以前はそうではなかった。高校を卒業した 頃はドイツ語もうまく話せず、ドイツに愛着もな かったという。英国のロンドンで住み込みのべ ビーシッターをしながら学校に通い、ドイツには 帰らないかもしれないと思っていた。 しかしあるとき、たまたま書棚にあったドイツ の詩人ゲーテの『西東詩集」を手に取った。イ スラムの教えをたたえるゲーテの詩句に彼女は 心を揺さぶられ、「ドイツ語は何て美しい言葉 なんだろう」と思ったという。ベルリンに民った 今では、公的な国際文化交流機関ゲーテ・イ ンステイトゥートに派遣され、新しいドイツの代表 として外国で講演することもある。 伝統的なドイツには多くの魅力があると、イベ ックチオウルーは言う。それでもドイツはまだ「自 国の文化を外に開き、変化を受け入れると宣 言することに根深い抵抗を感じている」と彼女 はみる。あるときライプチヒのクラブで、トルコの アナトリア地方のダンスミュージックを流している と、男性客が近づいてきてドイツの音楽をかけ ろと言った。彼女はそれを無視してエスニック 音楽を次々に流した。その男を含めたすべて のドイツ人に言いたかったのだ。「私たちはこ こにいる。帰るつもりはない。自分たちの暮ら しに合うように街を変えていく」と。 この国への誇り 「よそ者を恐れる気持ちは誰にでもあります。 ドイツ人だけではありません」と、イベックチオウ ルーは言う。だが、ドイツ人は恐怖に駆られて、 残酷極まりない行為に走った過去をもつ。その 結果、多くのドイツ人は今でも自らの残虐性を 恐れている。 「当時もっと年が上だったら、私はヒトラーの 親衛隊に入っていたでしよう」。ダムはあるとき こう打ち明けた。「もしかしたら、強制収容所 の看守になっていたかもしれない」 ある午後、私はダムとともにべプラの庁舎を 訪れ、町の幼稚園と青少年プログラムの責任 者を務める 56 歳のウリ・ラトマンに会った。彼 は近くの村で生まれ育ったが、村では移民を 見かけることはなかったという。べプラでソーシ ャルワーカーになってからは、ずっと移民たち 相手に仕事をしてきた。町の住民の 9 割が移 民になっても、何も問題ないと彼は話す。 ラトマンに導かれ、庁舎の窓から下の広場を 見た。そこには青銅の銘板があり、強制収容 所で処刑されたべプラ出身のユダヤ人 82 人の 名前が刻まれている。それよりも小さな銘板は、 ユダヤ教の礼拝所があった場所を示す。 「今のドイツは素晴らしい変化の最中にありま す」。難民の問題に話を戻すと、彼はそう語っ た。「これほど多くのドイツ人が進んで支援の 手を差し伸べたことには、正直驚きました。人々 のそうした姿勢は今も変わっていません」 黙って聞いていたダムが、いきなり口を挟ん だ。「生まれて初めて・・・・・・」。そこまで言うと声 を詰まらせた。振り向くと、私の恩師は涙ぐん でいた。「生まれて初めて、私は堂々と言える。 ドイツを誇らしく思う、と」 振り返ってラトマンを見ると、彼も涙ぐんでい た。ドイツ人は長い間、祖国に対して健全な誇 りをもてなかった。サッカーのワールドカップで ドイツの勝利を喜ぶ以上の誇りをもてば、傲慢 で危険な感情だという気がして罪悪感にとらわ れる。そんなドイツ人も難民を受け入れたこと を誇っていいと感じているようだと、ラトマンは言 う。そうした誇りは「民主主義が生活に根づい ている」という意識から、そして「私はこの国の ために進んで何かをする」という気持ちから生 まれるのかもしれない。 ラトマンはコンピューターに向かって、ある人 物の連絡先を探した。ぜひ彼に取材するとい い。新しい青少年センターの設置に尽力してく 欧州の新しい顔 65 のモスクの管理人フアティ・エプレンだった。ロ れた人だ。彼がそう言って推薦したのは、あ
