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検索対象: 海猫 下巻
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1. 海猫 下巻

海 美輝は、窓の外に続く広いキャンパスの雪景色に目をやった。木立の影の向こうに りん お、つよ、つ 様々な学部が存在している。それらは凜としているようで鷹揚でもあり、伝統というも のに守られている。北大は、そんな印象を美輝に与えた。 さようなら、赤木美輝 美輝は、突然、もうずっと使ったこともないはずの、その姓を思い出した。海辺の村 にお で生きた、幼い日の記憶が匂いや音を伴って現れそうで、目をつぶる。これでもう、誰 猫も私を知ることのない場所で新しい未来を始めることができるのだから。新しい、真っ 白な一ページ そう思うと、美輝の全身にどくどくと血が漲ってくるかのようなのだ。 やるだけのことはやったわ。神様、後はどうか私を合格させて下さい : ベルの音が講堂に鳴り響き、試験の時間が終了したことを知らせる かばん 美輝は、鞄にペンや受験票をしまうと、誰より早くコートを手に講堂の外に出た。 いちょ、つ 銀杏並木の木立に出た。 廊下を伝い、 雪溶けはもうじきだ。足下がぬかるみ始めている。 白衣を着た学生たちが通り過ぎる。急ぎ足の者もいれば、友人同士でのんびり話して いる者もいる 大学生とは、なんと自由なのだろう。 106 みなぎ

2. 海猫 下巻

美輝は、妹の肩を抱き寄せてみた。小さな肩が、柔らかく姉の中にことりと落ちてき た、そんな感じがした。 かって姉妹はそうして時折互いの体をびったりと重ねて、心を慰め合ってきたのだっ 「何故会いたくなったんだろう」 美輝はまるで自分に問うように言った。 猫「その人も、お姉ちゃんにずっと会いたいと思って生きてきたからだわー 美哉は、波の音で自分の声がかき消されそうな気がした。美哉は、函館で、誰より早 く赤木邦一の手紙を読んでいた。妹の心には、その時はじめて姉への嫉妬の思いが浮か んだ。姉にはもう一人のこされた家族があった。そのことが妹の動かしようのない事実 せんほう 海への羨望を誘った。 「ここに着いた時にね、私はこの海を知っている、そう思った」 姉の言葉に、美哉はますます心が泡立った。自分こそ、知っている、と思ったのだ。 ずっと思い描いていた場所だった。だったら何故一人でやって来ることをしなかったの だろう。この海のことを父や母のことを尋ねるたびに、姉に頬をぶたれた。だからとい って、美哉が一人で来られなかった場所ではないはずだ。中学生になってからは、地図 で村を探した。バスの路線図も知っていた。だが、来ることができなかった。 しっと

3. 海猫 下巻

「おばあ : : : ああ、やつばりおばあだわ ポストンバッグを落として抱きっこうとすると、 「お帰りよ。そうかい、あんたが帰って来てくれるなんて、思ってもみなかったから、 うれしいよ」 と、タミはその化粧もしていない目に薄く涙を浮かべた。すでに皺が深く、皮膚はく それがタミの今の姿だった。 すんだ色をしている。だが相変わらず目の光だけは強い。 猫部屋に上がる。松陰町の家の中は、何も変わっていないようだ。ソフアや掛け時計や カ 1 ペットや、そんなものに少しだけ時の流れが加わったように感じられるだけだった。 「それで、美哉は ? 様子はどう ? 」 タミがいれてくれたカフェ・オレが美輝の空つほの胃を満たしてくれる。電車の中で 海は眠り続け、何も食べていなかった。 「美哉はずっと寝ているんだよ。もう一日中ね、カ 1 テンも締め切ったままで、ご飯も 食べないんだ。お医者さんが言うには、無理に食べさせても仕方がないって。今は何を 食べても砂を噛むような味しかしないらしいんだよ」 「そうなの」 美輝は、カフェ・オレを飲み干すとゆっくり首を横に振った。 「あの子が、あんなに楽しそうだった美哉が、信じられないー 202

