かつほうぎ 薫は、みさ子のお古のゴムのはいったズボンに、割烹着姿だ。頭には白いナイロンの スカ 1 フを巻いている。 「無理すんな。みんな一週間くらいは気持ちが悪いもんだ。だけんど、すぐに慣れる。 そうなったら、海は気持ちええ」 「ええ、きっとすぐよ」 そう答えながら、だがこの気持ちの悪さが一週間で慣れてしまうなんて信じられない さまよ 愛と思った。体中の血液が逆流し、さらに行くあてもなく彷徨っているようだった。 雪「あんまり下ばかり見ていたらだめだど。遠くの波とか、空とか、そうだ鵐とか見ろ」 白 「を ? 章「そうだ、鵐って言ってもみんな同じじゃねんだ。でつかいのがオオセグロカモメだ。 第中ぐらいのがセグロカモメ。で、あの一番小さいのが海猫なんだ。声聞いてみろ。ミャ アミャアって言ってるのがいるべ。あれば海猫の声だ。わがるか ? 」 薫は、ふらっく足でなんとか縁に腰掛けながら灰色の空を見上げた。 確かにその一つだけ違う高い声が聞こえた。 空を飛び回る鵐たちは、大きくも小さくも見えたが、声だけははっきり違いを確認で きた。 「あれが海猫だったのね」 103
薫は、大きな声をあげて、邦一の引き締まった背にしがみつき、爪を立てた。自分で も思わぬような声をあげたのか、目が合うとかすかに震えた。 「痛いのか ? 」 驚いたのは邦一の方で、自分の重みの下にある花嫁に声をかけたが、薫は透き通るよ うな肌を紅潮させて邦一を見上げ、長い手足でさらにその汗の浮き始めた体にしがみつ いてきた。淡い色の目に刺激されて邦一が動くと、薫はまた、遠くの海に流されていく 愛かのように長く尾を引く声をあげた。 の 雪 白 薫は、朝からよく食べる嫁だと赤木の家の姑たちは面白がった。 章新年を迎えて、穏やかな冬だった。 第浜に面した古い家の中では、だるまストープの中で薪がくすぶる音と、その上にのせ た薬缶がふく音だけがしている。 たらさけと 村の漁師たちは、夏には昆布を採り、秋口には烏賊や鱈や鮭を獲る。冬の一番厳しい 時期は、部屋の中でするめをのすくらいで、特にすることもない。 薫はちょうどそんな時期にやってきた嫁だった。 邦一の母のみさ子は、はじめは取り澄ました姿形の嫁さんが来るもんだっけ、と内心 穏やかではなかったのだが、何しろ何でも美味しい美味しいと言ってよく食べるものだ つめ
弟はその点、自由気ままなものだった。 邦一は、嫁さんだけは自分の心のままに決めたいと思っていた。 薫は、悲し気で、冷たく、浜のお母さんにあっているとはまるで思えなかった。薫の 家族にしても、漁師とは縁がないばかりか、漁師たちの持つ大らかさに欠けているよう なところが目立った。 あらが だが邦一は、むしろそこに惹かれたのかもしれないのだ。漁師を継ぐという抗えない 愛自分の運命だからこそ、漁師とはまったく異質の存在感を持っ女と暮らすことに、邦一 の のときめきがあった。 雪 白 「いや、俺はおめえに甘えてるんだな、薫ー 章 邦一は、一人そうつぶやき、薫の手紙に触れようとしたが、彼女はそれを放そうとは 第しなかった。 「邦一さん、私、少し眠っていし 薫が、邦一の目を見上げそう言った。 「薫、ちょっと外に出よう。どんな天気のときだってな。海の声きかねばだめだ。海の かもめ 声と鵐の声ときいてたら、安心するもんだ」 邦一はそう言うと、居間にいる松印たちに大らかに言った。 「おいたち新婚は、ちょっと散歩にいぐど。邪魔すんなよー」