両親のどちらかがドイツ人でなければ、ドイツ 国籍は取得できなかった。しかし今は、本人、 あるいは両親の 1 人が 8 年間合法的にドイツで 暮らしていれば、国籍を取得できる。 さらに、 2005 年の法律で、難民認定された か、認定が見込まれる人々には政府の予算で 統合教育を行うことになった。彼らは最低 600 時間のドイツ語学習のほか、ドイツ生活につい ての講習を 60 時間受ける。 難民認定手続きを待つ人が何十万人もいる ため、連邦移住難民局 ( BAMF ) は人員を数 千人規模で補充した。ドイツ政府が今年、統 合教育に投じる予算は 5 億ユーロ ( 約 550 億 円 ) を超える見込みだ。 BAMF の推定では、 年内に統合教育を受ける難民は 54 万 6000 人 にのほるという。 移民の受け入れが必要なことは、ドイツの政 治の中枢では今や合意事項になっている。ドイ ツでは年間の死者数が出生数を 20 万人近く 上回っている。この差は拡大しつつあり、移民 の流入がなければ人口の減少は避けられない。 シンクタンクのベルリン人口開発研究所の試算 によると、退職者が増加するなか、年金制度を 支える就労人口を維持するには、ドイツは 2050 年まで毎年 50 万人前後の移民を受け入れる 必要があるという。 しかし難民の多くはドイツが必要としている 熟練労働者ではなく、職業訓練を受ける準備 もできていない。推定では、難民の 15 % 余りは 読み書きができない。ドイツの基準では教育を 受けたといえない人も多くいる。 ローテンプルク近郊のパト・ハースフェルトに ある職業訓練校を訪れた。移民たちはこの学 校で 2 年間ドイツ語を学び、義務教育を終えた 程度の学力をつけることになっている。それに より職業訓練を受ける準備ができると考えられ ているのだ。大半の生徒は、義務教育を受け る年齢よりも年が上だ。 この学校で学ぶ移民の大半は「教育を受け られることに感謝しています」と、ディルク・ポイ ルスハウゼン校長は話す。とはいえ、学習意欲 だけでは越え難い壁がある。同校でソーシャ ルワーカーとして働くョアナ・メッツは、移民の 半数近くは中途退学すると言う。「問題は、授 業についていくために大変な努力がいることで す。 1 日 48 時間あっても足りないでしよう」 子どもは大人よりも適応しやすく、将来ドイツ 経済に貢献する可能性があるとはいえ、難民 の受け入れが全体として経済にプラスになるか どうかは現時点では何とも言えない。連邦労 働社会省の予測では、難民の半数は 5 年後も 就労できず、 4 分の 1 は 12 年後も失業状態に あるという。 とはいえ、メルケル政権が難民を受け入れた のは、経済的な理由ではなく、人道的な理由 からだった。これには国民の多くが今も納得し ていない。難民収容施設に火炎瓶を投げ込 み、首相に罵声を浴びせる人々は少数派だ が、彼らは氷山の一角にすぎず、穏健派も難 民の大量流入には眉をひそめている。特にイ スラム教徒に対する反発は強い。 台頭する右派勢力 大多数のドイツ人は頭では移民たちやイスラ ム教を受け入れているが、心情的には抵抗が あるのだと、ベルリン統合・移住研究所の政治 学者ナイカ・フォルタンは言う。 フォルタンらが 2014 年にドイツ人 8270 人を 対象に行った調査では、スカーフで髪を隠す 女性はドイツ人といえないと答えた人は 4 割近く にのばった。人目につくモスクの建設を制限す べきと答えた人も 4 割を占めている。イスラム教 とユダヤ教の重要な儀式である割礼を禁止す べきだと答えた人は 6 割を超え、ドイツ語をなま りなしに話せなければドイツ人とはいえないと答 えた人もおよそ 4 割いた。 欧州の新しい顔 61
