なもんだな」と、すっと入っていけるところにもっていくまわけです。英米圏だと文学は輸出するけれども輸入はほとん で、手を入れ続けざるを得ないですね。 どしない。フランスはだいたいその間ぐらいで、第三諸国の 中で日本は筆頭にあって、比較的多くヨーロッパで翻訳され ■フランスの日本文学熱 リのブック ている言語です。皆さんご存知でしようが、バ フェア、サロン・デュ・リ 沼野坂井さんに伺います。先ほどスナイダーさんのお話に ープルは、毎年外国からの招待文 ありましたが、日本文学、特に現代日本文学に対する関心学を一つ選定し、大きく取り上げています。外国の一つの文 は、フランスは非常に高いと聞いています。翻訳の点数が多学がクローズアップされるのですが、日本文学は今までに二 いだけでなく、質も高いのではないでしようか。読者にして回、招待文学になっています。ヨーロッパ以外の、つまり西 も、英語圏以上に熱心で理解力のある人たちが多いような気洋圏以外の文学で招待文学になったのは、つい最近中国が一 がします。フランスにおける日本文学への興味は、どうして回、そして今年の春のフェアーでは韓国、といった状況で こんなに高いのでしようか。 す。そういった意味で、象徴的な位置付けは高いと思いま す。 坂井理由はさまざまあると思います。確かに現在フランス では日本文学の翻訳は数多く出版されていて、フィリップ・ 沼野フランスで権威のあるプレイヤード叢書があります ピキエ社、ハ月 ーさんの作品を全部出しているアクト・シュッ が、谷崎が少し前に入りましたね。これも日本文学に対する ド社、ガリマール社など、、 しくつかの出版社がずっと日本文 リスペクトの高さを表していると思います。坂井さんは谷崎 学を追っているといった状況があります。そもそも一九八〇の専門家でもいらっしゃいますが、谷崎はプレイヤードの中 年代にフランスで外国文学の翻訳プームが起こり、それは日 に堂々と入るくらいの評価があるわけですね、フランスで 本文学に限られたものではなく、たとえばラテン・アメリカ 文学やロシア文学が再発見された形で、プームが起こりまし 坂井そうですね。プレイヤード叢書は文学の殿堂といわれ家 た。日本文学はそのプームに乗って広まったという事実があ ていますが、谷崎は確かに殿堂入りを果たしたわけです。日翻 家 ります。日本側からの働きかけももちろんありますし、先ほ本文学の作家としては彼が唯一プレイヤード叢書に入ってい 作 ど沼野先生もおっしやっていましたが、文学の輸出国・輸入ます。 国とか、世界的に文学、言語間のハイエラルキーなどがある 沼野芥川も漱石も入っていないですね。
力」を成り立たせている論理そのものが終わったことを意結びつけて考えられてきた。このくらい、ギロチンはフラ 味してはいないからである。君主ー臣下の関係がヘテロト ンス革命と一体化している。 ピー的にさまざまな人間関係に浸透している、とフーコー フランス革命が勃発してから二年経った一七九一年に が言うとき、問題になっているのは、王やら臣下やらの実フランスでは、斬首が死刑の唯一の合法的な手段となっ た。さらに、処刑がギロチンによってのみなされると立法 物ではなく、関係の形式である。こういう観点からフラン ス革命を見直したときには、今度は、先ほどとは逆のこと議会が決定したのは、一七九二年である。「ギロチン」と が真であるようにも思えてくる。革命では、公開の身体刑 いう名が、この機械の普及にたずさわっていたジョゼフ・ に類するものが、大きな役割を果たしたからである。それ ギョタン ( 憲法制定国民議会議員 ) に由来しているという 、ギロチンだ。ギロチンによる公開処刑は、フランス革のは事実だろうが、この装置がフランス革命のときに発明 命の、とりわけその後半の象徴にまでなった。・ キロチン刑 されたという通説は、厳密には正しくないようだ。