そう、第三分野とは、女子学生たちとのつき合いをさすのである。 「あ、えー、俺のエッセンを喰わないように」 高山は、逸る気持ちを抑えつつ、寮務室へと向かった。どうせまた妹なのかもしれな ひそ いが、今では高山には密かな期待もあった。 あの焼き鳥屋でのデート ( ! ) の後、高山は考えに考えた末に美輝に手紙を送ってい たのだった。 猫そこには、またしても、詩など一篇書き加えた。今度はリルケではなく、マヤコ 1 フ スキイというロシアの革命詩人の詩である。 〈きみへの同じ感謝に ばくら言葉を合わせている、 海溶岩のごとき赤い星の兵士よ。 えいごう 永劫に、同志諸君、 tJ みらに 名誉、名誉、名誉を ! 〉 リルケと違って理解してもらえるかどうかわからなかったが、あの後、部屋に戻って 久しぶりに詩集などひつばり出した高山に、その詩の中の〈赤い星の兵士〉という言葉 が住みついた。 162
美哉は、父と母のことを尋ねたつもりだったが、自分のことのようにも思えた。 神父は、首を傾げた。 「難しい質問です。ただ聖書には、色々な例があります。娼婦のような人がとても深い 信仰を得たこともある。深い闇には、深い光がさすのです。そんな奇跡を私はたくさん 知っています」 美哉の目頭が燃えるように熱くなった。涙は零さなかった。 愛「私のことも、受け入れてもらえますか ? 」 。それを拒むことは決して 氷「まあそう焦らすに、少しずつ教会に来て、学ばれるといい 流 ありませんよ」 章美哉が正式に入信し、教会員になったのは冬の寒さの最も厳しい時期である。タミは 第その報告を、黙って受け止めた。姉の美輝だけが、激しくその事実に拒否反応を示した。 だが美哉はもう、一人で歩き出す強さを持ち始めていた。 クラーク会館のストープの脇に座り、美輝は課題であるレポートをまとめていた。 壁にかかった丸時計は五時をさしている。もうじき修介も現れるだろうと思ってここ にやって来たのだが、出発前には立ち寄ることができなくなったのかもしれない。彼は 今夜札幌をたち、日本海回りの「白鳥」で京都へ行くことになっている。農学系学生の かし わき しよ、つふ
海 〈まだ見ぬ君よ この海の彼方から 今懸命にこの朝焼けに向かって歩んで来ようとしている君よ 真新しい愛と出会いに ひとかけら 僕らすべてと一欠片の苦しみを分かち合いに 猫そして清らかな母の潮に出会いに この荒ぶる海の水面に 現れ出よ〉 小寺は、握り飯を食べ終えると、潮の音に包まれながら眠ってしまったようだった。 先ほどまで水平線から半分だけ顔を出していた朝陽が完全に姿を見せて、海は黄金色 に輝きだした。船の音が、聞こえ始める。漁師たちが、この朝も、すでに漁を始めてい るのである。 うぶごえ その時、甲高い産声が、青い屋根の家から大きく漏れた 美哉と修介が見つめ合った。美哉はふたたび胸の十字架に手をあてた。 「主イエス様、ありがとう」 358 いで かなた
突き飛ばした。母親は、囲炉裏端にほうり出された。そのときじゅっと音がして、広次 が振り返ると、そこには薬缶の湯が吹き出ていた。 「あ、母さん」 「痛い 1 、痛いよー」 みもだ 母親が囲炉裏端で、もんべに包まれた足をみ上げ、身悶えている。 うめ 広次は我に返り、母親のもんべをぬがそうとするが、みさ子は暴れて呻き始めた。 あわ 猫広次は、慌てて雪の積もる外に出た。 「頼むー、本家の姉さん、医者さ呼んでくれ。母さん、火傷させた 1 。頼むー」 「痛いよー、なんとかしてくれ 1 」 母親はなおも呻き続ける 海赤木の家が、かってない混乱に包まれた。 ひそ 本家の嫁ーーかって薫が密かに「かげろうさん」と呼んだ女が医者に電話をかけに戻 ったが、それ以前にロープに繋がれた嫁を見て、震え始めた。 「なしてさ。あんたなしてこんなになるまで私に言わないの ? 」 うる 薫は、もはや返事もなく潤んだ目で彼女を見上げた。 漁協から戻った父と兄が驚き、兄は広次を責めた。兄弟はつかみ合い、だが広次の心 : はじめて見る美哉の姿だった。 に焼き付いたのは、他でもなし やかん つな やけど