アでも祖母に同じ注意を受けたことがあると打 ち明けた。 ローテンプルクでは、ダムが長年勤務してい た学校の元教師たちが、ボランティアで難民に ドイツ語を教えている。ある朝、私は基地を訪 れ、ダムの元同僚ゴットフリート・バッケルバルト の授業を見学させてもらった。基地で暮らす 難民は 1 、 2 カ月ほどで入れ替わり、生徒の顔 ぶれも日によって異なる。その日の生徒は、 12 歳から 35 歳までのアフガニスタン人男性 5 人 だ。バッケルバルトは、バナナやゾウの絵を見 せながらアルファベットを教えていた。 私の隣に座ったのは 35 歳のサリエルだった。 サリエルは母語のダリー語でも読み書きができ ず、クラスの少年たちに後れを取った。まるで 絵を描くように、アルファベットの文字を苦心し てなぞるサリエル。彼の苦労を思うと気が遠く なった。アフガニスタンから危険な長旅の末に やっとドイツにたどり着いたのに、これからもっ と長く苦しい試練が待ち受けているのだ 難民たちはこのクラスで初めてドイツ文化に 触れ、親切なドイツ人に出会う。「町で会うと「こ んにちは、先生』と声をかけてきて、彼らの顔を 覚えているとうれしそうな顔をするんです」とバ ッケルバルトは話した ある午後、私はローテンプルクで 43 歳のシリ ア人男性の住まいを訪ねた。ドイツに来て 2 年 になり、半年間のドイツ語教育も受けたという が、それでも、会話にはアラビア語の通訳が必 要だった。この年になると外国語を覚えるのは 大変なんですと、彼は言った。 こでは、姓を伏せて彼をアフマドとだけ呼 ぶ。祖国に残った親族の身を案じているから だ。アフマドはシリアの首都ダマスカスで電気 技師をしていた。当初はエジプトに逃れたが、 そこでは歓迎されず、ドイツで難民認定を受け た。おかげで生活手当を支給され、町の中心 部にあるアパートで暮らせるようになった。彼 はそのことには深く感謝していたが、入国後 2 年たった今もまだ職に就けないと嘆いていた。 「スーパーマーケットに買い物に行き、息子 を学校に送っていく以外、外出することもありま せん。誰かに仕事は何かと聞かれたら、恥ず かしいからです。玄関の前をせっせと掃除し ています。ほかにすることがないから」。近所 の老人ホームで無給でいいから掃除の仕事を させてもらえないだろうか、と彼は訴えた。 そばで、 16 歳と 14 歳と 8 歳の 3 人の息子が 話を聞いていた。彼らはドイツの学校に通い始 めて 1 年半になり、ドイツ語を上手に話す。 番上の子は美容師志望で、近所の美容院で 見習いとして働いている。 2 番目の子は勉強を 続けたいと話した。ドイツ人の生徒より作文が 上手だと、教師に褒められたという。サッカー チームではセンターフォワードを務めている。 ドイツと移民の歴史 戦後、ドイツはおよそ 5000 万人の移民を受 け入れてきた。今ではドイツの住民の 8 人に 1 人は外国生まれだ。それでも 2015 年 6 月 1 日、 メルケル首相がドイツは移民の国であると公の 場で発言すると、有力紙フランクフルター・アル ゲマイネは「歴史的」な声明だと報じた。メルケ ル率いる与党・キリスト教民主同盟 ( CDU ) は 何十年もこの表現を避けてきたからだ。 初期の移民は、外国にいたドイツ系の人々 だった。その数およそ 1200 万人。戦後、東 欧を追われた彼らは、焦土と化した父祖の地 に戻った。ドイツ系であっても、新参者は戦後 の貧しいドイツでしばしば冷遇された。 CDU の連邦議員工ーリカ・シュタインバッハは母親 と幼い妹とともに現在のポーランドから逃れ、ド イツ北部の農場にたどり着いた。「母が妹に与 える牛乳を分けてほしいと頼むと、「おまえらは ゴキプリより始末が悪い」と言われました。人の 温かさに触れた記憶はあまりありません」 欧州の新しい顔 57
