ての儀式か表 現された。王の役を演しるの は、蛇王朝のユクヌーム・チェ ーン 2 世 ( 最上段、左端 ) で、 その娘「睡蓮の手」女王 ( 左へ ージ ) が呪文を唱えて、神秘的 なシカ ( 最下段、左端 ) を呼ひ 出している
って、自分たちがこの都市の支配者になったこ とを宣言する記念碑を建てている。 それから 1 年たたないうちに、蛇王朝の王た ちのなかで ( あるいはマヤ諸王のなかでも ) 最 も偉大な王が即位する。彼の名はユクヌーム・ チェーン 2 世、またの名を「諸都市を揺るがす 者」といった。「空の目撃者」王や「渦巻き蛇」 王も名将だったが、ユクヌーム・チェーン 2 世 は王の名にふさわしい王だった。ベルシャ帝国 の創始者キュロス 2 世やローマ帝国の初代皇 帝アウグストウス同様、彼は巧みに都市同士を 竸い合わせ、時に買収工作を用い、時に脅し ながら、マヤ低地の支配基盤を固めていった。 後にも先にも、マヤにこのような王は存在しな い。しかも、そうした微妙な政治的駆け引きを 半世紀にわたって続けたのだ。 謎の Q 遺跡を追う ある王を理解する最善の方法は、その家臣 から話を聞くことかもしれない。同様に、ある 帝国を理解する最善のヒントは、その従属都 市から得られる場合が多い。蛇王朝を理解し ようとする場合、サクニクテという小都市が最も 興味深い存在ではないだろうか。 その遺跡は、いわば二つの段階を経て発見 された。第 1 段階は 1970 年代初頭にさかのば る。見事な彫刻と複雑な碑文が彫られたマヤ の石板が、闇市場に何点も出回ったことがあっ た。盗掘者が海外に流したもので、出所を知 る手がかりはなかった。そうした石板のなかに 「にやりと笑う蛇」という意味のマヤ文字が含ま れていることがしばしばあった。研究者たちは、 盗掘品の出所である未知の遺跡を、「 Q 遺跡」 と呼ぶようになった。 第 2 段階は 2005 年 4 月のある暑い日に訪れ た。 Q 遣跡に強い関心を抱き続けていた考古 学者のマルチェロ・カヌートは、その日の午後、 グアテマラ北部の「ラ・コロナ」と呼ばれる遺跡 で、仲間とともに調査をしていた。年代特定に 使えそうな土器を探しに、盗掘者がピラミッドに 掘った穴に入ると、トンネルの壁から、手帳ほど の大きさの石の彫刻が露出しているのに気づ いた。「その石にくねくねした線が見えたんで す」とカヌートは振り返る。「びつくりして、思わ ずのけぞってしまいました。「自分の目を信じて いいのか ? 』ってね。もう一度よく見てみたら、 単なる線ではありませんでした。それは碑文だ ったのです」。その後、泥と草木の下から、そ れまで見たこともないほど美しく繊細な彫刻が 出てきた。「泥がきれいに取り除かれるとすぐ、 こそが Q 遺跡だと確信しました」 カヌートはそれ以来、この遺跡の調査を続 けている。サクニクテとは遣跡のマヤ語名だ。 この国は決して大きくなかったが、蛇の王たち から特別な地位を与えられていたようだ。サク ニクテの王子たちはカラクムルで教育を受け、 そのうち 3 人は蛇王朝の王妃と結婚している。 すぐ南にあるワカのように好戦的な都市とは違 い、サクニクテはあまり戦争に関わっていない。 王たちの名も、「陽だまりの大」や「白い芋虫」 「赤い七面鳥」といった、のどかな名前が多く、 壁板には、酒を飲んだり笛を吹いたりして楽し む貴族たちの様子が描かれている。 別の壁板には、王朝の首都がカラクムルに 移される直前、ユクヌーム・チェーン 2 世がサ クニクテを親善訪問した際の様子が彫られて いる。それは、座ってくつろぐ王の姿を描いた 美しい浮き彫りだ。 ュクヌーム・チェーン 2 世の名は、サクニクテ に限らずマヤ全域から発見されている。彼は 娘の「睡蓮の手」と呼ばれる王女をワカの王子 に嫁がせている。また彼は、南部のカンクエン や、カラクムルから 160 キロ近く西にあるモラル・ レフォルマなどの都市で、新たな王を擁立して いる。ドス・ピラスではティカルの新王の弟を破 り、忠実な属国として従えた。 古代マヤ蛇の王国 93