入っ - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年9月号
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1. 群像 2016年9月号

はわたしばかりだ。そんなの、ホテルに荷物を送っているか しの不注意を助けてもらったんですからね。食事のことは良 もしれないでしよう。 く考えるべきでした。わたしは大叔父上の方も見なかった。 「かまへん、かまへん。袖振り合うも他生の縁ですがな。そ 「そうですなー。確かに二人分の荷物を持つのは難儀なもん れよりも、高萩でおとうさんがどちらに行かれるんかもう少 ゃ。ただ、間氷はんがそこまで綿密に準備をしているとは、 とてもやないけど考えられんのですわ。さっき、わしはおと し教えてくださいや」 うさんにシウマイ弁当を分けましたやろ。その時、この後の ただの付き添いですからとわたしは言った。さすがの男 昼食の予定を訊いたら間氷はんはそんなもんないと言いまし も、今からコレが老人ホームにぶちこまれるものとは思うま 。あと一時間だか二時間だかわからないが、それだけの辛 たんや。おとうさんは弁当を買う暇がなかったと言うてはっ たけども、ぎよーさん召し上がらはって、ほんまに腹を空か抱だ。男がここに居る限り、大叔父上が川端康成を持ち出す こともなさそうだから、手紙の秘密をあえて知りたくもない しとる様子でしたのー。あれを食べなんだら、とても二時間 わたしにとってはますます都合がよくなったわけだ。大叔父 もつようには見えまへんでしたわ。ここでわしは、お二人が 上と話すよりは、男と話している方がましである。 昼メシの話をしてへんいうことと、高萩に着いてから一緒に 「おとうさん、洒落た格好して、高萩にスケでもいるわけ メシを食う予定があれへんいうこと、この二つを了解したわ けや。食事に関してこんな有様なら、荷物のことは推して知じゃありませんでしようなー」 そう言って無視された男がひきつけのように笑ってから、 るべしとちゃいますか。おとうさん、倒れてたかもわかりま しばらく誰も喋らなかった。きっとこの場を楽しみたいだけ へんで」 の男にあせった様子はない。通路に首を差し出すようにし わたしは自分と同じように昼食を済ませてきていると思っ て、悠々と車内を眺め渡している。 てましたし、我々は着いてすぐに別れる手はずになっている わたしと大叔父上は向かい合わせでまた同じ景色を眺め んですよ、だから着いた後の予定なんてないのです。弁解した た。だらしなく広がった利根川を渡って茨城県へ入る。晩秋家 いあまり、いらぬことを口走った時にはもうすでに遅かった。 の土手は、夏の終わりに刈られたのだろう、寒風に揺らぐ草読 「はー、お二人は高萩でお別れでつか」男は揚げ足をとった 丈もなく、薄黄色にただ塗られたように陰影がなかった。そ物 ことを示すまでもない暢気な口ぶりで言った。 わたしはだから、実際そうなのだが、そんなことは意に介こに立って、こちらを見下ろしている車内の大叔父上を見上 さないとばかりに、あなたには感謝していますと続けた。わた げれば、もっと好感と情感を覚えるのかもしれない。ところ