き合ってきた戦後世代は、親の世代とは意識 憎悪を燃やす人たちには共感できないが、 が異なる。フォルタンの調査で、移民について 多くのドイツ人が抱く危機感は理解できる。シリ も同様の変化が起きていることがわかった。若 アから来たアフマドも「ドイツ人が不安に思うの い世代は、割礼やモスクをはるかに柔軟に受 は無理もない」と言う。「彼らは安全で秩序の ある状態に慣れているので、それが壊れるの け入れている。 が怖いんです」。アフマドらと話をしたことで、 多様化を受け入れられるか 私が難民に抱いていたイメージは変わった。シ ドイツは大量の難民が流入する以前から、 ュタインバッハは、ドイツに殺到している難民と 国家の新しいアイデンティティーを一一ョアヒム・ 個人的に接したことがあるのだろうか ガウク大統領が 2014 年の演説で「新しいドイ 「ありません」と彼女は答えた。 ツの。私たち " 」と呼んだものを一一一模索してい ドイツでは、移民が最も少ない旧東ドイツの た。多様な人々を含めた " 私たち ' という概念 者州で、移民に対する排斥感情が最も強い。 を受け入れれば、ドイツは現代 にふさわしい世界に開かれた 大多数のドイツ人は 国に変われると、フォルタンは言 頭では移民たちやイスラム教を う。だが、この考えに異議を唱 えるのはドイツ人の保守派だけ 受け入れているが、 ではない。 2013 年のある調査 によると、イスラム教徒の移民 心情的には抵抗がある。 のおよそ 3 割が原理主義者で、 イスラム法を重んじるべきだと考 えている。クロイツベルク地区のメプラナモスク 東側は今でも西側より貧しい。ドイツ全体でも で、イスラム教徒の若い教師セルカン・ウザルバ 所得格差の拡大が反移民感情をあおっている イに話を聞くと、驚いたことに彼は AfD そっくり のかもしれないが、そうした怒りは経済や生活 の主張を展開した。「ここは難民がいるべき場 に基づいたものではないと、政治学者のフォル 所ではありません。イスラム教徒はこの国では タンは言う。ドイツ経済は強固で、失業率は低 永遠によそ者です」。できればトルコに帰ったほ く、政府は昨年 194 億ユーロ ( 約 2 兆円 ) の財 うがいいと、彼は同胞に話しているという。 政黒字を計上した。難民を受け入れても、社 伝統的なイスラム教徒の男性がドイツ社会で 会基盤の整備など公共事業を行う財政的な余 直面する悩みの一つは、女性との握手だ。イ 裕はある。「経済ではなく、文化への影響を恐 スラム教では女性との接触は禁止されている れているのです」と、フォルタンは指摘する。 が、ドイツではこうした禁忌は理解されない。 フォルタンは 44 歳。母親はドイツ人で、父親 イスラム教では同性愛も認められていない。 はイラン出身の難民だ。彼女は教育にこそ希 ウザルバイと会った翌日、私はベルリンのノイケ 望がもてると言う。「教育を通じて、国民は統 ルン地区のスタジオで、レズビアンであることを 合を当たり前のものと考えるようになるでしょ 公言している DJ でイスラム教徒のイベック・イ う」。ドイツは戦後、反ユダヤ主義を根絶する ペックチオウルーと握手を交わした。彼女はべ 教育に取り組み、一定の成果を上げた。テレビ ルリンで育ち、ベルリンを愛している。 や学校の授業を通じてナチスの残虐行為と向 64 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016 -10
トルコ人はさらに冷たくあしらわれた。 1950 ~ 60 年代に旧西ドイツの経済は急成長し、労 働力が必要になった。当初はイタリア、次いで ギリシャとスペインから労働者を呼び寄せたが、 トルコからの流入はそれを上回った。たいてい は男性が単身で来て、簡易宿舎や寮に寝泊ま りし、工場や建設現場で働いた。彼らはガスト アルバイター ( 出稼ぎ労働者 ) と呼ばれ、 1 、 2 年で入れ替わると考えられていた。 しかし、現実は違った。雇用側は仕事を覚 えた労働者を手放したがらなかったし、労働者 は家族を呼び寄せたがった。