へスト & ロンクセラー チェ 1 ホフとは何者だったのか ? チェ 1 ホフ七分。絶望と = 一分。希望 子供、ユダヤ人 ( オカルト、革命、女たち・ : ロシア文学の第一人者が、世紀末を彩るモチーフをまじえ、 沼野充義 最新研究をふまえて描く新しいチェーホフ論ー 美しい話もヒリヒリ苦い話もあります。 楽しい夜 一家に起きた不気味な出来事 ( 「家族」 ) 。大事にしまった電話番号 ~ 序本佐知子編訳の紙切れ ( 「 ? , 。こ「大学時代の女友達一一一人の夜 ( 「を ) ・ = ほか、名アンソロジスト選りすぐりのⅡ編。 あの名作はこうして生まれたー デビュ 1 ト説論を創。た デビュー小説にはその作家のすべてが詰まっている ! 村上龍、村上春樹から町田康まで、 8 人の人気作家の世界を 清水良典 その原点から読み解く、新しい文学案内 ! 沼野充義 清水良典 1 アビュー 小説論 物時代を第のた物またも の絶望と三分の希 ・ 2 200 円 978-4-06-219951-3 ・ 2 , 500 円 978-4-06-219685-7 ・ 1 , 800 円 978-4-06-219930-8
で三、四万部売れるよりは、売れるという言葉自体があまり グランドマスターが十五人を相手に指す同時対局の一人とし よくないですが、数千部すっ、二〇 5 三〇カ国で読まれてい て、プレーさせてもらいました。勝負じたいはむろんころり るほうが、素敵だという気がします。 と負かされてしまいましたが、そのとき、僕の小説はウクラ 沼野全くおっしやるとおりで、どうしてもビジネスになる イナ語に翻訳されているんですよと、一部差し上げたら大変 と、ともかくたくさんの部数を売って、世界を席巻するグロ喜ばれて : ーバルビジネスとして出版を展開したいと考える人たちもい そう言えば、つい先日、もう一人、アーカジ・ナイディッ るわけです。それに対しては、文化庁がお金を出し チュさんというアゼルバイジャンのグランドマスターとも、 てやってきた文化事業で、ビジネスというよりは、売れなく これも羽生先生のご好意でゲームができる機会がありまし ても日本のよい本を紹介したいという趣旨ですが、それでも て、非常に楽しかった。チェスならチェスという、厳密なル 翻訳される言語は英語を中心として、当初はドイツ語、フラ ールのある盤上遊戯、これもある種の言語なわけです。国籍 ンス語、ロシア語どまりでした。でも、メジャーな一言語ばか の差異を越えて対話が成り立っ宴の場なんですね。小説や詩 りに目を向けていても、世界は見えてこない。それでトルコ の場合、チェスのような普遍一一一一口語、共通言語の世界とは異な 語やインドネシア語への訳も多少試みたのですが、その先を り、それそれの国の固有言語の間に壁があるのは残念です 展開できないうちに、事業仕分けで翻訳出版企画は残念なが が、幸いなことに、翻訳という素晴らしいわざがこの世に存 ら打ち切りになりました。ですから、松浦さんの小説がウク在し、それを通じて人と人とがその壁を跨ぎ越え、豊かな交 、いけれど、 ライナ語に訳されたというのは、本当に感動的です。『半島』流を楽しむことができる。チェスでも文学でもし を選んだという選択もなかなかいい と思いますね。 ともかくきな臭い現実世界の実業からはかけ離れた、愉楽に 松浦ところで、その翻訳が出て何年も経った後、ウクライ満ちたコミュニケーションの遊戯をきっかけに、えつ、こう ナ生まれのチェスの名人と出会う機会があったのです。チェ いうことが起こるのかーーーと感動するような不思議な出会い スの「グランドマスター」の称号を持つ人は、いま世界に何や友情の機会が生まれる。