民家から浜への敷地は玉砂利が敷き詰められて、景色を作っている。夏には、そこが 昆布で深い緑一色になるが、すでに昆布の最盛期は終ったらしく、いずれの軒先にも、 まばらに魚や烏賊が干してある。どの景色も、美輝には馴染みがある。 行きかう人が少ない。リャカ 1 を引く老人や、前掛けをした女ばかりが通り過ぎる この頃北海道の漁師たちは、冬の間、東京や千葉へ出稼ぎに行くのだと修介から聞いた のを思い出した。 愛あの人だって、今はこの村にいないのかもしれない の いや、いる。そんな気がしていた。 氷 流 あの人はここにいる。 やまあい 章右手は山間で、道路端にだけ民家が並んでいる。青や赤のトタン屋根が、時折北国ら 第しい色合いを見せていた。 「生きているなら、会ってみたらいいさ。死んでしまうと、もう会いたくたって会えな いんだから」 美輝が何の屈託もなく家族のことを問われ、もうしばらく会っていないわとだけ告げ のぞ ると、男は美輝の目を覗き込み、そうも言った。 「会うと一瞬で、互いがどう生きてきたかわかるものだ」 かっては家族で歩いた、海からの波光に満ちあふれていた道だった。だが今、自分が 321
「しかし、こんなとこで。 お前、何か俺たちにしゃべることないが ? 邦一が、突然そう言ったとき、広次は息をのんだ。教会で嘘はつけない。同時に激し く薫の面影が溢れてきた。これまですっと、決して溢れ出てこないように自分の中で飼 い馴らしていた面影だった。一体、俺はどうしたらいい ? 何を守るべきなのかという、 目まぐるしい問いが彼を襲っていた。手に汗が滲む。 「なーんてな。驚いたか ? いや父さんがさ、こんなこと始めるなんてお前は男色なん 愛じゃないべかとか言い出してさ。あれえ、バチ当たるべか、教会でこんなこと言って の 氷にヾ、、 ナ一カくくくっと笑う。屈託のない兄の笑い声を、広次は久しぶりに聞いたように 章思う。その兄を裏切った。そう、自分は確かに裏切ったのだ。だが、これまでなぜかそ 第う感じたことはなかった。兄に何度心を許しても、いつも裏切られてきた弟であった。 兄の心に棲む魔物を、広次は知っている。その魔物が、薫や美輝に向けられてはならな そのために、自分は身を引いたのだ。 夜気に包まれながら、広次の心の中は泡立っていく。 「父さんも、母さんも元気なんだべ ? 」 「んだ、だけつど、お前もちっとも帰ってこねえし、うちに、もう一人子供できたのは 知ってるべ ? 薫に手紙出させておいたんだども」
「おばあ : : : ああ、やつばりおばあだわ ポストンバッグを落として抱きっこうとすると、 「お帰りよ。そうかい、あんたが帰って来てくれるなんて、思ってもみなかったから、 うれしいよ」 と、タミはその化粧もしていない目に薄く涙を浮かべた。すでに皺が深く、皮膚はく それがタミの今の姿だった。 すんだ色をしている。だが相変わらず目の光だけは強い。 猫部屋に上がる。松陰町の家の中は、何も変わっていないようだ。ソフアや掛け時計や カ 1 ペットや、そんなものに少しだけ時の流れが加わったように感じられるだけだった。 「それで、美哉は ? 様子はどう ? 」 タミがいれてくれたカフェ・オレが美輝の空つほの胃を満たしてくれる。電車の中で 海は眠り続け、何も食べていなかった。 「美哉はずっと寝ているんだよ。もう一日中ね、カ 1 テンも締め切ったままで、ご飯も 食べないんだ。お医者さんが言うには、無理に食べさせても仕方がないって。今は何を 食べても砂を噛むような味しかしないらしいんだよ」 「そうなの」 美輝は、カフェ・オレを飲み干すとゆっくり首を横に振った。 「あの子が、あんなに楽しそうだった美哉が、信じられないー 202