同じよ うな装置がルネサンス期のイタリアですでに使われていた は、一八世紀の公開の身体刑の延長上にあるのではない か。もしそうだとすると、革命の渦中ではなお、一八世紀 ということを示す確実な証拠がある、という。が、ともか の王の権力と本質的には変わらない権力が機能していたこ く、ギロチンは、フランス革命をきっかけに普及した。 とになる。大革命において、王の権力は終わったーーある 確実なことは、ギロチンによって、処刑が圧倒的に効率 いは終わっていた とい , っ刃恥宀疋は・止し / 、ない、とい , っこ 化し、かんたんな作業になったことである。人間が斧で罪 とになるだろう。どうであろうか。 人の首を切断するのは、たいへんな重労働で、執行人は一 件ごとにくたくたに疲れただろう。ダミャンのケースのよ 3 ギロチンと英雄的自殺 うに、馬に身体を引き裂かせるのはもっとたいへんだった だろうということは、フーコーか弓いている当時の記事か ミラボーの主治医でもあった、革命期のイデオローグ、 らも推測される。ギロチンは、フランス革命における ( 短 ピエール・カバニスは、テルミドール反動から一年後に 期間の ) 大量処刑を可能にする技術的な条件となった。 ( つまり一七九五年に ) 、ロベスピエールの権力掌握を、 「ギロチンを旗印とした専制」と呼んでいる。ロベスピエ フランス革命以前、つまり一七八九年以前には、バリで 一年に平均して五十四件の死刑が執行されていた。週に一 ール自身も、ギロチンによって処刑されたことは、周知の 通りである。ロベスピエールの成功も失敗も、ギロチンと件程度の率で死刑が執行されていたことになる。それに対 314
ただけますか。 ーを集めて坂井堀江さんが芥川賞をお取りになった「熊の敷石」を読 んだのが最初でした。フランスでは翻訳のかたわら大学で教 えていまして、いや教えているかたわら翻訳をしているとい うか、どちらがメインなのかよく分からないのですが、日本 文学を教えているので、日本でいまどんなものが書かれ読ま れているかということをフォローしているわけです。「熊の セッション 2 敷石」を読んで、すごく感心しました。それはもちろんフラ 堀江敏幸 x アンヌ・バヤール“坂井 ンスが背景になっているからではなく、堀江さんの持ってい ■一一 = ロ語の個性とセンテンス る記憶とか歴史に対する興味が、非常に印象に残りました 特に歴史、日本ではほとんど顧みられることのない、第二次 沼野第二セッションは堀江敏幸さんとアンヌ・バヤール 坂井さんにおいでいただきました。堀江さんは、私から改め世界大戦中のユダヤ人大虐殺が大きなテーマになっている。 て紹介する必要もなく、作家であるだけでなく、フランス文ヨーロッパではずっと語られてきていますが、ヨーロッパや アメリカ以外のところからそれを語っていることがほとんど 学の翻訳家でもあり、さらに早稲田大学の教授でもいらっ ないんですね。だからそれをぜひフランスの読者に紹介した しゃいます . 。ト川さんの場合と事情が異なるのは、堀江さん 、これを訳したいと思い、堀江さんが十数年前、サバティ 自身フランス文学者でもあって、自分でもフランス語から日 本語への翻訳にかなり携わっていることで、ご自身も翻訳家カルでバリにいらしたときにお目にかかってお話をしたんで す。 であることで視点が変わってくるかもしれません。アンヌ・ ハヤール坂井さんはフランスの大変高名な日本文学研究沼野坂井さんは堀江作品の翻訳では、作品集『熊の敷石』 : ヾリのフランス国立東洋一一 = ロ語文化大学でも教を最初に手がけて、後に『雪沼とその周辺』も訳されました訳 者、翻訳家てノ 授をされています。イナルコ (INALCO) という略称の大学ね。 家 です。坂井さんには研究、翻訳の両方の分野で多くの業績が坂井そうです。『雪沼とその周辺』はのプログラ 作 ムで訳したものです。 おありです。さっそくですが、坂井さんの堀江作品との出会 沼野坂井さんは日本文学を非常に幅広く読み、また精力的 、最初に翻訳を手掛けることになったいきさつをお話しい いただけると面白いかもしれませんね。 スナイダーインディアナ大学は翻訳者のペー いるから、そこにお送りします。
