( それには ) と、千葉周作はかっていった。 心気力一致 そう言い遺している。つまり、心 ( 思考 ) と気と技とが、時空のなかで一致したとき にのみ、勝負は決せられるべきものだというのだ。 竜馬は、自分をその状態へ、昇らせつつあった。ただ、ひたすらに歩く。歩く が、松木善十郎は、それをゆるさない。 ツツ、と間を詰めた。 松木は、門人の体をとびこえた。 さらに松木は、もう一つ、越えた。 「やあ。 と、誘いの気合をかけたが、竜馬は下段のまま、びくりとも応じない。 松木は上段、腰を大きく沈めた。 ひらつ、と門人の体をとび越えた。越えようとして両足が空に跳ねた瞬間、竜馬の竹 へ刀が鋭く鳴った。 夫剣者瞬息 萩松木は高胴を叩きのめされて、道場の板敷にころがった。 のこ
松木善十郎をたたき伏せると、竜馬は、がらっと竹刀を投げすてた。 「なあ、松木さん」 松木は肋が三寸もめりこんだような感じで、起きあがれない。 「剣術なんてものは、しよせん、これだけのものさ」 松木は、首をあげた。眼の前を竜馬の素足が去ってゆく。 「面白くはあるがね。わしもひところは熱中した。しかし、勝つも愚劣、負けるも愚劣。 こんなものの勝負に百年明け暮れていても、世も国も善くはならないよ」 ( 他流試合にきたくせに、あんなことをいってやがる ) 妙な男だ、と思うのだが、応酬しようにも息が苦しくて声がでない。 竜馬は控えの間にもどって着更えをすませると、矢立から筆を抜き、立ったままでみ じかい手紙を書いた。 「これを松木さんに。、 しや、呼吸が楽になってからでかまいませんよ」 少年門人に手渡して、道場を出た。むろん、見送る門人もいない冷たさである。 すぐ、お初の店にもどった。 店に客が多い。お初は高下駄をきしらせながら、小気味よく働いている。 竜馬は二階へあがった。 一刻ほどぐっすりねむったが、お初にゆり動かされて眼をさました。 「大変」
と、松木がいった。 「それが当道場の立切の作法だ。そのままで」 「むごいなあ。捨てておくと死ぬかもしれないよ」 言いながら竜馬は絶えず歩きまわっている。じっと立っておれば血が足へさがり、手 足の疲労が凝って、身動きが重くなるのをおそれたのだ。 「なんなら、私が片づけてやろうか」 言いながら竜馬は、道場を悠々と半周している。が、松木のそばまで近づかない。 「いや、そのまま」 松木は、低い声で、いった。撃ちの機会をねらっている。が竜馬は、十歩をへだてて、 まるくあるいてゆく。 からだ 双方の間に、門人の体が三つ。 松木は、それを飛びこえないかぎり、竜馬を撃てない。 竜馬は、を整えながら、歩く。体に力が次第によみがえってきて、息が、ようやく 小さくなってきている。 それけんはしゅんそく 夫剣者瞬息 とは、竜馬の北辰一刀流の創始者千葉周作の極意であった。剣の勝負とは瞬息 ( 瞬 間 ) に決すべきもの、という意味である。
知れば、火がついたようなものである。もともと火がっきやすい生まれつきにできて いることを、竜馬は見ぬいている。 「これは、じっとしておられませぬ」 と、松木は昂奮して叫んだ。 「まあまあ、飲め」 みぞう 酒をついでやる。考えてみると、松木は、昼間は竜馬になぐられ、夜は日本未曾有の 困難の到来を教えられ、その上、酒をのまされた。それで気が変にならなければどうか していることになるだろう。 「やります」 肩をふるわせながらいった。 「なにをやるのかね」 などと竜馬は人のわるいことはいわない。事実、なにをやるのか、竜馬でさえ、いま のところよくわかっていないのだ。そのために長州へゆくのである。 しかし、この当時の武士は、、 しまのわれわれの市民諸氏ではない。武士である。武士 「やる」 たちばら というのは、命を捨てる、ということだ。腹を切れといえば松木はこの場で立腹でも 切るだろう。この武士どもの異常なエネルギーが、明治維新という大史劇を展開させた
だまっている。さすがの竜馬も怒気を発して、ばっと足で蹴った。 乱戦。もう、こうなれば戦場同然ではないか。 二十五人目まで打ち倒したときは、竜馬はさすがに息が切れた。 手足の関節が、疲労で糒くなっている。 ( ころはよし ) とみたのは、正面下座にすわっていた師範代松木善十郎である。 「私が出る」 あとの出番の者を目でおさえた。やがて師匠の矢野市之丞に一礼し、みずから、竹刀 をとって立ちあがった。 しんしよくじじゃく 一方、竜馬の表情は、神色自若、とはいえない。余力は十分残しておいたつもりだ が、すでに立切で二十五人を相手にして、呼吸が肩までのばっている。この疲労では、 松木善十郎に打ち勝てない。 「こんどは、松木さんか」 〈面の中で笑 0 てみせ、 「では、道場をきれいに片づけていただこう」 あばら 萩間をかせぐっもりである。竜馬の足もとには、肋を撃たれて動けないのが二人、気絶 したのが一人、うずくまっている。それを引きさげろ、といったのだ。