薫とみさ子も、桟橋まで駆けた。 人波の後方から、邦之が顔を出して、 「おーい、母さん」 と声を出した。 しわ 義父は、顔の皺が急に深くな 0 たかのようだ 0 た。一段と焼けており、疲が色濃く にじんでいる。急に老人になったかに見えるが、顔も声も喜びに溢れている 猫みさ子はその姿を見ると、なんと美輝を背におぶったまま、若い娘のように飛び上が って喜んでいる。 薫が目で広次を探していると、いつ出てきていたのか、義弟は後ろに立っていた。 「美輝、ずいぶん大きくなったな。こっちにおいで」 海広次はボストンバッグや紙袋を地面に置くと、すぐに母の背から美輝を抱き上げて、 頬を近付けた。 うれ 美輝は両手足をばたっかせたが、輝くような目で広次に見入ると、嬉しそうに身をよ じって声をあげて笑った。 立ち話をする間もなく、広次は言う。 「俺も父さんも、今日は南茅部には帰らねえよ」 「なんでさ、みんなで待ってたんだよ」 288 あふ
「半」 賭けていく声が、座布団の数だけ続く。 部屋の天井で揺れる電球の薄ばんやりした光にタミは、顔をあげた。これでお金をす べてすったら、自分はどうなるのだろうとふと考えた。実家の旅館に帰って親にすがる これまで何度そんな思いが頭をもたげたことだろう。角の曲がり道まで行って、 電信柱の陰からじっと旅館の前を眺めていたこともある。だが、今では湯の川にもホテ ルができ、老舗旅館といっても引き戸の木目は剥げて、古めかしく精彩を欠いていた。 愛 の すがっていい場所には思えなかった。だったら、今、この金をすべて失ったら、あの木 雪 白 造アパートの二階の一室から、もはや生涯抜け出ることはできないのかもしれない。階 章下からは、深夜になると決まって悲鳴のようなつぶやきが聞こえる。一階に気を病んだ 第中年女が越してきた。あの部屋であの声を聞きながら、老いていくのだろうかと思うと、 暗い穴に落ちていくかのようだった。 だが、思い直す。たかが五十万や百万の金ではないか。貧乏はいやだよ、とタミは思 うれ う。そんな金ごときで人生を憂えてみても仕方ないではないか。 「 4 、 6 の丁」 壺振りの声に一瞬、部屋が静まり返り、次にはロ笛が鳴った。 「よろしいですか」 171
に、重なる裸の女たち。出入りする大勢の地元漁師たち。 こんな日に、薫の夫である邦一は、函館の街へ向かっていた。病院へ定期検診に行く のだという名目だが、 看護婦のところへ行くのだろうということくらいは薫にもわかっ ている。 薫は、様々な声が頭の上に反響しているようで余計 ! 、こ深く全身の熱を、自分の下にあ る裸身に集中させる。 愛自分は今、この瞬間、見も知らぬロシア人の魂の炎にすがっていると思った。彼が死 あらが 柱に行くことに抗おうとしているその最後の力に、全霊を託しているようだった。 再び美輝が、悲鳴をあげるように泣き始めた。 章 その声は、美輝が生まれ出て来た時の声とよく似ていた。本当に腹が減って、赤ん坊 第はまた目が覚めてしまったのだろう。 と、そのときだった。薫の下にあった体から大きく噎せるような生臭い息が吐き出さ せ れた。激しく咳き込み、薫が驚いて体を放そうとすると、男の目がうっすらと開いた。 それは、毛布に包まれた真っ暗な中で銀色の輝きを放ち、ゆっくり二度まばたきした。 彼はだらりと垂れていた手を上げ、顔の上で十字を切った。そしてその手で一度、薫 つか の肩を掴んだ。またそのまま意識を失う。だがその体はしだいに熱を帯びていくのがわ かる。薫は両手で彼の大きな顔を拭い、ロづけた。
