四軒のうち、高知市内でなお存続し、隆盛なのは、川 崎家のみであった。これは唄ど おり山林地主で、先々代から育英事業に関心をもち、財の一部を割いて私立土佐高校を 経営し、市民から特別な尊敬をうけている。 さて、竜馬のころ。 上の才谷屋は商家とはいえ、武士である竜馬の坂本家の本家にあたっている。家業は、 質屋であった。だから、道具持ちと唄われたものであろう。 ほんちょうすじ さきにものべたように、竜馬の坂本家の屋敷と才谷屋の屋敷とは、おなじ本町筋一 丁目にあり、 尸。たが、裏で接していた。 一方は、武家。 一方は、町人。 両頭の蛇のようなふしぎな同族である。竜馬のものの考え方のなかに武市半平太など とはちがい、自由闊達な町人の感覚が入っているのはこういうめずらしい生いたちにつ ながりがあるとおもわれる。 さて、下の才谷屋のことだ。 これは同族ではない。数年前に、上の才谷屋の番頭がのれんわけをしてもらって出来 た家系で、やはり城下きっての富商である。町人ながら竜馬の坂本家に対し、いわば主 筋の礼をとっている。 この下の才谷屋はふしぎなことに、代々、美人の娘がうまれる。 かったっ
「よっ ) オ」 権平兄が、源おんちゃんをみた。 「竜馬が才谷山に登っちょったと ? 」 しち 「へい、たしかに才谷屋の手代の猪七どんが見た、と申しまするがの、旦那さま」 「いつじゃ」 「それが、五日前の二十四日、桜の七分咲きの日じゃと申しまするがの、旦那さま」 才谷山とは、城外にある坂本家の持ち山で、小高い丘といったほうがいい 。丘の上ま で、細い石段がつづいている。 丘の上に祠がある。坂本家の先祖である明智左馬助の霊と、われいさんという神様と われい をあわせまつってある。本社は伊予宇和島城下の和霊明神で、この才谷山の神さまは、 そのご分霊である。 郷社ではない。 坂本家一軒だけの神社である。権平や竜馬らよりも数代前の先祖が、家内安全のため にここへ私設の神社をつくったわけだ。 「竜馬は、どんな姿じゃった」 「へい、ばんさまは肩にひょうたんをかついでござらしたげで」 「ひょうたんを ? 」 「へい、日一那さま、こいつは」 ほこら なり
源おんちゃんは、考えぶかげな顔つきで、 「あれはまあ、花見でござりましよう」 「わかっちよる、わかっちよる」 権平も、考えこんでいる。 「連れはいたか」 「お一人じゃったそうで」 「しかし花見には遅すぎるのう。才谷山の桜は早咲きじやキニ、もう散っちよるじやろ 「散っちよりますとも、旦那さま」 「それで何のひょうたんじゃ」 「さあ」 源おんちゃんは考えこんだが、権平兄にはすでに推測はついていた。 ( いよいよ、竜馬は脱藩したのう ) 竜馬は、脱藩をするにあたって、坂本家の祖神に別れを告げに行ったのであろう。 もう・ 藩 ( そうでなくて、あの神ぎらいの竜馬が、才谷山なぞ、詣でるはずがない ) 事実、そのとおりである。 脱竜馬は脱藩の日、才谷山にのばって祠の中に入り、心ゆくまで酒をのんだ。 のう、明智左馬助さまよ。
当時、高知城下の富商というのは、四軒あった。 城下の子供などは、それをまりつき唄にして辻々でうたった。 浅井の金持ち 川崎地持ち かみさいたにや 上の才谷屋道具持ち 下の才谷屋娘持ち 宵富家というものははかないものである。西郷隆盛は「児孫のために美田を買わす」と いったが、富などはいつまでも続くものではない。筆者が最近高知市を訪ねてきいたと ころでは、このうち三軒まではすでに数代前にほろんでいた。 待宵月
竜馬は、脱藩の準備をしはじめた。 脱藩には、金がいる。 わぎもの 刀も、業物がほし、。 脱藩すれば藩の庇護からはなれ、天涯の孤客になる。身をまも るのは腰間の一刀あるのみである。 竜馬の家には、さすがに城下きっての裕福な武門だけに、最上大業物の「ソボロ助 広」が秘蔵されている。 が、兄の権平が、竜馬の脱藩を警戒し、刀簟笥に錠をおろして、とりだせないように 藩してしまっていた。 ( どうするか ) 脱ふらりと、竜馬は才谷屋をたずねた。何度も書いたとおり才谷屋は、坂本家とは親類 というより一家のようなものである。 脱藩 ひご