そういうことが実際にあるわけで 人くらいいるのか、これは特殊な天才たちの共和国みたいなす。それは、さっきディヴィッドさんが使った言葉でいう ものなんですが、その一人であるアレクサンダー・チェルニ と、本当に「素敵なこと」ですよね。それは、どこの国の言 ンさんという方が日本に来る機会があり、コーディネートに 語が一番パワーがあるとか、出版マーケットで何部売れたと 関わっていた羽生善治さんが声をかけてくださって、一人の か全然売れないとか、そういう埃つばい話とは何の関係もな 146
たと感じた。連帯感が高まる心地よさで団結してしまえば、 突如、電子的なビートの利いたが流れ始めた。八〇自分の生まれた国の優位性をむやみやたらと誇ったり、間 年代ふうのようであり、コンピューター上だけで作られた最違っているとはわかっていても集団で暴徒のような行動を 近のクラブ音楽ふうでもある。つまりは今五〇代くらいの人とってしまうようなことは誰の身にでも起こり得ることだろ たちから一〇代の若者たちまで、皆一様に心のどこかで懐か うと。やがてマスゲームは終了した。 しいと思えるであろう絶妙なだった。実際に流れてい るサウンドをもとにして、各人の頭の中に記憶されている、 すごかったねー、みんな。わたくし感激したよ。あうんの ここで流されてはいない他の曲やそこから派生するノスタル誇り , ジーへと接続してくれるのだ。二十数年間で経験した楽し かったことや辛かったことを思いだし涙ぐんでいるのは晶だ 総統の言葉に、今日一番というほどの大歓声がわき起こ けではないようで、隣にいる四〇歳くらいの女が頬を手の甲 でぬぐっていた。 あうんマスゲーム、 いくぞお , スクリーンに見本の文字や絵柄が投影され、マスゲームが 始まった。晶は一度も練習していないどころかなんの説明も 受けていなかったが、自分がどうすればいいのかがなんとな くわかった。のリズムにのりながらスクリーンを見て いれば、紫と白のバネルをどのタイミングでひっくり返せば いいか阿吽の呼吸でわかってしまう。指揮者不在なのに、数 万の人々によるマスゲームは驚くほど統率がとれている。晶 はふと、自分が今まで理解できていなかった感覚を理解でき ほんと、尊いと思うよ、この空気感。それを共有できない 人はぶっちやけ、この世からいなくなっちゃっても、 ね。そんな人は一人もいないと思うけど。みんな、一つの同 じ空気感だけ共有する世の中になったらどんだけ生きやすく なるんだろうって感じだよね 5 。そんじゃ、またいくよー、 せーのつー 一つの民族、一人の総統、一つの文脈。晶は手振りを周り にあわせながら、大きな声で皆と同じ一言葉を叫んだ。 ( 次回十一月号 ) る。 238
豪雨の夜だった。私は女子寮の三階の、いちばん奥まった た。トランジの顔を見たくないときだけ ( 私たちは喧嘩もす ところにある自分の部屋で、べッドに腹ばいになってスマー るし、喧嘩しなくてもそんなことくらいいくらでもある ) 、 、を。し . し トフォンに文字を打ち込んでいた。 寮に帰ってくつろガま、 医学生になって、私は古い女子寮に入った。築五十年の三 ところが医学生というのは予想していた以上に忙しくて、 階建てで、一階に食堂とテレビのある共用ラウンジがあっ 私はすぐに建前どおりに、完全に寮に住むこととなった。寮 て、トイレとシャワーは各階共同で、あと五年くらいで閉鎖 には住み込みの舎監がいて、私にしてみたら、こんな取り壊 されることになっていて、一人用の個室が二階、三階に各二 しが決まっていてろくに寮生もいない女子寮の舎監なんか、 名前だけの仕事で情熱をそそぐに値しないんだけれど、当の 十部屋あるけれど、もう空き部屋のほうがずっと多い この女子寮に決めたのは、だいたいはトランジの部屋に入舎監にとってはそうじゃないみたいだった。