海 みけんしわ 孝志は眉間に皺を寄せて、ゆっくり首を横に振った。 「俺じゃねえよ いや、何か悪かったが ? 」 「あの子のノ 1 トを読んだんだよ。あんたが避けているとか、手を引かれたとか、そん なことばっかりだった。それも、あの子の想像なのかい ? 」 孝志は、手を伸ばして母親の両肩を抑えた。 「母さん、落ちついてけれや。いや、やつばり俺じゃねえ。今回は息子のことを信じて 猫けれ。俺は、ねえ、ただ時々会って、美哉の父親や母親の話をしてやっただけだ。兄さ んとか、父親とか、そんな代わりになる男を欲しがってた気がしてさ。わかるべ ? ど んなに母さんががんばったって、あの子には物心ついたときから父親も母親も、その記 憶さえもがないんだっから」 しず しだいにタミの気が鎮まっていった。膝で握りしめていた手に、汗が浮いていた。孝 志の目が母親に向かって真剣に語りかけていた。いくらダメな息子だからといって、今 は孝志の言葉が素直に信じられた。というより久しぶりに会う息子は、深みを帯びた目 をした、いい大人になっており、タミはそのまま息子に詫びたいような衝動にかられた。 しばらく会ってもいなかったのに、息子は母を安心させようと必死だった。 「でも、もうずっと会ってねかったよ。何となく、重たかった。あの子も姉さんみたい なとこあるよ。何についても真剣なんだ」 198
まかな 賄っているのだろう。玄関や台所が、ぎこちなく、片づけられていた。 啓子を見ても、母親は挨拶さえしなかったが、 「とりあえず看てみましようねー と、啓子は気にせず台所で手を洗い、母親の額に手をあててみた。ひどい熱で、顔は せ 青く、すぐに咳き込み始めた。 ぜんそく 「喘息が、あるでしよう ? 」 愛母親は、短い沈黙のあと、頷いた 氷体からは汗のすえたような臭いがして、彼女は自分でそれを知っているのか、布団の 流 中で身を縮める。 章「風邪もひいてるのね。それに、まだ軽いけど、肺炎を併発しているんじゃないかと思 てもと 第う。今、喘息の薬は、手許にあるんだろうか ? 、 母親は首を横に振った。 「いいえ、・ : ・ : 買えるあてもなくて。情けないでしよう ? 」 母親は視線を落とすと、肩で荒い息をした。 よく見ると、皮膚がずいぶんと化粧ただれを起こしていた。おそらく水商売でもして いたのだろう。浴衣の胸を、布団の中で、それでもきちっと合わせようとしていた。 「明日、一緒に函館の病院へ行きましよう。薬剤師が必要とするはずだから、今までの 157 ゆかた あいさっ うなず にお
と、美輝は小声で言った。 「南茅部の海に行きたいって、美哉が。ここのところ毎日そう言って、私を責めている のぞ 孝志は、黙って美輝を覗き込んでいた。 「お前、あれ、持ってきて」 幸子にそう言った。 愛「押し入れに、赤い布に包んであるかつら」 氷幸子が、テ 1 プルの上で赤い布を開いた。 流 大判に焼かれた一葉のモノクロームの変色しかけた写真だった。 章中央には、白い角隠しをつけ座った花嫁と、横にはよく陽焼けして顔のくつきりとし はなむこ 第た花婿が座っていた。その横に大勢の人たちが、取り囲んでいた。 なんて美しい女の人、美輝はその写真から目が放せなかった。整った鼻筋と、澄んだ りん うつむ 目が俯き加減に凜としていた。 「わかるべ」 孝志は言った。 はおりはかま 父と母 : : : そうなのだ、この若い花嫁は自分の母親で、羽織袴の花婿は、自分の父親 しん なのである。強い表情だ。揺らぎなく強い太い芯が透けて見える わ」