2. 群像 2016年9月号

俺がやるしかない。 「すみません。普通の水です」 「大丈夫です」そう言い切った。 淡島の右手は内田の左手と繋がっている。 「ホアキンの伴走をやっているエンリケスなら、金を積めば 淡島は左手に容器を持ち体をひねるようにして走った。体 伴走してくれるんじゃねえかな」内田はどこか楽しそうだっ の前に伸ばされた内田の手に容器をしつかりと手渡す。内田 が確実に持ったことを確認してから淡島は容器から手を離 「何をバカなこと言ってるんですか。あの二人は交代なしで し、時計を見た。 フルを走るんですよ。エンリケスがいなければ、ホアキンが 一五キロのタイムは五六分三六秒。ほとんど計算通りだっ 走れなくなりますよ」 た。予定よりは数秒遅いが誤差の範囲だ。さすがにこのペー 「どははは。だったらなおさら好都合じゃねえか。よし、引 スで最後まで行くことは無理だが、行けるところまでは行き き抜こうぜ」 盲人ランナーと伴走者は一心同体だ。細かな部分まで互い 体に水が入って淡島の体内に籠っていた熱が下がった 9 一 の動きを熟知していなければ、力を最大限に発揮することは気に汗が噴き出してくる。この先二〇キロまで国道は住宅地 できない。いくらトップレベルの選手だからといって、そう を抜けていく。道の両側には低い屋根の家が迫り、ところど 簡単に伴走者が務まるわけではないのだ。内田だってそのこ ころには整備されていない路面もある。沿道の観客が急に飛 とはよくわかっているはずだ。 び出してくる可能性もあった。これまでの広く走りやすかっ 「だってお前、不安なんだろ」 た自動車専用道路とは違い、淡島は伴走者として緊張を強い られることになる。 ふいにそう言われて淡島は言葉に詰まった。内田は人の心 を見透かす。 淡島は前方を見た。道が大きく曲がっている。 「お前が不安ってことは、俺も不安ってことだ」 「この先、左にカープ」淡島は指示を出す。「あと五〇メー トル」 そうなんだ。淡島は顔を上げた。俺は伴走者だ。内田が恐 怖を感じずに走れるようにするのが俺の役目じゃないか。俺 「ここからカープ。道路の中央が凹んでいるので、左側に が不安がっていちゃいけない。大丈夫だ。走れる。いや、何寄って」 があっても走ってみせる。 「まもなく緩い下り坂」淡島は次々に声を出した。 二人の間では、まもなくと一一一一口えば一〇メートルという約束 っ ) 0

3. 群像 2016年9月号

ぜ隔離区域内という危険な場所にとどまるのかと人々は問い かけてくるが、希からすれば人間で満ちあふれている外のほ : 一名拘束。新たに安全確認がとれるまで待機せよ。 うがよほど怖し 今朝まで自分の寝床にしていたテントへ戻ろうかと、希は 先頭車両の近くで警察官らしき数人にとり押さえられた男 ゾンビつばく振る舞いながら歩いた。人々の目から逃れるた が暴れながら叫んでいる。制服警官もいれば、ぶかぶかのス め身につけたゾンビの外見偽装や行動規範という外枠が、時 ーツを着たや民間警備保障会社の警備員たちも直接的な 間の経過とともに〃ゾンビたる自分″という中身を希の内で 警護についていて、他にも私服警察官や警察庁警備局公安課 形成しつつあった。 員、自衛隊情報保全隊員とかいう各機関の私服要員が群衆に 紛れ希の安全確保や情報収集に勤しんでいる。ありとあらゆ 翌日の昼過ぎ、訪れたのは三度目となる筑波の研究施設で る組織が希の身柄を手元に確保したがっているため、逆にど の機関も勝手に希を独り占めできず、結果的に希は今も隔離の休憩時間中、希はテレビを見ていた。希が車で発った後に 撮られたのだろう。河川敷隔離区域の統率者新垣がフェンス 区域内を住処とすることが可能だった。 の外でしゃべる様子が、くり返し放映されている。 隔離区域内へ入り希が降りてすぐ、護送車はゲートへ引き 返す。空のテントへ入り、耳を澄ます。窒息防止の通気孔も ここにいるゾンビのうち半数近くが、生活保護費の受給申 空いているため、フェンスの向こうにいる人々の叫びがはっ きり聞きとれた。 請を水際で却下されたり受給打ち切りにあった元ホームレス たちだ。公務員の間でしか伝わらない言葉で弱者を煙に巻 わたしは殺しちゃったのよ ! あんたがわたしに罪をおし つけたー き、公務員の内輪でしか良しとされない規範や価値観に従う のを至上とすることで、助けられたはずの大勢を見殺しにし おばさんの野太い、それでいて悲痛な叫び声が希の耳に届 たし、今もそれは続いている。 いた。同様の怒声や叫びは、昨日より増えていた。 これまでの臨床実験で希はゾンビ二三体中七体を人間へ戻 せいほ 生保切りの大量殺人が許されて、なぜ死者たちだけが責め したが、結果が公示されるたびに支持者が増えるいつばう、 憎しみをぶつけてくる人も増えた。ゾンビとなった大切な人られる ? をやむをえず殺した人たちからは特に、目の敵とされた。な 220