舎監は六十代の り浸って過ごすだろうと思っていたからだ。それだったら、 沢田夫妻で、沢田 ( 夫 ) のほうは電球を取り替えたり庭木を 賃料が安ければどこでもよかった。トランジは日本でいちば剪定したり、生活用品のストックを運んだりするだけの人 ん偏差値の高い大学のなかの、文系ではいちばん偏差値の高 だった。人ですらなかった。私たち寮生には、ただの、そう い学部にいて、そう遠くないところで一人暮らしをしてい いう機能を持った何かだった。食堂の横に設置してある、二 連作小説 ピエタとト一フンジ〈完全版〉第一一回 藤野可織 170
だった。晴眼者とは違って、盲人ランナーは周囲の景色が流 もうすぐ一〇キロだ。教会が真横にくるタイミングで淡島 れる様子から自分のペースを測ることはできない。自分の中 は時計を見た。三七分二七秒。ほば予想通りだ。一キロあた に正確な時計を持っしかないのだ。 り約三分四五秒のペースを保ち続けている。だが少しずつ集 団の。ヘースが上がりつつあるように淡島は感じていた。それ ペースを落としてしばらく走っていると、ゆっくりと集団 はまだ時計に。 が分かれ始めた。 一よ表れない微妙な変化だった。そろそろ集団が 第一集団の先頭に立っているのは淡島の知らない選手だっ 二つに分かれるころだ。 「ここは坂だな」 た。その後一人をおいて、ウクライナのベトロワとノルウェ ーのクリスチャンセンが三位と四位につけている。 下見の際に、一二キロあたりから僅かな上り坂があること に気づいたのは内田だった。 「俺たちは第二集団にいます。このままのペースを保ちます 「本当ですか。俺にはわかりませんでした」淡島は手にした 今走っている自動車専用道路は一四キロ地点で終わり、そ コース図を覗き込む。 の後は市街へ戻る国道へ移る。短い距離の中に急な高低差が 「ああ、間違いない。きっと走ればわかるぜ」 あるため、そこで選手は相当体力を奪われるはずだ。 普通に歩いていれば気づかないほどの緩い坂でも、ランナ あえてさらにペースを落とした内田は少しずつ後退して、 ーの体力は僅かずつ奪われていく。体力のあるうちに差をつ 一四キロ地点では第二集団の三番手を走っていた。第二集団 くるか、体力を温存するか。その日の天気やランナーの体 の選手は五人。伴走者を合わせると一〇人が塊になって走っ 調、他の選手たちの動きを見極めながら、戦略を修正してい ている。健常者のマラソンと違い、伴走者のぶんだけ横幅が く必要がある。 必要になる盲人マラソンでは何組もが併走することはない。 たとえ横に並ぶことがあってもせいぜい二組だ。今、内田の 気温がぐんぐんと上がっていた。このハイベースで登坂す 前にいるのはマガルサとホアキン。二人とも淡々と同じリズ れば潰れる選手も出てくるだろう。 ムを刻んでいる。どちらのチームもギリキリで勝負を仕掛け 「キロ三分五〇秒に」 「ああ」内田が頷いた。大幅なペースダウンだった。淡島自 るつもりだろう。内田たちのすぐ後についているケニア勢も 身は機械のように正確なタイムを刻むことを得意としている機会を窺っているはずだった。 が、どうやら内田にもいっしかその力が身についているよう レース前し。 」こま最大のライバルだと考えていたオランダの
