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検索対象: 群像 2016年9月号
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1. 群像 2016年9月号

ネスは英語中心に動いていて、圧倒的に強い言語ですが、そ タベースを見たら、このウクライナ語訳は拾われていません の一方で非常にローカル、マイナーなところでいろいろな言 ね ( 笑 ) 。別にデータベースの不備を批判したいのでは決し てありません。こういうデータを世界の隅々までカバーする 語の営みがある。辛島さん、スナイダーさんは、ここでは一 ように集めるのは、、かに難しいかということなんです。そ番強い英語圏の代表者になるわけですが、そういういわば 「強者」の英語を使う立場から、いまの世界の言語と翻訳を れにしてもウクライナのような、多くの日本人の意識からは めぐる状況について、どうお考えでしよう。例えば文芸フェ とても遠い地域でも、松浦作品に興味を持って訳す人が出て くるのは、すごいことだなと。 スティバルをやっていると、英語を共通言語にしないと国際 的なイベントとしては成り立ちませんよね。私は反英語主義 松浦不思議なことですよね。狐につままれたような、とい う最初の感想に戻りますが : : : 。人と人との出会いという話者ではありませんが、国際交流をしようとするとやつばりこ が前のセッションでありましたが、 そのウクライナの方から ういう現実があることは認めざるを得ない。 突然連絡があって、ウクライナ語に翻訳したい、と。ウクラ辛島そうですね、小説、詩に限定すれば読み手はさらに減 るかもしれない。文学作品の場合は数千人の世界なので、あ イナは、沼野さんは専門領域だからよくご存知の土地だと思 いますが、僕にとってはなんの馴染みも親しみもない、地球まり国単位とか言語圏単位で考えなくていいのかなと、最近 上のとある任意の場所でしかなかった。そこから突然、僕の考えが変わってきました。もちろん英語を p 一 vo ( language と 日本語の小説を読んで、興味を持ってくださる方が出現し して他一一一一口語の翻訳が世界中に出回る、あるいはブックフェア た。不思議な出会いが人生には起こるのだなという驚きと感という存在もいまだに大きいし、英語にいったんなると他の 一言語になりやすいというのはあると思いますが、長期的に考 動がありました。 えると、訳者と編集者、その先にいる読み手というコミュニ ・翻訳の未来 ティが重要になってくる気がしますね。そういう関係の中家 で、作品に惚れこんだ翻訳者が訳して、次を作っていくのが 沼野口シアだけじゃなく、そのほかのスラブ語圏でもへ日 本文学への関心は高いんです。これらの国々には、まだ本を 必ずしも英語、ブックフェア経由ではなく、もうすでに始家 まっていると思いますが、アジアはアジアで個々のつながり 読むという文化も根強く残っています。さて、ここで辛島さ ができて、広まっていくほうが理想的だと思います。英語圏 んに、今の話題を受けて伺いたいのですが、世界の出版ビジ

