ランナー - みる会図書館


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1. 群像 2016年9月号

「すみません」 「あ、そうかも」松浦と内田は二人で大笑いする。 「あやまることじゃない。俺はただ羨ましがっているだけ 淡島は黙って手元のデータを見つめていた。盲人ランナー は足元に不安があるため、どうしても歩幅が狭くなる。大胆だ」 「本当にすみません」 に歩幅を広く使うストライド走法を身につけるには、恐怖心 「俺たちは、いつでも自分が持っていないものを欲しがっち を抑えつけるしかない。 肉体だけでなくメンタルも強化しなきゃならないな。淡島まう」 淡島は内田の横顔を見た。そうだ。俺だって羨ましがって は頭の中でそのための練習メニューを考え始めた。数多くの いる。生まれ持った資質。決して届かないレベルでの戦い。 バラメーターを一つずつ確認し、それぞれのレベルを上げ だから俺は勝ち負けではない戦い方に逃げたんじゃないの る。最も効率的な方法を使って最短で内田をトップレベルの か。自分の気持ちから逃げるために。羨ましさや妬ましさを ランナーに引き上げる。淡島の狙い通りの完璧なレース運び 隠すために。 をする盲人ランナーをつくるのだ。 「『走れメロス』を知っているか」唐突に内田が尋ねた。 「なあ、淡島」内田が笑うのをやめた。 「もちろん」 「なんですか」 「メロスは何のために走ったと思う」 「一度だけでいいんだけどよ」内田は下あごに力を入れて唇 「それは」淡島はロごもった。あの話を読んだのはもうずい を丸めた。そうして鼻からふうと息を吐いた。二人の座るべ ぶんと昔のことだ。 ンチにはいつの間にか日が差して、まだ冷えた空気の中で、 「確か、友情のためですよね」 そこだけがほんのりと暖かくなっていた。 「ふむ」内田は小さく鼻を鳴らした。 「自分の目でコースを見ながら走りたいなあ」 走れメロス。最後は裸足で走ったんだっけ。よく覚えてい 大きな声でそう言ってから、内田は声を上げて笑った。淡 島は何も答えることができず、黙ったまま地面を見た。ペ チの足は土に理められている。わずかに窪んだその土の色さ え、内田は見ることができない。俺には見えている。ものが 見えていることが、まるで悪いことのように感じられてしま 二四キロ地点のゆるやかなカープを右に曲がると右手の奥走 に海が見えた。風に運ばれてきた磯の香りが鼻の奥をふっと 刺激する。国道の両側には、大きな柱が特徴的なコロニアル

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れないな」 試しに合わせてみるだけじゃなかったのか。 ハ力にするな。俺は伴走者がやりたいわけじゃないんだ。 「だったら練習にならねえだろ、本当にバカだな」 「まあ、今日はこんなところでいいだろう」 そうではなかった。やはり俺は舐めていた。本気で走って 内田はクククと笑った。 もたいした速さではないだろうと高を括っていたのだ。確か トラックを数周走ってからクールダウンを終えた二人は総 にこの速さで走るとなれば、ロープを引っ張るわけには、か 合運動場の控え室に戻った。淡島が内田の肩に手を置き、 なかった。予想外のタイミングでロープを引っ張ってしまう ゆっくりと行き先を案内する。 と選手が転倒しかねない。 控え室の奥にあるべンチにどかと腰を下ろした内田は何も 二人はペースを一定に保ちながらトラックを淡々と走って 行く。一歩ずつ刻む歩調を合わせれば、腕の振りは自然に合 言わずにストレッチを始めた。淡島も同じように体を伸ば , つよ , つになった。 す。淡島は自分の体が半分だけ筋肉痛になっていることに気 づいた。普段のフォームとは違って片腕だけを横に突き出す それでも淡島は戸惑っていた。自分のベストなフォームで ようにして走ったからだろう。ほんの数キロ走っただけで、 腕を振ることはできないのだ。 こんなことになるとは。 「俺が腕を振りやすいようにしろ。お前が振りやすくても意 「四年かかったんだ」黙ってストレッチをしていた内田は、 味がねえ」 両脇をコンバクトに締めて腕をやや内側に振るのが淡島の ふいに動かしていた体を止めてそう言った。 フォームだが、ロープを持っ側の手はランナーの前へ突き出 すようにしなければランナーのフォームを崩してしまうこと 一九キロの手前で、内田のいる第二集団は前後に長く延 び、三〇メートルほどに広がっていた。機械のように一定の になる。空いているほうの腕は内側へ、ロープを持っている ペースを刻み続けている内田は順位を落として最後尾にいた ほうの腕は外側へ。全身を斜めに傾けたような体勢になる。 が、まだ焦る必要はなかった。これくらいの差なら充分に取 これは辛い。 伴走者はすっとこんなフォームで走らなければ ならないのか。 り戻せる。 三〇キロを超えればどれほどタフなランナーであっても体走 「わりと上手いじゃねえか」 内のエネルギーは枯渇し、自分との戦いが始まる。限界を超 「そうですか」ようやく褒められた。 「ああ、ちゃんと練習すればまともな伴走者になれるかも知えた先にある苦しみとの長い根比べが待っているのだ。これ