ゅ、つゆうたる人生 山下洋輔 をやる。そこに参加したおかげで現在のおれがあるのだが、 今は、與志夫の話にもどる。 従兄弟姉妹 ( 以下イトコ ) の中で最年長の大正年生まれ のこの人は、楽々と東大に入り生物学を専攻する。 1953 年にフランスに留学し、最高学府コレージュ・ド・フランス を経て、やがてジフ・シュル・イヴェットという。ハリから南 西方向にキロ離れた街にあるフランス国立科学研究センタ (OZXØ) の先生となる。フランス全土から最優秀の生 物学研究者が集まる場所だ。 與志夫とのフランスでの初対面は、パリの北駅だった。ソ ロの仕事でドイツから入った時に案内を頼んだのだ。駅前の 最低料金宿を紹介してくれと頼むと、びつくりしながらも、 彼は一家の誇りだった。 りゅうえもん 一家とは父方の先祖に由来する。曾祖父の山下龍右衛門流暢なフランス語でやってくれた。「ドロポーが多い所だか らくれぐれも気をつけなさい」と言って去った。べッドと 房親は薩摩藩士で、戊辰戦争では小隊長として北陸で闘う。 そこに西郷隆盛の個人的な手紙が届くという異例なことも起シャワーだけの部屋だった。 その時は、シャンゼリゼの凱旋門近くにあった日本大使館 きた。庄内藩との和睦を目撃する。その後、川路利良のもと で明治政府の近代ポリス制度を設立した一人になった。その - の広報文化センターのソロコンサートで「ラブソディ・イ ン・プルー」も弾いたのだが、感想は「アメリカ人の曲を日 息子啓次郎が西洋建築を学んで、「明治の五大監獄」と呼ば 本人がバリでやる。それが面白い」という生物学者らしい分 れる主に赤煉瓦作りの監獄を設計した。 これらについては拙著『ドバラダ門』に詳しいのでくり返析だった。その数年後、自宅を訪ねたときは、南フランスの さないが、その啓次郎の長女道子の長男が、ここで紹介する一何とかサラダを「自分で炊いたご飯にかけると、とても美味 よっゃなぎよしお こういうことができるのは日本人だからですよ」と 四柳與志夫なのだ。「大学は東大」と決められていた一家しい で、その掟はおれの兄まで及び、兄は反乱を起こして学習院 - 言っていた。 その時だったか、ご自分の専門の話題で遺伝子生物学の話 に入った。そこで仲間と共にジャズバンドを結成してドラム ふさちか
記も反転していました。もちろん、反転していることもわ なに質の変化も量の変化もない。ただ、一つ問題として、ド かっていないわけですが、そこになにが書いてあるのか、と クターの学生たちが漫画の翻訳にいってしまう。ドクターを いった単純な質問です。そんなところから日本語に入って辞めて ( 笑 ) 。 いった世代が、もういくつか代を重ねている。一時のプーム 沼野お金が稼げるのでしようね、たぶん。 で終わらなかったんですね。バンド・デシネの国際的な大会坂井そういうことです。 に、漫画好きのフランス人の若者がたくさんやってくる。あ 沼野たとえば堀江さんの小説を翻訳してもあまり、お金は オし力もしれない ( 笑 ) 。 る日本のアニメーションの専門家が、彼らの日本語力、日本稼ガよ、、 の文化に対する理解の深さを絶賛していました。彼らの一部堀江まあ、人生を無駄にすることになりますね ( 笑 ) 。 が、さらに先に進むと、今度は文学に近づいて行くんです。 沼野何をおっしやる ( 笑 ) 。人生は金じゃありませんよ。 坂井現在、フランスは世界の漫画市場の第二位です。第一 とはいえ現実には、たとえば私が指導を引き受けたあるロシ 位が日本で第二位がフランス。