にその情景を想像することができた。 「あれはきたないあき家であったなあ」 「いまもきたない、が、ここではじめて、桜田門の十八烈士 ( 水戸人十七名、薩摩人一 ざんかんじよう 名 ) の書いた長文の斬奸状を見、総身の血のたぎるのをおばえた。自然、話は、かれ らの大志をむだにしてはならぬ、ということになり、論ずるうちに次第に熱してきて、 ついに幕府を倒そうということになった。どうじゃ」 「よかろ , つ」 竜馬は、鼻毛をむしっている。 「竜馬、鼻毛は不謹慎ではないか」 「そうかな」 竜馬は手をひっこめた。 「倒幕は、薩長土三藩をもってやる。しかしながら、三藩は西国を代表する雄藩なれど も俗論がそれぞれの藩を支配している」 「ふむ」 そのとおりだ。 どの藩の重役も、お家大事、幕府おそるべし、という三百年の伝統感情がかさぶたの ようにはってしまって、なまやさしいことでは藩論をくつがえすことができない。 麻布屋敷の空家にわずか数人の三藩の有志があつまったところで、かれらが政権をと
「むろん」 と、城下で天皇好きとあだなされている武市はきびしい顔をして、 「京も、およこびであろう」 といった。 「それでわしは」 武市は、声をひそめて、剣術詮議のためという名目で江戸へ立つ、といった。 「なぜ江一尸へ」 そうそう 「江戸には、薩摩、長州、水戸の錚々たる若い連中があつまっている。それらの動静を さぐり、われら土佐者の今後の行き方を考えてゆかねばならぬ。場合によっては」 「ふむ ? 」 「薩長土という西国三藩連合をつくり、京都様を擁して幕府を制圧しようかとおもうち よる。さもなくば、現下の外患から日本を救いだす道はない」 「そうせい」 カみ」 , っ いいながらも、武市も竜馬も、まさかそんな奇 竜馬は、大きくうなずいた。、 きよう 矯な夢想が成功するものかどうか、強力な幕藩体制下にあるこんにち、しよせんは夢 かもしれぬ、というむなしさもともなっている。 まん 「そこで、ここにお前を訪ねてきたのは、わしの留守中、武市塾にあつまっている若い 者の面倒をみてやってくれということだ」
「ホウかし」 聞かずともわかっている。武市は、東洋によって政権の座から叩きおとされた門閥家 老どもと完全な握手ができたのだろう。門閥家老どもはおどろくべき旧弊ぞろいだが、 かれらはそれだけに、自分らを追った東洋を、勤王派以上に憎悪している。 「それに、民部様、大学様も御賛同なされた」 山内大学、同民部。いずれも藩主の一門である。そういう連中をかつがなければ、暗 殺後、勤王派は頭角をあげられないのだ。武市、なかなか策士である。 この前後、竜馬の一生を一変させる情報が四国山脈を越えて土佐に入ってきた。 「薩摩の島津久光が大軍を率いて京に入り、天子を擁して幕府の政道を正す」 というのだ。 幕末、この情報ほど天下の志士を昂奮させたものはなかった。薩摩藩が、現今のこと ばでいえば、ごく温和な形でクーデターをおこそうというものである。 長州の久坂玄瑞などは、 薩摩に先を越されたか。 のと、じだんだを踏んでくやしがった。口惜しがっても、長井雅楽のような保守論者が ぎゅうじ 土藩論を牛耳っている以上、どうすることもできない。 この薩摩藩の動きは、日本と竜馬の運命を大きく変えたものだけに、しばらくこのこ せん
ひょうしん 吾は、身は貧しく、才は無く、人の数に入らぬ身ながら、一片の氷心がある。暮夜、 もときち 国を想えば耿々として夜が白むまでねむれぬことが多い。元吉 ( 参政吉田東洋 ) が藩政 の首座にすわっているかぎり、土佐藩はどうにもならぬ」 土佐藩をどうするか。 武市ら勤王党の連中の目的は、この二十四万石をあげて、朝廷に献上することである。 つまり、京都を中心として尊王攘夷の義軍を挙げることだ。 馬鹿な。 と、当然、吉田東洋ならずとも、藩の責任者ならばたれしもがそう思う。 土佐山内家というのは、二十四万石の諸侯の地位を朝廷からもらったものではない。 やまうちかずとよ 藩祖山内一豊が、関ヶ原の功により、徳川家康からもらったものである。 薩長とはちがう。 もとなり じとう 薩摩の島津家は鎌倉時代からの地頭だし、長州の毛利家は、戦国初期、英雄元就が出 いっすん て四隣を斬り従えてできた家だ。両家とも、一寸の土地も、徳川家からもらっていない。 この両藩が、幕府に対して不人情なのは、当然である。 ろんこうこうしよう 月 ま、おなじ外様大名ではあっても、土佐山内家が、関ヶ原の論功行賞により、掛川 宵六万石から一躍土佐二十四万石に封ぜられたのは、吉田東洋によれば、 待「いつに、将軍家のおかげである」 とい , つ。
