タートルネックにショートコートを着ている 「わあ、本当に赤ん坊だっけ。姉さんやったな」 と、孝志は駆け寄った。 タミは、孝志の言葉には声も返さず、赤ん坊を見て相好を崩していた。 「お父さんにも見せてあげたかったわ。だってそっくりですよ 「そうかい ? 俺は邦一さんによく似てると田 5 うけつど 愛孝志が機転をきかせて言う。自分にはまだ経験はないものの、きっと男というものは、 雪子供が自分に似ているかどうかを気にするものだろうと本能的に田 5 っていた。もうじき、 白 自分と幸子の間にだって子供ができるかもしれない。そんな気持ちが、孝志に父親にな 章 ることへの現実味を与えていたのかもしれない はかど 第幸子との結婚は思うように捗ってはいなかった。何しろ幸子を連れていったとたんに、 母のタミはひどく不機嫌になり、ロをきかなくなってしまったのだ。 しろうと タミは旅館の娘だ。蛇の道は蛇で、タミは幸子が素人女ではないことをすぐに見抜い た。幸子は今では髪の色も地色に戻しつつあり、化粧も控え目だが、タミを見る目がは やけ じめからおどおどしていた。そのほちゃっとした男好きする体や唇の感じといい、 に世話好きな感じといい、タミの目にはやはり商売女の感じが拭えなかった。 「これはささやかですけど、絹のおくるみでも用意してあげなさい」 205 じゃ へび
孝志は茶簟笥から自分のコップを出すと、幸子についでもらい日本酒を飲み始めた。 薫は窓越しに、函館の夜空をずっと見上げていた。この街のどこに、広次はいるのだ ろう。彼が、かって大門のよ、つなところで女を抱くこともあった : それまで自分と 美輝を丸ごと抱いてくれていた柔らかな広次の存在が、突然、一人の生々しい肉体を持 った男と化したように感じられた。自分の知らなかった広次の中の男の姿が、薫を息苦 しくさせた。会いたいという思いは止まらなかったが、それよりも今はただ抱きすくめ 愛られたかった、壊れるほどに。薫の中にも、女の血が一気に溢れようとしていた。 の 柱 ぼうせん 幸子は、夜になって一人、自分の部屋に戻り呆然としていた。タミの部屋は狭いし、 章義姉もいるとなると布団も足りない。酔った夫をのこして自分は部屋に戻った。 第本当は一人になりたくはなかった。今朝、幸子はついに、夫が通っている先、それを 見つけてしまったのだった。それで居ても立ってもいられずにタミを訪ねたのだ。 夫のジャンパ 1 のポケットを、探ってしまったからだった。 そこには、きれいな万年筆の字でこう書いてあった。 〈孝志さん、あなたは私の太陽。 ランポ 1 の詩を読んでくれて、 悪戯で、 347 ちゃだんす ふとん あふ
海 あなたはそちらへ嫁いだのですからそちらの方法があるでしようが、もしよかった ら私からも一つだけ。 私があなたを産んだとき、実はあなたは死産ぎりぎりの弱い赤ん坊だったのです。 話していませんでしたね。満州の病院で助産婦が叩いても、あなたはうんともすんと あきら も言わず、ぐったりしていた。いよいよ諦めかけたときに、付き添っていた父さんが どこからか真っ赤なブドウ酒の瓶を手に戻ってきました。反対する助産婦たちを手で 猫押しやって、湯をくべたたらいの中に、そのブドウ酒を注ぎました。ロシアではそう するのか、それとも父さんが思いついたのか、わかりません。何しろあの人はもう混 乱して涙で顔をぐしゃぐしやにしていました。すると、気付けになったのか、あなた は大きな声をあげて全身を、その鮮やかな色と香のなかで動かし始めたのです。 私はそのときのたらいの中の鮮やかな色、中で動くあなたの肌の白さを忘れること がありません。私は、お父さんの子を、ようやく産めたのだと思いました。これで役 が果たせたと、少なくとも一つの愛は実ったのだと、眠りに落ちるもうろうとした意 識のなかでそう思っていました。女なんてフシギなものですね。 一緒にお送りするブドウ酒は、そんなことを思い出したので送ってみます。少し気 障だったでしようか。だとしたら、笑って下さいな。 タミ〉 188