4. 群像 2016年9月号

「俺たちは、淡島さんみたいに冷酷な機械にはなれません」 盲人マラソンはまだスポーツとして扱ってもらえない。誰も まさか俺のせいにする気なのか。俺のせいでこれまで準備 興味を持たないものはニュースにもならないのだ。 してきたものが水の泡になってしまったというのか。ペース 内田に電話をかけるが、電源が入っていないというメッセ を守らなかったのは内田じゃないか。それをうまく制御でき ージが流れるだけで、つながらなかった。住所録から松浦の なかったのは松浦じゃないか。俺のせいにするな。 番号を探し出す。 淡島は厚い雲に覆われて真っ黒になっている空を見上げ 「ああ、淡島さん」松浦はすぐに出た。 た。雨は激しさを増してラジオノイズのような音を立ててい 「どうだった」 「それが」 「それで内田さんはどうしてる」 松浦の声は沈んでいた。 「それが内田さん、ゴールすらできなくて」 「落ち込んでます」 それはそうだろう 。バラリンピックに近づくために、ここ 「え ? 」まさかケガでもしたのだろうか。 で世間に自分の力をアピールしておきたかったのだ。普段か 「ペースが速すぎたんですよ」 「なんでだよ」淡島は声を荒らげた。「俺のペース設定は完ら大口を叩いている内田がゴールすらできなかったとなれ ば、厳しい目で見られることになる。 璧なはずだそ。決めた通りに走ったんだろうな」 「伴走者は速いだけじやダメなんですねー 「それが、途中で煽られて飛び出しちゃったんです」 淡島はもう松浦の話を聞いていなかった。 「何をやってんだ。それを抑えるのがお前の仕事だろう」携 地面に落ちた雨はトラックの端の溝へ集まり勢いよく流れ 帯を目の前に持って怒鳴りつけるように声を出す。 ていく。どこにあったのか、拳ほどの大きな石が転がりなが 「だって内田さんが大丈夫だ、行けるって言うもんですか ら濁流に押し流され、やがて見えなくなった。 ら。俺も熱くなってしまって」最後は声が小さくなる。 全てを完璧にコントロールする。それが淡島の考える理想 「パイロットはお前だぞ。マシンに操られてどうするんだ」 のレースだ。機械のように精密な肉体と精神で走りきるレー 「内田さんのスタミナなら最後まで保っと思ったんですよ」 ス。その理想に内田は完全に応えていた。他人をコントロー 松浦は拗ねるような声を出す。 ルするのは、自分自身をコントロールするよりも遥かに難し 「その場の感覚や思いっきなんかで走るんじゃないよ。何の 。その難しいことを二人はここまでやってきたのだ。 ためにきっちり計画を立てていると思ってるんだ」 114