3. 群像 2016年9月号

要ないが、その代わりに伴走者の交通費や生活費、場合に には頷かされるところもあった。相手も同じ土俵で戦ってい よっては休業補償を払うことがある。体調不良により伴走が るのだ。何も問題は無い。 できなくなっては肝心の選手が走れないため、交代要員も含 いくら金を出しても決して手に入れることのできないもの めると伴走者は最低でも二人は必要だ。その交通費や宿泊 があることを内田は誰よりもよく知っている。だからこそ、 費、食費などの生活費は多く選手が負担する。 金で買えるものは金で買うのだ。 これまでそうした負担は全て選手個人に委ねられてきた。 「右から抜きます」 五輪の強化選手であればいつでも自由に使える練習施設が 障害者連盟の指定選手にも開放されたのは、東京バラリン 二人はクリスチャンセンからすっと離れた。そのまま力強 ピックの開催が決まって以降のことだった。メダルや記録は く坂を上りマガルサのすぐ後ろにつく。 要求されるが、そのための支援はほとんどない。まずは生活 「坂を上り切るまでこのままで」 と競技を両立させることから始めなければならず、資金不足 ただでさえきついコースなのだ。僅かな向かい風でも長く を理由に競技生活を断念する障害者も少なくない。それが障受け続けていれば少しすっ体力は奪われていく。ここはマガ 害者スポーツをとりまく現実だ。 ルサを風除けに使って少しでも体力を温存したかった。 だが、内田に限ってはそうした苦労とはまったく無縁だっ 確実にレースをものにするためには、駆け引きが必要だ。 後にびったりと張りつかれたランナーは、必要以上のプレッ 「金で買えるものは金で買う」 シャーを感じる。特に引き離したはずのランナーが再び背後 勝っためには手段を選ばないという内田に、初めのころは に迫るのは、相当なプレッシャーになる。追いっかれたとい い。いっ抜かれるのか。この 反発を覚えていた淡島も、しだいにその考え方を受け入れる うことは、抜かれる可能性も高 ようになっていた。 まま逃げきれるのか。余計なことを考えるだけで脳はエネル 「ファールはやったもん勝ちだし、やられたら痛がってみせ ギーを消費する。残り僅かなエネルギーで走るランナーに ればいし とって、その消費は大きなダメージになってくるのだ。頭を 淡島としては、どうもそういったサッカー流の考え方には使わせ、精神を追い込む。 賛同しづらいところもあるのだが、ルールに反してさえいな マガルサが二人を引き離そうと僅かにペースをあげた。褐 ければ、その範囲内では何をやっても、 しいという内田の意見色の肌は光沢を帯びているかのように日射しを照り返す。汗

