尊王攘夷 - みる会図書館


検索対象: 竜馬がゆく 2
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1. 竜馬がゆく 2

シャンハイ た、上海で当時発行されていた中外新報までとりよせて、それらの活字から西洋事情を 知ろうとした。理化学のことまで調べたという。 儒学的教養をもちながら、思想は徹底的な開国論の立場をとった。この点、幕府の外 交方針とおなじで、武市半平太ら勤王党の攘夷論者からいえば、「神州を汚す者」であ り、醜夷に屈しようとする腰抜け武士であり、幕府に加担する反朝廷派であり、先年、 桜田門外で尊王攘夷論者に斃された大老井伊直弼と同質同型の人物であった。 「土佐の井伊じゃ」 と、はげしくこれをきらったのは、東洋を斬る、という那須信吾である。むろん、党 首株の武市半平太も、これと同意見である。 文久元年、東洋四十六歳。 この年、武市は江戸で、薩長の過激志士とひそかに密会し、たがいに自藩にもどって 藩論を勤王に統一し、三藩の兵をもって京都で義軍をあげるという壮大な密謀をとげ、 土佐に帰国している。帰国後、土佐勤王党を結成し、その圧力を背景に、しきりと参政 吉田東洋に説きはじめた。 老武市は、毎日のように藩庁に出かけては、東洋に面会を申し入れている。 家 郷士仲間では、武市だけが、登庁して参政に会うことのできる身分なのだ。武市家は 固 頑郷士でも、上士待遇の「白札」の身分である、ということは前に書いた。 吉田も、かねて武市の学識の深さだけはみとめている。 しゅう・い

2. 竜馬がゆく 2

っているわけではなし、所詮は書生論になろう。 「とにか / 、」 武市のほおは紅潮した。 ほぶ 「倒幕実施は明年。時を期し、歩武をそろえ、三藩の兵大挙して京都に集結し、天皇を ほうたい 奉戴していっせいに勤王の義軍をあげる。そのためには、それぞれ自藩に帰って重役を 説き、藩主を説き、藩論を勤王倒幕へまとめる」 勤王倒幕。 そういう言葉が、史上、実際運動の政治用語として用いられたのは、この麻布の空家 での密会のときが最初であった。それまでは尊王攘夷という一一 = ロ葉はあったが、 「倒幕」 という衝撃的な言葉がっかわれたのは、おそらくこのときが最初であろう。 ( しかし、果して可能か ) 夢物語に似ている。 薩長一一藩の政情もさることながら、土佐藩にいたっては、藩主、参政、上士、ことご 夜とく頑固な親幕派である。かれらの考えをくつがえすのは、武市の腕力で五台山をひっ 前 くりかえすよりもむずかしい 風「ゆえに、衆のカでやろうと思う」 「衆のカ ? 」

3. 竜馬がゆく 2

「勝手なもんですねえ」 藤兵衛は、すねた。 「侍てのは元来勝手なもんだと思っていたが、旦那までがそうだとは知らなかった。一一 = ロ っときますがね、あっしだって道によって殺ってますよ」 「なぜだ」 「その前に伺いますが、旦那は尊王攘夷でがんしよう ? 」 「まあ、そうだ」 お田鶴さまに、そのために奮迅努力せよといわれている。 「とすれア、あの目明しの手先は、敵じやござんせんか。いわば朝敵だ。あっしはそう い , っところから殺っている」 「まあいい」 問題は、この場をどう脱出するか、である。捕吏がすでにこの産寧坂の料亭をとりま いているだろう。藤兵衛の心ない殺人が、竜馬を、好む好まぬにかかわらず、尊王攘夷 のはげしい時代の潮流のなかに追いこもうとしている。 = = ロ ( やるか ) 立ちあがったとき、竜馬の血がはげしく流れた。今夜、生き胴の一つや二つは斬りす 京てるはめになるかもしれない。 「藤兵衛、二手にわかれよう。お前は、できるだけ派手に逃げてくれ。その道の職人だ