が、弱暖房の効いた目の前で一応そちらに視線をくれて揺ら れているその人は、車輪が鉄橋を鳴らす轟音の最中に何かを 懐かしむよりは、おそらく今後一時間半の身の振り方を考え ているような切羽詰まった感じがあった。先ほどから車内に 遠く、川を喜ぶ子供の高い声が響いている。 フォークナーは『エミリーに薔薇を』でこんなことを書い ている。 町じゅうの人が、買ってきた花の山に埋もれたミス・エミ リーに最後の別れを告げようとしてやってきたし、彼女の ひつぎ 柩台の上では例の父親のクレョン画の顔が意味ありげに じっと見つめており、婦人たちはそっとしたようにひそひ そ声で話しあっていた。そしてたいへん年のいった連中は その中のいく人かはプラシで埃を払った南軍の制服を 着ていたがーーーポーチや芝生の上で、ミス・エミリーがま るで自分たちと同時代の者であったかのような口ぶりで彼 女の話をしあい、彼女とダンスをしたり、おそらく彼女に 求愛したと思いこみ、老人たちがとかくするように、数学 的に進行する時間というものを混乱させていた。彼ら老人 にとっては、あらゆる過去がしだいに先のせばまっていく 一本の道ではなく、冬が一度も訪れることのない広々とし た牧場なのであり、最近の十年という狭い道路によって、 現在の彼らからへだてられているものなのである。 こうして老人たちは懐古の宛先をわかりやすくしてしまう のだろうか。かわいそうなエミリーの葬儀に集まってきたア メリカ南部の老人じみたところ、大叔父上にもそれがあるよ うに思われる。これは、茨城県北部という少なからす南部め いた場所で長年を過ごしたことと無関係ではないだろう。 この日に限っていえば、大叔父上は川端康成という焦点に 事を収束させようとしているということになるのだろうか。 しかし、おそらくは一通の手紙を担保に、現在の自分からへ だてられた牧場へ川端康成を放ち、何十年の集大成とばかり にしみじみながめるなど、田舎者のすることにちがいない。 まして、大叔父上にはそれを馬鹿正直にながめる、田舎者 の甲斐性さえないのである。それができたら彼の目に冬が訪 れることはない。現在の車内に現れるこの人間関係に執心し ているせいで、その瞳を暗くじめじめと濁らせることしかで きない。 土浦駅を発っと蓮田が連なって続いた。収穫前の、立ち枯
アウン総統は壇にもたれかかりながら、ニャニヤした顔で しゃべっている。力強い大演説でも始まるかと思っていた晶 は呆気にとられた。 そういえばこの前、保安本部のまっちゃんが突然、自分も プース出展したいですとか言いだしてさ、わたくしとしても 寝耳に水っていうか驚いたわけで : 総統はよくわからないことを脈絡なくダラダラとしゃべり 続けている。初めて参加した晶には内容が全然理解できな い。なんであんな小男の話を皆真剣に聞いているのかと不可 解に思ってから約一分後、気づけば晶は総統の話に聞き入っ ていた。あうんスタジアム内では他にも似たような経験をし ていたが、心をつかまれるまでの時間が圧倒的に短い。 まあね、北海道どうなっちゃってんのって感じだよね、ほ んとに。東京の人たちなんか、どうせなんにも知らないんで しよう ? しかしなカらいつばうで感じるのは、わたくしこ の状況そんなに嫌いじゃない。崇高なる日本民族の内に秘め られたあうんの誇りを、ここの皆とは共有できるしさ。 不思議な求心力だった。もっと総統の言葉を聞き続けてい ちょっとちょっと、後ろのほう、わたくしのいつもの流れ を見透かしてダレてるでしよう ! 舐めてるんじゃないよ まったく ! あれだな、ちょっと早いけど、おまえら、いっ せー、のつ ! ものアレ、いくよー ! 一つの民族 ! 一人の総統 ! 一つの文脈ー 団扇を高く掲げながら人々は声高に叫び、一人だけ浮いて しまうのもマズい気がした晶は団扇を掲げていた。そして、 ザ 今皆と同じように叫べなかったことを悔しがってさえいるこ とに気づく。その後もアウン総統による的を射ないダラダラオ としたしゃべりが続くうち、スタジアム全体の照明が少し暗 ス ク くなると同時に、ステージの奥へスクリーンがおりた。 テ ン コ ありや、いつもどおりやるみたいだよ。わたくしここから 見守ってるから、皆がんばって。 し、 っ ) 、 0 日 0 、 日日カそう思っていると、アウン総統は突然身を乗り出