5. 群像 2016年9月号

現場がえらい迷惑やったらしいですなー。高橋英樹も、川端 これ議論しとる水面下で、代表作となる小説の代作の手はず は吉永小百合しか見てなかった言うとりましたで」 が整いつつあったっちゅうわけや」 そこで男は日記を胸の前に上げ、続きを早口に読んだ。 と、男が何かに気付いて綴じられた部分を指でなぞった。 大叔父上を見る。 六月四日。一日に届いた川端先生の手紙に写真を送ってく 「ここ、二枚ほど破り取られてまんがな」語気は自然と強 ださるようにと有り。文にて聞けば写真は無いと言うので 嫌がるのを説き伏せて今日、水戸の小貫写真館まで撮りに 「ええ」 いった。小雨が降っていて私たちはそれぞれ傘を差して歩 男は黙ってページを繰った。また読み上げた。 いて行った。先生の「雨傘」を思い出したのは私だけだっ たろう。写真屋はキミを気遣い義手のある右を奥にして斜 六月十日。川端先生から手紙あり。キミが宅の住所を教え に構えるように盛んに言った。キミは椅子に座って怯えた てくださるよう云々と有り、憤怒を覚える、覚えながら丁 顔で私を見る。写真屋が私を振り返る。私は首を振る。写 重に断りの手紙を返す。お送りしたものは好きにしてくだ 真屋は私を睥睨した。私は撮らないのだから猶更だろう。 さるようお願い致しますと伝う。 事情も知らずに働く善意を恨んだ。帰り道、川端先生も喜 ぶよと言うと、キミはそうですねとおそらく無理に笑っ 「川端が『片腕』の娘と直接連絡を取ろうとしたりを、恋人 た。私は言ったことを後悔した。とても「雨傘」という気であるおとうさんが止めたんでんな。仕方ない老人やなー。 分ではなかった。 吉永小百合に会って盛りでもついたんと違いますか」なんと なく取り入るような口調だった。 男が顔を上げて大叔父上の方を見る。「つまり、キミはん 大叔父上は答えない。男も返事は期待していないらしく、 がおとうさんの恋人であり、隻腕の娘であり、『片腕』のモ またページを繰った。しかし、目を通しても読む様子はな おなご デルになった女子であるいうことですな。しかし写真を欲し 。その繰り返しで次々とページだけが進んだ。 がるなんて、川端らしい話やのー」その口調は独り言のよう 「なんや、さっきのとこから川端のかの字もあれへんがな」 だった。「ほんで撮影見学のあとは『日本文学全集』の編集 「そうです」と大叔父上は言って、内ポケットに手を突っ込 会議のはずですわ。自分や他人のどの作品を収録するかあれ んだ。「わたしはそれから手紙を送っていませんし、向こう

6. 群像 2016年9月号

夫實 - 爵蓮 『小説から遠く離れて』といういささか皮肉に「一朗」が隠れているはずだが、目をこ同じ著者の手になる小説『陥没地帯』『オペ なタイトルの小説論に、「小説に似ることはす「た次の瞬間、翌年帝大に進学するつもりラ・オペラシ本ネル』の二作においても、エ 小説の条件にほかならず、類似こそが小説のの若者は、監視を逃れるという名目のもと街ロティシズムは暴力や戦争との近接性におい 定義だというべきかもしれない」という一文路樹の影で夫人を抱きしめ、腰のあたりのやて掴まえられており、その意味で「太平洋方 がある。四半世紀後、同じ著者が書いた小説わらかな肉をまさぐ 0 ている。、サスペンスフ面への戦線拡大」への懸念がの 0 けから表明 ルなポルノグラフィーの開始の予感はしかされている本作と似ているかに見える。とは 『伯爵夫人』は、ではいったい、何に似てい いえ前二作においてエロティシズムと戦争 し、すぐさま裏切られることになるだろう。 るのか ? そう自問しつつべージをめくるや、いきな映画の一シーンめいたこのちょ「とした接触は、不分明な灰色の風景にオフコメでかぶ り重そうな回転扉が「ばふりばふり」とまで、手もなく童貞男の精は洩らされ、愛撫・さ 0 てくる鈍いつぶやきのようなものだ「 わ 0 ている。こんな珍妙なオノマトべをよそ挿入・絶頂と律儀に推移してゆく官能小説のた。それにたいし伯爵夫人の突然の豹変が解 で読んだことがあるだろうか ? だが幻惑さお約束は初手からあっさり踏み躙られてしまき放つのは、「揉むまいぞ、入れまいぞとい いながあ陰核をしゃぶりつくす大佐は、上目 うのだ。 れている隙はない。狙いすましたかのように だが、真の驚愕は、ホテルの「電話ポック遣いで余裕のある薄ら笑いを浮かべる。その 振り返る伯爵夫人に「まあ二朗さん、こんな 時間にこんなところで、い 0 たい何をしてス」に二朗を誘いこむや、物腰も口調も一変笑顔をふと美しいと思い、乳を揉んで下さ 、ちんばを入れて下さいとなかば本気で叫 らっしやるの」と呼びかけられたとき、読者した伯爵夫人が「青くせえ魔羅」「あたいのい はすでに不穏にざわめく言葉の群れに搦めと熟れたまんこ」とあられもない卑語を連呼しぶしかない」とい「た破廉恥きわまる性愛シ ーンのとどまるところをしらぬ炸裂である。 、、きなり二朗の睾丸を握りとり、思い られ、「どこでもない場所」に拉致されてしつつ ま 0 ている。「一一朗」というからにはどこかきりひねりあげるときに訪れる。なるほど、そしてその淫らな反復を断ちきるものこそ、 三つの密室は何に似ているか 高原到 B 〇〇 K 一ョロ 書 R E V 一 E W : ェロス第「スへンス受作 「「一せのをを掛す 第凶囮 328