あとで面体をしらべてみると、薩摩藩士川端半助という人物であった。沢村は海援隊と 薩摩藩との間がまずくなるのをおそれ、薩摩藩側でさえとめたのに、威勢よく腹を切っ てしまった。 刀を腹に突きたてながら、かたわらの友人へ笑いかけ、 しんぎん くすりなべ 「男子たるもの、蒲団のうえで呻吟して薬鍋と組みうちするよりも、このほうが往生 ぎわがおもしろいそ」 といった男だ。いま、長崎の西山に、この沢村惣之丞 ( のち変名して関雄之助 ) の墓 が、さびしく苔むしている。 竜馬の脱藩は、文久二年三月二十四日である。 東洋の暗殺は、その翌月の八日。 ところが、 下手人は、本町筋一丁目の郷士坂本権平の弟ではあるまいか。 といううわさが、家中の上士のあいだでながれた。 藩理由の第一は、竜馬が城下きっての剣客だからである。 それに、武市とならんで、土佐郷士の若い連中の兄貴株の存在だから、脱藩した竜馬 脱に疑いがかかるのはもっともといえた。 いや、竜馬は、吉田どの暗殺よりも以前に脱藩している。 めんてい
この炎よ、、 。しまに日本中に燃えあがり、幕府、諸藩を焼きつくすことになるかもしれ かば ないが、当節では、日本中のたれもが知らない。ただ、武市と江戸で密会した薩摩の樺 やまさんえん 山三円、長州の桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らをのそいては。 いんせい 武市は、すぐには高知城下に入らず、老父半右衛門が隠棲している吹井の屋敷に足を とどめ、帰国のあいさつをした。 あたりは、五台山から続いている丘陵の山あいで、盆景のように美しい。武市半平太 がうまれた郷士屋敷は、その丘陵の中腹にあり、石垣を高く積んだ長屋門をめぐらし、 とりで 砦の形相をおびている。 その砦めかしい姿は、いかにも、戦国争乱の昔からこの辺に土着してきた小豪族の威 風をとどめている。 おもや ( この屋敷はこんにちも残っている。三十八年早春、筆者がたずねたときには、母屋を修理 中であった。県の文化財に指定されているらし い。もちぬしは変わっていて、表札に、坂本、 とあった。竜馬の坂本家とは無縁で、偶然の同姓らしい ) 。 てんぶく 夜武市は、江戸で薩長の有志数人と密約した天下顛覆の密謀などは、家人に話さず、江 前 戸みやげの道中絵などを、みなにくばってやって、縁側からおだやかに初秋の空などを 風ながめていた。 ( あすは妻に会えるな )
という感をもちはじめた。 この年から三年後、長州の高杉晋作が、京都で将軍の行列をふところ手をしながら見 物し、ちょうど芝居の役者にでも声をかけるように、 いよう、征夷大将軍。 あんるい と、大声で囃した。それをきいた将軍のお供の旗本たちは、口惜しさに暗涙にむせん 。こレ J し , っ 明治維新は、すでに桜田門外ノ変からはじまったといっていいし、また、この変事が なければ維新は何年おくれたか、もしくはまったく別のかたちのものになっていたかも しれない。 ま、おなじ影響でも、土佐藩のばあいは、薩摩、長州の武士とちがう点があった。土 佐藩のばあい、 藩公、家老、上士はなんの影響もうけず、過敏だったのは、軽格である。 しかもその軽格連中が、幕府を軽侮すると同様、藩そのものを軽侮しはじめた。 何度もいう。 倒幕維新の運動をやった薩長土三藩は、いずれも三百年前の関ヶ原の敗戦国である。 夜幕府には恨みがあった。が、土佐藩のばあい敗戦者は旧長曾我部家の遺臣の子孫である 前 軽格連中であり、藩公以下上士は、戦勝者であった。自然、佐幕主義たらざるをえない。 雲 風 たちかわぐち 桜の季節もすぎたころ、土佐と伊予の国境いの山間、立川口に入ってきた眼のするど
