二人 - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年9月号
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1. 群像 2016年9月号

フレンチ、イタリアンのプースのみで、あたりに食券販売機人たちは皆、客がなにを食べたがっているか顔を見ただけで 判断する特殊能力を有しているのか。 は見つからない。和食の列に並んでいると、すぐに晶の番が まわってきた。 近くの小さなステージ上から男二人の掛けあいの声が聞こ 「いらっしゃい」 えてきており、近寄ると、芸能やサプカルチャーを切り口に カウンターに七人いるうち一人の料理人に挨拶され晶はメ 社会を斬っていた。しゃべっている三〇代くらいの二人は有 ニューを探すが、「おまかせ」と筆字で書かれたそれらしき名人なのかと思い晶がステージ上のパネルを見ると、「僕た 木札があるのみだ。 ちの終わりなき世界」というタイトルの両端に「あの新進気 「おまかせ : : : ? 」 鋭社会学者」と「あの大物ネット論者」として二人の名前が 「あいよ ! 」 デカデカと掲げられている。 晶が言うと、大将らしき料理人は早速厨房の見習いに指一小 「だから誰なんだよ」 晶の小さなつぶやき声はかき消される。すると三〇代くら を出し自らも包丁でなにかをさばき始めた。五分ほど待って いると、カウンターに盆を差し出された。 いのカップルが晶の隣にやって来たが、「誰 ? 」「知らない」 「はい、おまちどおさま」 とその二人も社会学者とネット論者のことを知らないよう 盆にのせられている料理の品々を見て、晶は驚いた。ご飯だった。誰も知らない社会学者と誰も知らないネット論者は に刺身盛り合わせ、牡蠣フライ、ポテトサラダ、きんびらご やたらと「僕たち」とか「我々は」という文言を多用し、日 デ ばう、もずく、茶碗蒸し。すべて、自分が今食べたいとなん本に生きる現役世代を勝手に代弁し色々としゃべっていた。 「僕たち」や「我々」の中へ勝手に俺を含むんじゃないよとザ となく思い描いていた品々だった。 「なんで、僕の食べたいものがわかったんですか ? 」 はじめは反発しか覚えなかった晶だったが、ところどころでプ オ 「お客さんの顔を見れば、わかるよ」 世代の空気感を象徴するアニメやマンガ、ポップ等のキー そして勘定額も、これら出された料理に対して晶が払って ワードがちりばめられノスタルジーに浸り、そして自分の抱ス ク しいと思う適正価格とびったり一致していた。フードコー えている鬱憤をうまく言い表してくれた場面に何回か遭遇す テ ン ト共通の飲食スペースで料理をほとんどたいらげてから、晶 るうち、気づけば真剣に聞き入っていた。晶はさっきまで知 コ は周りを見る。和食だけでなくフレンチやイタリアンもシェ りもしなかった「あの新進気鋭社会学者」と「あの大物ネッ フのおまかせで料理が出されているらしかった。ここの料理 ト論者」に対し、もっと僕らの世代を象徴する話題を引っ張