7. 群像 2016年9月号

希が隔離区域へ戻った頃には、区役所関係者らしき人たち とを相手も受け入れて当然だと決めつけるような人々を、ゾ が何人も新垣へ呼びかけていた。暗くなった後も続き、張っ ンビたちは噛もうとしているのかもしれない。そうだとした ているマスコミの数が日中と比べ激減したからか、大声で執ら、区民の話をちゃんと聞く職員だった新垣や高橋が噛まれ 拗に行うようになった。 ないことの説明がつく。 「新垣、最後通牒 ! 本日一九時までに発言撤回、出頭しな 「高橋さんは、それを本能的に感じとっている。なにか言葉 ければ、無期限停職処分 ! 出頭 ! 発言撤回せよ ! 区民を口にすれば、なにかを決めつけ誰かを傷つけてしまうこと の皆様のためにも ! 」 に、恐怖しているんだろう」 同じことを二分おきくらいのペースでずっと叫び続ける男 だから、高橋はなにもしゃべらない。筋が通っている気が ; 、た。鹿肉鍋を焚き火の上に置いた新垣が、折りたたみべ希にはする。 ンチに腰掛け声のほうへ目を向ける。 「おい救世主 ! さっさとこの世を元に戻せ ! 」 「職場の主査、富野という保身の豚だ」 届いてきた男の叫びに、希は反感と申し訳なさを抱いた。 職場以外ではまともなコミュニケーションもとれない富野 「外にいる人たちは、気づいていないようだ。ゾンビが出現 主査の話は、以前にも聞かされていた。 する以前と、この世は実のところなにも変わっていないこと 「発言撤回しろ ! 区民の皆様のために ! 」 「出頭しろ ! 区民の皆様のために ! 」 鍋の出来具合を見ながら新垣が言う。フェンスの向こう 「新垣、一緒に職場へ帰ろう ! 区民の皆様のために ! 」 側、境界の外側にいる人々はたえず、威圧的な声や視線を希デ 他職員たちの声も聞こえる。最後に必す同じ文言をつける ザ たちのいる内側へ向けてきている。 のは、マスコミに言葉尻をとられないための対策か。隔離区 「悪魔の女 ! 呪われろ ! 」 プ オ 域内のゾンビたちは、富野たちのほうへ集まってきており、 「早くウチの娘を噛め ! 殺すそ ! 」 警備員がフェンスに通電させたのか、火花が散るとともに弾 「あんたが早く現れないから私は殺しちゃったのよ ! 」 ス ク けるような音が何度も聞こえた。 「新垣、最後通牒 ! 本日一九時までに : テ ン 「身内にしか通じない言葉を使う連中を、彼らは食らいた 世間の人々から避けられる場所の内側から見れば、外側の コ がっているらしい」 ほうが、よほど異様な世界だった。 新垣の言葉に、希はふと思った。自分の考えややりたいこ 「な、中島 : : : 」