突き飛ばした。母親は、囲炉裏端にほうり出された。そのときじゅっと音がして、広次 が振り返ると、そこには薬缶の湯が吹き出ていた。 「あ、母さん」 「痛い 1 、痛いよー」 みもだ 母親が囲炉裏端で、もんべに包まれた足をみ上げ、身悶えている。 うめ 広次は我に返り、母親のもんべをぬがそうとするが、みさ子は暴れて呻き始めた。 あわ 猫広次は、慌てて雪の積もる外に出た。 「頼むー、本家の姉さん、医者さ呼んでくれ。母さん、火傷させた 1 。頼むー」 「痛いよー、なんとかしてくれ 1 」 母親はなおも呻き続ける 海赤木の家が、かってない混乱に包まれた。 ひそ 本家の嫁ーーかって薫が密かに「かげろうさん」と呼んだ女が医者に電話をかけに戻 ったが、それ以前にロープに繋がれた嫁を見て、震え始めた。 「なしてさ。あんたなしてこんなになるまで私に言わないの ? 」 うる 薫は、もはや返事もなく潤んだ目で彼女を見上げた。 漁協から戻った父と兄が驚き、兄は広次を責めた。兄弟はつかみ合い、だが広次の心 : はじめて見る美哉の姿だった。 に焼き付いたのは、他でもなし やかん つな やけど
ばあ 「懐かしいよねえ。あちらのお婆ちゃんも、まだちゃんと生きて写ってるもね」 かす 幸子が掠れた声で、一緒に覗き込んで言う。 「あんたも、まだこんな痩せてるわ」 えり 黒い礼服を着た孝志は若いヤクザのように、少し斜に構えている。タミは着物の襟を 大きく開けている。一葉の写真という小さな空間の中で、″時〃が、一気に巻き戻され ていった。 猫「それでこれだ、美輝」 孝志が指し示した。体がしまって、日に焼けた、なのに繊細な感じの、どこか頼りな い表情の男が写っていた。 「美哉の父親さ : : : この日は急に雪が降ってきてな」 皮女は、生まれてはじめて見る自分の 海あとの声はあまり美輝の耳には入らなかった。彳 母親の写真に、再び心を連れ戻されていた。動揺が止まらなかった。なんて悲しそうな はかな 目をした人なのだろう。そしてなんと、儚げなのか あんたん 「やつばり、今この写真を見ると、なんとなく先行きが暗澹として見えるもんだね」 と、ふと幸子が言った。 「俺はそうは思わねえよ。姉さんみたいな女が真剣に誰かを愛したんだ。その方が奇跡 さ。美哉、早くよくならねつかな」 228 なっ
悔いる、という気持ちをここまで深く抱いたのははじめてのことだった。あの、光り こうごう 輝くような神々しい女を、こんな姿にしてしまった。女は、痩せこけ、だが何と静かに そこに横たわっているものか。なせすぐに帰って来なかったのだろう。 「狂ってる。兄さんも、母さん、あんたもだ」 広次は、柱に駆け寄り、ロ 1 プを外そうとした。 「やめれって。だめだって言ってるべ」 はば 愛母親は広次ににじり寄り、その手を阻んだ。 柱「母さん、あんた、自分が何してるのかわかってんのつか、これじゃ囚人だ。そもそも 氷薫は病気だ。これじゃあ、死んじまう」 章 「薫 ? あんた、何で義理の姉さんのことを薫って呼ぶのっさ ? おかしいんでない 第の」 母親は一瞬、手を止めた 「ど、つい、つことさ 「どういうことも、何もねえべ。俺が、義姉さん、病院さ連れてく。タクシーを呼べよ 殺す気か ? 兄さんが帰る前に早くしろ」 「そんなことはさせねえよ」 みさ子は再び広次の腕にしがみついた。息子はカ任せにそれを放そうとして、母親を
「ど、つい、つこと ? ・」 「私たち二人で、この子供たち二人の母親にならないかってこと。由紀子さんが仕事に 行く時間は私がこの子たちを見るわ。そしてあなたが見てくれている時間のうちに、私 きちんと大学を卒業しておきたいの」 「仕事、私が ? 「ええそうよ、だって私たちまだ若いんだもん。このままただ母親になるわナこ、 猫ないわ」 由紀子は驚いたように美輝を見た。 「できるかな、私に」 「できるわよ、だっておつばいは、それぞれに二つずつついているんだもの」 海美輝はそう言って、えくばを浮かべて笑う。 由紀子も、一緒に体を曲げて笑い始め、胸の十字架に手をあてた。 「ありがとうございます、神様」 「お姉ちゃん ? あ、やつばりそうだった」 大通公園にやって来たのは、美哉だった。美輝は今日、彼女に由紀子をここで会わせ ることになっていた。彼女の横に並んでいるのは眼鏡をかけた、白いシャツにグレイの スラックスの青年だった。 378