「父はドイツに来 連邦労働社会省の予測では、 トルコ系住民が多いベルリンのクロイツベルク 地区のソーシャルワーカー、アイシェ・クーセ・ キュチュクに話を聞いた。彼女は 11 歳でベル リンに移住し、以来 36 年間暮らしてきたが、今 でもよそ者扱いされるという。子どもたちもそう だ。「トルコ人だと言って育てたわけではなかっ たのに、 4 年生になる頃には自分たちはトルコ 人だと言いだしました。仲外れにされたから です。心が痛みました」。それでも彼女にとって、 クロイツベルク地区はいとしいふるさとだ。 「労働者としては社会に受け入れられました が、地域の一員とは見なされていません」と、 難民の半数は 5 年後も就労できず、 4 分の 1 は 12 年後も 失業状態にあるという。 てしばらくすると、定住を決意しました。頑張 れば稼げるので、やりがいを感じたようです」。 そう話すのは、フアティ・エプレンというトルコ系 の男性だ。エプレンは、父親が妻と 3 人の子ど もを呼び寄せた後、ドイツで生まれた。今はロ ーテンプルクから 8 キロほど離れた労働者の町 べプラで、トルコ系イスラム教徒の地域センター を兼ねたモスクを管理している。モスクは彼の 父親らの尽力で 1983 年に建設された。 出稼ぎ労働者の誘致策は石油危機で景気 が後退した 1973 年に打ち切られたが、今でも ドイツには 300 万人近いトルコ系住民がいる。ド イツ国籍を取得しているのは半数にすぎない。 緑の党の共同党首ジェム・オズデミルなど、ドイ ツ社会で活躍する人もいるが、一般のトルコ系 住民の話を聞いて強く感じるのは、彼らがドイ ツに愛憎相半ばする感情を抱いていることだ。 60 N AT ー 0 N A L G を 0 G R A P H ー C ・ 2 016-10 44 歳のアフメト・スーゼンは言 う。彼はベルリン生まれだが、 父親が属していない社会に完 全に溶け込むことはできないと 話す。一方、べプラでは、住民 はみな互いに顔見知りだ。トル コ系住民が毎年、町の広場で 伝統的な祭りを催すなど、地域 にうまく溶け込んでいるとエプレ ンは話す。それでも、父祖の地への思いは断 ち難い。エプレンはドイツ人の友人も多いが、 死んだらトルコに埋葬されたいと言う。 たとえドイツ系であっても、移民がドイツ社会 に完全に溶け込むのは難しい。グルンバルト市 長の母方の祖父母は、載後ローテンプルクに 移住した北セルピア出身のドイツ人だ。祖母は 今も健在だが、つい最近も「あんたはドイツ人じ ゃない」と誰かに言われたらしい。ローテンプル クで 65 年間暮らし、孫が市民に親しまれる市 長であっても、そんな心ない言葉を投げつけら れるのは、幼少期にセルビアにいたため、今で もドイツ語になまりがあるからだろう。 移民が必要な事情 ドイツは移民を受け入れてきた経験に学び、 2000 年以降、国籍法を緩和してきた。以前は
ドイツは欧州で 最も多くの難民を受け入れ、 自国の文化に対する影響に どの国よりも苦心して 対処しようとしている。 文 = ロバート・クンジグ英語版編集部 写真 = ロビン・ハモンド 州の人々、とりわけドイツ人なら、 かれこれ 1 年余りも厄介な議論 に頭を悩ましてきたはずだ。国家 のアイデンティティーとは何か、 外国人をそこに組み込めるだろうか。 2015 年 8 月下旬、欧州各地では、中東から押し寄せる 難民をめぐって、国民の間で意見が激しく対立 した。オーストリアでは、密航業者が高速道路 に乗り捨てたトラックから、 71 人の難民の遺体 が発見された。ドイツ東部のドレスデン近郊の 町ハイデナウでは、極右のネオナチが難民収 容施設の前で警官隊と衝突した。アンゲラ・メ ルケル独首相が難民支援の意思を示すために 同施設を訪れると、怒った群衆が「われわれが 国民だ ! 」と叫び、首相に「売春婦」などと暴言 を浴びせた。 