2. 群像 2016年9月号

り出しそこから今の世の中や上の世代を斬ったりしてほしい ート内の角席に一同は陣取っていた。なにか気づいたことは と切望していた。 なかったかと晶も呼ばれたが、特に役立つ情報は提供でき 途中から見始めたトークショーが終わると、晶は近くのプず、タダ飯にありついていた。 ースを物色してまわる。元ネタを知らないと楽しめないだろ 「カジとの合流を待っしかないですね」 う、絵のレベルが低すぎる二次創作マンガやイラスト集が晶 昨日晶にインナーイヤフォン型無線機を渡してきたコスゲ の見ている前でどれもバカ売れしていた。 がサケのムニエルをフォークでつつきながら言う。函館に潜 んでいた二九歳のカジというメンバーとは、数日前から連絡 深夜一一時頃に睡眠スペースの布団へ横たわった晶が目を覚がとれなくなったらしい ましたのは、翌朝一一時半だった。 「そういえば、ちょっと気になってるんですけど」 無料配布されていた耳栓を両耳から抜き取り、スイッチを 断片的な会話に長めの間ができた際に晶がロにすると、三 オンにしたイヤフォン型無線機を左耳に差し込む。近くで寝人とも顔を向けた。 ていた仲間三人の姿はなかったが、すし詰めにぎっしり敷か 「制服姿の : : : 保安本部員、ですかね ? その人たちが、 れた布団のうち九割以上が埋まっていた。夜ほどではない ちょっと顔色が悪いレベルの人たちを連行している様子を何 が、音の反響するドーム内は相変わらず喧噪につつまれてい 回も見たんですけど、あれはなんなんですか ? 僕の見た感 た。あうんスタジアムへ来て二日目の今日、もう少しまとも じだと、たしかに顔色は悪いけどゾンビとはいえないようで に家族を探したり仲間へ積極的な協力の態度を見せなければ したし、噛み跡が露出している人なんてここでは一人も見て ならないとは思うものの、麻薬的な心地よさの前では気持ち いませんし」 が易きに流れた。 三人が軽く顔を見合わせたあと、シゲモリが口を開く。 二〇歳前後の顔の青白い女が二人、連行されようとしてい 「ここは、噛まれていないゾンビ予備軍の人たちが、噛まれ る。晶は既に、連行の現場を一〇回近く見ていて、それにもずしてゾンビになってしまうのを観察する実験施設でもある 慣れた。 んだよ」 「ゾンビ予備軍 ? ・ : なんですか、それ」 「力すくでの破壊は無理だ。保安本部まであったとは : : : 」 「文脈に乗っかるのを過度に好む一部の人たちは、ゾンビに 一番の年長者カナイの言葉に、三人はうなすく。フードコ噛まれなくても、ゾンビになってしまう。そういう人たちを

3. 群像 2016年9月号

こともありました。 上海に渡り生活をするようになって年が経ちまし た。語学留学をし、現地の女性と結婚、子供が生まれ、 2 声がとにかく大きい 会社を立ち上げ、あっという間に過ぎた年間でした。 中国の人たちは元気でおしゃべり好きです。会話が盛 この間に中国は飛躍的な発展を遂げ、世界第 2 位の経済り上がると声がどんどん大きくなります。中国に来たば 大国になり、いろいろな意味で世界に大きな影響を与えかりのころ、奥さんと奥さんの友人との会食に参加しま る国になりました。年前、地下鉄は 1 本しかありませしたが、大音量、凄まじいスピード、さらに上海語 ( 上 んでしたが、今では号線まで増えました。留学生時海の方言、マンダリンと言われる普通話とはまったく異 代、同級生と真夏の古都西安を訪れたときには、タクシなる ) で進む会話についていくことができす、 2 時間ひ ーのドアが取り外されており、運転手さんに理由を聞い たすら沈黙していたために奥さんに怒られたことがあり たら「暑いから取った、はつはつは、オープンカーだました。人気のレストラン等に行くとお客さんが多く、 ぜ ! 」という答え・ 。それも遠い昔、今では「それで皆大音量でおしゃべりするので、下手をするとテープル は出発させていただきます」と挨拶をしてくれる人もい の向かいに座っている人が何を言っているのか聞こえな て るほどサービスの質も向上しています。 いこともあるくらいです。 私の中国生活は今尚驚きの連続ですが、今回はその中 3 ・外国人にとにかく優しい し でも特に驚いたことを紹介したいと思います。 意外かもしれませんが、中国の人たちは外国人にとて 運転がカオスである も優しく、親切です。外国人が一言一一言中国語を話すだ 誤解を恐れす言えば、中国の道路は「勇気がある人優けで「お前はすごい、中国語ができるのか、すばらしい 暮 先」です。トラック、バス、乗用車、電動バイク、自転な」と仲間意識を持ってくれます。また、道がわからず 車、歩行者がお互いに自己主張しながら、まったく譲る困っている外国人が英語しか話せない人であっても、お 年 素振りもみせすに道路を駆け抜けます。大都市の中心部ばちゃんは果敢に上海語で親切に身振り手振りで目的地 ではクラクションの使用が禁止されていますが、そんな までの行き方を熱心に教え、周りの人たちも大声かっ笑 ことはお構い無く自分の通り道を確保しようとします。顔で全力サポートしてくれます。以前一人暮らしをして で 士車間距離も非常に短く、こちらが安全運転を心がけて車いたときに、家のガスコンロが壊れて料理ができなく 間距離をあけても、他の車がすぐに隙間に割り込んでく なった際は隣に住む老夫婦が「ご飯作れないんだった 海将 るので意味がありません。日本からのお客さまを乗せてら、うちに食べに来い」と何度も誘ってくれたことがあ りました。このホスピタリティーは、もっと世界に宣伝 街なかを運転した際、会食場所に向かうまでに通過した 宮 しても良いのではないかと思うほどです。 5 つの交差点のうち、 3 箇所で事故が起きていたという 私のベスト 私のベスト 3 167