2. 群像 2016年9月号

5 』。本と音楽、本の中の音楽という、文学と音楽との関係これの界隈の地名は外国人読者にとっては何の意味も持たな をいろいろな角度からみんなで楽しもうじゃよ、、 オし力と ) い , っ趣 いでしよう。もちろん「東京」という言葉じたいは、何がし 旨の番組です 9 毎週水曜の夜に放送されています。毎回、作かのイメージを喚起するでしようが、「文京区」とか「山谷」 家や詩人をゲストとしてお招きして、実は今日ここにいらっ とか「浅草橋」とかいうことになるとね。『巴』の物語は東 しやる堀江さんにも小川さんにも以前、出演していただいた 京の東半分を舞台にしているのですが、どうなんでしよう ことがあって、お好きな音楽や自作の中に登場する音楽を紹ね、外国の読者の受け取り方は。何しろ微妙なコノテーショ 介してもらいました。で、先日、ゲストなしで僕が一人で喋ンがありますからね。たとえば、今「東京の東半分」と言い る回もやってみようということになりまして、そこでフロス ましたが、それは「下町」というのともちょっと違う。文京 トの名作を取り上げました。番組の収録はしたのですが、ま区は下町でなくて山の手ですから。僕の母は東京の山の手で だ放送されていないのだったかな。好きな詩なので、訳すの ある本郷の生まれ、父は下町である竹町の生まれで、その二 は楽しかったのですが、しかし出来栄えは正直、あまり満足つの土地の間の葛藤が『巴』のテーマの一つなんです。距離 の行くものではなかった。何となく詩らしいものにはなるけ的にはほんの数キロ離れているだけなんだけど。東京という れども、原文の抑揚の音楽性も脚韻のリズムも失われるし、 町はもともと日本橋あたりが中心にあって、明治維新以来の やはりこれは原文で読んだほうがいいのではないか、という近代日本の歴史の中でだんだん西へ西へ、発展していった都 悲しい結論に・ 市ですね。いま僕が住んでいるのも武蔵野市で、東京の西の 沼野でも松浦訳フロストはぜひ読んでみたいですね。『巴』 はずれですが、生まれは台東区で、東京の東側に属してい は、現実と幻想の区別がっきにくい、きわめて微妙な領域で る。つまり東の方に生まれた人間が、近代化の波に乗るよう 展開している雰囲気が濃厚だということ、また、いわば東京 に西へ押し出されて武蔵野市に住んでいる。上野とか浅草あ のゲニウス・ロキというか、地霊というか、具体的な古い地たりはノスタルジーもあるし、いろいろな思い入れがあっ 名や場所に基づいていて、外国の読者に分かりにくい部分が て、そういうものが全部この小説の中に入っているのです訳 翻 ある。もう一つは、濃厚なエロティックな描写があって、こ が、そのような事情はアメリカ人にも、ほかの外国人にも通 家 れもアメリカの大衆向きの小説の許容範囲を超えるかもしれ じよ , つがないでしょ , つ。 作 ない気がしますが、どうですか、松浦さん。 沼野辛島さんは東京育ちですか 9 松浦地名の問題には大きな不安が残りますね。東京のあれ辛島東京生まれ、埼玉育ちです。

3. 群像 2016年9月号

だった。晴眼者とは違って、盲人ランナーは周囲の景色が流 もうすぐ一〇キロだ。教会が真横にくるタイミングで淡島 れる様子から自分のペースを測ることはできない。自分の中 は時計を見た。三七分二七秒。ほば予想通りだ。一キロあた に正確な時計を持っしかないのだ。 り約三分四五秒のペースを保ち続けている。だが少しずつ集 団の。ヘースが上がりつつあるように淡島は感じていた。それ ペースを落としてしばらく走っていると、ゆっくりと集団 はまだ時計に。 が分かれ始めた。 一よ表れない微妙な変化だった。そろそろ集団が 第一集団の先頭に立っているのは淡島の知らない選手だっ 二つに分かれるころだ。 「ここは坂だな」 た。その後一人をおいて、ウクライナのベトロワとノルウェ ーのクリスチャンセンが三位と四位につけている。 下見の際に、一二キロあたりから僅かな上り坂があること に気づいたのは内田だった。 「俺たちは第二集団にいます。このままのペースを保ちます 「本当ですか。俺にはわかりませんでした」淡島は手にした 今走っている自動車専用道路は一四キロ地点で終わり、そ コース図を覗き込む。 の後は市街へ戻る国道へ移る。短い距離の中に急な高低差が 「ああ、間違いない。きっと走ればわかるぜ」 あるため、そこで選手は相当体力を奪われるはずだ。 普通に歩いていれば気づかないほどの緩い坂でも、ランナ あえてさらにペースを落とした内田は少しずつ後退して、 ーの体力は僅かずつ奪われていく。体力のあるうちに差をつ 一四キロ地点では第二集団の三番手を走っていた。第二集団 くるか、体力を温存するか。その日の天気やランナーの体 の選手は五人。伴走者を合わせると一〇人が塊になって走っ 調、他の選手たちの動きを見極めながら、戦略を修正してい ている。健常者のマラソンと違い、伴走者のぶんだけ横幅が く必要がある。 必要になる盲人マラソンでは何組もが併走することはない。 たとえ横に並ぶことがあってもせいぜい二組だ。今、内田の 気温がぐんぐんと上がっていた。このハイベースで登坂す 前にいるのはマガルサとホアキン。二人とも淡々と同じリズ れば潰れる選手も出てくるだろう。 ムを刻んでいる。どちらのチームもギリキリで勝負を仕掛け 「キロ三分五〇秒に」 「ああ」内田が頷いた。大幅なペースダウンだった。淡島自 るつもりだろう。内田たちのすぐ後についているケニア勢も 身は機械のように正確なタイムを刻むことを得意としている機会を窺っているはずだった。 が、どうやら内田にもいっしかその力が身についているよう レース前し。 」こま最大のライバルだと考えていたオランダの