その 5 日後の 8 月 31 日、メルケル首相は首都 ベルリンで恒例の記者会見を開いた。折しも、 ハンガリーの首都プダベストからシリア難民を 乗せた特別列車がドイツに向かいつつあった。 首相はいつものように落ち着いて、年内に 80 を差し伸べている。「ドイツは強い国です」と首 万人の難民の流入を見込んでいると語り ( 実 相は断言した。「私たちは多くを成し遂げてきま 際には 100 万人を突破した ) 、ドイツ憲法 ( 基 した。これもやり遂げられます ! 」 本法 ) は政治亡命の権利を保障しているとして、 メルケル首相の断固たる姿勢のおかげで、ド 「人間の尊厳は不可侵である」という憲法第 1 イツは、世界中で起きている民族移動で最も注 条の文言を強調した。 こ数十年、世界 実際、難民に石や侮蔑の言葉を投げつける 目すべき舞台となってきた。 人たちがいる一方で、はるかに多くのドイツ人 では移民の増加が人口の増加を上回ってい が憲法の精神を守り、進んで難民に支援の手 る。国連の統計によると、 2015 年の世界の移 50 N AT ー 0 N A L G 旧 0 G R A H I C ・ 2016 -10
こうした感情を背景に、右派勢力が再び台 頭している。「これほど大量の難民をドイツ社 会に統合できるとは思えない」と、右派政党「ド イツのための選択肢」 (AfD) の幹部ビヨルン・ ヘッケは言う。同党は今年 3 月の選挙で躍進 を遂げ、今ではドイツの半数の州議会に議席 を得た。 AfD は「わが国にとって最後の政治 的な手段」だと、彼は言う。 ヘッケの主張を危険視し、嫌悪感を抱くドイ ツ人は多い。ヘッケは実際に会ってみると知的 で穏健な人物に見えるが、中部の都市ェルフ ルトで開かれた集会では、激烈な言葉で聴衆 の愛国主義的な感情をあおり立てた。メルケル 首相は移民を受け入れて、ドイツ人を「絶滅」 させようとしているというのだ。聴衆は一斉に 「われわれが国民だ」と叫びだした。その光景 は、多くのドイツ人の目にはナチスの再来と映る だろう。 1943 年にナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲ ッペルスがベルリンで行った悪名高い演説を連 想させると、グルンバルトは言う。 とはいえ、多少なりともヘッケと同じ危機感を 抱くドイツ人は多い。この夏、難民による襲撃 事件が相次いだため、移民排斥の感情は一 気に高まった。今年 3 月にヘッセン州で行われ た郡の選挙では、ローテンプルクの有権者の 8 人に 1 人が AfD の候補者に投票した。その翌 週に行われた東部のザクセン・アンハルト州の 州議会選挙ではその割合は 4 人に 1 人だった。 パラレルゲゼルシャフテン ( 平行社会 ) という 言葉がある。ヘッケに言わせると、それは「町 の一部に見知らぬ外国が出現する」状態だ 穏健なドイツ人でも、そうなることに抵抗を示 す。米国人はチャイナタウンなど、国内の移民 地区に好意的なイメージをもっている。なぜド イツ人はそれと同じ精神で移民を受け入れら れないのか。自身も難民だったにもかかわらず、 メルケル首相の政策に批判的なシュタインバッ ハ連邦議員に疑問をぶつけてみた。 62 N AT ー 0 N A L G E 0 G R A P H I C ・ 2 016 -10 ・、 0 0 0 には、ドイツ人の生徒が 2 人しかいないそうだ。 師から聞いた話では、小学生の息子のクラス だと「断言できる」という。フランクフルトで美容 書が電車で痴漢行為に遭った。犯人は難民 例を挙げて説明した。ベルリンにいる彼女の秘 ーを守らなければ」。シュタインバッハは具体 はあっさり答えた。「私たちのアイデンティティ 難民の大量流入は「ごめんですね」と、彼女