4. 群像 2016年9月号

だった。晴眼者とは違って、盲人ランナーは周囲の景色が流 もうすぐ一〇キロだ。教会が真横にくるタイミングで淡島 れる様子から自分のペースを測ることはできない。自分の中 は時計を見た。三七分二七秒。ほば予想通りだ。一キロあた に正確な時計を持っしかないのだ。 り約三分四五秒のペースを保ち続けている。だが少しずつ集 団の。ヘースが上がりつつあるように淡島は感じていた。それ ペースを落としてしばらく走っていると、ゆっくりと集団 はまだ時計に。 が分かれ始めた。 一よ表れない微妙な変化だった。そろそろ集団が 第一集団の先頭に立っているのは淡島の知らない選手だっ 二つに分かれるころだ。 「ここは坂だな」 た。その後一人をおいて、ウクライナのベトロワとノルウェ ーのクリスチャンセンが三位と四位につけている。 下見の際に、一二キロあたりから僅かな上り坂があること に気づいたのは内田だった。 「俺たちは第二集団にいます。このままのペースを保ちます 「本当ですか。俺にはわかりませんでした」淡島は手にした 今走っている自動車専用道路は一四キロ地点で終わり、そ コース図を覗き込む。 の後は市街へ戻る国道へ移る。短い距離の中に急な高低差が 「ああ、間違いない。きっと走ればわかるぜ」 あるため、そこで選手は相当体力を奪われるはずだ。 普通に歩いていれば気づかないほどの緩い坂でも、ランナ あえてさらにペースを落とした内田は少しずつ後退して、 ーの体力は僅かずつ奪われていく。体力のあるうちに差をつ 一四キロ地点では第二集団の三番手を走っていた。第二集団 くるか、体力を温存するか。その日の天気やランナーの体 の選手は五人。伴走者を合わせると一〇人が塊になって走っ 調、他の選手たちの動きを見極めながら、戦略を修正してい ている。健常者のマラソンと違い、伴走者のぶんだけ横幅が く必要がある。 必要になる盲人マラソンでは何組もが併走することはない。 たとえ横に並ぶことがあってもせいぜい二組だ。今、内田の 気温がぐんぐんと上がっていた。このハイベースで登坂す 前にいるのはマガルサとホアキン。二人とも淡々と同じリズ れば潰れる選手も出てくるだろう。 ムを刻んでいる。どちらのチームもギリキリで勝負を仕掛け 「キロ三分五〇秒に」 「ああ」内田が頷いた。大幅なペースダウンだった。淡島自 るつもりだろう。内田たちのすぐ後についているケニア勢も 身は機械のように正確なタイムを刻むことを得意としている機会を窺っているはずだった。 が、どうやら内田にもいっしかその力が身についているよう レース前し。 」こま最大のライバルだと考えていたオランダの

