翌朝のこと、幸子はべッドの中で、絶叫していた。 そこには、血の海があった。 すぐに病院へ運ばれたが、流産は止められなかった。 俺のせいだ、と孝志は思っていた。自分は約東を破って煙草を吸ったのだった。 いや、そんなまじないを信じてどうなるのか ? 結局俺という男はいつもこうなるん だと孝志は思っていた。 愛若い二人は青ざめたまま、病室で、二人きりになった。二人ほっちは、一人ほっちょ の り時にはずっと寂しいものだ。世界の中で、ちつほけな愛を抱え、だが二人きりで閉じ 柱 氷 こもってしまった。まるでそんなふうに、孝志には感じられていた。 章 ( 下巻に続く ) 第 351
Ⅷというよりは夫が無事に帰ってきてとにかくほっとしているのだ。夫を失った漁師の女 ほど、寂しいものはない。来る日も来る日もひとり寝で、息子や嫁を船に送りだし、孫 の世話をしていなくてはならない。寂しさと向き合っている時間が長過ぎるのが漁村の 生活でもあり、賢いみさ子はそのことを本能的に知っていた。 義父母を送りだすと、薫は広次と宿を探した。二人はずっと手を取り合っていた。も う片時も離れていたくはないと、広次はその手に込める力で伝えているようだった。 猫結局一一人は、同じ温泉宿には泊まらず、湯の川からは少しはすれた大門の町中にある、 もう少しひなびた宿に、部屋を移した。 今度の宿の主人は、青い作務衣を着ている。目玉が大きくぎよろりと動く。宿全体が 陰気くさいのだが、 二人にとってはむしろその方が好ましかった。盛大に迎え入れられ 海てよい関係の二人ではなかった。 ふすま 入室すると、広次は襖を閉め、堪えきれないように、すぐに薫を抱いた。昨晩は、布 いとさえ思った薫との性だったのに、離ればなれに眠り一夜あけてみると、すぐにもま た、自分の体の中に薫の白い肌を抱きすくめたいという衝動が湧き立つのを感じた。あ れは幻ではなかったのかという思いに苦しめられ、そうではないことを確認するかのよ うに結ばれていたかったのかもしれない 薫は、ただ求められるままに、広次の体の中で潤み、しなった。それは夫との感覚と さむえ こら 、つる
% が、薫はそれを拭おうともしなかった。もう引き返せないのだと、思っていた。一体自 分はいっ道を見失ったのだろう。 邦一に隠れて酔い止め薬を飲んだときから、それともぬいぐるみを持っているなどと うそ いう嘘をついたときから : 。これまでついてきた小さな嘘が、たくさん脳裏に浮かび、 だがそう言い始めるのなら、そもそもが自分の存在そのものが、ずっと嘘であったよう にも思えた。生まれてこのかた、よりどころなく漂流し続けていたようでもあった。邦 猫一と結ばれたときに、はじめて魂に杭を打たれたような確かさを感じたのだった。だが せつな その確かさはあまりに刹那的で、薫は狂い始めたのかもしれない 広次に抱かれたところで、その不確かさは変わるというのだろうか。薫にはもう、先 のことはわからなかった。 海「行こ、つ」 広次は立ち上がり、美輝を抱きかかえると、もう片方の手で薫の手を握った。二人の 手はすぐに熱く反応し、互いに放すことができなくなっていた。 教会を出ると広次がタクシーを止め、二人は黙ったまま温泉まで戻った。 宿の玄関では番頭が出迎えてくれた。番頭は、一瞬おやっと表情を曇らせた。この二 人は部屋は別々にと言われていたはずだったけつど、仲良く手をつないでいるではない か。そうだよな、夫婦と子供と、その両親という組み合わせでいいんだっけ。誰かが話