4. 群像 2016年9月号

イドドアが大きな音を立てて閉まった。 言うてみせますわ」 車両には一人だけになった。二人が座っていた席にはそれ そういえば、わたしの誕生日はちょっとも訊かれはしな ぞれのカバンが残されていて、わたしは荷物番である。 かった。一九八六年の六月十八日。それをなんだかものさび しい、つまらない日付に感じながら、わたしは男の黒い革靴 座席に立てかけられた大叔父上の鞄は、小さな持ち主がい なくなるとさらに小さく見えた。年季の入った革製で、とこ まで視線を下ろした。そばに杖が転がっていた。 ろどころすり切れたり染みになったりしている。わたしはそ 「間氷はん、杖ぐらい拾ってもらえまへんか」 わたしは返事も忘れて、足下に転がっている杖をじっと見れを見る振りで景色を眺めた。しかし、気付けば鞄が目に た。特に持ち手の少し波打ったような部分を。 入っていた。 わたしは首を伸ばすようにして二人が消えた方を見つめ 「気の利かん男やのー」と男は文句を言う。 た。トイレは、隣の車両の奥にあるらしい。男はどうしてそ 拾ってみると、杖はとても軽い、粗末で、なんだか頼りの ないものであった。 れを知っていたのだろう。 そんなことだけ考えながらわたしは大叔父上の鞄を手近に 「渡さんかいな」と男は凄み、大叔父上から離した片手をひ 引き寄せていた。膝に載せ、差し込み錠の冷たい金具を外し らひらさせて促した。「用を足すときに必要やがな」 ああと呻いて杖を渡す。わたしだってものを考えないので その時、扉の方から音がした。わたしは面食らって大叔父 はない。日頃は周囲の人間からも一角の人物としてならして いるのだが、わたしよりものを考えられる人物がいる中で、 上の鞄を放り出した。見ると、ドアを開け放したまま、男が こちらに歩いて来る。幸い、わたしはまだ死角にいた。なる わたしがものを考える意味はないような気がしてきて、考え られなくなるのである。 べく元通りに戻しておいたが、金具を戻していないことに気 男は大叔父上を背負って右腕で支え、左には杖を持ち、少付いた時にはもう男が、ポックスシートの肩についた四角い しもふらっくことはない。例えば、小柄で痩せた文学趣味の手すりに肘をついて立っていた。 家 「見たとこ、軽いうちみかなんかですわ」 老人くらいなら、もう一人ぐらい背負えそうであった。 書 水戸駅で手当をしてもらった方がよいですかね。とりあえ読 「ほな、行きまっせ」と男は歩き始めた。 物 大叔父上の帽子が天井から垂れ下がった広告をはね上げず安心しながら訊ねた。 本 「手当は老人ホームで飽きるほどできまんがな」と男は先程 た。揺れ動く広告のゴシップ見出しの、視力に耐える文字を までとはちがう粗野な笑いを浮かべて言った。「死ぬまで手 なんとなく読んであらかた読み終える頃、車両をつなぐスラ こ 0