にこそこそ引きあげたろう。かんかんに怒って斬るのなんのと騒えていたのは、松木善 十郎だけのはずだ」 「ほんと」 お初は、かちつ、と燧石を打った。が、湿っているのか、うまく出ない。 「つかないね」 「あたしは、火が上手なんだけど」 お初は、じつは手がふるえている。この闇がながくつづけば、、 しと思っていた。 「お初。あの松木てやつは、城下の若侍のあいだの人気はどうだ」 「そうですねえ」 お初は、あまり感心していそうにもない声である。 ししお屋敷の坊ちゃんのくせに、、 4 さいときからひどい餓鬼大将で、もう元服もすん かわら だというころでも、このむこうの土器川の磧に足軽の子供なんかあつめて戦さごっこば かりをなさっていました。だからいまでも軽輩の方たちに人気があって、ああやって一 緒に飲みにいらっしゃいます」 「そうか。どうかそいつに斬られたいものだ」 竜馬は手をたたいた。その松木善十郎さえ同志にしておけば、一朝有事のときには丸 亀藩から数十人の人数はつかめるだろう。 ほた
「いらっしやるだろうな」 「ええ」 お初は、天井をみた。天井板がふるえるような音で、いびきが落ちてくるのである。 「あのいびきがそうか」 しようぎ 松木善十郎は土間の床几に腰をおろした。 「お眼ざめになるまで、待っ」 ( 叩きおこさなきや、あたしが寝られない ) 話がこうなると、お初は現金だった。 早速二階へもどると、眠がる竜馬をおこして着更えをさせ、階下へ押しやった。 竜馬は、松木善十郎に天下の大勢をくわしく説いた。 この時代には、むろん、新聞、ラジオといったものがない。天下の人は、現今のわれ われが想像できないほど、時勢のニュースというものに暗かった。 まして讃岐の丸亀五万余石の城下に住んでいる松木善十郎などは、江戸の幕閣の腰ぬ へけぶり、異国の使臣たちの強圧外交ぶり、水戸藩の攘夷派の騒ぎ ( 幕末、水戸藩の志士 たちは、諸藩にさきがけて過激な尊王攘夷行動の火の手をあげたが、すぐその火は消えた。 萩竜馬のこの時期、過激の活動の本山といえば、水戸だったのである ) などは、まったく知 らなかった。
Ⅷお初は、階下へおりた。桟をはずして、雨戸を半びらきにすると、黒い風がどっと吹 きこんできた。 「わ」れ ? ・」 ししよく 紙燭をかざした。 その明りのなかで、ひどく面やつれした武士の顔がうかびあがった。松木善十郎であ 「坂本先生、いらっしやるか」 「松木さん、まさか斬りにきたんじゃないでしようね」 「ち一が , つ」 手紙をみせた。竜馬の筆蹟である。お初が念のためのぞきこむと、 国家変、貴殿にしてもし肝脳を天下に捧げんとする御志これあらば、今夜、初 女が店まで御来駕乞ひ奉り候。 とあった。 ( ーーー初女が店 ) く・ちヤ・さ 文中のそのくだりを、お初は、うれしそうにロ誦んだ。 「それできた」 「挈」 , つ」 手紙をかえした。 る。 て さん おも
すぐ大いびきをかきはじめた。 ( 変な人だけど、なにか魂胆があるらしい ) 利ロなお初はそう思っている。 お初が階下におりると、松木善十郎はすごい面相で、 「あいつ、何の目的で丸亀へ来た」 「剣術詮議だそうですよ」 むろん、お初はそれは表むきだけだと見ぬいていた。 竜馬は、他日、事あるときに、丸亀藩をひき入れようと思っていた。 今度の旅には、そういう魂胆がある。武市がやっているように、土佐藩の郷士だけが 騒いでも、天下の事はならない。 他藩に同志をつくることだ。 いわば、遊説である。 遊説だが、竜馬は能弁ではないから、この男はこの男なりの流儀で同志を作るつもり である。 ( わずか五万石余だが、こんな小藩にも役に立つ人間はいるだろう ) 竜馬が目をつけたのは、あの肩をばかに怒らせている若者である。たしか、松木善十 良といった。
「あんたのおなかま衆のなかで、まだ肩を怒らせてこっちをにらんでいるお人がいる。 ああいうお人が、将来事をなす人だよ」 「はは . め」 こら 「しかし、酒の場所でああ睨まれては、せつかくの讃岐の美酒がのどに通らん。ああい うお人とよく相談してくれ。その気なら、みんなでこの店を買いきって陽気に飲もうで 立ちあがった。 「どこへいらっしゃいます」 まんふとん 「お初、ひとねむりしたいが、お前の蒲団がないかあ。わしがひとねむりしているあい だに、丸亀藩と土佐藩が仲よしになるご相談をこのお歴々にしておいてもらう」 「二階へご案内します」 お初が、先に立った。 「ーーー人を食ったやつだ」 おうままわりやく と、肩を怒らせた若侍が小声で吐きすてた。この男は丸亀藩の御馬廻役松木十郎左 へ衛門の次男で、松木善十郎 藩の師範役矢野市之丞の高弟で師範代をつとめ、腕は師匠を越えるといわれている。 萩この稽古仲間の大将株だし、腕もある。自然、この善十郎だけが、戦闘的だった。 竜馬は二階でお初に蒲団を敷かせ、ごろっとねころんだ。