フが記している、ジロンド派フォンフレードとその義弟 く理解している観衆だからだ。言い換えれば、誰でもよい というような観衆一般ではないという意味で、観衆の否定デュコについての次の逸話は、監獄内の演劇的な雰囲気を よく伝えている。 であるような観衆こそが、自殺を目撃した。自殺は、この ように同志の眼にさらされただけではない。それは、きわ フォンフレードが、 : いくつかの名を口にしたとた めて演劇的に遂行されたのだ。革命期の文人オノレ・リウ ん、彼の類稀なるストア派的心情が崩れ去り、涙が流 れるがままになった。妻の名、子たちの名を、であ る。義弟がそれに気付き、たずねた。「どうしたんだ フォンフレードは、泣いたことを恥じ、 涙を飲み込んだ。「いや、何でもない。ただ、彼女が 私に話しかけてきたように感じたのだ : : : 」。フォン フレードは流れる涙を拭い、義弟も今にも流れそうな 涙をこらえた。このとき二人はほんもののローマ人に なった。これは、彼らの処刑の二十四時間前の光景で ある。 したがって、確認すると、英雄的自殺の場面は、ギロチ ンの公開刑を二つの意味で否定している。第一に、そこに キロチンを見る不特定多数 は観衆がいるが、その観衆は、・ の群衆ではなく、選ばれた少数の同志であり、観衆一般の 否定であるような観衆である。第二に、そこには、ギロチ ン刑では完全に失われた演劇性が回復されている。図 1 は、ジャックルイ・ダヴィッドによる「ソクラテスの 死」である。真ん中にソクラテスがいて、毒杯を取ろうと している。べッドの周囲には、プラトンやクリトンなどの 図 1 ソクラテスの死 ( J - L ・ダヴィッド ) 318
、選手だけではなく伴走者の中にも恐怖が芽生える。一度たということは、内田や自分にも何かあるかも知れない。 生まれた恐怖は毒素のように全身を駆け巡り、冷たい汗とと 「お前、何を食ったんだ」不安の表情を浮かべる淡島をよそ もに流し出されるまではしばらく消えない。 に、内田は・ヘッドに横たわる松浦に向かって聞いた。「わ そのタイミングを見計らったかのように、ケニア勢の二人かってんだよ」 がペースを上げて内田に並ぶが、淡島は気にも留めなかっ 「すみません、俺、我慢できなくて」 た。俺たちの勝負は後半だ。 松浦は日本から持ち込んだカップ麺を食べたことを涙なが 給水所のテープルに置かれた水の容器を目にして、淡島は らに白状した。 自分のミスに気がついた。本来ならば特別に調合されたスペ 「このバカが。貧乏人の食い物なんか食うからだ」内田は言 シャルドリンクが置かれているのだが、それを用意するはず葉を吐き捨ててから頬の内側を噛んだ。顔が歪む。 だった松浦は昨夜から腸炎で寝込んでいる。ドリンクをどう 内田は代表選手として派遣されてきたわけではない。あく 用意するかまでは頭が回っていなかった。 までも個人の資格でこの南国のレースに参加しているのだ。 しかたなく普通の水が入った容器を手に取り、まずは淡島 スタッフがどれほど多くとも、伴走者は淡島と松浦の二人だ 自身が飲む。 けで、それ以上の交代要員はいない。 もともとレースの前半は松浦が伴走する予定だった。だ 「どうする」内田は腕を組んだ。明らかに淡島に尋ねてい る。 が、今その松浦はいない。 