策士大久保は、朝廷のこの恐怖心を知りぬいていて、巧みに説いた。むろん天皇直接 にではない。鎌倉時代からすでに島津家と特別の親交のあった近衛家 ( 忠房 ) を通じて である。 ちよくじよう 「京都守護の名目で、勅諚をもって薩摩藩兵をおよびなさい。薩摩の兵力を背景にす れば、朝廷は幕府に対し強力な御発言ができます」 と大久保は説いたが、結果は、朝廷は外夷よりもさらに幕府の武威をおそれていたた め、勅諚をもって勝手に一藩の兵を招ぶことをさけ、「もし島津久光が自藩の意思で入 らく 洛するなら黙許」ということにした。 久光は大兵を率いて上洛するらしい 竜馬が、胸をおどらせたのは、薩摩藩の動きだけではない。その動きに触発されて、 それよりもはげしい渦が、天下の一隅で渦巻きはじめたことをきいてからであった。 この情報は、上方、長州、九州方面の諸藩の情勢を探訪して土佐にかけもどってきた ゆすはら 檮原村出身の吉村寅太郎から、竜馬はきいた。 雲夜陰、吉村寅太郎は坂本屋敷をたずねてきて、 の「竜馬ア、一大事じゃ。もはや男子の進退覚悟すべきときが来よったぞ」 つつ ) 0 土と、 そのあと、低声になった。竜馬の兄の権平の耳に入るとうるさいと思ったらしい かみがた じゅ
とに触れてみよう。 りレ宝ノしゅう としみち じつをいえば、薩摩藩の精忠組の領袖である大久保一蔵 ( 三十三歳。のちの利通 ) が、 島津久光の命を受けて去年 ( 文久元年 ) の暮から京都に飛び、そこでしきりと公卿工作 をしていた。 大久保の説くところは、 幕府は腰がぬけている。これ以上、かれらに政治をまかせておけば、、 しよいよ外 夷が増長して、国がどうなるかわからない。 というものであった。 つまり、京都の天皇、公卿をおどしあげたのである ( もっとも、大久保はそれほど人 は悪くはなかったが、その論法、操縦法は、つねに公卿のその恐怖心理を利用した ) 。 この時代、京の天皇、公卿などというものはまったく子供のようなもので、外国との 貿易はすなわち侵略を受けることだと信じこみ、いちずに戦慄し、彼我の武力比較など はわからず、幕府がかれらを撃攘しないことをふんがいして、 ーーなんのための征夷大将軍であるか。 と、はげしい不信を抱いている ( この天皇、公卿の無智な恐怖心が幕末史を必要以上の 混乱におとし入れてゆくのである。またこの無智と恐怖心につけ入って、薩摩、長州、土佐、 会津が、幕末政局の四大重鎮にのしあがった、とみられなくはない。なぜなら、朝廷はこの 四大藩こそ幕府にかわって外夷を駆逐してくれると思っていたからである ) 。
392 こひょう 吉村寅太郎はひげの剃りあとの青い小兵な男で、詩才もあるがなによりも豪傑である。 激情家でもある。器量も大きく、いっか武市半平太が、 ーー寅太郎に五万の兵をあたえれば、馬上天下を取る。 といったほどの男だ。果たせるかな、というより不幸にも、この翌年の文久三年秋、 勤王倒幕の義軍 ( 天誅組 ) を大和にあげてその総裁となり、幕軍を相手どってさんざん わしかぐち に戦ったが、時勢まだ熟せず、吉野山中の鷲家ロで、身に数弾をあび、 かえでば 吉野山風に乱るる楓葉は わが打っ太刀の血煙りとみよ という壮絶な辞世を残して斃れた。 そんな男である。もし維新後に生かせておけば、どんな巨人ができたかわからない。 「情勢はこ , つじゃ」 と、吉村はいった。 筑前の平野国臣、羽前の清河八郎、薩摩の有馬新七らがしきりと京都、九州のあいだ を往来し、互いに連絡をとりあって、ついに義挙を決定したという。 「つまりこうじゃ。薩摩の大兵をひきいて上洛してくる島津久光を大坂で待ち受け、久 光を説き、これを擁して京都に勤王倒幕の旗をあげようというのじゃ。わしア、平野と くにおみ