5. 群像 2016年9月号

もそこの美しい娘でした。わたしはその清純で優雅な円みに い』のようなところがあったが、 わたしは今、それより大叔 惹かれたのです」 父上の身の上に興味がある。だからわたしは、確かにああい 急にずいぶん気取った言い方をするものだと小憎らしく思 う人たちとは考え方もまるで違ってくるところがあるでしょ いながら、気の毒なことですねと会話を請け負うつもりで うねと男にいったん同意した上で続けた。わたしにはああい 言った。事故の時にはもう知り合っておられたのですか。 う人たちと自分が知り合ったり話し合ったりするなんて、 大叔父上の目がわたしを捉えた。意外なことに、それも今 ちょっと考えられないような気がします。大叔父さんはその しがた男に向けたのと同じ不機嫌な視線に思われた。大叔父娘さんとどうやって知り合われたんです。 上は首を振って、再び窓の外に目を向けた。わたしもなんと 大叔父上が話し出すか出さないかというところで、男が牽 なくそうせざるを得なかった。 制の咳払いを打って話を横取った。 程なく山間に見渡す限りの広大な白菜畑が現れた。その半 「間氷はん、あんた、えらい馴れ初めを気にされるやないで 分ほどは収穫を終え、栄養を取られた白っぱい土をさらしてすか」 いる。高くなった日はちょうどその真上にあって、影ひとっ 気になりませんかとわたしは逆に訊いた。 ない天下を、遠くの方に人間が歩いていた。窓いつばいに、 「なるかならんか言われたら、正直一言うてならんのですわ。 つまでも過ぎ去らないように思えるその風景にしびれを切ら せやから、ここは間氷はんに任せまっせ」 せたように男が口を開いた。 任されてもどうにもならないと言おうとしたところで電車 「こんなところへ来ると、情けない気分になりますわ。人は が高浜駅に着いた。上り側のプラットフォームの屋根は中央 無力やなんて意味ありげに書きつけるんは、土をいじったこ に申し訳程度にあるばかりで、緑色のフェンスを背にしてい とのない人間でっせ。ここでレンコンや白菜の何百キロでも る陽にさらされた場所には、どこへ行くのか女子中学生が何 育てて出荷してみたら、そんなことはロが裂けても言えまへ十人も立ち並んで談笑している。 ん。よしんば自然に打ちのめされることがあっても、それを その中にひとり、色素の薄い頬の高さまで髪を切り揃えた家 読 帳面に書きつけようなんて無粋なことは思わんでしような細い目の可憐な娘がいて、わたしの気を引いた。田舎らしい 長いスカートは、ダッフルコートの膨らみない裾からまっす物 いかにも遠回りをするような発言をする男を、わたしは ぐ膝下まで降りかかって、折りひだの向こうに静かな空気を ちょっともどかしく思った。取り上げた話題には『黒い笑含んで軽く揺れていた。その内に秘められた空間のちょうど

6. 群像 2016年9月号

単純な人物として描かれているとも言えでは、村上春樹の「中国行きのスロウ・ポ真」さを保っために他者と距離をとってい る。 ・ロリンズの曲から着想ると言えるかもしれませんが、それは作者 奥泉最後、亮太とサジャダは理解し合っしたものです。そこに出てくる一人の仲よの意識的な選択だと思います。 たわけではないけれども握手して、友好的くなった中国人の女の子に、連絡先を聞い大澤日本でうまくいかなくなって、一念 に別れる。ただ、二人が出会ったときとそてそれを紙マッチの裏に書きとめる。とこ発起して中国にやって来た。中国語を学ん れほど大きな変化はないですよね。距離がろが、それを無意識にゴミ箱に捨ててしで、二つの文化圏のはざまに立って、そこ 縮まったという印象はない。変化がないとまって連絡がとれなくなるという話があで何か利益を得て生きていく。身もふたも ない言い方をすればそういうことを主人公 いうことを書こうとした、そのこと自体をる。無自覚な差別意識を書いた後味の悪い 否定してもしようがないのかもしれないん話ですが、そんな風に「理解し合えなさ」は目指しているわけですが、その過程で歴 だけど、そこはやつばり異質なサジャダとを書くこともできたはずですね。でもこれ史とか暴力とか複雑なものが入ってきて、 の関係を描くべきだった。そうじゃないとは、何となく「いい話」で終わっている。純真ではいられないときがきっとあるはす 読む甲斐がない。その上で、さらに亮太が僕は簡単には「いい話」に行けないところなんですよ。それをこんなふうに片づけて に「純文学」の意味があると思っていましまっていいのか。歌詞の最後にある「ア 亮太性を発揮して笑えたら最高だった。 大澤サジャダは、とかアルカイす。作者はそこのところをどう思っているクセスラブ」みたいなのはむしろ、主人 公が面白く思っていない川田をはじめ、国 ダとかの一員なのかなと思って読んでいたのか。とはいえ、蜂蜜を舐めたらおいしい んですけど、そうではなく、主人公にとっというようなピュアでイノセントな部分別出し物に参加した人たちが実行すること じゃよ、、 オし力という気がするんですね。この て自分を重ねられる鏡像、同一化できる対は、この人の感覚のべースでしようから、 象として捉えたほうがよさそうですね。そ今後書いていってもそれが打ち砕かれるこ歌を歌うのは、亮太ではなく彼らの側だと 思います。 うすると、主人公は他者性に出会えていなとはないという気もしますけどね。 いことになる。「彼のことは、ほとんど自滝ロ横山さんがどうしてこの曲を選んだ 「スイミングスクール」高橋弘希 分のことのように思えた」という感傷を、のか、歌をどう解釈して作品にしていった 拒絶する厳しさがあってほしかったと、僕のかはわかりませんが、元の歌詞では、多 なんかは思ってしま , つ。 様性や他者性はいわば馬鹿つばく、無責任大澤次は、高橋弘希さんの「スイミング 同じく曲名から発想した短篇ということに羅列されるだけです。この作品も「純スクール」 ( 「新潮」八月号 ) です。 340

