医師は美輝の肌が健康的に赤みをさし、目が生き生きとしているのを見てそう言った のだろう。 その足で美輝は懐かしい大学のキャンパスに入った。もう夏も終わろうとしている 緑の中央ロ 1 ンに、学生たちが寝転んでいる 大きな腹の美輝には、彼らの視線を気にしている余裕もなかった。重たい体を何とか 急がせて、図書館に入った。 かんばみちこ 一九六〇年、安保闘争で東大生・樺美智子死亡、カラ 1 テレビ本放送開始、右翼少年 愛 氷による浅沼稲次郎社会党委員長刺殺、国民所得倍増計画 : : : 、過去の新聞のマイクロフ 流 イルムの閲覧をすることができるコーナーがあるのは、知っていた。幾つもの記事の中 章に、その小さな記事は眠っていた。 第〈茅部郡南茅部町字 * 丁目漁師、赤木邦一の妻、薫 ( 歳 ) と、義弟の広次 ( 歳 ) は、同日午後三時二十五分頃に、南茅部黒鷲岬から落下し、死亡した模様。駆け 付けた警官たちの検証で、現場は雪で足元が見えず、薫が足を踏み外した後を広次が 追った心中事件として捜査を進めている〉 にわ 美輝が俄かに硬直し表情を失った。 広次、それは美哉の父親の名前。 くろわしみさき 黒鷲岬 317
主な参考資料 「函館ガンガン寺物語」厨川勇 ( 北海道新聞社 ) 「道南の女たち」道南女性史研究会編 ( 幻洋社 ) 「北海道の方言紀行」石垣福雄 ( 北海道新聞社 ) 「北海道弁・函館弁』川内谷繁一一一 ( 幻洋社 ) 『北海道方言辞典』石垣福雄 ( 北海道新聞社 ) 猫「南茅部町史上下巻」南茅部町史編集室編 ( 南茅部町 ) 「南茅部町史写真集海のふるさと』南茅部町町制施行周年記念事業準備室編 ( 南茅部町 ) 「リルケ詩集」片山敏彦訳 ( みすず書房 ) 「マヤコーフスキイ生活と創造』ベルツオフ著黒田辰男他訳 ( 啓隆閣 ) 海「新訂函館散策案内」須藤隆仙 ( 南北海道史研究会 ) 「北海道ふしぎふしぎ物語」合田一道 ( 幻洋社 ) 「主の復活聖堂 5 聖堂修復工事完成記念』 ( ハリストス正教会による小冊子 ) 「函館ハリストス正教会」 ( 会報編集委員会による小冊子 ) 「大謀網』 ( 南茅部町による小冊子 ) 「北海道新聞」縮刷版 「北海道新聞」シリーズ記事、音のある風景 「特集 200 カイリ・ショック」 ( 月刊「ダン」の記事 ) 384
そんなとき、孝志は舌打ちしたくなる。だから女は嫌なんだ。 女に不平不満を言えた義理ではないが、孝志には今南茅部で起きていることが、何故 だかあまりに不吉なことに思えるのだった。それは、双子のように育ってきた姉への動 物的な勘、もしくは、南茅部に嫁いだ頃から、姉に感じていた空気の延長上にあった。 あっ。小さく声をあげると同時に車がスリップし、左右に大きく揺れる。何とか体勢 を立て直そうと、孝志はハンドルを慌てて切った。車が大きく回転し、どんという鈍い 愛音とともに振動が伝わった。山の斜面に登りかけ、ゆっくりと後退し、慌ててサイドプ の レーキを引くと、車は山に突っ込んだ形で止まった。 柱 舌打ちする。なんてことしちまったんだ。 章孝志は、運転免許を持っていない。組の使い走りをしていた頃に、兄貴分たちの洗車 第をするついでに何度か運転したことがあるだけだった。一体、どうしたらいいんだ。峠 1 コ 1 トに短靴という服装で を越えるというのに、ろくな装備も積んでいない。オー は、車を掘り起こすことも出来ない。それにおそらく、車はかなり破損していることだ ろう。いや、そんなことより早く南茅部に着かねば。孝志は、ハンドルに全身の力を預 けるように、頭をつける。クラクションの音が大きく吹雪の峠に響く。薫、ごめん、俺 は、何でいつもこうなんだ ?