「奥さんと一緒なの ? 電話の向こうの啓子は声を潜める。 「違うよ、ただ赤ん坊の具合がちょっと悪くて、前に言っていたあの病院さ、紹介して くれねえか。うちのが行ってたとこ」 「そういうことですか ? 」 「あ、そういうことです」 猫「何だか変な電話。奥さんに聞けばいいでつしよう。まあいいわ。函館の電車通りのと ころにある山本産婦人科っていうんだよ」 「わかった。また電話する」 「また、って今度はいっ ? 海啓子は、今度はすがるような声を出した。 「うん、近々さ」 邦一はそのまま駅舎を出ると、ロータリ 1 でタクシ 1 を拾った。制帽をかぶった運転 手に病院名を告げると、車はそのまま電車通りへと向かった。タクシ 1 の時計の針はす でにタ方の五時をさしていて、もしかしたら病院はもう終わりかもしれないと思うと、 心が逸り、運転手に早く行ってくれるよう促した。 「子供さんが、生まれそうなのかい ? 」
クシ 1 を降りてもなお美輝の手を引いて、足下が砂利でおばっかない教会の敷地内へと 進んでいった。 ドアに手をかけると、やはり閉まっている。どんどん、どんどん。美哉は激しくノッ クを繰り返した。 「信者さん、どなたかいらっしゃいませんか ? 」 「美哉、ここに閉門時間が五時と書いてあるわ。もうとっくにお終い。また今度にしょ 暗がりに美輝の目が慣れてくると、一面に花が植えられていることに気付かされる。 赤い薔薇が、教会を囲むように咲いていた。ここは鮮烈な生命に囲まれている、そう感 じられた。 海「どなたか、いたらお願いしますー 鈍い摩擦音がゆっくりと響き、ドアが開いた。 黒くて長い、床まで届きそうな衣装をつけた青年が顔を出した。 美輝は一瞬、足が動かなかった。丸眼鏡の青年は、色白でいかにも繊細な面持ちだっ た。なのに何故か、その人と写真の中の美哉の父という人の面影が重なったのである。 「私は、以前にもここへやって来ました。母と父のことを知りたくて。今日は姉も連れ て来ました。中へ入れてけさい」 なぜ
顔立ちだった。セータ 1 にコーデュロイのパンツという組み合わせは育ちの良さを思わ せた。両足を踏ん張り、しつかり生きている。若々しく目を輝かせていた。しつかり前 を向いて生きている男だと思った。 修介の来訪に驚いているのは、むしろ美輝の方だった。 「結婚しよう」 玄関口に立ったまま、修介はそう言った。 愛「そう言いに来ました。一緒に生きて行こう」 氷美輝は、ジ 1 ンズにオレンジのセ 1 ターという軽装だった。いつものように美しかっ た。修介は、改めて来てよかったと感じ入っていた。自分の中のそんな情熱が誇らしく 章思えた。 きびす まばた 第美輝はいつになく落ち着かない瞬きを繰り返し、返事もせずに踵を返すと、居間に戻 ってしまった。大声で言った。 「おばあ、おばあ、聞いて。私、結婚するのよ ! 」 タミは笑いながら、孫娘に連れられて玄関までふたたび現れた。 「ご挨拶が遅れました。高山と申しますー やれやれ、孫娘もまた早々と結婚しようとしている。薫と同じ二十歳の花嫁だった。 幻だがなぜか、薫が結婚すると言い出したときのようなあの不安はもうなかった。