4. 群像 2016年9月号

が理想の練習だった。基礎体力をつけるために公道を走るの市民ランナーたちが日替わりで伴走者となり、早朝の練習に つきあってはいるが、彼らはプロではない。それぞれの伴走 は危険が多すぎる。だが盲人である内田が通えるプールはな かった。どの施設も事故があったときの責任を恐れる。スポ者にも生活があり、毎日何時間も走る内田の練習につきあい ーツジムも同様だった。障害者用のリハビリセンターのみが続けることは難しかった。伴走者の不足は盲人ランナーにつ きまとう大きな問題なのだ。 内田を受け入れる練習場所だ。だが内田は気にもしなかっ 「どうすればいいんだろう」淡島の嘆きに内田はふてぶてし た。金で買える物は金で買う。内田は自宅を改造し、ジムと プールをつくった。 い笑みを浮かべて答えた。 「そんなものは金で片づければいい」周りが鼻白むほど嫌味 「金でメダルは買えねえが、近づくことはできるからな」 淡島の作ったメニュー通りに体を作ろうとすれば日に一〇な口調で内田は言う。確かにスター選手としてヨーロツ。ハの キ , ロのロード走を五本はこなさねばならない。盲人である内 クラブチームと契約していたのだ。金があることは間違いな 田にとっては負担が大きいものであった。伴走者がいなけれ ば公道を走ることはできないのだ。 「金で買えるものは金で買う」内田は嘯いた。それは内田ら しい照れ隠しなのだと淡島は考えているが、ときおり本当に 内田に限らず、どの選手も地元で伴走してくれる人を探し ている。学生や市民ランナーの中にそうした練習を買って出嫌味な人間ではないかと思うこともあった。 「練習用に専属の伴走者を雇うってことですか」 てくれる者がいないわけでは無いが、内田レベルになると伴 「さすがにそれは無理だった」 走者にも世界レベルの実力が必要になる。そこまでの力を持 それはそうだろう。伴走者という職業が存在するわけでは っ伴走者が見つからない場合、短い距離を繰り返し走るイン ないのだ。もしも内田が走るのをやめてしまえば次の仕事は ターバルランにするか、伴走者が交代しながらのロードトレ ーニングをするしかない。 ない。それなりの報酬をもらっている淡島でさえ、伴走者だ けを仕事にする覚悟は持てなかった。 東京で暮らしている淡島と普段は九州にいる内田とでは、 生活圏があまりにも離れている。公式大会の直前には、淡島 「実は伴走者なしでスピードトレーニングをしているんだ」者 走 が内田の元を訪れ、あるいは内田が淡島の元へ赴いて合宿や 二日間の合宿を終えた後、内田が得意げに言った。 伴 調整を行うが、普段の練習はそれそれが個別に行っている。 「待ってください。どういうことです ? 」 しまさ 淡島が伴走者になって二年以上が経っというのに、、 だが内田の練習は一人ではできない。一〇〇人を超す地元の