なずいていた。むろん、心中、 いうちよるかい ) ( なにを寝一言ばア、 と一言も聴いてはいない。 やがて伯父の八郎兵衛がもどってきて、 「あっ、竜馬か」 姿をみただけで顔色をかえた。 竜馬が国抜け ( 脱藩 ) の大罪をおかすかもしれぬ、とは、分家の権平から聞きおよん でいたからだ。 「なに、刀蔵をみせてくれと ? それはいかん。町人の家の持物じゃ、ろくなものはな しゅうしん いわい。それより下の才谷屋の末娘を嫁にもらわんか。あれはお前に執心じゃと聞い たぞ」 「嫁なそはいらん」 竜馬はこわい顔だ。 「嫁より、伯父さん、刀をくれんかネヤ」 「これ、というほどの刀はないわい」 というのは、うそだ。才谷屋は城下一の質屋で藩に多額の金まで貸している家である。 藩士にも用立てをする。相当な身分の藩士が、刀、武具を質草にしてそのまま流れてし まった品物だけでも、数かぎりなく刀蔵に入っている。竜馬はそこに目をつけたのだ。
権平は肥満した体に紋服をつけ、細身の大小をさして、 「ホナ、さがしに行ってみる」 と、城下の親戚を一軒々々訪ねはじめた。 ちかごろ、肥満しすぎたせいか、歩くのがくるしい。まだ四十九というのに、もう老 人のような衰えがみえはじめていた。 ( わしも長くはあるまい ) と、この温和な長兄はひそかに考えているが、家門の名誉だけはまもらねばならない。 それが、家名と家禄をうけついだ惣領権平の義務であった。 まず、権平の妹千鶴がとついでいる高松順蔵家を訪ねて、 「千鶴よウ」 と、入って行った。 「竜馬が来ちよりせんかネヤ」 「まあ兄様」 参っちよりません、と千鶴は答えた。 「では兄様、まさか、脱藩では ? 」 「しつ 権平は高松家を出てから、上の才谷屋、下の才谷屋、中沢家、土居家、鎌田家などを 訪ねまわったころには、眼がくらみかけていた。
奥の一室で女中に酒を出させ、伯父の八郎兵衛の帰宅を待った。 やがてタ刻になった。 この才谷屋というのはひどく自由な家風で、気楽なせいか、親戚一統の女どもの集会 所のようになっていた。 その日も、お市お ( 竜馬の祖父の従弟の妻 ) が、そのめいの久万、孫の菊恵をつれ て朝からあそびにきていたが、竜馬をみつけると、 「おや、めずらしい」 と、お市おばがいった。娘たちも竜馬をとりまいて、酌などをしてくれた。 お市おばは、じつのところ竜馬がどういうこんたんで来たか、察している。権平兄が、 相当手びろく親類へ触れをまわしておいたからだ。 「刀蔵の中を見たいのさ」 「竜さん、あんた」 お市おばは、こわい顔でいった。女も五十をすぎると、ひどく不敵な面相になる。 「この才谷屋の家憲で、灯をともして蔵に入ってはならぬという禁制があるのをよもや 藩知らぬわけではあるまい。蔵は朝の陽がさすだけだから、あしたの朝にでも出なおして おいで」 脱 お市おばが懸命になって説教するのを、竜馬は、わざと腑のぬけたような顔をしてう
当代は、娘ばかりの四人の子持ちで、どれもこれも花のように美しい 「下の才谷屋のお花畑」 と城下の人にいわれた。 長女に養子をとり、中二人もすでにかたづいて、末娘だけがのこっている。 お美以という。 十七歳。 お美以が小さいころ、竜馬は、ひどく可愛がっていて、城下の梅見、花見などには、 抱いて連れて行ってやったりしたものだ。 ひと はるい そのお美以は、兄権平の独り娘の春猪とおないどしで、姉妹のようこ中 性質はまるでちがうようだ。 竜馬のめいの春猪は、活漫な娘で、いつも屋敷うちをころげまわるように笑い暮らし ている。陽気なのは坂本家の血すじなのだろう。 お美以はおとなしい。その上、出不精だから、下の才谷屋におしかけてゆくのは、い つも春猪のほうだ。 月ある日、その春猪がもどってきて、 宵「竜馬おじさま」 待と、竜馬の顔を見るなり、もう笑いころげてしまった。 「なんだ」
幻たが、春猪は美しいちゅううわさは、それほど城下で持ちきりかえ ? 」 「いやいや」 亭主の茂兵衛はこまったような顔つきで、 「持ちきりは、そのお連れ様でございます」 「連れ ? 」 春猪は、連れと来ているのか。 「連れとは、たれのことだ」 「下の才谷屋さまの末嬢のお美以さまでございます」 「お美以も来ているのか」 竜馬は、笑いだした。 「あれは美しかろう。しかし、わしはここ五年がとこ、見ちよらんが、それほど美しゅ うなったか」 「なられましたとも」 「しかし、亭主。汝ア、うちの春猪に恥をかかせたな。いまのはなし、春猪に聞かせれ ばあいつのことだ、じだんだふんで憤慨しよるじやろ」 「そんな」 亭主も怒った。 「坂本さまの早合点で、はなしがこうなったのではございませぬか。春猪さまも、あれ