4. 竜馬がゆく 2

三藩をはじめ三百諸侯をぶつつぶして日本を一本にしたいのだ。一本にするには、中心 が要る。それを、頼朝の鎌倉政権樹立以来、六百数十年置きざりにされていた京都の 「天皇」に置く。 それが本心をいうと竜馬の「尊王」であった。武市には叱られるかもしれないが、竜 馬は当今流行の宗教的な天皇好きではない。 とにかく久坂が、 「奸物の俗論」 と叫ぶ長井説は、竜馬には魅力がある。 しかし、竜馬は表面、あくまでも攘夷論者をよそおっていた。天下の志士はことごと く狂信的な攘夷論者である。竜馬がひとり異をたてては、志士づきあいができない。 久坂はなおも弁じたてた。 竜馬はいちいち、うなずく。眼がほそくなっている。 酔った。 長途の旅で、疲れがでたのだろう。うなずきながらうとうととねむっていた。 望やがて、どさりと倒れた。 久坂はおどろいた。 希 ( なんというやつだーー ) やがて、ごうごうと竜馬の鼻からいびきが洩れはじめた。

5. 竜馬がゆく 2

ひょうしん 吾は、身は貧しく、才は無く、人の数に入らぬ身ながら、一片の氷心がある。暮夜、 もときち 国を想えば耿々として夜が白むまでねむれぬことが多い。元吉 ( 参政吉田東洋 ) が藩政 の首座にすわっているかぎり、土佐藩はどうにもならぬ」 土佐藩をどうするか。 武市ら勤王党の連中の目的は、この二十四万石をあげて、朝廷に献上することである。 つまり、京都を中心として尊王攘夷の義軍を挙げることだ。 馬鹿な。 と、当然、吉田東洋ならずとも、藩の責任者ならばたれしもがそう思う。 土佐山内家というのは、二十四万石の諸侯の地位を朝廷からもらったものではない。 やまうちかずとよ 藩祖山内一豊が、関ヶ原の功により、徳川家康からもらったものである。 薩長とはちがう。 もとなり じとう 薩摩の島津家は鎌倉時代からの地頭だし、長州の毛利家は、戦国初期、英雄元就が出 いっすん て四隣を斬り従えてできた家だ。両家とも、一寸の土地も、徳川家からもらっていない。 この両藩が、幕府に対して不人情なのは、当然である。 ろんこうこうしよう 月 ま、おなじ外様大名ではあっても、土佐山内家が、関ヶ原の論功行賞により、掛川 宵六万石から一躍土佐二十四万石に封ぜられたのは、吉田東洋によれば、 待「いつに、将軍家のおかげである」 とい , つ。

6. 竜馬がゆく 2

「いらっしやるだろうな」 「ええ」 お初は、天井をみた。天井板がふるえるような音で、いびきが落ちてくるのである。 「あのいびきがそうか」 しようぎ 松木善十郎は土間の床几に腰をおろした。 「お眼ざめになるまで、待っ」 ( 叩きおこさなきや、あたしが寝られない ) 話がこうなると、お初は現金だった。 早速二階へもどると、眠がる竜馬をおこして着更えをさせ、階下へ押しやった。 竜馬は、松木善十郎に天下の大勢をくわしく説いた。 この時代には、むろん、新聞、ラジオといったものがない。天下の人は、現今のわれ われが想像できないほど、時勢のニュースというものに暗かった。 まして讃岐の丸亀五万余石の城下に住んでいる松木善十郎などは、江戸の幕閣の腰ぬ へけぶり、異国の使臣たちの強圧外交ぶり、水戸藩の攘夷派の騒ぎ ( 幕末、水戸藩の志士 たちは、諸藩にさきがけて過激な尊王攘夷行動の火の手をあげたが、すぐその火は消えた。 萩竜馬のこの時期、過激の活動の本山といえば、水戸だったのである ) などは、まったく知 らなかった。