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だった。晴眼者とは違って、盲人ランナーは周囲の景色が流 もうすぐ一〇キロだ。教会が真横にくるタイミングで淡島 れる様子から自分のペースを測ることはできない。自分の中 は時計を見た。三七分二七秒。ほば予想通りだ。一キロあた に正確な時計を持っしかないのだ。 り約三分四五秒のペースを保ち続けている。だが少しずつ集 団の。ヘースが上がりつつあるように淡島は感じていた。それ ペースを落としてしばらく走っていると、ゆっくりと集団 はまだ時計に。 が分かれ始めた。 一よ表れない微妙な変化だった。そろそろ集団が 第一集団の先頭に立っているのは淡島の知らない選手だっ 二つに分かれるころだ。 「ここは坂だな」 た。その後一人をおいて、ウクライナのベトロワとノルウェ ーのクリスチャンセンが三位と四位につけている。 下見の際に、一二キロあたりから僅かな上り坂があること に気づいたのは内田だった。 「俺たちは第二集団にいます。このままのペースを保ちます 「本当ですか。俺にはわかりませんでした」淡島は手にした 今走っている自動車専用道路は一四キロ地点で終わり、そ コース図を覗き込む。 の後は市街へ戻る国道へ移る。短い距離の中に急な高低差が 「ああ、間違いない。きっと走ればわかるぜ」 あるため、そこで選手は相当体力を奪われるはずだ。 普通に歩いていれば気づかないほどの緩い坂でも、ランナ あえてさらにペースを落とした内田は少しずつ後退して、 ーの体力は僅かずつ奪われていく。体力のあるうちに差をつ 一四キロ地点では第二集団の三番手を走っていた。第二集団 くるか、体力を温存するか。その日の天気やランナーの体 の選手は五人。伴走者を合わせると一〇人が塊になって走っ 調、他の選手たちの動きを見極めながら、戦略を修正してい ている。健常者のマラソンと違い、伴走者のぶんだけ横幅が く必要がある。 必要になる盲人マラソンでは何組もが併走することはない。 たとえ横に並ぶことがあってもせいぜい二組だ。今、内田の 気温がぐんぐんと上がっていた。このハイベースで登坂す 前にいるのはマガルサとホアキン。二人とも淡々と同じリズ れば潰れる選手も出てくるだろう。 ムを刻んでいる。どちらのチームもギリキリで勝負を仕掛け 「キロ三分五〇秒に」 「ああ」内田が頷いた。大幅なペースダウンだった。淡島自 るつもりだろう。内田たちのすぐ後についているケニア勢も 身は機械のように正確なタイムを刻むことを得意としている機会を窺っているはずだった。 が、どうやら内田にもいっしかその力が身についているよう レース前し。 」こま最大のライバルだと考えていたオランダの

6. 群像 2016年9月号

GUNZ(Y 9 群像新人文学賞受賞第一作中篇 170 枚 川端康成の手紙を持っとい、つ大叔父との汽車の旅。怪しげな大阪弁の男が加わって 本物の読書家乗代雄介 中篇— 6 0 ランナーの目となり・ ~ 明脳となり・、丑ハに走り・抜 2 、。亡目人マラソンの世界」生 ) 生」と描′、 伴走者 デザイン 表紙・目次・扉 / 帆足英里子 本文 / 仙次織絵 ( primaryinc し

7. 群像 2016年9月号

「は ? 」 「ペースキープも機械みてえだしな」 そう。だから俺は記録を狙いたい。まだやれるはずなん 「お前の仕事は天才を支えることだ。そのために俺はお前に 金を払っている」 「だけどどんなに頑張っても、お前じや世界レベルには届か 淡島はなぜか涙が溢れてくるのを感じた。自分のレベルく ねえんだよ」 らいわかっている。だからこそ俺は記録が欲しいんだ。大会 「そんなことは」 記録で構わない。ある年の記録保持者として永久に名前が刻 まれるだけでいい。 淡島の顔から色が消え、頬がヒクついた。 それさえ終われば、あとは伴走者として 「お前はそこまでのランナーだ。本当に世界に行きたいのな内田を支えていく。 ら、世界レベルで戦いたいのなら、俺と走るしかない」内田 「だからお前はダメなんだよ」内田は冷たい声でそう言い は手を伸ばして淡島の腕を掴む。見えていなくとも相手との 切った。 距離は完全に把握しているようだ。 「入賞だの記録だのと言ってるようなやつは、所詮は負け犬 「それがわかってるからお前は伴走を引き受けたんだろう なんだよ。勝負ってのは勝たなきや意味がねえんだ。お前は が」 負け犬だ」 「俺だってまだやれます」淡島は内田の腕を振りほどいた。 強く握られた淡島の拳が色を失っていく。なんでここまで 「無理だ。諦めろ」容赦なく内田は言葉を重ねた。 言われなきゃならないんだ。だったら勝ってやる。完璧なレ ース運びをしながら勝ってみせる。 淡島は腹の底が冷えていくのを感じた。 「俺は自分のレースに出ます」 「なんで俺だけが諦めなきゃならないんですか。内田さん 内田のレースを走る選手が内田だけなのと同じように、俺 だって一度くらい自分のレースを諦めればいいでしよう」淡 島の声が震える。 のレースに出場する選手は俺だけだ。だが伴走者は一人じゃ 「はあ ? 俺が諦める ? 」 ない。伴走者としての俺に交代はいるが、選手としての俺に 「そうですよ」 交代はいない。 「あのな」内田が淡島に近づいた。小柄な内田がやけに大き 「そうか。それじゃ俺は松浦と走るよ」 く感じられて、淡島は圧倒されそうになった。 まだ粗削りなところはあるが松浦は優秀なランナーだ。今 「俺は天才なんだよ」内田は鼻からふんと息を吹いた。 では内田のチームにとって欠かせない存在になっている。 112