「あなたは私にどうなって欲しいですか ? 「どうって」 邦一は少し驚き、肩をすくめた。 「なんもねえけど、夏になったらとにかく忙しいからさ、それまで早くうちに慣れてく れや。父さんも、おっ母さんも、悪いようにはしないべ」 「私はね、早く子供が欲しいわ」 猫まだ幼い横顔の薫が、そう言い続けた。 「ずっとそう思ってたの。クマのぬいぐるみなんかじゃなくて、私の本当の分身、その 子を抱いて、海をながめるのが夢だったの」 「ぬいぐるみなんて持ってたのつか ? 」 海「ずっと持っていたわ。函館に置いてきたけど」 薫はとっさになぜそんなことを思いついたのか、自分でもわからなかった。ぬいぐる みを持ったことなどない。函館に置いてきたとしたら、それはよく似た弟だ。 「だけんど、ここいらでは子供は夏には産めねえ。みんな漁で忙しくて、それどころじ ゃねえから」 薫は立ち止まると、邦一を引き寄せ、自分の指で邦一の目をさした。 「あなたは、私の目が怖くなかったから : : : 海猫みたいだって言ったわ」
孝志はいつになく、念を押した。 「美容院も行ってないのに」 タミは、なぜかそう言うと、共同台所への扉をあけた。心臓が激しく脈打ち、立ちく らみがしそうになった。木造モルタルでトイレは共同というアパートの部屋にも、孝志 が一緒だからなんとか耐えていられたのだと今改めて思ったのだ。 戦争から戻ってこない夫と同じ、透き通った泉のような色の目を持っ息子だ。 猫「じゃあ、行ってくるわ」 わき 孝志は母に声をかけ、黒いコートを羽織ると小包を脇に抱えた。アパ 1 トの階段を降 り、長靴をはいて雪道を歩き始める。踏みしめるたびにぎゅうぎゅうっという音がする。 家々の屋根も、木々も皆白く包まれている。 もや 海孝志の吐く息も、すぐに白い靄になる。 背を屈め加減に歩きながら、腕時計をちらっと見た。ちょうど良いタイミングが見つ かってよかったと思った。 三時に五稜郭の駅で待ち合わせていたのである。 幸子は昨年の秋に、宿屋の仕事をやめていた。というのも、客からうっされたクラミ ジア菌が元で、腹膜炎を併発し、しばらく入院していたからだ。生命に関わるような病 気ではないし、梅毒のような生涯にわたる病気でもなかったが、幸子はひどく落ち込ん 190 かが
母と子とはつながっているのだと思えるようになったのだった。つながって生まれて きたのだ、と。 〈薫様 こうして手紙を書くと、あなたはまた何事かと驚かれるかもしれません。 ぼうにもりや お陰様で、私のはじめたピロシキは少しずつ棒二森屋さんなどで売れ始めて、この 愛春には引っ越すことができそうなのです。大丈夫、いい報告です。 の 孝志は、何とか組の方からは足を抜かせることができました。かといって何をする 雪 白 わけでもなく、昼間から酒を飲んでプラモデルを作ったりしていますが、私のピロシ 章キ作りを器用に手伝ってくれたりしています。あの子は、料理の才能は本当にあるか 第 もしれませんね。 いっか私たちの作るピロシキをそちらの皆さんにも食べていただけたらと思ってい ます。栄養があるので、本当は今お腹の大きなあなたに届けたいのですが、今は毎日 が自転車操業の状態です。とりあえず、先日作ったジャムだけお送りしますね。これ も、お父さんから教わったロシアのジャムなのよ。バラの花びらが入っていますので、 良い香りがすると思います。 いずれにしろあとわずかで、うれしい報告がやってくるのでしようか 187
を包んでいる姿も、薫にとって、ひどくちぐはぐなものの一つではあった。写真の中の めじり 父は、手足が妙に長く、古式な軍服とはひどく違和感のある容姿をしていた。目尻が上 ひとみ がり、瞳の色はグレイに見える日もあれば、深緑色に見えることもある。やはり、海猫 みたいな目。 皮膚が浅黒く、筋肉質でロ数の少ない邦一の言葉を聞いたときに、薫は、まっすぐに 飛び込んできてくれた男の気概を感じたのだ。邦一は、珍しいものを見るように薫の目 愛をじっと見て、きつばりとそう言ったのだから。 の 二人はそれから、何度かしか会っていない。だが薫は、花嫁になると決めた。 雪 白 「昆布は、女手も容赦ねえけつど、それでもここはいい海だよ」 章邦一はどんなときにも、誠実なものの言い方をした。薫は男の言う、冷たい海に抱き 第すくめられてみたいと思ったのだ。 タミは、娘の決めた結婚にもはや何一つ口を挟まなかった。タミにとっては、薫とい う娘のなかにはいつでも野に咲く白バラを見ているかのような犯し難さがあった。 タミは、函館の裕福な老舗旅館に生まれたが、そこに出入りするロシア人との混血で ある青年と恋に落ちた。家族の反対を押し切り、駆け落ちする形で生活を営み始めたが、 ぼたんこう 外国人を排斥する気配が濃厚になり、若い夫婦は満州を流れる大河を見下ろす牡丹江へ と渡った。日本との貿易の仕事を細々とはじめるうちに戦争が始まり、夫は徴兵され、