く座ったまま、ずっとこの数日のことを思い返していた。広次とついに交わり、すべて を忘れた瞬間があったこと。泣き叫ぶ美輝を横に、なお二人は一つになっていたこと。 よみがえ 体のすみずみに力が蘇ってくるかに感じられたこと。そして、そのとき何かが自分の子 宮を射抜いたのだと感じたこと。 薫は涙をこばしたが、それは冷たい涙ではなかった。涙は美輝の額にもこばれ落ちた が、美輝は笑って両手を動かした。柔らかくしっとりと母の体に張り付いてくる美輝の 愛肌。薫は、目をつぶる。 の 窓からは西陽が差し込んできて、二人の頬をオレンジに染めた。 柱 思えば薫は、特別な幸せなど望んではいなかった。ただごく当たり前に生きていきた 章 かったはずだった。どが、 オ今ではもうよくわからない。ただ、薫にはすでに育てるべき 第生命があったのだ。 土曜の夕刻だ。バスが川汲峠を登っていく。窓を降ろして耳を澄ましても、広次が今 頃ついているはずの鐘の音は遠すぎて聞こえなかった。もしくはバスのエンジン音にか き消されたのかも知れない だがたった今、広次があの教会の中で鐘をついているのだということが、薫を安心さ せた。まだ二人は同じ思いにつながっている。まるで細く長い糸で結ばれているように。 319
一方薫は、宿の布団の中で孝志を思い起こしていた。 近所の子供たちから間の子だ、間の子だとからかわれたとき、二人は同じように傷つ いたくせに、姉はそれを弟にられまいとただ心を塞いだ。弟は、姉の分まで心を守っ てやろうと、相手と衝突を繰り返した。二人でいるから傷が癒されるというものではな く、二人でいるからともに傷が増幅してしまっていたのかもしれない。だからこそ姉弟 は愛し合ってきたのだろうが 猫「俺、中学に入ってからはよく函館の町さまで出たんだ。港の辺りを歩いたり、函館山 からドックを眺めたりした。俺、小さい頃から兄貴に負けたものなんてなかったよ。泳 いでも、船漕いでも、俺の方が早かったさ。それでも、兄貴なんだから慕っていたさ。 だけつど、あいつばかりはわかんね。俺が小さい頃、よく漁港で捨て大とか、捨て猫と 海か拾ってきたのっさ。まっ先に兄貴のところへ連れでいぐと、よし、俺に任せとけって いって、気が付くともう猫も大もいなくなってる。後でわかったけつど、みんな裏山に 捨ててたんだは。兄貴の方はそんなの連れて帰ると母さんが困るって案じたつもりだっ たってさ」 せいかん めじり 薫は、精悍な顔立ちの夫の横顔をふと思い出していた。目尻がきりつとあがり、いっ も唇が堅く閉じられている。 「海猫の目は今も裏山にあるのね 314 こ こ ふさ
業しなかった孝志にとっては、そんな手軽なことでもプライドをくすぐられた。 寿司屋の暖簾をくぐり出ると、すぐ前は電車通りになっている。すでに涼しい風が吹 いており、夕暮れの色合いがてらっと光っていた。 「じゃあ、母さん、俺、姉さん駅まで送ってつから。今日はごちそう様」 「いつも、でしょ と薫は一一一口、つ。 薫、わかってるわね。産婆さんに看てもらいなさいよ」 愛「はいよ、、 柱「ええ」 氷 そうして、ほろ酔いの母は自宅へ、孝志と薫は駅の方角へと歩き出した。 章 孝志と薫が二人で並んで歩くのも、本当に久しぶりのことだった。 第頭一つほどしか違わない背丈で、ともに痩せており、色が抜けるように白い。青緑に 輝′目よ、、 ( しつも遠くを見つめている。そんな二人の並んで歩く姿は人目をひくのか、 夜でもすれ違う人たちを振り向かせた。 「薫 ? 」 「何よ」 「今回はなんで函館に来た ? せき 「一言ったでしよ、美輝の薬をもらいに来たのよ。あの子、少し咳が出るの」 339 のれん
広次は次第に無口になっていったが、元々雄弁ではないので、父や兄はそう気にしな かった。二人はそれぞれの理由ではしゃいでおり、酒を呷るとますます威勢をよくして いった。 「よし、今日はこのまま宿屋へ行くべ。俺の奢りだ」 父はズボンのポケットから、百円札の東を出すとテープルにのせる。 「もうじき北洋に乗るんだ。金なんかみんな使ってしまうべ」 猫「親子で宿屋ってのもはじめてだな。広次、お前の行きつけへ案内しろや」 のど 広次はコップ酒をもう一度注ぎ足すと、一気に喉に通した。三人でそうして飲んでい るよりは、宿屋へ向かった方が気が紛れそうだった。いや、久しぶりに女を思い切り抱 きたいような気もしていた。心の中から離れない薫への思いや、兄への嫉妬まじりの不 海央感もすべて吐き出してしまいたかった。 広次の頭にふと幸子の様子が浮かんだが、幸子は今では孝志の女房なのである。二人 しゅうげん が祝言をあげたというような話は聞いていないが、きっとすでに一緒に生活を始めてい るのだろう。幸子は家庭的なところのある女だったから、きっとうまくやっているに違 、 0 し力し 三人は夜風の中をゆっくり歩き、大門の宿屋の引き戸を開けた。 見慣れたパ 1 マヘアの女が、赤いモヘアのセーターで出迎えに来て、 256 おご しっと