8. 群像 2016年9月号

倒くさい」 「それでバイク練習はうまくいってるんですか」淡島はわざ 「そんなわけで今じゃ、応援にも来てくれるんだぜ」 と明るい声を出して話を戻した。 「暴走族と練習してるんですか」淡島は唖然とした。 「おいおい、何を言ってんだよ。それは俺が聞きてえこと 「バイクなら誰が運転しても同じペースで走れるからな。画 だ。うまくいってるかどうかをチェックするのがお前の役目 期的だろ」内田は自慢する。「田舎の道だからできることだ だろうか」 けどな」 「あ」 短距離走の練習方法の一つに、先導するバイクにロープを 「ちゃんとしろよ。まったくどんくさい男だな」 引かせて、限界を超えたスピードを体に覚えさせるというも 淡島は黙り込んだ。この男は勝っためなら本当に何でもす のがある。だが、それはあくまでも安全が確保されたスペー スで行われるものだ。公道でペースづくりのために行うもの るらしい。体の芯に熱が籠るのがわかる。こうまでして勝っ ことに貪欲な男に俺は出会ったことがあるだろうか。いや、 ではないし、ましてや内田は視覚障害者ではないか。 俺自身は、ここまで勝っことにこだわってきただろうか。 「危ないですよ」 「下手な伴走者と走るよりも、よっぱど安全だし練習になる まだ多くの国で、障害者スポーツは福祉の一環として扱わ さ」 れている。 「でも暗いじゃないですか」 「ははは」内田は笑う。「俺はずっと夜にいるからな」 最近になって、日本でもようやく遠征や合宿のための費用 の一部を連盟が負担するようになったが、それまで障害者ス 淡島はハッと口を噤んだ。 ポーツ選手はどれほどの実績があっても練習費用は自費で持 「すみません」淡島のこめかみに脂汗が浮かぶ。内田が光を っしかなかった。 感じられないことをすっかり忘れていた。 障害者はどうしても健常者より金がかかる。盲人ランナー 「俺の目は節穴だぜ」 伴走者になってから、障害者が自分たちのことをジョーク だけでなく、障害者スポーツに携わるものにとって最大の障者 走 にするところは何度も見聞きしてきたが、そのたびにどこま害は金なのだ。 伴 車椅子や義足は競技用のものが必要だし、海外遠征ともな で笑っていいのかわからず、淡島はよく困った。 「いいんだ。障害者だからといちいち気を遣われるほうが面れば、運送費用もバカにならない。盲人ランナーに装具は必

