函館 - みる会図書館


検索対象: 海猫 下巻
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1. 海猫 下巻

温もりを得て、凍らせていた何かを氷解させたとき、もう俺を必要としなくなった、 ということか。今の薫の強さは、男たちや母の強さとはまったく別の種類のものに見え る。冬の海へ飛び出す海猫たちのように果敢だ。あんなに痩せて弱っている、というの 函館港から、汽笛の音が鳴り響く。 とら 邦一の心は、どれだけ振り払おうとしても薫の面影に囚われてしまう。邦一は、深く うそ 愛ため息をついた。今、帰宅したら、嘘のように満面の笑みで自分にしがみついてきては の くれないだろうか。そうしたら、すぐにも抱き締めて首筋から指の先まですべてを愛撫 柱 氷して女を満たすだろう。翌朝には、薫はまた何度も白飯をおかわりしてよく食べる嫁さ 章んだと言われるに違いない。なぜ、この俺を必要としない : くらやみ 第邦一は、振り向き、まるで港の明りに背を向けるように函館山に続く暗闇の石畳の坂 を登り始めた。長い坂に感じられた。 汽笛の音は、なお響いている。邦一を追い掛けてくるように感じられる。 ふと、広次のいるという教会へ行ってみようと思った。 細かな地理は把握していないが、函館山の裾野には教会がたくさんある。その中で、 かんむり 広次のいる教会はたまねぎのような形のとんがった冠を幾つも乗せているのが目印だと 父が言っていたのを憶えている。 あいぶ

2. 海猫 下巻

函館山の麓のハリストス正教会にも、改めて取材に出かけた。特別にミサの場にも立 ち合う機会を得ている。イオフ馬場登神父のお話は取材を越えて心に焼き付いた。ここ かな で、教会の皆さん並びに読者の方々にお断りしなくてはいけないのは、印象的な音を奏 でる大小六個の鐘は、実際には、昭和十七年に軍事供出された後、昭和四十三年に大鐘 が一つ献納されるまでの間、存在していないということだ。つまり函館の町にはあの鐘 の音が響かなかった空白の時間があった。鐘をつく人もなかった。本書では、その事実 きに反し、鐘と鐘をつく人が存在した函館と教会を描いた。墓地や葬儀、十字架など非常 に繊細であるべき部分にも小説が立ち入っていることを、お許し願いたく思う。 また、作品中に引用したリルケとマヤコ 1 フスキイの詩はそれぞれ片山敏彦氏、黒田 辰男氏の訳によっていることをここに付記する。 あ単行本化にあたっては、出版部の栗原正哉さんと青木大輔さんが、決して短いとは言 えないこの原稿を丁寧に読み込み、海がより大きくうねるための力をくれた。ここに深 く感謝いたします。 二〇〇二年八月 383 ふもと 谷村志穂

3. 海猫 下巻

として満たされたわけでもない。朝にならぬうちに吉男には帰ってもらった。翌日、タ あさぶろ ミは朝風呂へ行き、丁寧に体を洗った。 思えばそれがタミにとって最後の性の時間になっていた。 鏡の中の自分が赤らんでいるのを見て、タミは今なぜそんなことを思い出したのか、 はっとする 若い孫娘たちとの時間は輝いてはいたが、女としてのタミには残酷でもあった。今日 猫も深酒をしそ、つだとタミは思、つ。 しらが 白髪が少し混じり始めた髪を、大きく結い上げ、着物に袖を通そうかと考え始める。 美輝は、朝から、気を落ちつかせるために、首にプルーのマフラ 1 を巻いて函館山ま 海で出かけていた。 教会の立ち並ぶ坂をゆっくり歩きながら、時折立ち止まっては海を見下ろした。 赤い函館ドックのクレーンを見つめていると、そこがいつも世界への窓口に思えたも のだ。 これまで何度も一人でここへ来ては考え事をしたが、北大に合格すると、もうここへ やって来ることもなかなか出来なくなる。今日がその発表なのだった。 美輝は、心の落ち着きというものをコントロ 1 ルする術を、知っていた。自分の体の そで