「俺が一人で伴走するしかないでしよう」 「淡島さん、俺、腹が」 「行けるのか」 松浦がそう言い出したのは昨日の深夜だ。同行している医 不安はあった。 師の診察によれば腸炎ということだった。一 = 調理スタッフの顔 三カ月前から違和感を覚えている左足首は、実業団時代に から色が消えた。明日のレースに備えて、内田たちは夕食に疲労骨折をして以来、今でも丁寧にメンテナンスをしてやら プレーンのバスタしか摂っていなかった。異国での大会で なければすぐに固くなってしまう部位だった。このコンディ もっとも気をつけなければならないのが、食事と水だ。その ションでフルを走り切れるだろうか。今からでも誰か伴走の走 ためにわざわざ調理スタッフが専用のメニューを用意してい できる者をもう一人手配したほうがよくはないか。淡島は るのだ。淡島は恐れた。同じものを食べた松浦に異変が起き そっと手を見た。やれるか。いや、優勝を狙うのであれば、
この恐ろしさこそ人間に本質的なものであることは、そ いで空き家を出、狂ったように走ってゆくと一軒の寺が れが言語とともに古いことからも明らかである。大岡信は あったので、坊さんに「私の体があるのかないのか教え 谷川俊太郎との対談『詩の誕生』のなかで、子供の頃に買 てください」と尋ねる。坊さんは驚くが、話を聞いて合 い与えられた児童文学全集中の『印度童話集』を読んで強 点し、「あなたの体がなくなったのはいまに始まったこ い衝撃を受けたと語っている。なかでも「誰が鬼に食はれ とではない。『我』というものは仮にこの世に出来上 たのか」という話は鮮明に記憶に残ったとして全文を引用 がっただけのもので、愚かな人はその『我』に捉えられ している。長いので以下に粗筋を引く。 て苦しむが、その『我』がどういうものか分かれば苦し みはなくなる」と答えた。 ( 『自選大岡信詩集』略年譜に ある旅人が道に行き暮れて野原の空き家で一夜を明か 収録された「粗筋」による ) す。夜、一匹の鬼が肩に人間の死骸を担いで入ってく る。すぐにもう一匹の鬼が入ってきて、その死骸は自分 児童に与える物語としていかがかと思われなくもない のものだと言って争うが、先に来た鬼が、旅人を指して が、大岡にはそれが益したのである。先に述べたことがこ 証人とし、どっちが担いできたか言えと迫る。旅人はど こに寓話として巧みに語られている。自己が外部的なもの う言っても殺されるに違いないと思い、正直に、先に来であることの恐ろしさを実感的に物語ってみせているわけ たほうが担いできたと一言う。後から来た鬼は大いに怒 だが、この外部性こそ一一一一口語によってもたらされたものなの り、旅人の腕を引き抜き床に投げつける。先に来た鬼だ。「誰が鬼に食はれたのか」というこの物語はおそらく は、すぐに死骸の腕を持ってきて代わりに旅人の体につ 仏典から採取されたものだろう。とすれば古いとはいえた ける。後に来た鬼はますます怒って足を引き抜く。先に かだか数千年を遡るにすぎないが、しかしこの恐怖は根源 来た鬼がすぐに死骸の足を持ってきてつける。こうして的なものであって、現生人類の誕生つまり一一一一口語の誕生とと 旅人の体と死骸がすっかり入れ替わると、二匹の鬼も争もに古いと思われる。 うのを止め、半分ずっその旅人の体を食って出てゆく。 中空に成立したこの自己という現象は、人を恐怖に陥れ 旅人は驚く。自分の体は残らず食われ、いまの自分の体もしたが、どのような対象にも乗り移ることができるとい は誰か分からない人の死骸である。いま生きている自分う能力ーーいわゆる想像力ーーによって、結果的に人類を はほんとうの自分なのか。夜が明けるとともに旅人は急益することになった。その能力が人に、死の恐怖をももた