「薫、どうかしたか ? 「私は幸せだわ」 茶の毛糸で編んだタ 1 トルネックのセ 1 タ 1 から長い首を伸ばし、薫は冬の海を眺め 部屋に戻ると、義母はするめをのしている。床に、うずたかく乾いた烏賊が積まれて いて、義母は、歯と靴下を脱いだ足を使ってそれらを引っぱっていた。女がやるには、 愛すごい形相になる。不衛生なような気もするが、それが古くからのするめののし方だ。 はだし 雪乾燥させておいた烏賊を水で湿し、両耳を軽く引っぱっておいてから、あとは歯と裸足 白 の足で伸ばすのだ。伸ばしたものを重ねて十枚ひと組にして、最後は烏賊の足を使って 章東ねておしまいだ。 第薫は、あの透明で掴みどころのないような柔らかい生き物が、そんな紙のように乾い て重なっていることがおかしくって、くすっと笑った。 義母に並んで、靴下を脱いだ 白くて細い足に、靴下の赤い糸がついていた。艷のいい皮膚の上で、血管が浮き立っ て見える。 「汚いようだけどね、するめはこうやってやるって昔つから決まってつからさ」 てぎわ 義母が手際良く仕事をしながら言うと、薫は体を反らせるように烏賊を思いきり伸ば 」 0 つか つや
頼まれてもいないのに、まるで密かに薫を見守る役を決めたかのように、南茅部に帰っ てきてしまったのである。 薫は今、小さな顔から想像もできない大きく膨らんだ体を懸命に動かしている、そん な風に広次には見える。薫は受胎した。広次にとっては、聖母マリアの受胎と同じで、 それ以外の生々しい意味をまったく含まないものとなった。 広次の脳裏には、たった今見た薫の乳房の美しさがまた焼き付けられていく。 愛悲しそうに光る薫の目と、幾重にも乳輪を広げたたわわな胸は、まるで白磁の像のよ の うに完全な姿に見える。 雪 白 「あれ、弟さんが照れてるかい。偉いもんだろう ? 母親になるっていうのつは。どれ、 つめ 章足の爪も切っとくかい , 第 タ工は薫に足を伸ばさせると、丁寧に白い足をつかんで爪に順に爪切りを当てていく。 「こんなことまでしてもらって」 「だってもういつくら手を伸ばしても足までとどかないもね、どんな母さんもそうだっ から」 広次にとっては、その小さく透き通る足さえも、目を逸らさずにはいられない対象だ った。自分はどうかしている、などとは考えなかった。 子供の頃、どうしても海猫の目が欲しかった。家族には話さずに、函館山のハリスト 185 ひそ
海 壺振りは、タミを見もしなかった。 続いての賭けでもタミは負けた。続いても負け、タミの手元にのこったのは最後の一 東になった。 かたず その時点では、見物人も固唾を飲んで静まり返っていた。タミは、そういうことかと やおちょう 腹をくくるしかなかった。やはりおそらくが、八百長なのだ。壺振りさん、あんたも女 なんだろう ? と心の中で苦笑したものの、タミはいっさい表情も声色も変えなかった。 猫「姉さん、どうします ? 」 壺振りは、最後の一東をちらっと見ると、言った。 壺がふられる。 「半、かしらねえ」 タミはもう一度、柔らかい声で言った。あの嫌らしい吉村の顔がふと浮かんだ。いや あの吝嗇のことだから、百万なんて金は出してはくれないかもしれない サイコロが、転がった。 「半ー ため息が溢れた。 タミは、襟足にそっと指を伸ばした。 タミの金は、そこから増えては減り、また増えと繰り返した。そして、元の五十万に 172 あふ
わからない 薫も何とか上半身を起こすと、自分にも大きな器にそのスープを盛ってもらった。淡 いコンソメの味に、アワビの香りがつんと立っていた。アワビは刻まれているが、ロの 中でなお歯ごたえがある 「お義母さんよ、、 ( しつだって料理がうまいのね。ありがとう」 ありがとう、という言葉は義母に言ったようでもあり、そのロシア人に言ったようで 愛もある。彼が息を吹き返し戻ってきてくれたことが、薫の不安に怯えていた心を確かに 柱助けていたからだ。 「人が生き返ってくるようなとき、何が食べたいべなって考えたけつど、なかなかわが 章らないもね 第薫はふと首を伸ばす。 「十分に美味しいわ。あ、美輝は ? 」 「よぐ寝てるよ。昨日、港であんなにぎゃあぎゃあ泣いたっから、この姫さんも疲れた んだわ、きっと」 「そうですか。邦一さんは : : : 」 「なあ、何やってんだべ、うちの男衆はこんなどきに限って誰もいねべさ、だから漁師 町じや女の方が強いって言われるもね」 283
「なんで ? 」 「何やっても続かねえし、ろくなことしてねえ気もするし 考えてしまったべ 「うん」 幸子は、ばちが当たるとするなら自分の方だと思っていた。こんな商売女を、図太く 若い夫に引き受けさせて、今では澄まして女房然としているのだ。商売をしていたとき には堕胎だって、二度経験している。 愛 柱「二人で、願掛けしようか」 氷ほっつと幸子は言った。化粧をすべて落とした幸子の顔は、眉毛も半分しかなく貧相 ふとん 章 で、本当の年よりは老けて見える。孝志は、布団の中で妻と手をつなぐと、言った。 第「酒やめるが ? 」 「うん、煙草かな ? 」 かけごと 「賭事もだべ ? 」 「これ、はやめてもしようがないか」 いたずら 幸子はそう言うと、夫の性器に手を伸ばしてくすっと笑った。その悪戯な夫の部分は 今もすぐに反応し、堅くなった。幸子は愛しいと思った。 「やめろよ」 267 な 1 んてな、ちょっと