5. 群像 2016年9月号

豪雨の夜だった。私は女子寮の三階の、いちばん奥まった た。トランジの顔を見たくないときだけ ( 私たちは喧嘩もす ところにある自分の部屋で、べッドに腹ばいになってスマー るし、喧嘩しなくてもそんなことくらいいくらでもある ) 、 、を。し . し トフォンに文字を打ち込んでいた。 寮に帰ってくつろガま、 医学生になって、私は古い女子寮に入った。築五十年の三 ところが医学生というのは予想していた以上に忙しくて、 階建てで、一階に食堂とテレビのある共用ラウンジがあっ 私はすぐに建前どおりに、完全に寮に住むこととなった。寮 て、トイレとシャワーは各階共同で、あと五年くらいで閉鎖 には住み込みの舎監がいて、私にしてみたら、こんな取り壊 されることになっていて、一人用の個室が二階、三階に各二 しが決まっていてろくに寮生もいない女子寮の舎監なんか、 名前だけの仕事で情熱をそそぐに値しないんだけれど、当の 十部屋あるけれど、もう空き部屋のほうがずっと多い この女子寮に決めたのは、だいたいはトランジの部屋に入舎監にとってはそうじゃないみたいだった。舎監は六十代の り浸って過ごすだろうと思っていたからだ。それだったら、 沢田夫妻で、沢田 ( 夫 ) のほうは電球を取り替えたり庭木を 賃料が安ければどこでもよかった。トランジは日本でいちば剪定したり、生活用品のストックを運んだりするだけの人 ん偏差値の高い大学のなかの、文系ではいちばん偏差値の高 だった。人ですらなかった。私たち寮生には、ただの、そう い学部にいて、そう遠くないところで一人暮らしをしてい いう機能を持った何かだった。食堂の横に設置してある、二 連作小説 ピエタとト一フンジ〈完全版〉第一一回 藤野可織 170

6. 群像 2016年9月号

れる 電気で増幅された富野の声が聞こえる。感電しながらも 。ここへ来る前、凪草で耳にした噂話の真実を、ま さには体感している。 フェンス越しにしつこく富野に襲いかかろうとしているの は、新垣の後輩で普通よりだいぶ時間をかけゾンビへの完全 ただ、文脈の匂いに導かれて来るのなら、ここには他の芸 変態を遂げた中島だ。 術分野からも人が集まっていいはずだ。しかしここには、ト 「一九時を過ぎた ! 新垣、訓告に従わなかった貴様は、無説の周りにいる人たちしか集まらない。他分野のハイコンテ クスト性に対してすらも排他的な自分たちの小説の特性を見 期限停職処分 ! 区民の皆様のために ! 」 しいことを聞いたと せつけられているようで、そのことをは無視できなかっ 富野の声が聞こえた。新垣はどうでも、 でもいうように、肉の筋らしきものをべっと地面に吐き捨て た。燃えさかる火が、新垣の横顔を赤く照らしだしている。 やがて、トレーナー姿の男二人がのもとへやって来た。 ふと希は、ゾンビでも救世主でもない新垣という人間の目に時計を見ると、約束の時間どおりだった。 「迎えに参りました。お時間ですので、よろしくお願いしま 一瞬、静かな狂気を見出した。 広げていた物をすべてショルダーバッグにしまったは、 二人の訓練生とともに北へ向かった。三日前に初めて研究所 筆がはかどりすぎていると、は原稿用紙の上にペンを置へ案内されるまでは気づかなかったが、霊園内のそこかしこ いた。レストランの窓の外に広がる風景を眺める。 に地下施設への出入口があった。造成中区画を装った四角形 午前一一時前だ。九時から書き始め、二時間足らずで四〇の窪地へ突き出た土管、北側斜面に設けられた丸形排水路、 〇字詰め原稿用紙にして六枚も書けてしまっていた。純文学 ドアつきのオプジェ、休憩所、トイレ、各種墓石と、色々な 作家が書くべースとして、あきらかに早すぎた。ここ冨士霊形で隠されている。 案内された地下二階の白い研究フロアには、中野摩子が 園へ来て以来、どちらかというと遅筆だったの執筆ペース は格段に早くなっている。なにを書けば文芸誌に載るにふさ待っていた。厳道は非番日らしい。通されたガラス張りの広 い空間にはゾンビが数体収容されている檻が二つあり、檻に わしい作品になるかが、わかりすぎるのだ。それに気づくた びは書くのを中断し、冷静に考え直した。なにを書けばい 入れられてこそいないが床に鎖で固定されている個体が三体 あった。白衣の研究者たちが、の到着と同時に早速なにか いかがわかる、小説に受け入れてもらえる、文学の流れにの