データベースがさまざまあり ア人の若者も、最初は村上春樹を研究していましたが、ロシ ますが、その一つがユネスコの lndex Translationum0 あま アに帰って何をしているのと聞いたら、『らんま』という り当てにならないところもありますが、二〇〇〇年代の初漫画シリーズを訳していますと : : : 。堀江さんはフランスの め、日本語からフランス語に毎年訳されている文学という項現代文学の翻訳をかなりしていらっしゃいますが、ご自分で 目に、訳されているものが六〇〇冊以上あるんですね。なぜ翻訳作品を選んでいるのでしようか。特にどういうものを翻 だろうと調べてみると、六〇〇冊超の中、文学と呼ばれるも訳したいと思っているのでしよう。また、日本における現代 のは三〇冊くらいで、あと全部漫画ですよ。全部 ( 笑 ) 。イ フランス文学の状況をどう思われますか。 ナルコに日本語を習いたいと入ってくる子たちの五〇 % 以上堀江最新の状況には疎くなってしまったのですが、訳した は、漫画やアニメから入ってきています。漫画の原文を読み いものを自分で選べるとすれば、それは極めて特権的なこと家 翻 たいと。初めはすごく不思議な感じがしました。そういう学だと思いますね。僕の最初の翻訳出版は、エルヴェ・ギべー と 家 生さんが来たとき、動機がもろいのではないかとすごく心配 ルの『赤い帽子の男』という作品でしたが、エイズで亡く 作 しました。ところがそうでもない。日本語を習い続ける子た なった作家の遺作という触れ込みで、当時はいくらか物珍し ちは、入口が何であろうと習い続けますね。結果的にはそん さもあったと思います。新刊で読んだときに気に入っていた
ものだったので、非常に幸運でした。二冊目もギ・ヘールの作ました。 品でした。じつは、『赤い帽子の男』のあとにも、遺された 沼野フランスでは新刊書は高いからお財布が : 作品が続々と刊行されていったんです。次になにか訳すとな堀江厳しいですね。借金をして買った本の山から、まとも に紹介できるのは一冊。あとは事前の評価を精査して、万が れば、最新の刊行物を選ぶのが筋でしよう。しかし、僕は、 一の場合に備えて、何かコメントくらいは一言えるようにして 駆け出しであるにもかかわらず、そこでわがままを通した。 ギペールは三六歳で死んだのですが、二四歳のときに書いた いた。若い頃でしたから体力もありましたが、やればやるほ ど借金がかさんで、さすがに長続きしませんでした ( 笑 ) 。 散文集を選んだんです。小説ではなく、『幻のイマージュ』 ただ、僕は、こうした仕事がとても大切だと信じてやってい という、写真をめぐる小文をまとめたもので、ただ好きだか たわけです。フランスでは新刊小説の出る時期が賞狙いで固 ら、そして、すぐれた作品だと思っていたから選んだんで まり過ぎている。一度に大量の本が刊行されるので、全部追 す。版元の理解が得られたのは、まだ時代がよかったからで すね。同じシリー ズから出ていた、ジャンフィリップ い切れない。 もう一つの問題は、紹介記事に反応して、「そ れ翻訳しませんか ? 」というような申し出をしてくれる編集 トウーサンの小説がヒットしていたので、その恩恵に浴した わけです。 者に出会えなかったことですね。 沼野そうですか。日本の出版界は、欧米の新しい面白そう 沼野野崎歓さん訳の『浴室』とか。 な本が出たときに、反応が鈍いということですかね。 堀江『ムッシュー』『カメラ』と続いていた頃ですね。フラ 堀江いや鈍いのではなく、僕のアンテナと編集者のアンテ ンス小説の翻訳については、まだ未来がある、という気がし ナの素子が違っていたということです。端的に言って、売れ ていた時代です。ただ、翻訳の前に、僕はフランス文芸書の そうな本はまったく選んでいませんでしたから。話題づくり レビューをやっていたんですよ。 沼野「ユリイカ」ですか。 としては、明らかな人選ミスです。 これは非常に過酷な仕事でありまして ( 笑 ) 。 沼野いやいやそんなことはない ( 笑 ) 。 堀江は、。 堀江翻訳者と原作者がそうであるように、書き手と編集者 フランスでは一一月に大きな賞が決まるので、発表があって からの注文では間に合わないというわけで、九月頃に新刊書 にも波長が合う合わないはあるでしようね。もちろん版元の の予告をチェックして、めばしい作品を何十冊も注文してい 事情もある。でも、やはり人と人との出会いがおおもとにあ 138