4. 海猫 下巻

「しかし、こんなとこで。 お前、何か俺たちにしゃべることないが ? 邦一が、突然そう言ったとき、広次は息をのんだ。教会で嘘はつけない。同時に激し く薫の面影が溢れてきた。これまですっと、決して溢れ出てこないように自分の中で飼 い馴らしていた面影だった。一体、俺はどうしたらいい ? 何を守るべきなのかという、 目まぐるしい問いが彼を襲っていた。手に汗が滲む。 「なーんてな。驚いたか ? いや父さんがさ、こんなこと始めるなんてお前は男色なん 愛じゃないべかとか言い出してさ。あれえ、バチ当たるべか、教会でこんなこと言って の 氷にヾ、、 ナ一カくくくっと笑う。屈託のない兄の笑い声を、広次は久しぶりに聞いたように 章思う。その兄を裏切った。そう、自分は確かに裏切ったのだ。だが、これまでなぜかそ 第う感じたことはなかった。兄に何度心を許しても、いつも裏切られてきた弟であった。 兄の心に棲む魔物を、広次は知っている。その魔物が、薫や美輝に向けられてはならな そのために、自分は身を引いたのだ。 夜気に包まれながら、広次の心の中は泡立っていく。 「父さんも、母さんも元気なんだべ ? 」 「んだ、だけつど、お前もちっとも帰ってこねえし、うちに、もう一人子供できたのは 知ってるべ ? 薫に手紙出させておいたんだども」

5. 海猫 下巻

猫 海 ふとん 布団の隣に滑り込んだ。 ばあはすでに眠りかけていたようだが、 「おばあ、なんだもう寝ちゃったのか。今日は、一緒に寝てもいいでしょ けづくろ 二匹の猫たちもついてきて、布団の上でそれぞれ毛繕いを始めた。美哉はすぐに甘い 寝息を立て始める。おばあは酔って帰ってきたのかと思っていたのに、そう酒臭いわけ でもなくおかしな気がしたが、安心して眠りに落ちる美哉には、もう話す余裕もなかっ タミには、それが幸いだった。 かわい 可愛い孫娘に、今日はどう顔を合わせていいかわからなかった。 今日は、酔っていたわけではないのである。 じんぞう タミは、病院で人を見舞っていた。赤木の家のみさ子だった。みさ子は腎臓ガンで、 いよいよ余命幾ばくもないという時になり、先月、突然、タミに手紙を送ってきたのだ。 〈死ぬ前に、あなた様に一度会えたらと思います〉 そう書かれていた。あの事件があって以来、はじめて届いた赤木の家からの連絡だっ 手紙には、函館市内の大学病院の名と病室、見舞いに来て欲しい時刻までが記されて 〈その時間なら、家の者もおりませんから〉

6. 海猫 下巻

「すみません」 美哉が息を整え、なんとか挨すると、 「やはりよく似ているものです。あなたの御両親のことはよく覚えています [ と、神父は静かに答えてくれた。 「特にお父さんのことはーー、確か北洋船団のお仕事から戻ってすぐにね、ここへ飛び 込んで来られた。宗教的な飢えというものを、おそらく彼は抱えていたのだと思います 猫よ。どこか、外国の港町を歩いていると、あるとき街の鐘が一斉に鳴ったのだそうです。 それは素晴らしい鐘の音だったと話してくれました」 おび 美哉は、もう何も取り繕う必要も、怯える必要も、この方の前ではないのだと思った。 その淡い色の目は、自分と同じでもあった。 海「神父さん、この教会の十字架には、もう一つ斜めの線があります。罪人のための教会 なのですか ? 」 神父は苦笑し、側にいた人たちも口に手を当てて笑った。 「面白いことをおっしやる。違いますよ。そういう意味ではありません」 美哉は、落胆していた。 「だったら伺いたいのです。たとえば、不義の愛というものに身を置いていましたと相 談したら、どう答えて下さいますか ? 」 292 あ

7. 海猫 下巻

「まだまだ子供だと思っていたんだけどね 「俺も気にかけてやればよかった。美哉は今、病院なのか ? タミは、ゆっノり立目を落とした。 「ひとまず、冷たいビールでも、くれないかい」 と、ロにした。 「ああ、いいよ 愛孝志は立ち上がって、用意を始めた。 の その晩遅くに、タミは病室へ戻った。 流 孝志は、しばらく考えた末にテープルに向かってペンを取った。 章〈もうずいぶん会ってもいませんが、元気で大学生をやっていることと思います。 第 今日は報告があって手紙を書きます。残念ながらあまりいい報告ではありません。 美哉が今日入院したと今母さんが言いに来た。美輝に心配かけるわけにいかないと、 母さんはそちらに伝えないでいるつもりらしいです。 昨夜、美哉は、睡眠薬を大量に飲み、胃洗浄を受けました。重い鬱病だそうです。 : 母さんが一人で支えられるのかどうか、俺には今のところわかりません。 とうかん 美輝は、郵便受けに投函されていたその手紙に胸騒ぎが走った。アパ 1 トの前に立っ たまま、封を引きちぎるように読んだ。 199