7. 群像 2016年9月号

のかはわからないが、薄緑色の壁面にはロココ調の細かな彫 科学的なトレーニングが取り入れられるようになり、本気 刻が施されている。 で世界の頂点を目指す盲人が増えるに従って、盲人マラソン 眩しい太陽の光が先を行く選手たちの姿をシルエットに変 の記録は次々に塗り替えられるようになった。彼らが二時間 えた。 三〇分を切るのは時間の問題だし、いずれは二時間一五分二 五秒という、晴眼者の女子が持っ世界記録に達するだろうと 伴走に誘われた淡島は鼻からふっと息を吐き、自分の足元 言われている。 を見た。競技用のシューズではないが、それでもジョギング 内田の自己ベストは二時間三四分三一秒。これは日本歴代 くらいならできそうだ。軽い練習代わりに目の見えない人と 二位の記録だった。この記録を出した時にも二人の伴走者が 一緒に走るのも、 しいだろう。それほど足に負担もかからない 交代で走っている。 はずだ。 選手の体調を注意深く読み取り、他の選手の動きに合わせ 「ええまあ、一度くらいなら」片瀬に向かって頷いた。 て作戦を修正する。刻々と変化する路面の状況を伝え、給水 「なあ、お前。盲人と一緒に走るなんて楽勝だと思ってんだ所では選手が確実に水を補給できるように補助をする。世界 ろ」 レベルの伴走者は、そういった仕事を全てこなしながら選手 図星だった。 とともに四二・一九五キロを二時間三〇分台で走るのだ。 「泣くなよ」内田がニャリと笑った。 「内田さんの伴走者を務めるには、少なくともフルマラソン 控え室に風が通って耳元がすっと涼しくなる。 を二時間一〇分台で走る実力が要るんだよ」片瀬はそう言っ 「全盲クラスの世界記録は二時間三一分五九秒だ」 て肩をすくめた。 一瞬、淡島は耳を疑った。二時間三二分を切っているとい それが伴走者なのか。 うのか。たとえ目が見えていたとしても並の市民ランナーで ぞわと腕に鳥肌が立った。もしかするとフルマラソンで入 は出すことのできない記録だ。 賞するより難しいことかも知れない。 「実際のレースでは複数の伴走者が交代することが多いんだ 「俺はな」内田はそんな淡島の心を見透かしたかのように静 けどね。そうしなければ対応できないほど盲人ランナーのス かな声を出した。「何が何でも勝ちてえんだ」 ピードは上がっているんだ」片瀬は得意げな顔をして説明を 淡島の背筋に何かが流れた。 始めた。 79 伴走者