つから 電話の向こうの声はいつになく温かく、薫に届いたようだった。これが夫だったのだ、 とふと思いながら黒い受話器を置くと、後ろに美輝を抱いた広次が立っていた。すでに 白いシャッとスラックス姿になっている。 「出かけよう、義姉さん。ほら、着替えて」 広次が拾ったタクシーは、外人墓地のある石畳を抜けて、夕暮れに染まる静かな一角 猫へと向かっている。 広次の胸に抱かれた美輝は、今は心地よさそうに寝息を立てていた。 「俺、船の中で義姉さんのことばかり、ずっと考えていた。それに、義姉さんも俺のこ とずっと考えていたって、俺知ってる。違うが ? タクシーの後部シ 1 トに並んだ二人は、微妙な距離を取って離れて座っていた。広次 ささや か小さな声で何かを囁くたびに、薫に体温が伝わってくるかのようだった。 「答えて ? 俺のことを思い出していた ? 」 のぞ 驚いたように、運転手がミラーで後部シートを覗き見た。二人は、今は間に子供一人 を挟み、触れるでも見つめ合うでもなく静かに緊張した会話を続けているのだった。 「いいよ、言わなくたって。でも俺は知ってるよ」 薫は窓ガラスに映る自分の横顔を見た。久しぶりに、その目の色が淡い日本人でも口 海
しながら、器用に真似をする。 「お義母さんに、習いごとをしているみたいね」 いや、そんなはずはねえんだ。はじめだけだ」 「そんなに楽しいかい ? 「ううん、面白いわー はじめの十枚を束にすると、作品が仕上がったように心が躍った。要領を覚えると、 薫のその細い指も、丁寧に烏賊をのしていった。 猫「うまいもんだ」 義母が言い、つけ加えた。 「あとで、するめと昆布と、まとめて函館のおっかさんに送ってあげせ」 「いいんです」 海薫はびしやりとそう言った自分に驚いていた。私は子供の頃から寂しかったのだ。母 おび の目さえが、いつも怯えたように私を見ていた。孝志と二人でいると、あまりに似た者 同士の私たちは、二人だけの空間に入り込んでしまっているかのようだった。 この家の温かさに埋もれるように生きていこうと思う。もっと、みんなを愛したい、 こんなに優しくしてもらっているのだから、と。 居間では、邦一と義父が昆布の養殖について話し合っていた。 南茅部では天然の昆布を採るだけでなく、去年辺りから養殖をはじめようという動き まね
海 「子供かよ」 孝志は自分の柔らかい髪をかきあげ、両腕を体操のように交差させた。 「俺の子供だよ、母さん。今、聞いてたつけさ。俺と幸子の間に子供ができたってさ」 うる 孝志は顔中くしやくしやにして、潤んだ目で母を見つめた。 その瞬間、幸子はわっと泣き出していた。子供ができたと聞いて夫がどんな反応をす るのか、幸子には自信がなかったのだ。そんな緊張感が一気に零れだしたかのようだっ 泣いている幸子の頭を、孝志が自分の胸にのせる 「俺もちゃんと働かねばな」 孝志は小声で囁いている。 タミはそんな二人の様子をしばらくながめていた。そして、思うのだった。ああ、ま たしばらくは、私がこの二人の分も稼いで行くしかないのだろうね。 その晩、夫婦はべッドの上に並んで座り煙草を吸いながら、様々なことを話し続けた。 孝志は相変わらず現実味のない夢のようなことばかり話していたが、煙草をもみ消す と、こう切り出した。 「なあ、幸子、ちゃんと生まれるかな。俺、神様にばち当てられねえかな」 266 ささや