年、励ましの意味を込めて「日本年」と定めて、招待してく 坂井入っていません。 沼野日本人の二人目で、誰か入りそうな感じはありますださったんです。たまたまフランスに関わってもいる人間な ので、使いやすいということもあったでしよう。この催しが か。まだ分からないですか。 なかったら、また、のプロジェクトがなかったら、 坂井どうでしよう。文学はそれぞれの国との間の力関係も ありますし、出版社がどのくらい力を入れているか、版権が僕の二冊目の仏訳本は出ていなかったはずです。そして、ア どうなっているか、そういうビジネス的なものの影響も非常ンヌさんの力がなければ、とうてい間に合わなかった。こう いう公の催しが、僕のような読者のいない作家にも恩恵をも に大きいですね。プレイヤード叢書に関して言えば、以前か たらすことがあるわけです。ただし、はっきり言えば、サロ ら川端を入れたいという話がありますが、川端はガリマール ン・デュ・リ ープルの主役は漫画でした。フランスでは日本 社ではなくてアルバン・ミシェル社が全部版権を持っていま す。アルバン・ミシェル社にとって川端はドル箱ですから絶の漫画の翻訳が非常に盛んなんです。二十数年前、留学生 だったとき、フランスでアニメの『ドラゴンポール』が流 対に版権を放したくない。そういった版権の問題で頓挫して 行っていました。放映開始は一九八八年。原作のフランス語 しまっています。 訳がまだなかったので、若い読者、とくに子どもたちは、先 沼野三島由紀夫も版権の問題があるんでしようか。 が知りたくて、日本語版で絵だけを追っていた。その熱が昂 坂井三島の場合は、版権はガリマール社が持っています じて、出版社ではなく、日本の漫画を扱っている本屋にファ が、ずっと以前の英語からの重訳が多いです。ガリマール社 としても、プレイヤード叢書に入れるとしたらほとんど全部ンレターや質問状を送ってくるんです。知人がそれに返事を 訳し直さないといけなくて、お金も時間もかかるということ書くアルバイトをしていたので、少し手助けをしたことがあ ります ( 笑 ) 。 で、いまのところは躊躇しているようです。 沼野堀江さん、そういうフランスの日本文学紹介の状況を沼野内容も適当に考えて ? ープルに招堀江難しい質問ではないんです。フランス語版が出てから どう思われますか。堀江さんもサロン・デュ・リ も、当時は、右開きを左開きにするために、オリジナルを反 待されて、向こうの読者といろいろ交流されていますね。 転させて印刷していました。だから文字が逆になっていたん 堀江交流というより、簡単なトークショーでのやりとりで すけれどね。サロン・デュ・リ です。擬音は日本語のままになっているところがあって、表 ープルの主催者が、震災の翌 136
する内容は、フランスもアメリカも日本も変わりません。 ります。ドイツには大江健三郎さんも呼ばれて、いろいろな 沼野そうですか。フランスとアメリカでは国民性の違いも所で朗読されているそうです。フランスは比較的、ドイツに あって反応も異なるのかと思ったのですが。 比べると少ないみたいですね。アメリカでは、本が出たとき 確かに当初英訳がうまくいかなかった原因のひとっ に書店などでイベントをやるのがポピュラーですか。 スナイダー非常にポピュラーです。 に、残酷さに対するとらえ方の違いがありました。