ポストンバッグを下げた男が、バスから降りて不安気に辺りを見渡した。 「おーい、薫ー」 明るい声が響いた。 「孝志 ! 」 「俺さ、もう来ちまったわ。新聞で、今日から解禁だって読んだから」 薫はよろよろっと立ち上がると、石だらけの道を渡って、孝志に駆けよった。 猫「孝志、あたし、全然船に慣れなくて。どうしたらいいかと思って」 「やつばりだ」 と、孝志は高い声で笑った。笑い始めたら興にのったように、腹を抱えてくくくっと 笑った。 海「だと思っては、ちゃんと持ってきてやったから、大丈夫だ。漁師の家には秘密にせね しか ば叱られるだろうけど、函館の薬局で酔い止め買ってきたから」 孝志は薫の耳元でそう言って、髪を撫でた。 薫は目をつむると気持ちよさそうに、深呼吸した。水の中で、自由に息をした魚のよ うに感じられた。 112
海 Ⅷ目の回りだけを黒く塗った化粧は、薄明りの下で独特だった。 タミは花札など数えるほどしかやったことがない。だが、函館の老舗旅館に生まれ育 ったタミには、その手の覚えはあった。 いや、どんな賭け事も、交渉事も同じなのだとタミは思おうとした。落ち着け。落ち 着き払って、まなざしと腰を据えた。負けるにしてもみつともないのはいやだった。 まばた タミは、壺振りの女に両手をついて深々と頭を下げると、瞬きもせずに懐から金を出 猫し、ます十万を左によけた。 賭けの方法は、最も単純な「丁半ーだ。 「どなた様も張った張った」 女の声が低く伸びる。サイコロが二つ、壺に放り込まれる。 タミは、ふっとをはいた。 「え 1 っと、じゃあ半」 と、柔らかく言った。 そのあまりの素人っほさに、会場からは笑いが起こった。 「よおし、いし 、ぞ、半だ」 そう声をあげる者もいた。 しにせ
「おう、だったら、また慰めてくれよな : : : そういや俺、今日、十九の誕生日だったん だ。、い記念になったよ」 孝志はそう言って片目をつぶると、勢いよく襖をあけた。 「義兄さん。広次義兄さん、まだやってるか 1 ? 俺はもう出たぞ。外で煙草吸ってつ からねー 「ばか野郎、大きな声出すでねえ」 愛奥の部屋からそう怒鳴る声が聞こえると、孝志は子供のように身をよじって笑って、 雪階段を駆け降り、外へ出た。 白 夜になるとさすがに冷えているが、孝志は空を見上げて思った。 章 これで俺も一人前の男だってわけか。なんだか、あっけないくらい簡単なもんだ。姉 第さんに言ったのは、間違いじゃなかった。なんてこともないさ、あの日俺は確かそう言 ったのだから。 二人はもう一度タクシ 1 に乗り込むと、五稜郭の広次の部屋に向かった。 広次は何も話さなかったし、たずねもしなかった。孝志の体に、はじめて体験するよ うなけだるさが降りてきた。 だから孝志は一言だけ言ってやった。
「だめだ、すぐにいつでしまう」 「ええ」 「もういいのが」 「いいわー 「だめだ、薫もちゃんと来なければだめだ」 「ああ、邦一さん」 かす なまめ 愛薫の掠れた声は妙に艷かしくて、また邦一を興奮させた。 柱その声に導かれて、邦一はやはりあっけなく果てたようでもあり、寝ばけ半分だった ようでもあり、だが邦一はとても満足し、表情をほころばせた。 章 薫は邦一の硬い腹の上に頭をのせたまま、目をつぶった。 第邦一は、また眠り始めた薫を愛おしいと思った。妻の額にはりついた髪の毛を撫で始 めたが、薫は本当は眠ってなどいなかった。いや、眠って忘れてしまおうと、心の中で 闘っていた。心の中では、涙を流してもいた。広次さん、ごめんなさい、そして私の赤 ちゃん、あなたも驚いたでしよう、と。 現に、交わっている間中、体の中はきしむような音を立てていた。それは妊娠してい る女にしかわからない、赤ん坊の悲鳴のような音だ。 「俺にはお前しかいないんだ」 325