ポストンバッグを下げた男が、バスから降りて不安気に辺りを見渡した。 「おーい、薫ー」 明るい声が響いた。 「孝志 ! 」 「俺さ、もう来ちまったわ。新聞で、今日から解禁だって読んだから」 薫はよろよろっと立ち上がると、石だらけの道を渡って、孝志に駆けよった。 猫「孝志、あたし、全然船に慣れなくて。どうしたらいいかと思って」 「やつばりだ」 と、孝志は高い声で笑った。笑い始めたら興にのったように、腹を抱えてくくくっと 笑った。 海「だと思っては、ちゃんと持ってきてやったから、大丈夫だ。漁師の家には秘密にせね しか ば叱られるだろうけど、函館の薬局で酔い止め買ってきたから」 孝志は薫の耳元でそう言って、髪を撫でた。 薫は目をつむると気持ちよさそうに、深呼吸した。水の中で、自由に息をした魚のよ うに感じられた。 112
や 外の雪はいっこうに止もうとしない。今日は一日、こんなふうに過ぎていきそうだ。 邦之と邦一が何度も雪かきをして、土間で体を乾かし、茶を飲み、飯を食うのだろう。 夜になると、夫婦たちが互いに暖めあって眠る。互いの肌が触れて、吐息を間近に感じ、 体に変化が訪れ一つになる。ただそれだけの一日が、こんなに幸せだなんて。 かわいそう 母は可哀相なのだと感じたりもした。タミは、まだ三十歳にもならないうちに、夫を 失ったのだから。 たた つや 愛時折、弟の孝志が、母の肩を叩いたりしていたが、母がぞっとするほど艷つほく見え 雪ることがあった。そんなとき薫は、母と弟の間には、入り込めないなと思ったものだっ にしんいいずし みそしる 章 正月ののこりの鰊の飯寿司と、松前漬け、ご飯と味噌汁という朝食を終えると、玄関 第が勢いよくあいて、赤木の本家である松印から、義父の兄がやって来た。厚手の合羽の フ 1 ドについた雪を払いながらスト 1 プの前まで入って来る かめじるし 「おう、亀印。あがるよー。あのな、もうちょっと、養殖昆布のこと、聞かせてけねが と思ってさ」 「そういうわりには義兄さん、手に酒持ってるんでないの ? 」 みさ子が口を挟む。 「おっとバレたで、ゴ 1 ゴー」
薫は、首を横に振った。 「いいわ、私は今日は一晩母さんのところに泊めてもらう。もう疲れたし」 「それがいいと思うぜ」 「ねえ、孝志、あんた写真を撮るわよね」 「おう、俺はうまいよ」 「頼みがあるの。函館山のあのとんがり屋根の教会のね、ちょうど夕暮れの頃の写真を、 猫写してきてくれない ? 「鐘がなる頃、ってこと ? 」 「そうね、あの教会は、きれいな鐘が鳴るわね」 孝志には、やはり手に取るように薫の心が透けて見える。 二人がタミの部屋に戻ると、幸子が、コップで日本酒を飲むタミの前に、ちょこんと 座っていた。腹が目立つようになっていた。 「あ、こんなに早く帰らないと思ってたから」 幸子は、孝志に言う。 「おう、姉さんのろいから、バスに乗り遅れちまったんだ。今日はみんなでここに泊ま るべ」 海
物事の本当を知っていて、 なんて可愛い人、 そして素敵な人〉 折り畳んだ紙はいかにも何かを包んであったふうだ。金が包まれていたのだろう。 ランポーの詩、そういえばこの頃孝志は、何やらわけのわからない高尚な事を口にす る。女の家に行っている、とするならかっての自分と同じような商売女なのかと思って 猫いたが、違っていたのだ。そう思うと、幸子は急に動揺した。そこには、自分の知らな い世界があった。 しようちゅう いけないとは知りつつ、幸子は台所に立っと、コップで焼酎をあおった。元々酒は強 かったが、 妊娠してからは酒も煙草もやめていたのに。 海幸子の口元から焼酎がこばれて、すぐに酔いが回った。 自分だけがのけ者にされているような気がした。タミは、自分の娘のあの薫を前にす ると、幸子といるときよりずっと気取っている。気取った家族になる。 、間の子家族のくせに」 「何さ : 抑えていた感情があふれ出し、下卑た言葉がロの端に浮かんだ。 ふきん 台所はきれいに磨き上げられている。布巾はきっちりとしばられ、シンクの上に広げ られている。 こ