よそ者が大挙して押し寄せ、聞き慣れない 言葉をしゃべり、見慣れない振る舞いをして、 祖国が外国のようになってしまう。そんな不安 を抱く人の気持ちを、少なくとも想像できる人は 多いのではないか。ドイツではこの 1 年、そうし た感情が各地で噴き出してきた。夜間に抗議 集会が開かれ、難民収容施設への襲撃事件 が何百件も起きた ( 幸い大半の施設はまだ空 だった ) 。メルケル首相の記者会見の数日前に は、北部のハノーバー近郊の町で、酔った暴 徒が難民の暮らすアパートの子ども部屋に火 炎瓶を投げ込む事件も起きた。 民問題は直接の争点ではなかったが、 EU 域 内からの流入も含めた移民の制限が離脱に投 票した人の主要な動機だったことは、世論調 査で明らかだ。 英国が EU 離脱を選び、ほかの国々でも移 民排斥感情が高まるなかで、ドイツの選択はま すます重みをもつ。ドイツ人は過去の歴史を乗 り越えて、難民を温かく迎えられるだろうか 難民を迎え入れるまで 1970 年代半ば、私はベルギーの首都プリュ ッセルでドイツ系の高校に通っていた。当時の ハンプルクが 2015 年に受け入れた 難民は 3 万 5000 人。 米国に 1 年間に流入する移民の 社会科の教師は、フォルカー ダムという男性だった。長身で カールした金髪、彫りの深い顔 立ちで、生徒に慕われていた。 私がユダヤ人大虐殺の歴史を 初めて学んだのは彼の授業だ。 ダムは 1939 年生まれで、終戦 の年にはまだ 6 歳だった。彼の 父親も教師で、ドイツ中西部へッ 半分に当たる数だ。 一方で、難民を支援する人々もいる。極右 の抗議に比べると目立たない動きではあるか、 社会に与える影響はそれに劣らない。 75 年ほ ど前、ドイツ人はユダヤ人を乗せた列車を東部 の強制収容所に向かわせた。現代のドイツ人 は、南部の都市ミュンヘンの駅でイスラム教徒 の難民を乗せた列車を迎え、食料や生活物資 を提供し、温かな笑顔を惜しまない。 「 EU ( 欧州連合 ) は今、非常に脆弱な状態 にあります」。今年 4 月にそう語ったのは、ドイ ツの欧州担当国務大臣ミヒャエル・ロートだ。 難民が急増するなか、ドイツは率先して寛大な 受け入れ策をとったが、ほかの国々が後に続く ことはなく、 EU の結東は大きく揺らいだ。 6 月 23 日には英国の国民投票で EU 離脱派が勝利 し、全世界が問題の深刻さを思い知らされた。 英国がこれまでに受け入れた難民は少なく、難 52 N AT ー 0 N A L G を 0 G R A P H ー C ・ 2016 -10 セン州の小さな村でナチ党の指導者を務めてい たという ( 当時、私はそのことを知らなかった ) 。 40 年近く連絡を取っていなかったが、ダム の消息はすぐにわかった。地元の新聞が彼の 携わる犯罪被害者の支援活動を報じていたか らだ。連絡を取り合うなかで、退職後は十代の 難民相手にボランティアの教師も務めていると 知った。ドイツには、家族と離れた未成年の難 民が何万人もいる。ダムはヘッセン州の人口 1 万 3000 人ほどの町ローテンプルク・アン・デア・ フルダで、教員人生の大半を過ごしてきた。 昨冬、ダムの招きでローテンプルクを訪れた 私は、 16 世紀に建てられた市庁舎をダムととも に訪れ、彼の教え子であるクリスティアン・グル ンバルト市長の執務室に向かった。窓の外か ら聞こえてくるプロテスタント教会の鐘の音が、 約東通り 9 時に到着したことを告げていた。町