7. 群像 2016年9月号

アウン総統は壇にもたれかかりながら、ニャニヤした顔で しゃべっている。力強い大演説でも始まるかと思っていた晶 は呆気にとられた。 そういえばこの前、保安本部のまっちゃんが突然、自分も プース出展したいですとか言いだしてさ、わたくしとしても 寝耳に水っていうか驚いたわけで : 総統はよくわからないことを脈絡なくダラダラとしゃべり 続けている。初めて参加した晶には内容が全然理解できな い。なんであんな小男の話を皆真剣に聞いているのかと不可 解に思ってから約一分後、気づけば晶は総統の話に聞き入っ ていた。あうんスタジアム内では他にも似たような経験をし ていたが、心をつかまれるまでの時間が圧倒的に短い。 まあね、北海道どうなっちゃってんのって感じだよね、ほ んとに。東京の人たちなんか、どうせなんにも知らないんで しよう ? しかしなカらいつばうで感じるのは、わたくしこ の状況そんなに嫌いじゃない。崇高なる日本民族の内に秘め られたあうんの誇りを、ここの皆とは共有できるしさ。 不思議な求心力だった。もっと総統の言葉を聞き続けてい ちょっとちょっと、後ろのほう、わたくしのいつもの流れ を見透かしてダレてるでしよう ! 舐めてるんじゃないよ まったく ! あれだな、ちょっと早いけど、おまえら、いっ せー、のつ ! ものアレ、いくよー ! 一つの民族 ! 一人の総統 ! 一つの文脈ー 団扇を高く掲げながら人々は声高に叫び、一人だけ浮いて しまうのもマズい気がした晶は団扇を掲げていた。そして、 ザ 今皆と同じように叫べなかったことを悔しがってさえいるこ とに気づく。その後もアウン総統による的を射ないダラダラオ としたしゃべりが続くうち、スタジアム全体の照明が少し暗 ス ク くなると同時に、ステージの奥へスクリーンがおりた。 テ ン コ ありや、いつもどおりやるみたいだよ。わたくしここから 見守ってるから、皆がんばって。 し、 っ ) 、 0 日 0 、 日日カそう思っていると、アウン総統は突然身を乗り出