7. 竜馬がゆく 2

竜馬は感、いした。 長州人が一般に容貌がととのっていて頭の働きがするどい、ということは、この当時 日本にきていた外国人のあいだでさえ囁かれはじめていた。諸藩の志士の間でも、 「長州人」 といえば、まず容貌が秀麗、しかも頭がよすぎて油断がならない、と一部ではいわれ ていた。 こううんさい 一例をひくと、水戸藩の家老で武田耕雲斎という人物がいた。過激な尊王攘夷家で、 つくばさん のち ( 元治元年春 ) 浪士たちにかつがれ、筑波山で挙兵し、京にのばって天子を擁しょ うとしたが、 幕府がまだ強勢であったため事敗れて捕われ、刑死した。この武田耕雲斎 すいちょう が、江戸にあった長州藩尊王派の巨頭桂小五郎より手をさしのべて水長秘密同盟を結 ばうとしたとき ( 竜馬のこの時期より半年前のことだ ) その仲介者に、 「桂君か、あの人物は私が江戸に在府していたときに斎藤弥九郎 ( 桂の剣術の師匠 ) と じん 同行してしばしば訪ねて来られた。かっ、その仁の撃剣の試合もみたことがあり、その ひととなり 人物はよく知っている。しかしながら」 望と、武田耕雲斎はいった。 ちょうはんれいり 「元来長藩は怜悧にて油断ならず。君 ( 仲介者 ) からほどよく断わりくれよ」 希そんな秘話は、竜馬もきいている。 ( ゆだんがならぬとはいえ、幕府を倒す実力と熱意の第一は、長州藩ではないか ) ささや

8. 竜馬がゆく 2

といった。 これには幕府はあわてた。そういうことをしてもらっては、江戸政府は瞬時に消滅し、 外国の側からみれば京都朝廷が日本の代表政府として認証されてしまう。 安政五年四月、井伊直弼、大老に就任。 井伊は、断行しようとした。 勅許を経ずに調印することを。 りようげん かくて、尊王攘夷論が、燎原の火のようにもえあがることになる。 竜馬が江戸を去るまで、あと、ひと月である。 それをもって、竜馬の青春第一期は、おわることになるだろう。 さすがの竜馬も、さびしい ちかごろになって、武市半平太までが、 「おい、国もとの権平殿にたのんで、藩庁へ奔走してもらえ。江戸滞留を延期するのだ。 天下は動いている。将来、物の役に立とうと思えば、江戸だぞ。国もとでくすぶってい て何になる」 ち たと、すすめるようになった。 若今日もそうだ。 不意に、桶町千葉道場に、桂小五郎が訪ねてきてくれたのである。

9. 竜馬がゆく 2

かった新たな大花火を打ちあげるところまで持ってゆこうというのだ。 いもあたま 「しかし、門閥はみな能なしの芋頭だぜ」 あやっ 「だから、こっちの自由になる。操れる。むろん、首班には、かれらをつけない。小 みなみ 南五郎右衛門どのになってもらう」 小南は竜馬もよく知っている。譜代重役のなかでは唯一の尊王攘夷主義である。武市 の構想は、極右と極左の連立内閣というわけである。が、そのやり方はなんとなく奇術 めいていて、竜馬にはあぶなっかしく思われた。 「そんな芝居を思いつくとは、半平太も人が悪くなったなあ」 「たしかに、わしは人が悪くなった」 と、武市半平太が、いった 「しかし竜馬、善人では、これだけの大芝居は打てないよ」 「悪人ならなお打てぬ」 竜馬は、にやにや笑っている。 まん 老「半平太、お前が悪謀家じゃということになれば、もはや人がまわりに集まって来るま 家 人が集まらぬと大事はできぬ。されば半平太、悪人というのは、結局、小事ができ 頑る程度の男のことだぞ」 「待った」

10. 竜馬がゆく 2

たかちか やがて長井は、藩主敬親 ( 慶親 ) 、世子元徳の知遇を得、江戸に京に、長州藩の藩論 統一と外交をになって活躍を開始しはじめた。 説くところ明快で、しかも態度は人を圧服せしめる威容がある。 むろんその論は佐幕主義で、その点、土佐藩における家老吉田東洋に似ている。 そのあと、久坂はなおもはげしい語調で長州藩の保守的現状をののしった。竜馬は 黙々と酒を飲んでいるばかりである。 ( こいつ、馬鹿か ) 年若い久坂は内心思ったらしい ( 三藩密約が危機にひんしているときに、武市半平太も妙な男を寄越したものだ ) 竜馬は、杯をかさねている。竜馬も内心では、久坂に失望していたから、いわばあい こである。 きり ( 錐のような男だ ) するどい 望樫をもつらぬくだろう。しかしそれだけのことだ。血気で事をなす壮士というだけの 人物ではないか。尊王攘夷の狂信者という、ただそれだけの印象を竜馬は久坂玄瑞にう 希十ノこ。 ( この手の壮士なら、久坂ほどの学問はないにしても土佐にはいくらでもいる。むしろ かし