猫 どんなことにもひるまず、大学生活を送っていた。 「おい、野田、お前、もう味噌汁は作れるようになったのか ? 練習を終えて、まとめた髪をほどきプル 1 のサマ 1 セ 1 ターと白いフレアスカ 1 トに 着替えた美輝に、四年の副将が声をかける。 この夏、はじめての合宿があり、美輝たち一年生はエッセン当番、ドイツ語で言うと ころの食事の世話を担当させられた。といっても、カレーや味噌汁といった簡単なもの なべ ばかりで、最後の日は恒例のジンギスカン鍋というありふれた内容だったが、ある日味 噌汁を担当した美輝の周りに人が集まってきたのだった。 味噌汁など作ったことのなかった美輝が、うろ覚えの記憶を引きずり出して、鍋の中 に水をいれて、いきなり味噌を溶き始めた。 海鍋の上を美輝の細く白い指が、エレガントに動いたのはよかったが、周囲はくすくす 笑い始め、結局、美輝は合宿以後は、いつまでたっても、″味噌汁〃、″味咐汁〃とから かわれる羽目になったのである。 「味噌汁なんて、だいたいあんな塩っ辛いもの、みんなどうして好きなのかしら。どう せなら、合宿の献立もボタージュス 1 プだとか、そういうのにして欲しいですー 美輝は、着替えをまとめた鞄を背中に背負うと、そう言って鼻先を上向かせた。 「ほう、相変わらず鼻っ柱が強いね。じゃあ、来年は野田美輝のその素晴らしいボタ 1 かばん
る。その分大人の渋みはついたのかもしれないが、あんなに好きだった寿司を、食べな くなっていたことも印象的だった。酒はますます強くなっただろうか タミは、すっかり酒に弱くなっていた 「あんたには叱られるだろうけど、今日ね、赤木の家の人間に会ってね」 煙草に火をつけ、そう告げると、 「へえ」 愛孝志は、一瞬手を止めたが、それ以上は何も言わなかった。 の みさ子の様子を話し、美輝や美哉に伝えるべきかどうか少し迷っていると話すと、 氷 流 「いい加減にしろや、母さん。わかったろ ? あのばあさんは、もう人間じゃなかった あお コップ酒を呷ったのだった。それでもあの村をふと思い出したのか、 第孝志はそう言い、 「漁師たちは、大変らしいよ。今年は北方海域で船がどんどん拿捕されてるって話だ。 二百カイリ時代に入ってさ」 孝志はそうして、二百カイリとは何であるか、ロシアは二百カイリ協定締結と引き替 えに去年までの抑留船員たちを次々解放していることなど、くどくどと話し始めた。 それも、タミには孝志が年を取ったと思わせたところだった。酒を呑んで、政治の話 を始めるなど、若い男のやることではない。 しか だほ
ひまつぶ 「ただの暇潰しだよ。それでどうしたい ? 買い戻すんなら、今から計算するけどね」 そう言って、大きな算盤を振った。 すべ 「お願いします。正直に言いますが、まずここにあるのが、今自分の所持金全てですー 情けないが、修介は美輝が揃えてくれた十万円の他にはまったくといっていいほど金 は持っていなかった。 「僕はこれから彼女を函館まで迎えに行きたい。なので今使える金はこれしかありませ 愛ん」 氷修介は、そこから一万円札を一枚抜くと、残りの金を机に置いた。 流 「お願いしますー 章「学生さんね。世の中そうは甘くないよ。質屋が十万円で受けた品を九万円で返すなん 第てばかな話はないんでね。でもまあ、帯だけ、なら五万円で渡そうかね。着物のほうは、 取っておいてあげよう。そもそもなかなか珍しい着物だったんでね。期限は、そうだな、 三ヶ月は待とうか。利子がついて、あとちょうど十万だね。質屋の値でこれなんだから、 しっと 本当にいい着物でね、そこには、私の嫉妬も少し入っている、かな、いや、冗談だが ね」 店主は、くくくっと笑い、奥から和紙にくるまれた帯を、丁寧に両手に乗せて運び出 した。 そろばん
美輝は、妹の肩を抱き寄せてみた。小さな肩が、柔らかく姉の中にことりと落ちてき た、そんな感じがした。 かって姉妹はそうして時折互いの体をびったりと重ねて、心を慰め合ってきたのだっ 「何故会いたくなったんだろう」 美輝はまるで自分に問うように言った。 猫「その人も、お姉ちゃんにずっと会いたいと思って生きてきたからだわー 美哉は、波の音で自分の声がかき消されそうな気がした。美哉は、函館で、誰より早 く赤木邦一の手紙を読んでいた。妹の心には、その時はじめて姉への嫉妬の思いが浮か んだ。姉にはもう一人のこされた家族があった。そのことが妹の動かしようのない事実 せんほう 海への羨望を誘った。 「ここに着いた時にね、私はこの海を知っている、そう思った」 姉の言葉に、美哉はますます心が泡立った。自分こそ、知っている、と思ったのだ。 ずっと思い描いていた場所だった。だったら何故一人でやって来ることをしなかったの だろう。この海のことを父や母のことを尋ねるたびに、姉に頬をぶたれた。だからとい って、美哉が一人で来られなかった場所ではないはずだ。中学生になってからは、地図 で村を探した。バスの路線図も知っていた。だが、来ることができなかった。 しっと