9. 群像 2016年9月号

「俺は目が見えねえんだ」 「お前淡島さんだろ。お前を呼んだのは俺だよ」男は野生動 え。淡島は虚を突かれた。この人は盲人なのか。俺はなん 物のような軽やかさでペンチから素早く立ち上がった。淡島 にはその男をどこかで見た覚えがあった。小柄だが全身の筋て失礼なことを。 「謝らなくていいぜ。どうせこの先も嫌というほどやらかす 肉に無駄がない。どこで見たかは思い出せないが、れそらく ランナーだろう。 からさ」内田はそう言って、プフッといういやらしい笑い方 をした。 「ごめん、ごめん。ちょっとバタついてね」首に黄色いタオ この先ってどういうことだ。淡島の目が細くなった。 ルを巻いた片瀬が控え室に入ってきた。息が切れている。か 「お前は俺の伴走者をやるんだよ」 っては大学の陸上部で監督をしていた片瀬だが、引退してか らはこうして裏方に回っている。体にはすっかり肉がついて 伴走者 ? 「そうなんだ」片瀬が慌てて説明を始めた。 しまって、もう走ることも難しそうだった。 「ああ、ええっと、内田さんだ」片瀬は淡島に男を紹介し 「盲人マラソンの伴走者ってのは、横について走るだけの存 在じゃないんだよ」 た。「知ってるだろ。元サッカー選手の内田健二さん」 「ええ、見たことはあります」 ああ、そうか。それで見覚えがあると思ったんだ。 最近では障害者の参加する市民大会も少なくはない。 「で、こちらが例の淡島祐一君」 「そうか。だったらわかるだろう。伴走者は選手の目の代わ 「あ、どうも」状況がよくわからないまま淡島は挨拶をし りだし、レース状況を伝えるコーチでもあるわけだ」 「ところが俺について来られる伴走者がいねえ」内田は投げ 内田は淡島の挨拶を無視して、何かを考え込むようにその やりな口調で言った。 場に黙って立っている。 「内田さんは次の。ハラリンピックを目指しているんだよ。も 沈黙に耐えられなくなって淡島はロを開いた。 ちろん普段の練習なら誰にでも頼めるんだけどさ、本気の練 「それ、派手なジャージですね」目にしたものをそのままロ 習や本番のレースになると、その辺の市民ランナーじゃ遅す にする。 ぎて話にならないんだ」片瀬が困ったような声を出す。「そ走 「そうか。そりやよかったな。派手なャツを頼みはしたが、 れで淡島君に頼めないかと思って」 自分じやわからねえんだよ」内田はそう言って意地悪く口の 「なんで俺なんですか」 端を持ち上げた。

10. 群像 2016年9月号

璧だが、この暑さでは記録は狙えないだろう。だが今回重要 「そりや沿道がテレビ中継されたら、 いい宣伝になるからで なのはメダルだ。勝っことが目的なのだ。 しょ , つ」 それは淡島にとっても大きな目標だった。 大会コースは明らかに観光名所を網羅するように設定され 速いが勝てないランナー。レース運びは機械のように完璧ていた。世界に向けて観光地としての魅力を宣伝したいの ヾっ ) 0 だが決して勝っことのない選手。それがこれまで淡島の受け てきた評価だった。世界レベルの大会で優勝するには、ただ 「テレビか。俺たち盲人には関係ねえな」内田はふんと鼻息 を出した。 速いというだけではない何か別の能力が必要なのだ。そして その何かが内田には備わっていると淡島は信じていた。 それにしても暑い。淡島は顔を上げた。空には雲が一つも 海沿いに建てられたスタジアムの客席は、原色の派手な ない。おそらく過酷なレースになるだろう。淡島はレース展 シャツを着た人々でびっしりと理め尽くされていた。手にし開をもう一度頭の中で確認した。 ている旗のほとんどがこの国の青い国旗だった。 「空気が若いな」冷房の効いた空港から一歩外に出てすぐに ここは南半球に浮かぶ小さな島国だ。観光以外の資源に乏内田はそう言った。 しく、経済的にはけっして豊かだとは言えない。欧米との国 「影は濃いんだろう」 交を回復させて以来、この小国は外貨を稼ぐためにスポーツ 「え ? 」 大会に力を入れていた。今回のマラソン大会は、初めての開 「夏の影だな。感じるんだよ。濃いってさ」 催とあって世界から注目を浴びてはいる。しかし、急ごしら 見えないのに影を感じるのか。伴走するようになって三年 えのコースは突貫工事で造成されたものだった。 近く経つが、今でも淡島はことあるごとに内田の感覚の鋭さ マラソンはロードレースだ。完全に整備されたトラックを に感心させられた。微かな温度の差を皮膚が感じ取るのだろ 走る競技とは異なり、公道を走る。常識的に考えれば、数年う。 前までまともな舗装路さえなかった国で開催できるはずはな 「恋バナですか ? 」松浦が聞いた。松浦も伴走者の一人だ。 かった。 まだ大学二年生だが、長距離ランナーとしてメキメキと頭角 「よくマラソンを開催する気になったよな」内田は笑った。 を現している将来の有望株だった。伴走者としての実力も淡