4. 海猫 下巻

「はいはい、今日はずいぶんお帰りを言われる日だよ」 たた タミはまたそうして減らず口を叩く。 吉男はただ黙って頭を下げた。 タミは空腹だったが、 茶をもらって早速吉男と話し始めた。美哉は膝にミチルを乗せ て、聞くでもなく奥の部屋にいた。 吉男の話は意外な提案だった。 猫函館五島軒のすぐ近くにある洋菓子屋の店主が急死した。妻は店を畳むことを決めた。 ついては、借り手を探している、というのだ。 その洋菓子屋なら、タミも何度か出かけたことがある。中庭はテラスになっており、 夏には白いテ 1 プルと椅子を出して観光客にも人気があった。ちょうど港を見下ろす位 ふもと 海置に立っており、函館山の麓の教会の鐘の音も聞こえる。外人墓地からも、程近かった。 「だけつど、あそこなら、借り手がいくらでもあるでしようから、高い値を言ってくる んだろうね 「それが、そうでもないんだ。というか、未亡人はあんたに思い入れがあるらしくって ね。よかったらぜひ、あんたみたいな人に借りて欲しいんだそうだよ」 「それは何故ですか ? 「うん、いやあ」 252 ひざ

5. 海猫 下巻

いや、正直に言うなら、タミも今すぐにでも新しい家族が欲しかったのだ。女ばかり たくま いびつ の歪な家族に、若く逞しい男が入って来てくれることは、おそらくこれから老いていく 一方のタミの救いになるだろうと思えた。 「まあお入りになりなさいな。ずっとそんなところに立っていることもないでしよう これで、少しは肩の荷が降りるというものだ。 昭和五十四年正月、修介と美輝は学生結婚する。 二十二歳と、二十歳という若さだった。 美哉の体調のこともあり結婚式は行わず、函館山の山裾の元町にある写真館で記念の 海写真だけを撮ってもらった。着物はそれぞれ貸衣装だったが、美輝の腰にはあの椿の帯 がつけられた。 函館にいる修介の母親と妹も駆けつけてくれたが、美哉は写真館までも来ることがで きなかった。修介の母親は二人に、名前を刻んだプラチナの指輪と、モンプランの万年 筆をプレゼントしてくれた。 「美輝さんも、大学だけは、卒業したらどうですか ? あなたたちにはきっと、これか ら社会に出て、何か使命があるのでしようからー 猫 214 やますそ

6. 海猫 下巻

美輝に、修介の亡くなった父親は、新聞記者で、正義感の強い男だった、と話してく れた。 撮影が終わると、ロープウェ 1 で函館山に登り、夜になるまでじっと街の灯を眺めて いた。それが、二人にとってのささやかな記念の夜になった。 翌朝には、修介はすぐに札幌に戻って行ったが、美輝は、そのまま函館にのこった。 毎日経ロ薬をとっている美哉の体調は、かすかには回復しているように見えた。時折 は、椅子に座って窓の外を眺めたり、本を読んだりするようになっていた。だが、美哉 愛 ゅううつ が放っ憂鬱な空気は、家の中の色彩を取り去るかのようだった。 流 「おめでとう、お姉 ひざ 章ある日美哉は、美輝が起きてくると、そう言った。膝の上に、結婚写真を広げていた。 第「うん、修介、憶えているでしょ ? 」 「私、お姉と、修介さんにいっか海に連れて行って欲しい。父さんと母さんが眠ってい る海へー 美哉は必死にそう言うと、胸の十字架に手を当てた。 うなず 美輝は、しばらく考えていた。それだけは、うんとは頷けなかった。いや、ひと月前 の美輝なら、だめよ、とにべもなく断っていただろう。 美輝の中には今では、修介が住んでいた。彼は美輝にこう言っていた。美哉ちゃんに 215 ねえ

