と交わしているのは、神に許しを乞える類いの会話ではないだろう。心で、明日は六つ の鐘をつくのだ。今日、神父は言ったはすだった。 「決まったリズムなどはないのです。それぞれの心のリズムでつけばいいのです。私は 私の、ヒロはヒロの。その日の心が現れてもいいのです。ただその心とは、あくまで神 に向けての心ですよ : : : 」 神父が帰っていき、兄も出ていくと、広次は静かな教会の中でただ一人になった。本 うずま くらやみ 愛来なら何より愛おしんでいた時間のはずが、今は渦巻く不安を増幅させるばかりの暗闇 の ひざ 小さなスポットライトのあたった十字架を前に、膝を折って泣き出したい衝動にから 章れている。どう強ぶっても、まだ二十数年しか生きていない男の頼り無い心がどくどく 第と早鐘を鳴らし続けていた。 あまず こんなとき、いつもは女の体を抱いたものだ。柔らかい女の肌や、独特の甘酸つばい 匂いは、広次を瞬時に慰めた。 だが今では、ただ女というだけではだめなのだ。薫でなくては意味がない。そこに、 しん 薫という芯が通っていなくては、広次は慰められることがない 人を愛するとは、なんと苦しいことなのだろう。神が与える最初の苦悩なのだと、広 次は思った。ほんのつかの間の、輝きと引き換えに。 ヾ、」 0 こ
〈どこにいても守ってあげます。 : ここにハンコをつきなさい〉 ねえ 「ごめんね、美哉。本当にごめん。もうお姉は、あなたが好きなだけここにいるわ。美 哉の読みたい本を読んであげるし、食べたいものがあったら作ってあげるわ。何か甘い 物、そうだなドーナツ、私も食べたいな。映画の帰りに食べたパフェも、懐かしいな 「何も食べたくない」 猫そのとき、美哉はようやく口を開いた。 「怖いの。心がパリン、パリン、って今一つずつ壊れているの。その欠片を拾っておか ないと、もう元には戻れないもの。でも、どんどん割れて追いっかないの」 美哉はそう言うと、天井を見上げたまま静かに涙をこばした。自分を見損なうなとで 海も言っているかのようだった。パフェなんかで慰められていた妹は、もうここにはいな いのだ、と。 美輝は、妹の額や頬を拭ってやった。丸く突き出た豊かな額に、頬をつけた。 「大丈夫だよ。美哉、心はどれだけ割れたって、また新しく生まれ変わるの。誰もの心 が、ちゃんと生まれ変わるようにできているのよ」 「欠片は、どうなるの ? 「欠片は、捨てていきなさい。一つずつ踏み潰してしまいなさい。美哉は今、強い子に 204 つぶ かけら
「美哉、そんなこと知って、何になるの ? ふっとう 美輝は足を止めた。心が一気に沸騰し、煮え立つようだった。妹は函館で何をしてい るのだろう。嫌な予感が胸の中を走り回った。 それに美哉、と美輝は心の中で呼びかける。あなたのお父さんは、私のお父さんを裏 切った人。私のお父さんと、あなたのお父さん、どうしたって相容れない。そんな二人 の血を、私たちは逃れようもなく抱えているのよ、あなただってわかっているでしよう 愛 氷「私たちは、前に進む。風になって吹き抜ける。そう決めたでしよ、美哉。振り返るこ 流 とに意味なんてないの」 章美輝は少し心を落ち着かせてそう言った。だが妹は、微笑んだまま続けた。 第「私はそうは思わない。いつも胸の中から何かがこみ上げてくる。この十字架だって」 と、美哉は自分と姉の胸に手を当てた。 「ほらね、お姉ちゃんだって手放すことができないでいる。海の音や、海の匂いや、海 猫の声が、なぜ、こんなにも懐かしく聞こえるのか私にはわかってる。だってそれが、 私たちのお母さんの眠っている場所なんだもん。お母さんに会いたかった。一度でいい から、抱きしめられた時のこと、思い出したかった。でも今ここにいないなら、私はお 母さんが生命をかけた愛というものに抱かれたいの」 183 なっ ほほえ あいい にお