いや、正直に言うなら、タミも今すぐにでも新しい家族が欲しかったのだ。女ばかり たくま いびつ の歪な家族に、若く逞しい男が入って来てくれることは、おそらくこれから老いていく 一方のタミの救いになるだろうと思えた。 「まあお入りになりなさいな。ずっとそんなところに立っていることもないでしよう これで、少しは肩の荷が降りるというものだ。 昭和五十四年正月、修介と美輝は学生結婚する。 二十二歳と、二十歳という若さだった。 美哉の体調のこともあり結婚式は行わず、函館山の山裾の元町にある写真館で記念の 海写真だけを撮ってもらった。着物はそれぞれ貸衣装だったが、美輝の腰にはあの椿の帯 がつけられた。 函館にいる修介の母親と妹も駆けつけてくれたが、美哉は写真館までも来ることがで きなかった。修介の母親は二人に、名前を刻んだプラチナの指輪と、モンプランの万年 筆をプレゼントしてくれた。 「美輝さんも、大学だけは、卒業したらどうですか ? あなたたちにはきっと、これか ら社会に出て、何か使命があるのでしようからー 猫 214 やますそ
処方をもっていってけさい。明日まで、我慢できるかな ? 」 やかん 啓子が、薬缶を火にかけたり、タオルを洗ったりとてきばきと動きながら質問を続け ると、母親は、問われるままに、答えを返していた。 「じゃあ、これを飲んで少しでも眠ってね。すぐに函館の病院に連絡をしておきます。 お金のことなら、立て替えておくから心配しないで。元気になったら返してくれたらい いわ。それまで、少しくらい私を頼ったっていいでしょ : : : 。奥さん、頼るあてもない 猫のも情けないものでしようけど、誰にも頼られないのも、寂しいものなのよ」 啓子は、母親に白湯を手渡しながら、そう言った。言葉がついこばれたのだった。 元看護婦は、あとは無言で作業を続けた。部屋の中を片づけ、子供に金を渡すと、商 店から幾つか買い物を頼んだ。二人が食べられそうなご飯と焼き魚と青菜のおひたしな 海どを用意した。 夜も更けてから家に戻り、夫にその話をした。 しか 勝手なことをするなと叱られるのかもしれない、と思った。 だが夫は、台所に立っとコップを運んできて、啓子に手渡した。 「啓子、ありがとう」 そう言って、缶ビールをあけた。 「啓ちゃんがそうして、ずっと俺を助けてくれていたことに、俺はどうして恩返しもで 158
膨らんだ腹の上にのった修介の髪を撫でながら、美輝は小声で言い、つづけた。 「そんな言い方、ひどいわね」 修介は、頭を床に落として天井を見上げる。 「君がいつも突然なのは、今に始まったことではないさ。しかし、これからはもう君を こんなに心配するのはいやだ。君に、君たちにはいつも一緒にいて欲しいよ」 函館からも、若い母親になる彼女を励ます手紙が、毎週のように届いていた。美哉か ししゅう 猫ら、孝志や幸子から、タミから、それに修介の母たちからも。修介の母親は、すでに刺繍 うぶぎ のついた産着まで幾枚も用意してくれてあった。 〈私でよかったらいつでも駆けつけます。何なりと頼ってくれていいのですから〉 修介の母からの手紙には、そうも書いてあった。彼らは今は腫れ物に触るように美輝 海に優しい。お帰りなさい、と誰もが言う。だがこの旅は終わったのだろうか。私は結局、 まだあの人に触れていないのだ。 美輝は膝にのせたノートの上で葉書を綴った。 〈美哉へ 私はあの海へ行って来ました。 一人でその岬へ立ってみました。 布かった。 328 つづ