「妊娠カ レンダー」を e ~ ミ東に向けて英訳してくれた翻訳沼野小川さんは外国に呼ばれて自分の本のプレゼンテー 者がいたのですが、残酷すぎるという理由で断られたんで ションなどをしたことはありますか。 す。文化的な違い、社会認識の違いかもしれません。毒入り ええ、フランスとドイツで朗読したことがあります。 のグレープフルーツを食べさせることは、その人物の心の中 日本ではあまりやり慣れていませんし、私がずらずらと読ん の出来事なのですが、理由のない残酷さに対する拒絶反応が でいてみんな退屈しないかと、びくびくしました ( 笑 ) 。 アメリカにはあるのかなと思いました。ちなみにその後、二説では文体ということがよく言われますが、もうちょっと違 〇〇五年にスナイダーさんの訳で掲載されました。 う言い方をすると「文章の中から聞こえてくる声に耳をすま スナイダー The ~ ミ胃はむしろ残酷な作品も載せて せている」という体験ができる時、それはいい小説だと感じ いるのですが、アメリカの一般的な読者はそうかもしれませ られる。つまり、朗読したときに引き込まれるような小説で なければ、やつより、、、 ん。しかし、『博士の愛した数式』の英訳は本当に愛読され 。しし 4 説てはないのだろうなと思いま ているんですよ。アメリカには、私立の図書館が一つの小説す。 を選んで一カ月間とか一年間とか、市民に読ませていろいろ 沼野スナイダーさんは小リ , 作品の声をどのように聞き取っ たのでしようか。 なミーティングを開いたり、朗読グループを作ったりする制 度があるのです。『博士の愛した数式』の英訳もたくさんの スナイダー翻訳者としては自分の文体を持っているかどう 図書館で選ばれたので、 小川さんを招待しようとしたのですかは別の問題なのですが、私の根本的な書き方は、どちらか が実現せず、私が代わりにいろいろな所に行きました ( 笑 ) 。 というと小川さんと似ている点が多いと思います。私は静か シンガポールも行きましたよ。 でシンプルな文章を書くのが好きなのです。私は今まで、大 沼野朗読はヨーロッパではドイツがものすごく好きです江健三郎、村上龍、吉村昭、湊かなえなど、独特な強い文体 ね。長編小説をまるまる朗読してしまうなんていうこともあ を持っている作家の文章も翻訳してきました。ですが、彼ら 128
ということですが、これは逆に日本語に訳し直すと、なんだ かという問題だと思います。たまたまフランス語の翻訳者と かちょっと、という感じがしますね。フランス語訳は日本語 の出会いがまずあって、英訳がなかなか進まなかった中で、 のお洒落なタイトルのままですが、それはフランスの読者と フランス語訳を通してスナイダー先生に行き着いたというの アメリカの読者の趣味の違いを反映しているのでしようか。 も、そういう巡り合わせがありますね。 スナイダー確かにそういうところはあると思います。 The 沼野小川さんは、仏訳したフランス人の翻訳者とコンタク P 、、き 1 B ミき F ミミミは、アメリカの読者にとって トを取ったり、メールのやりとりなどはされていますか。 ・マキノファイヨー は、少しインテリつばくてあまり魅力がないのです。アメリ 。翻訳者のローズ日マリ 力では本を読む人たちはほとんど女性です。その意味でも、 ルさんとは、今では家族ぐるみの付き合いです。お互いの間 「家政婦と教授」は語り手である家政婦がタイトルのはじめ に、常に共通の小説が存在する。そのことが、ただの仕事上 に来ているのでよい、ということなのでしよう。 の付き合いにとどまらない、深いつながりを生んでいると感 じます。 沼野作家によっては、タイトルは絶対変えてはいけないと いう人もいますよね。 ・翻訳家は透明であるべきか 小川私の場合は小説を書き終わると「やれやれ」という感 じで、あとはそっと見守るようにしています。わが子にはで 沼野スナイダーさん、フランス語訳が小川作品を訳すきっ きるだけ遠くへ旅に出て行ってもらいたい。 かけだったというお話でした。