猫 342 フーツと、孝志はため息を吐く。足を組んだ。 「マスター、煙草くれるかい ? 銘柄は何でもいいわ」 エプロンをしたロひげのマスタ 1 が、トレイにのせた煙草を運んでくる。孝志はそれ を受け取るが、代金を払おうとしないので、薫がハンドバッグから当然のように小銭を 渡した。 「釣り銭をお持ちします」 マスタ 1 が二人の間を勘ぐるように、様子を見ている。 「取っておいて下さい」 と、薫は言った。心臓が高鳴っていた。それより、広次の話を早く聞きたかった。彼 が一体、どうしたと言うんだろう。 あわ もてあそ 海孝志は、そんな薫の気持ちを弄ぶように、煙草の箱を開け、慌てて元に戻した。 「あぶね、俺禁煙の約東してたんだっけ」 さわ 「そうよ、幸子さんの体に障るわよ」 そう言われた孝志は、下から視線を冷たく放っと、おもむろに煙草に火をつけて吸っ 「関係ねえや。それに広次さんの話なら、悪いけつど、別に何もねえよ。俺、会ってね つから。でも、今わかったわ。姉さんは、妊娠してる。それ、広次さんの子なんだべ。
美輝は、気が付くと隣においてあった座布団の上で眠り始めている。小さな鼻先がっ うぶげ んと上を向き、薔薇色の唇がとがっている。広いおでこに産毛が光り、そこから指の先 まですべてが、透き通るようにすべらかな肌に包まれている。 「寂しいわ」 かす 掠れた声で、薫が言った。 「俺も今、おんなじことを考えていたつけ。薫と同じように寂しいよ」 猫広次は、体を少し起こすと、煙草に火をつけ、言った。薫は体を伸ばし、その煙草の 吸い口に、形のいいその赤い唇をつけた。 「男の人の唇は、いつもこの味がする」 「いつもが ? 」 海広次は苦笑する。 「兄貴のこと、考えてのんか ? 広次は、ゆっくりした口調で煙草の煙を吐きつっそうたずねた。 「俺、今は兄貴に嫉妬してねえよ」 薫は目を閉じた。 広次は、薫のその大理石のように滑らかな横顔に、改めて見入った。広次にとっては 人生で一度きりの神への裏切りなのだと思わせた。 312 ばらいろ しっと ざぶとん
海 「子供かよ」 孝志は自分の柔らかい髪をかきあげ、両腕を体操のように交差させた。 「俺の子供だよ、母さん。今、聞いてたつけさ。俺と幸子の間に子供ができたってさ」 うる 孝志は顔中くしやくしやにして、潤んだ目で母を見つめた。 その瞬間、幸子はわっと泣き出していた。子供ができたと聞いて夫がどんな反応をす るのか、幸子には自信がなかったのだ。そんな緊張感が一気に零れだしたかのようだっ 泣いている幸子の頭を、孝志が自分の胸にのせる 「俺もちゃんと働かねばな」 孝志は小声で囁いている。 タミはそんな二人の様子をしばらくながめていた。そして、思うのだった。ああ、ま たしばらくは、私がこの二人の分も稼いで行くしかないのだろうね。 その晩、夫婦はべッドの上に並んで座り煙草を吸いながら、様々なことを話し続けた。 孝志は相変わらず現実味のない夢のようなことばかり話していたが、煙草をもみ消す と、こう切り出した。 「なあ、幸子、ちゃんと生まれるかな。俺、神様にばち当てられねえかな」 266 ささや