吉男はスラックスのポケットからハンカチを出して、額の汗を拭った。 「孝志くんがね、あの店の主人に可愛がられていたのはご存知かい ? 、 ほ、つ」、つ 吉男はそれを一言うべきかどうか迷っていたのだった。タミは頑固で、あの放蕩息子の 名を口にすればどう反応するかわからない 「孝志が ? じゃあ、この話はあの子からの話なんですか ? 「いや、そうじゃない。お茶をもう一杯、けさい きゅうす 今度はタミが自分で台所に立った。タミは急須を探しながら、美哉の様子を盗み見た。 愛 氷孝志の名に動揺したりしていたら、病気をぶり返すことになりそうで気が気でなかった。 流だが美哉は、奥の部屋に座ったまま、その白い手でミチルの背中を撫でていた。 だんな 章「何でも病気の旦那のところに、孝志くんはよく見舞いに行っていたそうだよ。かいか りんご 第 いしく林檎をきれいに剥いたり、港であがったばかりの烏賊をさばいて運んだりしてい たそうだ」 「まめな子なんですよ。だけつど、どうして知り合いだったものか。吉男さんは、聞い ておられますか ? 」 まばた 吉男は軽く瞬きをする。 「まあ、はじまりは、孝志くんがあちらの旦那に借金をしたらしい。返済も終わってい ないのに死なれちゃ困るって言って見舞いに来ていたって、奥さんは笑って言うんだね。 かわい
海 「お客さんさ、男なんて、それは切ないもんさ。自分の子かどうかなんて、実感はねえ くら よ。はっきり言うと、その通りだ。それに較べてカミさんたちのあの確かさったらない べ。もう全身から涙流して喜んでいるように見えるわ。でもさ、俺思うけつど、信じる しかないべ。確かめる方法なんてねえんだから、今自分の目の前に生まれたならば、そ れは自分の子供なのよ。他に誰があの母ちゃんとやるかって話もあんだけどね」 運転手はわざとそう言って、くくっと笑う。 猫信じるしかない。確かめる方法なんてねえ。今度は運転手の言葉が頭の中に響いたが、 邦一の心の高鳴りは収まらなかった。運転手さんさ、あんただってもし、それでもどう しても信じられねえ気持ちになったらどうする ? 確かめる方法があったら、どうす ささや る ? そんな囁きが、邦一の目を冷たく光らせた。 邦一は病院の木枠のドアをあけた。 ちょうど白衣を着た医師が、もう帰り支度をしていたのだが、と、出てきてくれた。 丸眼鏡をかけた温厚そうな男で、その男が薫の体を検査したのかもしれないと思うと不 思議な気がした。この男が薫の相手なのかもしれないとまで考え、これでは自分は気が 狂っていると怖くなった。 「ああ、南茅部の。どうぞ、どうぞ」 医師は、もう一度診察室に座り直し、邦一を迎えた。
〈どこにいても守ってあげます。 : ここにハンコをつきなさい〉 ねえ 「ごめんね、美哉。本当にごめん。もうお姉は、あなたが好きなだけここにいるわ。美 哉の読みたい本を読んであげるし、食べたいものがあったら作ってあげるわ。何か甘い 物、そうだなドーナツ、私も食べたいな。映画の帰りに食べたパフェも、懐かしいな 「何も食べたくない」 猫そのとき、美哉はようやく口を開いた。 「怖いの。心がパリン、パリン、って今一つずつ壊れているの。その欠片を拾っておか ないと、もう元には戻れないもの。でも、どんどん割れて追いっかないの」 美哉はそう言うと、天井を見上げたまま静かに涙をこばした。自分を見損なうなとで 海も言っているかのようだった。パフェなんかで慰められていた妹は、もうここにはいな いのだ、と。 美輝は、妹の額や頬を拭ってやった。丸く突き出た豊かな額に、頬をつけた。 「大丈夫だよ。美哉、心はどれだけ割れたって、また新しく生まれ変わるの。誰もの心 が、ちゃんと生まれ変わるようにできているのよ」 「欠片は、どうなるの ? 「欠片は、捨てていきなさい。一つずつ踏み潰してしまいなさい。美哉は今、強い子に 204 つぶ かけら