8. 群像 2016年9月号

この恐ろしさこそ人間に本質的なものであることは、そ いで空き家を出、狂ったように走ってゆくと一軒の寺が れが言語とともに古いことからも明らかである。大岡信は あったので、坊さんに「私の体があるのかないのか教え 谷川俊太郎との対談『詩の誕生』のなかで、子供の頃に買 てください」と尋ねる。坊さんは驚くが、話を聞いて合 い与えられた児童文学全集中の『印度童話集』を読んで強 点し、「あなたの体がなくなったのはいまに始まったこ い衝撃を受けたと語っている。なかでも「誰が鬼に食はれ とではない。『我』というものは仮にこの世に出来上 たのか」という話は鮮明に記憶に残ったとして全文を引用 がっただけのもので、愚かな人はその『我』に捉えられ している。長いので以下に粗筋を引く。 て苦しむが、その『我』がどういうものか分かれば苦し みはなくなる」と答えた。 ( 『自選大岡信詩集』略年譜に ある旅人が道に行き暮れて野原の空き家で一夜を明か 収録された「粗筋」による ) す。夜、一匹の鬼が肩に人間の死骸を担いで入ってく る。すぐにもう一匹の鬼が入ってきて、その死骸は自分 児童に与える物語としていかがかと思われなくもない のものだと言って争うが、先に来た鬼が、旅人を指して が、大岡にはそれが益したのである。先に述べたことがこ 証人とし、どっちが担いできたか言えと迫る。旅人はど こに寓話として巧みに語られている。自己が外部的なもの う言っても殺されるに違いないと思い、正直に、先に来であることの恐ろしさを実感的に物語ってみせているわけ たほうが担いできたと一言う。後から来た鬼は大いに怒 だが、この外部性こそ一一一一口語によってもたらされたものなの り、旅人の腕を引き抜き床に投げつける。先に来た鬼だ。「誰が鬼に食はれたのか」というこの物語はおそらく は、すぐに死骸の腕を持ってきて代わりに旅人の体につ 仏典から採取されたものだろう。とすれば古いとはいえた ける。後に来た鬼はますます怒って足を引き抜く。先に かだか数千年を遡るにすぎないが、しかしこの恐怖は根源 来た鬼がすぐに死骸の足を持ってきてつける。こうして的なものであって、現生人類の誕生つまり一一一一口語の誕生とと 旅人の体と死骸がすっかり入れ替わると、二匹の鬼も争もに古いと思われる。 うのを止め、半分ずっその旅人の体を食って出てゆく。 中空に成立したこの自己という現象は、人を恐怖に陥れ 旅人は驚く。自分の体は残らず食われ、いまの自分の体もしたが、どのような対象にも乗り移ることができるとい は誰か分からない人の死骸である。いま生きている自分う能力ーーいわゆる想像力ーーによって、結果的に人類を はほんとうの自分なのか。夜が明けるとともに旅人は急益することになった。その能力が人に、死の恐怖をももた

9. 群像 2016年9月号

力の出版界には、とくにニュ 1 ヨークの出版界には、日本語 セッション 1 ができる編集者、出版社、エージェントはめったにいません 川洋子 x スティープン・スナイダー が、フランス語ができる人は結構います。 TheNew 東 ・三組の作家と翻訳家 の編集者のデボラ・トリースマンさんも小川作品をフランス 語で読み、それがとても優れた翻訳で、ぜひ The ~ ミ 沼野今回のシンポジウムは、第二回»-ä (Japanese に、短編小説「タ暮れの給食室と雨のプール」の英 Literature Publishing Project) 翻訳コンクールの課題作品と して作品をご提供いただいた三人の作家、小川洋子さん、堀訳を載せたいと、私に依頼してきたのです。 沼野翻訳してみて、小川作品や日本語の手応えはいかがで 江敏幸さん、松浦寿輝さんと、この三人の作品を翻訳してい したか。スナイダーさんはほかにも日本の現代作家はたくさ る世界的に高名なプロの翻訳家の皆様が一堂に会するとい う、めったにない企画です。作家ご本人の観点から自分の作ん読んでいると思いますが、小川さんの特徴、ほかの作家と 品についての話を伺うだけでなく、翻訳者の視点から作品を違う面白さを何か感じられましたか。 スナイダー非常に洗練された静かな美しい文章だとすぐ分 どう読むかなど、作品の本質についてわれわれが日本語で読 かりました。しかし、内 ~ 谷とはちょっと「オ盾とい , つか : んでいるだけでは分からなかった新鮮なものが見えてくると 思います。最初にご登壇いただくのは、トー 月洋子さんとス怖い内容と美しい文章との重なり方がものすごく魅力でし ティープン・スナイダーさんです。スティープン・スナイダ ーさんは翻訳コンクールの審査員でもいらっしや、 沼野表面的には静かで美しいけれど、中身は怖い ます。小川洋子作品だけでなく、非常にたくさんの現代日本スナイダー表面のすぐ下で怖いことが起こっている。 川文学の本質をついているんじゃないで 文学を翻訳されており、英語圏での現代日本文学紹介の第一 沼野まさに、ト ー ) よ , っカ 4 ー .. 、日さんは自分の作品が仏訳されたり英訳された 人者と言って良いと思います。ますスナイダーさんにお伺い 家 します。小川洋子さんの作品との出会い、また小川さんの作りすることに関して、どう思っていらっしゃいますか。 訳 翻 小川私は日本語以外の語学ができないので、英語やフラン と 品を翻訳するようになったいきさつをお話しいただけます ス語になった自分の小説がポストに届くと、不思議な気持ち作 になりますね。知らない間に妖精が魔法の粉をふりかけて、 スナイダー以前から小川さんの作品を愛読していました 私が書いたものを私の読めない言葉に生まれ変わらせたよう が、翻訳を始めたきっかけは仏訳があったからです。アメリ