8. 海猫 下巻

民家から浜への敷地は玉砂利が敷き詰められて、景色を作っている。夏には、そこが 昆布で深い緑一色になるが、すでに昆布の最盛期は終ったらしく、いずれの軒先にも、 まばらに魚や烏賊が干してある。どの景色も、美輝には馴染みがある。 行きかう人が少ない。リャカ 1 を引く老人や、前掛けをした女ばかりが通り過ぎる この頃北海道の漁師たちは、冬の間、東京や千葉へ出稼ぎに行くのだと修介から聞いた のを思い出した。 愛あの人だって、今はこの村にいないのかもしれない の いや、いる。そんな気がしていた。 氷 流 あの人はここにいる。 やまあい 章右手は山間で、道路端にだけ民家が並んでいる。青や赤のトタン屋根が、時折北国ら 第しい色合いを見せていた。 「生きているなら、会ってみたらいいさ。死んでしまうと、もう会いたくたって会えな いんだから」 美輝が何の屈託もなく家族のことを問われ、もうしばらく会っていないわとだけ告げ のぞ ると、男は美輝の目を覗き込み、そうも言った。 「会うと一瞬で、互いがどう生きてきたかわかるものだ」 かっては家族で歩いた、海からの波光に満ちあふれていた道だった。だが今、自分が 321

9. 海猫 下巻

海 「お客さんさ、男なんて、それは切ないもんさ。自分の子かどうかなんて、実感はねえ くら よ。はっきり言うと、その通りだ。それに較べてカミさんたちのあの確かさったらない べ。もう全身から涙流して喜んでいるように見えるわ。でもさ、俺思うけつど、信じる しかないべ。確かめる方法なんてねえんだから、今自分の目の前に生まれたならば、そ れは自分の子供なのよ。他に誰があの母ちゃんとやるかって話もあんだけどね」 運転手はわざとそう言って、くくっと笑う。 猫信じるしかない。確かめる方法なんてねえ。今度は運転手の言葉が頭の中に響いたが、 邦一の心の高鳴りは収まらなかった。運転手さんさ、あんただってもし、それでもどう しても信じられねえ気持ちになったらどうする ? 確かめる方法があったら、どうす ささや る ? そんな囁きが、邦一の目を冷たく光らせた。 邦一は病院の木枠のドアをあけた。 ちょうど白衣を着た医師が、もう帰り支度をしていたのだが、と、出てきてくれた。 丸眼鏡をかけた温厚そうな男で、その男が薫の体を検査したのかもしれないと思うと不 思議な気がした。この男が薫の相手なのかもしれないとまで考え、これでは自分は気が 狂っていると怖くなった。 「ああ、南茅部の。どうぞ、どうぞ」 医師は、もう一度診察室に座り直し、邦一を迎えた。

10. 海猫 下巻

る。その分大人の渋みはついたのかもしれないが、あんなに好きだった寿司を、食べな くなっていたことも印象的だった。酒はますます強くなっただろうか タミは、すっかり酒に弱くなっていた 「あんたには叱られるだろうけど、今日ね、赤木の家の人間に会ってね」 煙草に火をつけ、そう告げると、 「へえ」 愛孝志は、一瞬手を止めたが、それ以上は何も言わなかった。 の みさ子の様子を話し、美輝や美哉に伝えるべきかどうか少し迷っていると話すと、 氷 流 「いい加減にしろや、母さん。わかったろ ? あのばあさんは、もう人間じゃなかった あお コップ酒を呷ったのだった。それでもあの村をふと思い出したのか、 第孝志はそう言い、 「漁師たちは、大変らしいよ。今年は北方海域で船がどんどん拿捕されてるって話だ。 二百カイリ時代に入ってさ」 孝志はそうして、二百カイリとは何であるか、ロシアは二百カイリ協定締結と引き替 えに去年までの抑留船員たちを次々解放していることなど、くどくどと話し始めた。 それも、タミには孝志が年を取ったと思わせたところだった。酒を呑んで、政治の話 を始めるなど、若い男のやることではない。 しか だほ