みた。体が落ち着いた。頭の芯に張り詰めていた緊張も、少し解き放たれた感があった。 せめてここへ来られてよかった、と邦一は思っていた。自分とは生き方が違うとはい え、広次はたった一人の弟なのだ。 鐘がもう一度、ゴ 1 ンと鳴る。 音がやみ、その音の気配だけが深く、ふたたび周囲に漂い始める。 「兄貴、突然なした ? 猫と、黒く長い裾がなびく教会服を身につけた広次が、重たいドアを開けた。教会の中 がちらっと見えた。幾本ものろうそくの明りが揺れている。 「どうぞ、中へ入っていただきなさい」 広次の後ろから白髪の神父と思しき男が顔を出し、手でゆっくりと邦一を招いた。そ 海の独特の穏やかな空気に、邦一は少し畏縮して、だが大きな声で答えた。 「いつつも弟が世話になっています」 神父は、微笑む。 「我らは、ともに神の子です」 「外でいいんだけつど」 神父は、広次の肩をほんと叩く。 広次の方は、兄の目を見て、一瞬心臓が凍りそうになった。漁で大切なこの時期に、 ほほえ たた いしゆく
「いいわ、記念にしますー 姉妹はくくくっと笑いながらまた歩き出した。 ちょうど自転車も返す予定だったし、美輝は恵迪寮を訪ねてみることにした。メイン ストリートを引き返す形で、また車輪を転がしながら進んでいった。 じゃあ、美哉は何が得意なの ? ーー恋よ 猫昨夜、突然そう言った妹の言葉が、今も美輝の耳の中で響いていた。恋ってすごい、 美哉、何でもできる気がするのーー・ー、妹はそう言ったのだ。美輝は、そんなこととは無 縁でいたかった。だがなぜか修介には会いたかった。それが恋とは思えなかったが、な ぜか修介と会うと、エネルギーが湧いてくる。まっすぐ、信ずるように生きていける、 海そう感じられるのが不思議だった。 寮の前に到着すると、サスケがくさりに繋がれていて、尾を振って迎えてくれた。 玄関から寮務室をのぞき、修介を呼んで欲しいと頼むと、盛大なアナウンスがなされ、 あわ チェックのシャツにジ 1 ンズという格好のぼさほさ頭が慌てて出てきた。 修介は、まさかの女二人組の来訪に驚いて目をしばたいている 「自転車を返しに来たの。それと妹を紹介します。昨日、突然函館からやって来たの 176
吉男はスラックスのポケットからハンカチを出して、額の汗を拭った。 「孝志くんがね、あの店の主人に可愛がられていたのはご存知かい ? 、 ほ、つ」、つ 吉男はそれを一言うべきかどうか迷っていたのだった。タミは頑固で、あの放蕩息子の 名を口にすればどう反応するかわからない 「孝志が ? じゃあ、この話はあの子からの話なんですか ? 「いや、そうじゃない。お茶をもう一杯、けさい きゅうす 今度はタミが自分で台所に立った。タミは急須を探しながら、美哉の様子を盗み見た。 愛 氷孝志の名に動揺したりしていたら、病気をぶり返すことになりそうで気が気でなかった。 流だが美哉は、奥の部屋に座ったまま、その白い手でミチルの背中を撫でていた。 だんな 章「何でも病気の旦那のところに、孝志くんはよく見舞いに行っていたそうだよ。かいか りんご 第 いしく林檎をきれいに剥いたり、港であがったばかりの烏賊をさばいて運んだりしてい たそうだ」 「まめな子なんですよ。だけつど、どうして知り合いだったものか。吉男さんは、聞い ておられますか ? 」 まばた 吉男は軽く瞬きをする。 「まあ、はじまりは、孝志くんがあちらの旦那に借金をしたらしい。返済も終わってい ないのに死なれちゃ困るって言って見舞いに来ていたって、奥さんは笑って言うんだね。 かわい