か、という事になると、それは、わかリませんてした。おかしいことに、私は「徹子 の部屋、の前にもワイドショウの司会を何年もしていまして、その頃から佐野さんと お知リ合いになリましたから、かれこれ十年になリます。ても、その間、私は、佐野 さんが小林先生を調べてる事は知らなかったし、佐野さんも、私が「素晴しい校長先 生に育ててもらった」という事は知っていましたが、まさか、それが小林先生とは、 夢にも思っていなかったんてす。それが、この「トットちゃんーを書き始めたとき、 突然わかって、佐野さんは、とび上って、よろこびました。「こんな身近なところに、 長い間、探していた事を知ってる人がいた : ・ 佐野さんが小林先生の事を、本当に調べよう、と思ったきっかけは、小林先生がリ ばんそ、つ トミックを教えるときの子供のためにピア丿の伴奏をした女の人に、逢ったときてし ふう た。その女の人は、小林先生から、こういう風にいわれたと、佐野さんにいいまし た ふう 「君、子供は、そんな風には歩かないんだよ」。つまリ、子供の呼吸が、わかってい ない ! と、小林先生は注意したのてす。このひとことて、佐野さんは、小林先生の せんさい 研究を始めたのてす。佐野さんの繊細な感覚とリサーチて、小林先生の、もっと、く
349 あとがき ざいばっ を財政の面て援助していた、三菱財閥、の岩崎小弥太男爵 ( エリザベス・サンタース・ ホームの沢田美喜さん〈故人〉のお父様のいとこ ) が見て感動し、ヨーロッパての教育 ちょうど を視察するための費用を援助しよう、という事になった。丁度そのころ、音楽教育、 児童教育に、いろいろ悩みを持っていた小林先生は、よろこんてこの申し出を受け、 第一回のヨーロッパ留学に出発する。大正十二年、先生が三十歳のときてした。 それから「リトミック」の章て書いたように、世界中に大きな影響をあたえたタル クローズのバリの学校て直接タルクローズから学び、その他、いろいろの学校などを 見て歩き、二年後、日本に帰ってくる。帰るとすく、小林先生の幼児教育に全面的に おばらくによし 共鳴した、 小原国芳と、成城幼稚園を創るのちに、小原先生は玉川学園を創リ、小 林先生は、トモ工を創ることになるのてすが この幼稚園て小林先生は、「子供を先生の計画に、はめるな。自然の中に放リ出し ておけ。先生の計画よリ子供の夢のほうが、すっと大きい」と、保育の先生にいいわ たし、小林先生は、従来の幼稚園と全くちがった幼稚園を、ここに創った。 昭和五年、小林先生は、二回目のヨーロッパに出発する実際に教えてみて、もう 一度、リトミックを勉強する必要があると思ったのて、タルクローズのところへ再
あとがき トモ工のことを書く、というのは、長 い間、もっとも、私がしたいと思っていたこ くだ との、ひとってした。読んて下さって、本当に、あリがとうごさいました。この中に 書いたことは、どれも作リものしゃなく、実際にあったことてした。そして、あリが たいことに、私は、、 しろんなことを、忘れていませんてした。それを、書いておきた い、ということと、もうひとつ、この本の「約束ーの章て、私は、「大きくなったら、 きトモ工の先生になってあげる」、と小林先生と約束をしました。それなのに、その約 ・カ 束を実行しませんてしたてすから、せめて、こういう小林先生という人がいて、ど ふう と んなに子供に対して深い愛情を持っていたか、子供たちを、どんな風に教育したか、 あ ということを、具体的に、お伝えしなくちゃ、と思ったんてす 悲しいことに、小林先生は、昭和三十八年、今から十八年前に亡くなってしまいま