8. 群像 2016年9月号

クリオネ事件 こと。 「えー、そんなにお金ないの 5 ? 」 突然そんな返信が来た。直前までお金の話題などちっとも 出ていなかったのに。チグハグな返答だったので、もしかし たら間違って他の人に向けた返信だったのかも、と思い確か めてみた。 黒木渚 すると、 「いや、渚に送ったメールで合ってるよ。さっき貰ったメー ルの最後に『金欠マーク』が付いてたからお金ないのかなと 自分専用の携帯を持つようになって十数年が経つ。手にし思って」 たばかりの頃は、確かメールなんて機能は付いていなかっ と返ってきた。 た。画面だって絆創膏で覆えるほど小さくて、画像の表示は ・ : 金欠マーク ? そんなものを付けた覚えは無かった おろかカラーですらなかったのに。登場するやいなや、めまし、現に自分が送った文面を読み返してもそんなマークは付 ぐるしい勢いで形を変え機能を増やし、進化してきた携帯電いていない。私が付けた絵文字といえば、びよびよと羽を動 かすクリオネの : 話。進化しまくりにも程があるよ。 : これは ! クリオネじゃないー もはや携帯が登場する以前は、どうやって人と会う約東を そう、それはクリオネではなかった。 したり集合場所で落ち合ったりしていたんだっけ、と思い出 せなくなるほど依存している。携帯電話の成長と共に青春時よく目を凝らして見てみると、お札に羽が生えてバタバタ 代を過ごしたためかも知れない。かえってそのありがたみとと飛び立っている描写だったのである。つまりこれは「金 いうか、事件性みたいなものを当たり前に側にあるものとし欠」とか「散財」とかそういった意味を示す絵文字であり、 てすんなり大人になってしまった。 二人の会話に無関係のチグハグ要素をぶっ込んだのは友人で しかし今更になって携帯電話の登場が、生活もカルチャー はなく私だったのである。 も、果ては人同士の関係性をもガラリと変化させてしまう大私はただ、友人へ向けたメッセージの最後に癒しの象徴で 事件だったのだと改めて意識してしまう出来事があった。 もある妖精クリオネを羽ばたかせておけば、良い感じにゴキ 親しい友人とたわいないメールの遣り取りをしている時のゲンなのが伝わるだろうという、それだけのことだったの

9. 群像 2016年9月号

発するのは、僕はすごく共感できる。小説漂白されて、小説だか何だかよくわからなけど、彼にもそういうところがあると思う というジャンルにおいて、その動機はきわい百枚の原稿が出てきた。でもこれは、言んですね。僕は一時期、だったら剥製性を めて正しいと言える。たとえば、電車の車葉としてすごい力がある。そういう方向で徹底してみようか、と考えたりもした。そ 窓から住宅街を眺めながら、実家が空き家いけば、とても見事な作品が生まれてくるれはともかく、彼もある方向に徹底してい になった日のことを思い出す場面で、「仏ような気もします。 けば、面白い作家になる気がする。何か期 間で何やら法要を執り行う様子を、柱の陰奥泉そうかもしれない。丹念に描写して待させるものがある、ちょっと不思議な人 から眺めていました。鉄橋に差し掛かる文章をつくっていく中で、ふと話が動いてですよね。 と、列車の車輪の音が変わりました」と、 いくような書き方を選ぶべきだと思う。お スッと短い描写が入ってくる。こういうと母さんとの間にあった出来事を隠すという「野良ビトたちの燃え上がる肖像」木村友祐 ころは枚挙にいとまがないんだけど、細かのは、あらかじめ考えられたプロットです い描写をスッスッと重ねて世界を作っ . てい よね。それがかえって全体をぎくしやくさ大澤最後は、木村友祐さんの「野良ビト きたいんでしよう。それは近代小説が蓄積せてしまった。むしろ、文章を積み重ねてたちの燃え上がる肖像」 ( 「新潮」八月号 ) してきた伝統の技法でもある。となると、 いくグルーヴの中で、お母さんの話も自然です。 ここまできっちりした物語の構築性は要らと出てくるようにしたほうがよかったん主人公の柳さんは、東京と神奈川の間に じゃよ、、 ないんじゃないか。この文体にふさわしい オし力な。高橋さんは小説的企みをある「弧間川」という、多摩川がモデルと 物語内容ではないように思えてしまうんで持っていると思うんだけれど、残念なこと思われる架空の川の河川敷に暮らしていま すね。 に、その企みが文章とうまくかみ合っていす。六十三歳、ホームレス歴二十年、もと 大澤確かに、小説は一言葉でできているとない。 はペンキ屋でしたが、鉄塔から落下してケ いう意識や、言葉自体に対する緊張感は感僕が昔すばる文学賞に応募して、誰の批ガをし、その後は建設現場の日雇い労働を じられます。だから余計に、感動を回収す評か忘れたけど、「この人は小説じゃなく経て、おそらくバブル崩壊の不況のあおり るような構築の仕方でいいのだろうかと疑て、小説の剥製を書いている」と言われたを受けて野宿生活に入りました。ペンキ屋 作 問に感じるんです。感情においても、もっとき、必ずしもピンときたわけじゃなかっ時代には妻子もいましたが、家事も育児も と複雑であってほしいんですよ。あるいは たけれども、印象に残ったんです。高橋させずにパチンコにはまっていた妻を殴り、 逆に、感情的な感動の部分はすり切れて、んの作品はデビュー作から全て読んでいるそれがきっかけで離婚。現在は「ムスビ」矚