10. 群像 2016年9月号

ートなメッセージを小説に挿入するのは非ことなのか。評論よりも小説の方が読まれ僕が一番好きなのは、猫のムスビが走る 常に難しいことです。しかし、作者はそのやすいという話ではないですね。たとえばところ。「柳さんが木下の制止を聞かずに メッセージ性がなんとか浮かないような形ここでは、小説の語り手として空間を支配燃えはじめた家に向かいかけたとき、家の で一生懸命書き込もうとしている。そこにすることと、人々を動かして社会を変えて右脇にある入り口から、ひょいとムスビが いくことという、ある種の権力意識が重顔をだした。炎の色を宿してまん丸く見開 僕はちょっと共感できるんです。 大澤先ほど現場の感覚がよく書かれていなって、「ばく」という一人称の問題があかれた目は、一瞬たしかに柳さんをとらえ 力すぐに柳さんの脇を駆け抜けて小 ると言いましたが、一方で描かれていないぶり出される。これは小説的な問いだと思た。ま、 こともあって、何かというと支援者なんでいます。本当はそこから小説が始まると思道にでると、あっという間にグラウンドの すね。支援者には、主にキリスト教系の社うんですね。一人称で語ることの暴力性と炎と炎の間を縫うようにして下流のほうへ いうものがある。でもそこは十分に問われ走り去っていった」。それで最後、炎に包 会奉仕活動から入ってくる人と、左翼系の ない。そのへんが手放しですばらしい作品まれた河川敷から逃げ出すのに、柳さんは マイノリティー運動から入ってくる人がい て、後者は演説をしたりビラを配ったりしだと言えないところです。未批判なままにムスビのことを思い出して、上流に向かう て政治的に何かを訴えかけようとする。国「ばく」を剥き出しにすることで、読者そのをやめて下流に行く。ここはい、 家や体制を批判しつつ、それとはべつの意れそれの「私」を感情的にアジっているとさすが猫だよ ( 笑 ) 。僕は涙したもの。 大澤逃げ出した先で、もっと悲惨なこと 味での権力性に結びつきやすい彼らとはも読めてしまいます。 違って、前者は困っている人を前に粛々と奥泉人の情動に訴えかける方法を使っが待ち受けているかもしれません。この小 炊き出しをする。そういう、アジテーショて、メッセージを強烈に伝えるという意味説の人物以上に社会の不正を憎んだ人間 ンにつながらない活動のメンタリティーにでは非常に政治的です。物語性に依拠してが、酷いところまで堕ちていくこともあり は迫り切れていない。僕はむしろ、そのよ情動を動かすような小説を僕は基本的に認ますからね。そこまで踏み込んで欲しかっ うな劇的なものがない、寡黙で敬皮な実践めていない。小説というのはそういうものたんですけど、一番困難なところに入る手 じゃないだろうと思っている。さっきから前で小説が終わっている感じがしました。 が気になっていたので。 具体的な運動をしながらルポや評論を書言っているように、僕は物語性からはみ出それでも、何か技術というわけではなく、 いていくという道もあるわけで、そうではている細部が、この作品を救っているん横山さんと高橋さんに足りないものがここ にあるという感じはします。 なく、社会問題を小説にするとはどういうじゃないかというふうに読んだんだよね。 しよね、