182 いっさ / オ 生徒たちは、校長先生を、 「小林一茶 ! 一茶のおやしのはげ頭 ! そうさく などと呼ぶことが、よくあった。それは、校長先生の名前が「小林宗作」てあリ、 また、校長先生が、よく俳句の話をして、中ても素晴らしいのが、「小林一茶」てあ る、といつもいっていたから、生徒たちは、両方をませて、先生をそう呼び、校長先 もちろん 生は勿論だけど、一茶さんをも、友達のように思っていた。先生は、一茶の句が率 ちよく 直てあリ、生活の中から出ていることが好きだった。 はいじん だれ まね 何十万人いたかわからない当時の俳人の中て、誰にも真似の出来ない自分だけの世 そんけい 界を作リ、こんな、子供みたいな句が作れる人を尊敬もし、うらやましくも思ってい た。だから、折リあるごとに、子供たちに一茶の句を教え、子供たちも、みんなそれ そっ
まま、台所て用事をしてるママのところに行って、いった 「私、スパイと、チンドン屋さんと、駅の切符を売る人と、全部やめて、白鳥を踊る バレリーナになる」 ふう ママは、おどろいた風もなく、 「そう ? といった。 トットちゃんにとって、バレエを見たのは初めてたけど、校長先生から、イサドラ ・タンカンという、素晴らしいタンスをするアメリカの女の人の話を、前から、よく えいきよ、つ 聞いていた。タンカンも、小林先生と同しように、タルクローズの影響をうけてい た。尊敬する小林先生が好きたというタンカンを、トットちゃんは当然、認めていた 湖し、 ( 見た事がなくても ) 親しく感していた。だから、トットちゃんにとって、踊る の 人になる、という事は、そう特別のことてもないように思えた。 ぐあい 折も折、ちょうど具合のいいことに、その頃、トモ工には、小林先生の友達て、 白 トミックを教えに来ている先生がいて、学校のすくそばに、タンスのスタジオを持っ ている、ということたった。ママは、その先生にお願いして、放課後、そのスタジオ
育。お食事や、お散歩のときなどのマナーお弁当のときに歌う、 八よーく噛めよたべものを : は、イギリスの、 八ローローローユアーボート の替え歌だったし、その他にも、いろいろあった。ところが、この小林校長先生 かたうで の、片腕というか、ふつうの学校なら、教頭先生にあたる、丸山先生という先生は、 、、小林先生と違っていた。丸山先生は、名前の丸と同しに、まんまるい 全く、ある点 頭て、そのてつべんには毛が一本もなくて、ツルツルだけど、よく見ると、耳の横か ら、うしろにかけては、短くて光っている白い毛が、すーっと生えている、というと めがね ころや、まんまるい眼鏡に、まっ赤なっぺたという、見たところが、ます小林先生 寺とは違っていたけど、それよリも、時々、 八べンケイシク、ンク夜河をわたる 岳 しぎん という詩吟を、みんなに聞かせるところが、とても違っていた。本当は、 泉 しゆくしゆく わた べんせい 八鞭声粛粛夜河を過る というのたけれど、トットちゃん達は、弁慶が、シクシクと泣きながら、夜、川を まった か さんぼ べんけい
348 六人兄姉の豊かてはない農家の末っ子たったのて、小学校を卒業すると、すく代用教 めんきょ 員となリ、検定試験て教員の免許をとる ( 小学校を出たたけて、検定試験が受かる、 うしごめ というのは、よほど優秀だったに違いないと思います ) 。上京牛込小学校の先生と なるかたわら、音楽の勉強をし、念願だった東京音楽学校 ( 今の東京芸術大学 ) の師 はん 範科に入学。卒業後、成蹊小学校の音楽教師になる。この学校の創立者、中村春一一の 教育方針が、小林先生に大きな影響をあたえる。中村春一一は素晴しい人て、「教育は、 どうしても小学校から、やらなければ ! 、という考えを持っていて、生徒の数は、 てつ 絶対に一クラス多くても三十人そして自由な教育、子供の個性尊重に徹する教育方 針を、うち出した。例えば、勉強は午前中て終リ、午後は散歩とか、植物採集、写 生、先生の話を聞く、歌をうたう、といったように、後年、トモ工て小林先生が実行 したような授業方法たった。 その成蹊時代の小林先生の教え子に、後にピア一一ストになった井上園子、野辺地瓜 丸などがいた この学校て、小林先生は、生徒のために、子供のためのオペレッタを作った。それ やまだこ、つさく を、このユ一一ークな学校の創立者てもあリ、その頃、山田耕筰など、数多くの芸術家 まる せいけ . 、 のべちうり し