7. 海猫 下巻

猫 「だから言ったのだわ、美哉ー 愛なんて、いっか人を壊すものなのよ。 せりふ それは、美哉が札幌にやってきたときに、紛れもなく美輝が妹に言った台詞だった。 なのに、今の修介への思いは一体どう表現したらいいのか。人を愛するつもりなどな かったはずだったのに。 美輝は、部屋へ戻るとポストンバッグに、函館行きの荷物を詰めた。 函館の駅を降りると、美輝は市電に乗り換えた。石畳の坂道をゆっくり走る路面電車 の音が、美輝に懐かしい函館の街の色や匂いを思い起こさせた。 美哉とおばあと、三人で過ごした私の街だ。私はどうして、一度も帰って来なかった 海のたろう・・ : : 大学へ入ってから、一度も函館に戻っていない。アパ 1 トでは、毎晩、眠る前に必ず 美哉やおばあの写真を眺めては話しかけてきた。かけがえのない家族であることに変わ りなかった。 だが、やはり私は忘れたかったのだ、と美輝は思った。函館の街に閉じ込められた記 よろい 憶はずっと彼女の背にのしかかる重たい鎧のようだった。一人街を離れた今、なんと身 軽に感じられていたことだろう。 200 なっ にお

8. 海猫 下巻

猫 美哉〉 その手紙を畳むと、美輝は再び自分の心に灰色の雲が押し寄せてくるのを感じた。函 海館では、知らない間に色々なことが、自分を置き去りに進んでいるように感じられた。 そもそも私は一人函館を離れ、すでに修介と結婚した身である。だが、美輝の頭の中 ゆいいっ ではいつまでも彼らは自分と一体の唯一の存在であるはずだった。 「あ、美輝さん、相変わらずきれいだな」 クラ 1 ク会館を忙しく出入りする学生たちの流れに混じって、向こうから修介の後輩 が現れた。 「まあ、立て看も、ずいぶん口が上手になったことー 296 と二人を見届けることができます。それに、そもそもその選択は、二人の愛の軌跡に 合っていると思うのです。 お姉ちゃん、ロシア正教の墓地は素敵です。皆、海に面して立てられるのです。日 なせ 本のお墓は何故か海を背に立っているでしよう。でも、私たちのお墓では、いつも海 を眺めて休んでいられるのです。お忙しいでしようが、そちらの意見を聞かせて下さ 祈りを込めて

9. 海猫 下巻

参考資料 385 『函館の音』 ( いるかによる ) 「おーいニッポン今日はとことん北海道函館ハリストス正教会中継』 197151978 ) 』若菜博 ( インタ 1 ネット ) 「 200 海里時代の略史 ( 四・ 8 ・ 1 放送 )

10. 海猫 下巻

「広次ってのは、わからねえもんに夢中になるもな。来年は北洋さ乗らないっていうん だは。とんがり屋根の教会で鐘さつくんだと。あいつは男色だったりしねえべな、お そういえば広次の女など見たことがないが、邦一だって結婚するまでは同じだった。 普段からちゃらちゃら女を連れて歩いている男など、ろくなもんでねえ。そういう意味 では、自分は軟派になったと思う。啓子を連れて、函館山のロープウェ 1 に乗ったりし 猫ているのだから。 すべてに嫌気がさしてきた。こうして妻のことなどに頭を曇らせている自分にも、だ からといって病院まで行ってしまった自分もすべてみつともないと思った。 とんがり屋根の教会はすぐにわかった。坂の中腹を横にそれた小道に立つ、白壁に緑 たぐ 海の屋根の清潔な教会だ。なんとなく、その清潔感はいかにも弟が好みそうな類いのもの に思えた。広次は、子供の頃からどんなに遊んでいてもメンコやビー玉をきちんと自分 の箱の中に、しかも番地でもつけているように整理して並べた。かといって、友達がそ れを欲しがると気前良く手渡してしまう。そんなところがあった。 教会のとんがり屋根には照明が当たり、まだ冬でもないのに雪景色であるかのようだ。 邦一は、しばらく屋根を見上げて立っていた。鐘がたくさんぶら下がった六角形の鐘 楼の切り取られた窓の部分に、小さく人影が見えた。