は田 5 ったが、 ふと赤い郵便ポストの横に立つ人影を見つけた。豹柄の派手なコートに赤 い傘とプ 1 ツをはいた幸子だった。 「あれ、幸ちゃん、もう来てたつけ ? 」 孝志は小包を抱えて走る。新しく降り積もった雪に、足跡がついていく。 「なんだか早く来ちゃったの。とくにやることもなかったから 「顔色すっかりよくなったな」 猫手を伸ばして頬に触れた。そして言った。 「俺と結婚して欲しい。母さんにも、連れてくっていっといた」 「結婚 ? 」 幸子はほてっとした唇を半開きにして、驚く。 海「ああ、そうだ」 「本当に ? 」 「冗談で、こんなこというか ? 俺もまだ若いし、幸ちゃんもまだ若いけつど、俺決め たんだ。俺は幸ちゃんがいないとだめだ」 幸子は頬を紅潮させると、目をつぶって涙をこばした。 「あんたはどうしてそんなに優しいの」 「幸ちゃんが優しいからさ。さ、行こう。その前に郵便局さ、つきあって」 ひょうがら
たのだった。こんなときには、女の声や字が何よりも温かく感じられる。 「また今日も寝坊ね」 目を覚ますと、つややかな皮膚を柔らかく豊かな髪が覆う姉の顔が頭の上にあった。 寝起きの際に、かってよくそうして薫の顔を見上げたなと、思う。 「なんだ薫か、おはよう」 そう言うと、細い指を伸ばして姉の額にかかる髪の毛を払った。 愛薫もごく自然に耳元に顔を近づける。 の 「これ何よ。ラブレターじゃないの。こんなにくしやくしやになってしまっているわ 雪 白 章拾い上げながら、無邪気に文面に目を通そうとする。 第「ラブレタ 1 なんかじゃないよ、薫。読めばわかるべや。それは広次さんの彼女なん かいしよう 「なんだ、そうなの。そうだわね、孝志にはまだそんな甲斐性はないわよね」 「朝からいじわる言う姉さんも久しぶりだ」 二人がまるで双子のように笑いあっていると、拡声器を通じたけたたましい放送がも う一度始まった。 〈南茅部の皆さん、繰り返します〉 129 おお
幸子は案外、きつい口調でロ答えをするらしい。タミは、そんな一つ一つをこの嫁に 関して確認していった。 「いいのよ、孝志、それよりあんた自分でもう一つコップを運びなさいな。何かつまみ もあるなら持って来なさい。元々手先は器用なんだろうからねえ」 「おう、まかしといて」 そろ 孝志が水道の蛇口をひねる音が響く。手を洗って、漬け物でも揃えて皿にのせてくる 猫のだろうか タミは、息子のことならきっと今だって、この嫁よりは自分の方がよく知っているつ もりだった。何しろ自分はこれまで、息子のすべてを許し、受け止めてやってきたのだ から。 海孝志はトマトとキュウリを薄切りにして、塩を振りかけきれいに皿にのせてやってき た。もう一つの小皿には、マヨネーズと和からしがくるくるっとしばられのせられてい る。 「まったく手早いね、相変わらず」 「なあ、俺はやつばり料理の道にでも進むべきなんだろっか」 母にそう答えながら、誰より早く箸を伸ばそうとする タミは静かにを整えた。
孝志はそうつぶやくと、一気に最後の力を噴き出してしまった。 幸子と並んで大の字になって、横たわる。 布団は少し湿っていて、安い粉パウダーのような匂いがした。 「幸子は、本当はあっちの兄さんがよかったんだろう ? 孝志は、天井を眺めながら言う。 短い沈黙があった。だが幸子の明るい声が返ってきた。 猫「関係ないわ。私たちは、誰だって喜んでくれる人がいたらそれでいんだもの。それ以 上望んだらバチがあだるの」 うそ 「嘘つけ : ・ : 、だれにだって気持ちってものはあるだろう ? ささや 孝志は指を伸ばして、幸子の頬の辺りをつついた。そして耳元に囁いた 海「幸ちゃん、あんたは俺のはじめての女だ。俺は孝志。ありがとうな」 孝志はそう言うと、ゆっくり起き上がって髪の毛を手で撫でつけた。洋服を着始める と、後ろで声がする。 「孝志さんは、もしかしてロシアの兄さんの血かなんか混ざってる ? ふっと目をあげると、幸子が続けた。 「だって、目の色が違うもん。その目で見られると、女は困るかもしれないね。なんか 寂しいのかなって。私が慰めてあげようかなって思うよ」
こえる。子供たちも、学校を休んで手伝っているのだ。 三日後には、函館から孝志も手伝いに来ることになっていた。はじめは、弟が何か迷 惑をかけそうで不安だったが、いつまでも船酔いから解放されない薫は弟が来てくれる 日が待ち遠しい。 孝志、今度だけは頼むわ。姉さんを助けて。 ひざ そう思いながら、しやがんで昆布干しを続けた。空からは午後の陽射しが降り注ぎ、 愛大地に吸い込まれていくエネルギーを昆布に反射させていく。その中にある自分の白い の 手が、薫にも奇異に映った。 雪 白 夕方近くなりようやく作業を終えると、義母は、薫に並んで浜に足を伸ばして座り込 章んだ。 第「どうだ。大変だが ? 」 「浜に降りてもずっと揺れてるみたいで」 薫は正直にそう言った。 「そうだ、そうだ。夏の間、おらたちはずっと揺れてるみたいなもんだ。さつ、休んで る暇ねえよ。夕飯のしたくもせねば。今日は食べねばだめだよ」 「でも私は」 と、そのとき商店の前にバスが停まった。 111