10. 群像 2016年9月号

いものなどいるはずはない。だから才能とはあれこれの能力 のことではなく、その困難にどこまで堪えられるかという忍 「◎自然はわれわれが独り離れて自分と話し合うことができ る豊かな能力を恵んでくれた。そして、たびたびわれわれを耐のことである。モンテーニュはほば二十年間それに堪え そこへ誘って、われわれがいまあるのは部分的には社会のお た。しかしそれはいま、ここで問題にしたいことではない。 わたしがもっとも興味を感じたのは、モンテーニュがその困 かげであるが、大部分は自分のおかげであることを教えてい る。私は、自分の想像力が多少とも秩序正しく、計画に従っ難の実態に、ということは、そのとき自分の内面で起きてい ることに、彼らしい好奇の目を注いだことである。 て夢想するように仕込んでやって、それが風のまにまに迷い 彼は、自分の思想であり、自分の本質であるはずのものを 出して、さまようことがないようにするには、頭に浮かぶあ れほど多くの微細な考えに形を与えて記録に取るほかに方法表現しようと試みる。しかし、自分の精神のなかにありなが ら、「まるで夢のなかにいるように」、それを「掴むことも活 はないのだ。私は私の夢想を記録に取らなければならないか かすこともできない」。たとえ掴んだとしても、読み返すた ら、自分の夢想にじっと耳を傾ける」 ( Ⅱの十八 ) びに、その出来栄えに「悔しい思い」をしなければならな この一節は、わたしたちを、彼の夢想が聴取され、記録さ 、。彼はその無念の思いに動かされて、書くという営みのむ れる精神の現場に立ち会わせてくれる。彼は書斎のなかを歩 きながら、浮かんで来る「夢想にじっと耳を傾け」、自分をずかしさをますます強く意識せずにはいられなくなった。 それを描いたのが、次の一節である。 知るための自己との対話に没頭する。 「◎われわれの精神の歩みのような、こんな放浪する歩みの それを重ねるにつれて、彼のいう「夢想」に、すなわち 「あれほど多くの微細な考え」にことばを与えることが生易あとを追いかけて、その内部の襞の不透明な深みに分け入っ て、たち騒ぐ精神のあれほど多くの微細な姿かたちを選び出 しい仕事でないことを実感するようになる。「私の作品と し、定着させることは、思っている以上に手の付けようもな 来たら、私に微笑みかけるどころではない。手に取って見直 いほど困難な企てである。またそれはいままで経験したこと すたびに、悔しい思いをする。 ・ : 私はつねに精神のなか のない異常な愉しみであって、その愉しみはわれわれから世 に、ある観念◎と、あるばんやりした映像@を持っている。 の通常の仕事を、それどころか、もっとも敬意を払われてい それは◎まるで夢のなかにいるように、実際に使ってみた る仕事さえも取り上げてしまうのだ」 ( Ⅱの六 ) ものよりすぐれた形をしている。しかし私はそれを掴むこと 驚くべき一節である。わたしはこういう文章をモンテー も活かすこともできないのだ」 ( Ⅱの十七 ) ニュのなかに読もうとは思ってもみなかった。これは、一 = ロ語 どんなに才能豊かな書き手でも、書くことの困難を知らな っ ) 0 304