とはいえ、ソーシャルメディアでは難民を批 判する声が飛び交っている。秩序を重んじるド イツ人にとって、難民の振る舞いはさまざまな 点で目に余るのだと、市長が説明してくれた。 公園にごみを捨てたり、自転車で歩道を走った りするなどの行為だ。 トイレの問題もある。多くの難民はアジア式の トイレに慣れていて、便座の上に乗ってしやが んで用を足す。ハンプルクの難民収容施設で は、作業員が便座を運びながら、しょっちゅう 壊れるんですと、こばしていた。 ドイツ人と難民の間には、文化の違いという 難民に石や侮蔑の言葉を た。彼は昨年、東アフリカのエリトリア出身の十 代の少年 2 人を引き取った。地元の青少年局 で働く女性から、親と離れて入国した未成年 者の引き取り手が早急に必要だと聞いたから だ。クナウフトは 51 歳で、男手一つで育てた 2 人の子どもは独立している。外国人との同居 には不安もあったが、キリスト教の一派コプト 教徒の 18 歳、デスペレを引き取る決心をした。 デスペレが家に来たのは 2015 年 5 月。共 同生活はうまくいった。それで安心したのか、 3 週間ほどすると、デスペレは 16 歳の弟ョゼフ がリビアに足止めされていると打ち明けた。密 投げつける人たちがいる一方で、 はるかに多くのドイツ人が 難民に支援の手を差し伸べている。 航業者に 2500 ユーロ ( 約 28 万 円 ) 払えば、ドイツに呼び寄せら れるという。クナウフトはその金 を出し、 7 月にデスペレとともに ュンヘン郊外の高速道路まで車 を走らせ、業者の車から降ろさ れて置き去りにされたヨゼフを 見つけ、家まで連れ帰った。 時々叱ることはあるが、クナ 大きな溝がある。「彼らの感情や思考を理解す るという作業を、私たちはまだ始めたばかりで す」とグルンバルト市長は言う。「交流が深まれ ば、歴史に刻まれる一歩となるでしよう」。市長 はメルケル首相を熱烈に支持していたわけで はなく、難民受け入れも連邦政府からの要請 に応じた形ではあるが、今では全力で難民支 援に取り組んでいる。 難民を支援する市民たち 多少の例外はあるものの、連邦政府や地方 自治体は今回の難民危機にまずまずうまく対処 している。それ以上に目を見張るのは、多くの 市民が難民に進んで支援の手を差し伸べてい ることだ。 北部の町ドゥーダーシュタットを訪れ、グラフ ィックアーティストのオーラフ・クナウフトに会っ 56 NATIONALGEOGRAPHIC ・ 2016-10 ウフトは 2 人を「私の子どもたち」と呼び、引き 取ったことを後悔していない。私が会う数日前 には、ヨゼフに双子の兄弟がいることが判明し た。祖国の刑務所に入っているが、 1500 ユー ロ ( 約 17 万円 ) 払えば保釈され、その後スーダ ンに向かい、サハラ砂漠を横断して欧州に渡 れるという。クナウフトはその金も出した。もうこ れ以上兄弟はいないはずだと、彼は苦笑した。 デスペレとヨゼフは、職業訓練校の移民向 けの特別クラスに通っている。放課後は週 3 回、元教師のカーリン・シュルテがボランティア で行っている学習指導を受けに、彼女の自宅 を訪れる。会話はドイツ語で、シュルテはドイツ の習慣として 2 人にコーヒーとクッキーを振る 舞う。あるときシュルテはかなりためらった末に 音を立ててコーヒーをすするのはドイツではマ ナー違反だと教えた。するとヨゼフは、エリトリ
これらのポートレート写真には、 移民をめぐる欧州の長く複雑な 歴史が写し出されている。 アルジェリア人は祖国が 仏領だった頃にフランスに渡り、 1954 ~ 62 年の独立戦争の時期には その数が急増した。ソマリ人は 1990 年代以降、約 4 万人が内戦を 逃れてスウェーデンに定住した。 かっての宗主国である英国に 移り住んだ。ドイツには、それと 同程度の数のトルコ人が暮らす。 1960 年代から 70 年代にかけて 出稼ぎ労働者として入国し、 そのまま住み着いた人々だ。 インド人をはじめとする 300 万人の南アジア出身者 0 「私たちはここで育ち、暮らしていますが、私の心のふるさとは トルコです」と、後列の青い上着を着た 34 歳のアリ・テジメンは言う。 前列に座った祖父母は 1 970 年代に出稼き労働者としてドイツに来た。 母親 ( 後列右 ) や妻 ( 左 ) 、子ども 2 人を含め、一家はベルリンに住んでいる。