邦一と、義母のさきほどの屈託のない会話。家族とは、きっとそんなものなのだ。う ちの家族にはありえないことだったけれども。 そもそも家族でいながら、自分の母が寝間着でうろうろしているのすら見たことがな いのだ。いつも着るものは布団の横にきちっと並べてあり、布団から起きしだいそれを 身につけるのが母や自分の習慣だった。 取り澄ました母とその娘という関係は、だが、母だけのせいではなかったのかもしれ ごと 愛ない。薫にも、邦一のように母にたやすく戯れ言をいう心の余裕がなかった。母と自分 の の間によ、、 しつも澄んではいるのに冷たい川が流れているような気がしてならなかった 雪 白 のだ。 章春も間近である。そろそろ実家に手紙でも書いてみようかとも思う。母と同じように 第女になった自分には、今では少しは書くべきこともあるかもしれない 邦之と邦一が雪を払いながら部屋に戻っても、土間のだるまスト 1 プはまだ暖まりき ってはいない。邦之は、毛糸の手袋や帽子、セータ 1 まで床に並べて干すと、美味しそ うに両切り煙草を吸った。らくだのシャッとステテコ姿だが、痩せた体である。その横 にみさ子が座る。彼女はいつの間にかセ 1 タ 1 とズボンに着替えている。 やかん みさ子は、薬缶の湯をのぞき込むと、まだ茶は無理だと思ったのか、煙草に火をつけ ふとん
美しく生まれ、弟にも夫からも愛され、乞われている。 ま・′、ら 今隣にいる夫の青く澄んだ目は、白い枕の上で天井をじっと見上げていた。それでも 今は私のものだ、と幸子は思った。この人は、私のものなのだ、と。 そのときふと、頭をよぎるものがあった。広次が、アパートの部屋で描いていたあの 絵のモデル、青く澄んだ目の女は、孝志の姉なのではないのか 愛「本当ね、適当なことは言うもんじゃないわ。でも、悪い癖だとは思うけつど、私そう 柱いうこと間違えないと思うんだよ」 幸子はそう言うと、最後に深く煙草の煙を胸に吸い込み、大きく吐いた 章「へえ、なるほどな。あの義兄さんがね」 しゅうげん 第 二人は灰皿に、まるでそれが祝言の儀式であるかのように一緒に煙草をもみ消した。 南茅部は、ふたたび昆布の最盛期を迎え、連日漁師たちの活気に溢れている。 進水式を終えたばかりの〈美輝丸〉は、鮮やかに緑色に縁取りが施され、船体には大 きく黒字で名が入れられ、海の上に咲く花のように輝いていた。 だが、今日この船に乗る若い夫婦は、ともに暗く黙り込んだままだった。 どの船の夫婦たちも、昆布を採っている間はロが悪い 269 こ 0 こ あふ
なく飲み干した。薫の横で、邦一は酔いもみせず、どっしりと座っていた。 邦一の隣には潮焼けして皺の深く寄った顔の、どちらかというと小柄な義父の邦之が、 ひろつぐ その隣にははじめて見る義弟の広次が座っている。彼もよく焼けて、だが兄より少し痩 せている。薫がバスから降りてきた時に、ちょうど玄関から出てきたのは長靴を履いた 広次だった。頭の雪を払いながら薫を見上げたのだ。挨拶をしようと思ったのに、広次 かたず は、そのまま声を出すどころか身動きもしなかった。ただ固唾を飲むように、薫を見た。 あお 愛そして、すたすたと雪の中に出て行ってしまった。今は手酌で酒を呷りながら、眉をし せわ 雪かめて忙しなく煙草を吸っている 白 薫が向かい側に視線を移すと、タミもつがれるままに気持ちよく盃をあけている。 章 襟の抜き方といい、たつぶりとした座り方といい 、どこか芸者風情なところがあると 第薫は思った。薫の視線に気がつくと、母は首をゆっくり傾け、隣に座っていた孝志に何 ささや ごとかを囁いた。 にお 孝志は白いネクタイをゆるめると立ち上がり、母親に頼まれた通り煙草の煙と酒の匂 いの充満する部屋の窓を開け、そのまま勝手口へと消えた。もういい加減に疲れている こともあり、少し外にでも出ようという気になっていた。途中、台所をのぞくと、手伝 かつほうぎ いに来ている割烹着姿の女手たちが床にべたんと座っている。だるまスト 1 プにかかっ た薬缶で、茶を沸かして飲んでいる。 、んり やかん さかずき / 、にゆき まゆ