トリ , 作品はフランス語でたく 沼野小川さんの作品の翻訳紹介は、おそらくフランス語の さん訳され読まれていて、読者の間でも評価が非常に高い ほうが英語よりもはるかに先んじていて、重要な作品のほと 一方アメリカでは、ト 川さんの小説を出版するのは商業的に んど全部がフランス語に訳されているという状況です。英語 難しいところがあるのですか。 圏の読者とフランス語圏の読者の好みの違いもあると思いま スナイダーアメリカでは外国文学があまり読まれていない すが、小川さんには最初はフランスからの反響が届いていた のは事実ですが、今は小日 , 作品は例外的に愛読されていま訳 翻 わけですか す。 はい、そうです。日本のエージェントと外国の出版社 沼野小川さん、フランスの読者とアメリカの読者の受け止作 の関係で、アメリカはなかなかうまくいきませんでした。決め方はいかがですか。 定的なのは、どれだけ相性のピッタリくる翻訳者と出会える お便りをいただいたり、文芸記者から質問を受けたり
犯罪への公開の処罰が、間接的に前者を臣下や民衆に開示どのちの一九世紀の初頭には、すでに消滅しつつあった、 することにもなる。このように論じてきた。そして、この ということを言わんがためである。今述べたように、王と 後者の身体 ( 罪人の身体 ) の役割を、王自身が演じたとし 臣下の関係が、ヘテロトピー的に、社会の多様な領域に浸 たらどうなるだろうか。それこそ、シェイクスピアの王た透していたことを考えれば、王の権力が機能していること ちではあるまいか。 を示す身体刑がなくなったということは、社会システムの 全体の体質の変化のようなものが、短期間に急激に生じた ことを意味している。身体刑の消滅は、たんに一つの制度 フーコーは、別のところで、王の権力、君主権につい て、それは「非イゾトピー的なもの」あるいは「へテロト や法が終わったということを表示しているのではなく、社 ピー的なもの」だったと、奇妙な語彙でその特徴を指摘し会システムのトータルな変化、社会システムを成り立たせ ている。これらの語彙の字義通りの意味は、「場所を異に ている基本的な論理の変化があったことのひとつの指標な のである。フーコーは、王の権力から近代的な権力への転 する」である。つまり、絶対王政期において、王と臣下の 間の権力と実質的に同じものが、場所を違えて、さまざま換をここに見たのだ。 な局面に潜在していた、というわけだ。たとえば、領主と この半世紀の間に何があったのか。フランス 農奴の間とか、司祭と平信徒の間とか、家族内の父子関係革命ーー・一応慣例にならって一七八九年から九九年として なども、君主ー臣下の関係になっていたりする。「ある街おくーーーである。絶対王政期の君主の権力と近代的な権力 の間には、フランスの大革命があったのだ。さて、ここで のプルジョアの息子である、などということによっての み、人は、君主権的関係にとらえられて、君主になった 問いを発してみよう。フランス革命自体は、どちらに属し り、あるいは逆に臣下になったり」する。これらさまざま ているのか。王の権力の体制なのか、近代的権力の体制な な君主的関係が、単一のシステムの内部に統合されている のか。一見、答えは自明のように思える。フランス革命こ 学 哲 わけではない。いたるところに、互いに無関係に、君主権そは、王 ( ルイ十六世 ) を処刑したのである。とすれば、 の 的関係が埋め込まれているのが、近世である。 革命が、王の権力の側に属するわけがない。それは、近代 界 ところで、フーコーが、『監視と処罰』の冒頭で、ダミ的な権力の側にすでにあるはずだ。 世 ャンへの公開の拷問を紹介しているのは、王の権力の華々 だが、そう簡単に結論を出してはならない。王を殺害し しい発動の場となっているこのような身体刑が、半世紀ほ たり、退位させたりしても、そのことが直ちに、「王の権