息子の方は、母が作ったその間がいやで、 「ジャケット、持ち帰ろうと思ったけど、冬物だし、また来るわ。母さん、悪いけつど、 クリーニング出しといてくれねつか」 「はいはい。ご飯でも食べていったらいいのにねえ。寿司でもどうかと思ってたんだよ、 幸子も呼んでさ」 「そうだな、じゃ、悪いけつど、幸子にうまいもの喰わしてやってよ。俺、仕事いかな 愛きやさ」 柱孝志はそう言って出てきてしまったのだった。 ななえ ごりようかく その足で五稜郭の駅に向かった。メモの電話番号の局番は七飯町のものだった。 章駅で電話を借りて、かけてみた。 第「あの、俺、船でさ、一度会った孝志だよ」 「はあ ? しわが その女は嗄れた声ですっとんきような返事をした。 だんな 「奥様にでしようか、旦那様にでしようか」 「ああ、奥様の方をお願いしますー 電話に出たのはお手伝いの女のようだった。孝志は背中がぞくぞくっとした。孝志は なぜか幼い頃から見栄っ張りで、そういう金持ちの世界が好きだった。混血と差別され
「どういうことだが ? 」 広次は、立ったまま震えている 「私は、これ以上欲張りになってはいけない。もう十分にあなたにすべてを教わった気 がします。あなたには、きっと素敵な女の人が見つかるわ」 「俺から逃げるのが ? 広次は、目に炎を宿し、そう言った。 猫薫は、自分の腹にそっと手をやった。一つの確信。薫は、広次の子を宿している。お そらく、間違いはない。 「逃げるのかもしれない。でもそれは、あなたからではないの。二人から逃げるの。こ んなに人を愛したことはない。それは本当のことです」 海「だったら、なんで。もう南茅部には帰るな。俺たち三人でやって行ける。俺を信じて 薫はそうかもしれない、と思った。だがその先に何があるのだろう。自分は今こそ必 要な愛を得たのではないのか 「ばかやろう」 広次は、吐き捨てるようにそう言い残して、浴衣のまま宿を出た。 宿の狭い部屋の中で、薫は、折り紙をくしやくしやにして遊ぶ美輝を抱いて、しばら 318
幸子は確かに気のいい女だが、結婚など自分にはまるで考えられなかったものだ。そ う思うと、広次は孝志にこの場で頭を下げたいような衝動にかられた。孝志の男として ほうせん の度量の大きさに呆然と感じ入っていた。 「そうか、おめでとう」 よ、つやくそ、つ口にすると、にこやかに笑、つことができた。 「母さん、どうしてすぐに教えてくれなかったの ? 」 愛白いタ 1 トルネックのセーターを着た薫は、無邪気に言う。 雪「私もまだ何も知りませんから、まったく気の早い子だよ」 白 「母さん、俺みたいな奴はそうでもして自分にハッパかけねばだめだべさ。仕事も見つ 章けねばなんねし」 第 タミは、仕事という言葉を聞いたと同時に、結局あの幸子という女がふたたび大門に 行って息子を食わせるのではないかと連想してしまい、軽くため息をつく。 ふと毛布の上に目をやると、赤ん坊はなお気持ち良さそうに寝息を立てている。窓か ら光が差し込んで、その白い肌はいっそう輝いて見えた。 みすみず 新しい生命とは、どうしてこうも瑞々しいのだろう。生命はしだいにくすみ、濁り、 とし 枯れていく。歳をとるのはいやだと、タミは思った。息子の結婚話で、自分はいっそう 年老いたかに感じられた。 209 やっ