美輝は、妹の肩を抱き寄せてみた。小さな肩が、柔らかく姉の中にことりと落ちてき た、そんな感じがした。 かって姉妹はそうして時折互いの体をびったりと重ねて、心を慰め合ってきたのだっ 「何故会いたくなったんだろう」 美輝はまるで自分に問うように言った。 猫「その人も、お姉ちゃんにずっと会いたいと思って生きてきたからだわー 美哉は、波の音で自分の声がかき消されそうな気がした。美哉は、函館で、誰より早 く赤木邦一の手紙を読んでいた。妹の心には、その時はじめて姉への嫉妬の思いが浮か んだ。姉にはもう一人のこされた家族があった。そのことが妹の動かしようのない事実 せんほう 海への羨望を誘った。 「ここに着いた時にね、私はこの海を知っている、そう思った」 姉の言葉に、美哉はますます心が泡立った。自分こそ、知っている、と思ったのだ。 ずっと思い描いていた場所だった。だったら何故一人でやって来ることをしなかったの だろう。この海のことを父や母のことを尋ねるたびに、姉に頬をぶたれた。だからとい って、美哉が一人で来られなかった場所ではないはずだ。中学生になってからは、地図 で村を探した。バスの路線図も知っていた。だが、来ることができなかった。 しっと
「しかし、こんなとこで。 お前、何か俺たちにしゃべることないが ? 邦一が、突然そう言ったとき、広次は息をのんだ。教会で嘘はつけない。同時に激し く薫の面影が溢れてきた。これまですっと、決して溢れ出てこないように自分の中で飼 い馴らしていた面影だった。一体、俺はどうしたらいい ? 何を守るべきなのかという、 目まぐるしい問いが彼を襲っていた。手に汗が滲む。 「なーんてな。驚いたか ? いや父さんがさ、こんなこと始めるなんてお前は男色なん 愛じゃないべかとか言い出してさ。あれえ、バチ当たるべか、教会でこんなこと言って の 氷にヾ、、 ナ一カくくくっと笑う。屈託のない兄の笑い声を、広次は久しぶりに聞いたように 章思う。その兄を裏切った。そう、自分は確かに裏切ったのだ。だが、これまでなぜかそ 第う感じたことはなかった。兄に何度心を許しても、いつも裏切られてきた弟であった。 兄の心に棲む魔物を、広次は知っている。その魔物が、薫や美輝に向けられてはならな そのために、自分は身を引いたのだ。 夜気に包まれながら、広次の心の中は泡立っていく。 「父さんも、母さんも元気なんだべ ? 」 「んだ、だけつど、お前もちっとも帰ってこねえし、うちに、もう一人子供できたのは 知ってるべ ? 薫に手紙出させておいたんだども」
自分の母が真剣に愛した男は、自分の父ではない。今まさに孝志にそう言われた言葉 が、今さらながら美輝の心を突き刺した。一瞬、封印していたはずの運命への憎しみが 溢れ出しそうになった。 うる 一方子供のいない幸子はふと表情を暗くしたが、目を潤ませて美輝を見上げた。 「こうやって時々でも美輝ちゃんが来てくれるだけで、おばさんはうれしいもね . 「美哉も、あの子には見る権利があるんでしようね 愛「権利とかそういう話じゃないさ。だけど、やつばり見たいし、会いたいんじゃないか の 自分の親なんだから」 かたく 流 それを私は今まで頑なに引き留めてきた。美輝は、はじめて自分が妹に対して犯した 章過ちに気付こうとしていた。 第 美輝は折々、亀田町の孝志の家を訪れるようになった。 孝志は、これまで美輝が知っていた大人たちとは対照的で、勤勉と呼ぶべき所の見当 たらない男だったが、、、 とんな時にも、美哉の病気のことから看病疲れのグチまで、とり とめのない話を時間も心も借しまずに聞いてくれた。 「大丈夫だよ。人にはそんな時もあるんだ」 うつびよう 叔父がそう言うと、なぜか心はふっと落ち着く。鬱病という病気の看病は、気丈な美 229 あふ あやま