せ返るようだった。孝志は揺れる船の手すりにつかまりながら、デッキに出た。 潮風に頬がなでられているうちに、それでも少しずつ気持ちが落ち着いていった。 大門では、はじめ客として、いかにも朗らかに幸子を指名し入店したが、落ち着かな すぐに短刀が追いかけてくるような気がする。気がつくと、幸子の胸にしがみつく ようにして震えていたのだ。幸子と性を交すこともなく、この旅賃まで幸子に出しても あわ らって、逃げるように慌ててこの船に乗り込んでしまったのだった。 愛船からは函館の浜の明りが順に見えた。 雪釣り船の強烈なライトも、海面の各所に輝いて見えた。 白 明りのついている場所では、それぞれにきちんと生きている人間たちがいるのだと孝 章志は思う。烏賊釣りの船にはあの赤茶色の烏賊が大量に揚がり、浜の家々では、漁師た 第ちがもうじき眠りにつく。姉さんも義兄も、今年は昆布の漁を無事に終えたらしい。あ の姉さんが、なんとかとめしを務めたのだ。 俺だけが、どんどん落ちこばれていくんだと思うと、涙が浮かんで床を蹴った。 広次さんは一体どうしたっていうんだべ。なぜ、函館に帰ってこねえんだ ? 「若いお兄さん、一体どうしたの」 気がつくと、首に赤いスカーフをなびかせた、ジョーゼット地のワンピースを着た女 が一人立っていた。どちらかというと背の高い、低い声の女だった。
% が、薫はそれを拭おうともしなかった。もう引き返せないのだと、思っていた。一体自 分はいっ道を見失ったのだろう。 邦一に隠れて酔い止め薬を飲んだときから、それともぬいぐるみを持っているなどと うそ いう嘘をついたときから : 。これまでついてきた小さな嘘が、たくさん脳裏に浮かび、 だがそう言い始めるのなら、そもそもが自分の存在そのものが、ずっと嘘であったよう にも思えた。生まれてこのかた、よりどころなく漂流し続けていたようでもあった。邦 猫一と結ばれたときに、はじめて魂に杭を打たれたような確かさを感じたのだった。だが せつな その確かさはあまりに刹那的で、薫は狂い始めたのかもしれない 広次に抱かれたところで、その不確かさは変わるというのだろうか。薫にはもう、先 のことはわからなかった。 海「行こ、つ」 広次は立ち上がり、美輝を抱きかかえると、もう片方の手で薫の手を握った。二人の 手はすぐに熱く反応し、互いに放すことができなくなっていた。 教会を出ると広次がタクシーを止め、二人は黙ったまま温泉まで戻った。 宿の玄関では番頭が出迎えてくれた。番頭は、一瞬おやっと表情を曇らせた。この二 人は部屋は別々にと言われていたはずだったけつど、仲良く手をつないでいるではない か。そうだよな、夫婦と子供と、その両親という組み合わせでいいんだっけ。誰かが話
こえる。子供たちも、学校を休んで手伝っているのだ。 三日後には、函館から孝志も手伝いに来ることになっていた。はじめは、弟が何か迷 惑をかけそうで不安だったが、いつまでも船酔いから解放されない薫は弟が来てくれる 日が待ち遠しい。 孝志、今度だけは頼むわ。姉さんを助けて。 ひざ そう思いながら、しやがんで昆布干しを続けた。空からは午後の陽射しが降り注ぎ、 愛大地に吸い込まれていくエネルギーを昆布に反射させていく。その中にある自分の白い の 手が、薫にも奇異に映った。 雪 白 夕方近くなりようやく作業を終えると、義母は、薫に並んで浜に足を伸ばして座り込 章んだ。 第「どうだ。大変だが ? 」 「浜に降りてもずっと揺れてるみたいで」 薫は正直にそう言った。 「そうだ、そうだ。夏の間、おらたちはずっと揺れてるみたいなもんだ。さつ、休んで る暇ねえよ。夕飯のしたくもせねば。今日は食べねばだめだよ」 「でも私は」 と、そのとき商店の前にバスが停まった。 111