第二章氷柱の愛 ( 承前 ) 昭和三十四年、南茅部
ちがやって来ると医師も緊張して器具を扱い損ねたりする、というのだ。 たず 啓子が、どこの人なのかを訊ねると、南茅部の漁師の妻だと答えたと言う。ふと邦一 の病棟を訪れた妻の姿を思いだしたというのだ。 「そんなの、お宅の奥さんしかいないでしよう ? 」 と、啓子は言った。 「だけつど、うちのは妊娠なんかしてねえよ。啓子にそんなこと隠さねえ。だいたい今 猫は俺は啓ちゃんしか抱きたくねえもんな」 と、邦一はもっともらしいことを口にして、もう一度啓子を抱いたのだった。 そんな、寝物語だった。おかしな話だ、というくらいにしか思っていなかったし、啓 いたずらごころ 子は愛人なのだ、正直な女とはいえ、何か悪戯心が働いているのかもしれないとも疑っ 海ていた。 ところが、南茅部では妻の腹がしだいに膨らみ、動作も鈍くなり、秋も深まってくる と妊娠していると告げられた。 邦一は、それを告げたときの妻の様子があまりにも落ち着いているのに驚いていた。 よろい 新しい生命を腹に宿した人間の持っ興奮や戸惑いは何もなかった。薫は鎧を着ているか のようだった。 啓子の話の女が妻だという証拠はないし、もしそうだったとしても、薫には何かの考
広次には、薫のすすり泣きが聞こえてくるような気がした。なぜ、あのとき薫と美輝 を二人きりで南茅部へ帰してしまったのだろう。強く引き止めなかったのか ? もしく は自分もついていかなかったのか 私、南茅部に帰ります。もうしばらくあなたには会わない すき そうきつばり言った時の薫には立ち入る隙がないように見えた。まるで、重たい氷の ドアの向こう側へ行ってしまったかのように、強く美しく立っていたのだ。 愛今さら、ど、つしたらいいのか ? 柱広次の頭の中を幾つもの考えが駆け巡った。 すぐにでも飛んでいって薫や美輝や、まだ見ぬ子を抱き締めたい熱情にかられた。 章 だがそんなことをしたら、赤木の家は一体どうなってしまうのか 第神に仕える身になることを、男としての自分は神父に約東したばかりでもあった。す べては、薫への愛を心の中で育てていくためだったはずなのに、自分に都合のよい逃げ 道だったようにも思えてきた。 「兄貴、今晩はどうする ? 」 「せつかくだから、大門にでも行くさ。お前と飲もうかとも思ったんだけつど、何だか そんな格好見ちまったら、神父さん、ごめんなさいって気になるべー 「俺はまだ神父じゃないー
の体に愛されるために嫁いだのだと感じることができた。 だが、そんな時間さえも、この頃ではすっかり遠のいている。 しよ、つゆ 村人たちは、今でも赤木の家族を恐れ、啓子は南茅部では味醤油を買うことすら難 しい。時々こうして商店で買い物をしても、店の女たちも、できたら出て行って欲しい という顔を露骨に浮かべる。義父は今ではほとんど寝たきりで、食事もすべて、寝床ま で運んでいってやらねばならない。啓子の持ち前の明るさも、もはや根切れをおこして 愛久しかった。 ヾバになったと布れられている。そう、みさ子の死後、 氷義母は、死して、村ではヤマノ うわさ 流 南茅部の村では、、 月さな子供たちの間でヤマババを見た、という噂が何度も流れるよう 章になっていたのだ。 , 、ら 第裏山に遊びに上がると、光の玉が流れてきて、子供たちの目を眩ませる。すると、ヤ マババの声が聞こえてきて、 「俺の金を盗んだな。逃がさねえぞ。絶対、ここから逃がさねえ」 もち そう言って、手を伸ばすという。時には、握り飯をねだったり、餅をねだったりする こともあり、中には実際に手にしていたパンを取られた子供もあるというのだ。 ある時期は、噂があまりにまことしやかに伝えられ、何人かは、怖がって学校へも行 を、と、つし かないようになった。村に祈疇師が呼ばれて、子供たちの胸には母親たちの手縫いのお おそ
亠の A か去、 函館には祖母が住んでいた。母に連れられ出かけるたびに出会う風景は異なっていた。 特別に好きだった場所は、、 ノリストス正教会、港のドック、各国の文字の並ぶ外国人墓 まばゅ みなも 地などだった。海辺を歩けば、夜に光る烏賊釣り船の眩いランプや、水面を飛び交う海 猫猫たちの白い羽にも出会った。 女たちの長い物語を描くにあたって、舞台は自然とここになった。 みなみかやペ 『海猫』は、函館から川汲峠を越えて、南茅部という昆布漁を営む漁村に一人の若い女 ふ、つば、つ が嫁ぐところから始まる。ロシア人との混血である彼女の風貌は、若い日の母の姿と色 海濃く重なっている。 ゅういちまさみ 南茅部には何度も足を運び、漁師・玉田裕一、昌美ご夫妻をはじめ、町の皆さんにた くさんのご教示をいただいた。方言は複雑に聞こえ、今なお不完全な部分もあろうが、 けんち 地元の教師・剱地紀子さんが監修にあたってくれた。 三年九ヶ月という長きにわたって執筆を支えてくれたのは、北海道新聞社「道新 e 。 」の担当記者陣で、多くの資料を探し出すとともに、取材に同行し、時代背景の 検証に携わってくれた。 382 かっくみ
次 第一一章氷柱の愛 ( 承前 ) 囚われ 海の薔薇 第三章流氷の愛ーー昭和五十一一年、札幌ーー 初恋 修羅の樹 赤い星の兵士 愛の欠片 遠い記億 花のジャム 炎 旅鳥 海猫が舞う あ A ) が (J : 目 ーー昭和三十四年、南茅部ーー 解説 小池真理子 : 三八二 : 八九
赤ん坊の匂いや、懸命に乳を吸い上げる音が、二人の心を安らかにしていた。 美輝は、そのまま眠りそうになり、するとまたあの声が聞こえるのだった。 耳の奥に、海の波の音がして、その向こうから、海猫たちが細く高く声を発している のだ。 「あなた : : : お願いがあるわ」 美輝は、突然あることを口にしていた。 猫「だったら選挙は、南茅部から、立って下さい。私の生まれたあの村から、立って欲し 「それは : : : 」 「私に政治的なことはよくわからない。でも、それが私のたった一つのお願い。あの海 が、私のふるさとなの」 「わかった、一度きちんと考えよう」 修介は、妻の瞳のカの強さに、出会った頃の確信にも似た思いをよぎらせていた。そ の瞳とならば、自分はずっと迷うことなく前へ進んでいけるだろう。 美輝が、福住の教会員である安田由紀子と再会したのは、夏を目前にしてのことだっ 376 ひとみ