「美味しいよ」 タミは普段から世辞はいっさい言わぬので、それは美哉にも伝わったはずだ。 だが、スプーンを口に運びかけていた美哉の、表情は、曇っていた。タミは平静を装 いなからも、やはり病気がまだ完全に治っていなかったのだろうと静かに思っていた。 そのくらいの覚屠はある。 「おばあー と、美哉はゆっくり口にした。 愛 氷「あのね、おばあ」 流 そう言うと、スプ 1 ンを皿に戻してしまった。 章「私、おばあに、そのお店をやって欲しい」 まゆ 第 タミは眉をしかめる 「それで、美哉もそこで働きたい : : : 叔父さんと一緒に」 タミは、唇をきっとしめる。美哉がまだ孝志のことを慕っているのだったらますます その店をやるわナこよ、、 。。 ( し力ない、と首を横に振る 「おばあ、心配しなくていい。私、どうかしていたの。叔父さんは叔父さんだもの。も うおかしなことは考えないよ。美哉、どうしてかわからないけつど、孝志叔父さんとい ると心が自由になるの。たくさん心の中に風が入ってくるの。だって美哉はまだ半分子 よそお
「腹減ったねー と言った。 映画館を出ると、一緒に函館山の方まで上がり、五島軒でハヤシライスを食べた。 ハヤシライスはおばあも好きで、これまでだって何度も食べているのに、今日は緊張 ひも なか して上手に食べられない。お腹の入り口を、紐か何かでくるくるっと縛られているかの よ、つだ。 愛「へえ、そうか、美哉ちゃん緊張してんだな。退屈してんのかと思ったけつど のぞ 氷顔を覗き込んで、孝志が鼻先をつつきながらそう言う。 流 言い当てられると、美哉も少し反発したくなる。映画だなんて、あまりに突然だった 章 からだわ、と言いたいのにそんな言葉も出ない 第「さ、早く食べな。今日はね、案内したいところがあるんだ。海じゃないんだけつど ね」 五島軒を出ると、元町のレンガの坂をゆっくり歩き始めた。途中、どこかの教会の鳴 らす鐘が響いた。幾つも折り重なってやって来る波のように、音は幾重にも広がる。美 哉の心に染みいるような音であった。 潮が混じった風を浴びて歩いているうちに、緊張していた美哉の心がゆっくり風の中 に溶けていくようだった。 149
「うちの子だ。お前の子じゃねえ」 「私の子です。私とあなたの子です」 薫は小声になった。また広次の顔が頭をよぎった。自分は函館で、本当に母の元へ行 くつもりだったのだろうか。心のどこかで、広次にすがろうとしていたのではなかろう か。だとしたなら、罰があたったのだ。すべての人を欺くと、欺きつづけるから美哉を 産ませて下さいと神に誓ったのは自分なのだ。 愛義母は、ふと立ち上がると仏壇を点検し始めた。 柱「あんら、金まで持っていってるわ。この女だは」 氷 「ほんとか ? 母さん」 章邦一がそうたずね、だがみさ子の前に薫が答えた。 第「お金ならすぐに返します、お義母さん、私はただお義母さんに助けて欲しくて」 義母はもはや、薫に対する心をすべて憎しみに変えてしまったかのようだった。情が ひょうへん 深い女こその豹変ぶりであった。 赤木の家族の三人の目が、薫に注がれる。薫は、森で射竦められた小動物のように身 動きができなかった。 ふさわ 「 : : : 私はこの家に相応しくないんだと思います。どうぞ、離縁なり何なりして下さ あざむ すく
その光景は、また激しく修介の心を感動させた。まるで、「フランダースの大』のラ ストシーンのようだ。一枚の絵を前に眠る、ネロ少年と大。 あご それにしても安らかな、美輝の寝顔。陶器のように滑らかな頬から顎にかけての線、 まゆ こうご、つ とが 形のいい豊かな眉、切れ長の目、つんと尖った鼻先、なんと神々しいのだろう。 停車した自転車の後ろの車輪だけがからからと回る音を立てていると、ウオンと、サ スケが吠えた。 愛「あ、シュウスケ」 の と、寝ていてばつが悪かったのか、美輝が肩を竦めた。 氷 流 「呼び出して、ごめんね」 章その様子も、修介の心をくすぐった。 第「いやいや、こんな呼び出しは大歓迎です」 いたずら 「誰がやったのか知らないけど、サスケがね、全身にペンキで悪戯書きされてたのよ。 かわいそう 可哀相に、うちの部室の前をよれよれ歩いていたのよ。私、家に連れ帰って、一緒にシ ャンプーして洗ってあげたの。そうしたら、こんな時間になってしまったの」 「一緒に、シャンプ 1 ! 君は裸で ? 「当たり前です」 「サスケー。おい、話せ、話してごらん、どんなだった ? 」 165 すく