「おう、だったら、また慰めてくれよな : : : そういや俺、今日、十九の誕生日だったん だ。、い記念になったよ」 孝志はそう言って片目をつぶると、勢いよく襖をあけた。 「義兄さん。広次義兄さん、まだやってるか 1 ? 俺はもう出たぞ。外で煙草吸ってつ からねー 「ばか野郎、大きな声出すでねえ」 愛奥の部屋からそう怒鳴る声が聞こえると、孝志は子供のように身をよじって笑って、 雪階段を駆け降り、外へ出た。 白 夜になるとさすがに冷えているが、孝志は空を見上げて思った。 章 これで俺も一人前の男だってわけか。なんだか、あっけないくらい簡単なもんだ。姉 第さんに言ったのは、間違いじゃなかった。なんてこともないさ、あの日俺は確かそう言 ったのだから。 二人はもう一度タクシ 1 に乗り込むと、五稜郭の広次の部屋に向かった。 広次は何も話さなかったし、たずねもしなかった。孝志の体に、はじめて体験するよ うなけだるさが降りてきた。 だから孝志は一言だけ言ってやった。
ている。 不動産屋は、手にしていた台帳の、家賃別の仕切りをうんと後ろのペ 1 ジにまで移し、 道にしやがみ込んで、部屋を探し始める。女のために、少しくらい家賃をまけてやるよ う家主に交渉してやろうと思う。ここで女を助けておけば、もうじき嫁ぐ自分の娘にも 何かいいことがあるような気がした。 「築三年、白壁に青い屋根のこの部屋はどうだべか : 猫「うわ 1 、見ろよ幸ちゃん。やつばり全然違うぜ 孝志もしやがみ込んで、今度は不動産屋の肩に手をかける。なんの屈託もなく、手放 しに喜ぶ孝志の顔を見て、幸子も、つい目を細める。こうして好きな男が喜んでくれる なら、自分はもう一度働きに出ても構わないと、幸子は思った。家に帰る自分の体を喜 海ばせてくれるのなら。 南茅部の赤木の家の神棚には、邦一が病院で書いた大きなペン字が張り付けてある 〈美輝〉 そう名付けられた赤ん坊は、今も目を大きく見開いて手足を動かしている。 透き通るような肌の頬が赤く、唇もさくらんばうを含んだように整った形だ。睫は金 ひとみ 色に光り、濡れた瞳を柔らかく縁どっていた。 222 まっげ
った。互いに手伝ったりしている 薫と邦一は式には呼ばれていない。その分、二人は午後から函館の町に出ようという ことになっていた。湯の川温泉に一泊して、新婚旅行の代わりにはじめて旅行をするこ とになっている 楽しみにしていたはずなのに、薫の心はなぜか晴れなかった。 湯の川温泉に、孝志とタミが突然やって来ると言い出したからである。母からの手紙 猫が届いて以来、薫は返事も出していなかったが、湯の川まで行くのなら実家へ顔を出す よう、みさ子に言われた。それで葉書に短く日程を伝えると、温泉は久しぶりだし自分 たちも同行したいと孝志が言っていると、返事が来たのだ。 薫が部屋に戻ると、邦一は、義父母の着替える横で、一着だけ持っている茶の背広を 海着て、ネクタイを締めていた。 「薫も早くまがなえや」 そう言、つナ一 5 に、エプロンをはずしながら薫も答える 「もう時間ですね」 「せつかく函館のおっ母さんたちに会うんだから、きれいにしていかんと、南茅部が辛 いのかって思われるよ」 義母は冗談めかしてそう言い、続けた。 つら