かしいか、私にも、よくわかリます。小林先生にしても、このトモ工学園を始める前 に、何年も何年も研究し、完全なものとして学校を始めたのが、昭和十二年。焼けた のが、二十年てすから、本当に短い期間てした。 ても、私のいた頃が、先生にとって、最も情熱が強く、先生のやリたいことか花開 いた瞬間たったようて、その点、幸福だと思っていますても、戦争さえなければ、 たくさん どんなに沢山の生徒か、小林先生の手から世の中に出て行ったか、と思うと、勿体な い、と、悲しい気持てす 小林先生の教育方針は、この本にも書きましたが、常に、 「どんな子も、生まれたときには、い、 し性質を持っているそれが大きくなる間に、 かんきよう いろいろな、まわリの環境とか、大人たちの影響て、スポイルされてしまう。だか ら、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にし ていこうーというのてした。 . また、先生は、自然が好きてした。子供たちの性格も、出来るだけ自然てあるこ と、と考えてらしたようてすが、実際の自然も好きて、末娘のミョちゃんの話による と、小さいとき、いつも、 もったい
した。生きてらしたら、もっともっと、いろんなこと、教えて頂けるのに、と残念て す そして、こうやって、書きだしてみますと、若い頃は、ただ、楽しい思い出として 残っていたトモ工が、いまごろになって、 「ああ、小林先生は、こういうつもリだったんだ ! 」とか、 、とわかってきて、そのた 「先生は、こんなことまて考えていて下さったのか・ : びに、驚き、感動し、あリがたく思えるのてす私のことていえば、「君は、本当は いい子なんたよ」、といい続けて下さった、この言葉が、どんなに、私の、これまて ささ はか を支えてくれたか、計リしれませんもし、トモ工に入ることがなく、小林先生にも 逢わなかったら、私は、恐らく、なにをしても、「悪い子気というレッテルを貼ら れ、コンプレックスにとらわれ、どうしていいかわからないままの、大人になってい た、と思います だいくうしゅう トモ工は、昭和二十年の東京大空襲のときに焼けました。本当に、小林先生の私財 て作った学校てした。てすから、再興には、時間が、かかリました。戦後、先生は、 くにたち やけあと ます焼跡て幼稚園を始め、同時に、国立音楽大学の保育科 ( 現在の幼児教育科 ) を創 いただ つく
350 びそれから、いろいろ視察し、本格的に自分の学校を創る事を決め、一年後に帰 国 昭和十二年、トモ工幼稚園とトモ工学園 ( 小学校 ) を創立する。日本リトミック協 会も設立した ふきゅう 小林先生を、「リトミックを日本に普及させた人」として知っている人、また研究 している人は多いけど、子供の教育の具体的な例を知っている人、となると、当時の 私達のほか、ほんの少しになリました三年前、小原先生は亡くなリましたし、この 本に出て来る丸山先生も、そして、先生と同し頃タルクローズについて勉強した石井 漠さんも、もう亡くなリました。 戦後の小林先生から教えを受けた人の中には、「先生が無ロの人たった」という印 象を持ってる人もいらっしやると伺いました。トモ工の頃の、あの、よく話して下さ った先生のことを思い出すと、戦後、先生は、いろいろ悲しいことが多かったのしゃ ないか、と、私も悲しくなるのてす。そして、小林先生は、先にも書きましたが、ト くにたち くにたち モ工の焼けたあと、国立幼稚園の園長とか国立音楽大学の講師など、いろいろなさい ましたが、自分流の、あのトモ工のような小学校を創る前に、亡くなってしまったの