翌朝のこと、幸子はべッドの中で、絶叫していた。 そこには、血の海があった。 すぐに病院へ運ばれたが、流産は止められなかった。 俺のせいだ、と孝志は思っていた。自分は約東を破って煙草を吸ったのだった。 いや、そんなまじないを信じてどうなるのか ? 結局俺という男はいつもこうなるん だと孝志は思っていた。 愛若い二人は青ざめたまま、病室で、二人きりになった。二人ほっちは、一人ほっちょ の り時にはずっと寂しいものだ。世界の中で、ちつほけな愛を抱え、だが二人きりで閉じ 柱 氷 こもってしまった。まるでそんなふうに、孝志には感じられていた。 章 ( 下巻に続く ) 第 351
「なんで ? 」 「何やっても続かねえし、ろくなことしてねえ気もするし 考えてしまったべ 「うん」 幸子は、ばちが当たるとするなら自分の方だと思っていた。こんな商売女を、図太く 若い夫に引き受けさせて、今では澄まして女房然としているのだ。商売をしていたとき には堕胎だって、二度経験している。 愛 柱「二人で、願掛けしようか」 氷ほっつと幸子は言った。化粧をすべて落とした幸子の顔は、眉毛も半分しかなく貧相 ふとん 章 で、本当の年よりは老けて見える。孝志は、布団の中で妻と手をつなぐと、言った。 第「酒やめるが ? 」 「うん、煙草かな ? 」 かけごと 「賭事もだべ ? 」 「これ、はやめてもしようがないか」 いたずら 幸子はそう言うと、夫の性器に手を伸ばしてくすっと笑った。その悪戯な夫の部分は 今もすぐに反応し、堅くなった。幸子は愛しいと思った。 「やめろよ」 267 な 1 んてな、ちょっと
そう、続けた。 「はい、お嬢さん、久しぶりのところで次は何いきますか ? 」 馴染みの寿司屋は、こんなときのタイミングがうまい。客人たちの気分が沈まないよ うに、合いの手を入れる。 「そうね、もう一度鯖もらおうかな」 薫がそう言った時点で、孝志はタミと顔を見合わせた。 愛「うれしっすね、今日はずいぶん召し上がってくれるつけ」 の と、板前は白い手でガラスケースから、鯖をつまみ出す。 柱 「薫、お前、また妊娠してんのが ? 昔は鯖なんて喰わなかったろう」 章 孝志が、ピールをあおりながら言った。 第「そんなことないと思うけつど」 薫はのんびり、答える。 「まだ調べていないなら、早めに先生に看てもらうんだよ」 タミは、煙草をふかしながら言った。 すでに満腹である二人の横で、薫だけがなお食べ続けているのだ。 タミにとっては、薫がまた妊娠しようが、特別な出来事ではない。 初孫にあたる美輝はもちろん可愛いが、生まれたところで赤木の家の子供なのだし、 337 かわい
火の粉 愛函館市内に、一一年ぶりの大火が発生し、新聞は号外を出した。 の 原因は、民家の煙突から飛び散った火の粉で、これが浜風に煽られあっという間に 雪 まさめ 白 家々の屋根に燃え移った。函館の家屋は、たいていの屋根が柾目張りで造られていると ねら 章 いうこともあり、火がすぐに回ってしまう。それにしても、好景気の港町を狙って火も 第集まってくるかのように、函館ではここのところ、数年に一度の割で、大火が起きてい 孝志は、丸めた新聞号外を背広のポケットから出して広げると、声を出して読んだ。 〈大門から松風町の一帯がもっとも大きな被害にあった。夜中に警報が鳴ると、宿屋街 からは一斉に、女も、立ち寄っていた男たちも、丹前一枚羽織ったままの姿で、夜の赤 く揺れる町の中に飛び出たのだ〉 「そうやって慌てたんだから、おかしいよなあ。したけど、母さん、煙草の火にだけは 「お願いしますー と、ロにしていたのだ。 あわ あお