8. 群像 2016年9月号

た。所詮自分は、今を生きる日本人たちの間で共有される価 値観や文脈の範囲内でしか、ものごとを認識することができ ない。浩人たちの側、青き変態者たちがなにをどう認識し、 どういう文脈に従っているのかは、まるでわからなかった。 黒いセダンの助手席に座る晶は、無人都市の街並みに目を 奪われていた。札幌市に入ったようだ。軽トラックに残って 鏡には、朱色に染まった全裸体が映っている。典打が良い いたガソリンをセダンへ詰め替え、トランクに食料や荷物も 状態でいるせいもあってか三〇歳にしてはとてもみずみずし く、どこを食べても美味しそうな肉体だと理江は自分のことすべて積み、午後二時頃に水我流武の家を出発した。走り始 めて二時間が経過している。交通量は皆無だが道路上に停 ながら思った。 まっている車が多く、一速度は出しにくい。 ふと理江の頭に、とんでもない考えが浮かんだ。 ハスタオルで身体を拭きながら、悪い冗談だとしてそれを 車の進む先、道路の真ん中にひとまとまりの人影が見え 忘れようとする。しかしなにかもっと建設的な他のことを考た。車が近づくと全員が歩道へ寄り、何人かが手を挙げた。 えようと意識するたび、悪い冗談のような考えは、理江の中十数人いた全員、一〇代から四〇代ほどの人間だった。いず れにせよヒッチハイクも無理な人数で、通り過ぎる。 で強固さを増した。 イチかバチか、やってみるしかないのだろうか。 「スタジアムを目指していましたね、おそらく : : : どこかで 今までの小説家にとって末知の思考方法を体得するには、 情報でも仕入れたんでしようか」 「波動は本州へ向け放射されているけど、敏感な人間は発信デ 彼らの側へ、行ってみるしかないのではないか。そしてその ための鍵を、半地下室にいる浩人はもっている。 源の波動を感じとる。さっきの集団の中にもきっと一人二ザ 部屋着に着替えすぐべッドにもぐりこんだ理江だったが、 人、感じとった人がいたんだろう」 オ なかなか寝つけそうになかった。夜の静けさに意識をもって 首都東京を守るため、本州にいるゾンビや内輪志向の強い いかれそうになるたびに、正体不明のなにかが理江の意識を人々を「北の島へおびき寄せ閉じこめる遮断・隔離プログラ ス ク ム。その鍵となる装置が、道内にいる敏感な人々をも発信地 覚醒中の世界へと引き戻すのだ。それが何度も続くうち、自 テ ン へ導いている。 分はもうこれから眠ることも醒めることもできないのではな コ 日本文脈研究所の上級技術士だったシゲモリは三年前に東 いかと、理江は漂う意識の中でかすかに思った。 京の支部から札幌本部への異動を命じられ、当時一〇歳だっ

9. 群像 2016年9月号

はわたしばかりだ。そんなの、ホテルに荷物を送っているか しの不注意を助けてもらったんですからね。食事のことは良 もしれないでしよう。 く考えるべきでした。わたしは大叔父上の方も見なかった。 「かまへん、かまへん。袖振り合うも他生の縁ですがな。そ 「そうですなー。確かに二人分の荷物を持つのは難儀なもん れよりも、高萩でおとうさんがどちらに行かれるんかもう少 ゃ。ただ、間氷はんがそこまで綿密に準備をしているとは、 とてもやないけど考えられんのですわ。さっき、わしはおと し教えてくださいや」 うさんにシウマイ弁当を分けましたやろ。その時、この後の ただの付き添いですからとわたしは言った。さすがの男 昼食の予定を訊いたら間氷はんはそんなもんないと言いまし も、今からコレが老人ホームにぶちこまれるものとは思うま 。あと一時間だか二時間だかわからないが、それだけの辛 たんや。おとうさんは弁当を買う暇がなかったと言うてはっ たけども、ぎよーさん召し上がらはって、ほんまに腹を空か抱だ。男がここに居る限り、大叔父上が川端康成を持ち出す こともなさそうだから、手紙の秘密をあえて知りたくもない しとる様子でしたのー。あれを食べなんだら、とても二時間 わたしにとってはますます都合がよくなったわけだ。大叔父 もつようには見えまへんでしたわ。ここでわしは、お二人が 上と話すよりは、男と話している方がましである。 昼メシの話をしてへんいうことと、高萩に着いてから一緒に 「おとうさん、洒落た格好して、高萩にスケでもいるわけ メシを食う予定があれへんいうこと、この二つを了解したわ けや。食事に関してこんな有様なら、荷物のことは推して知じゃありませんでしようなー」 そう言って無視された男がひきつけのように笑ってから、 るべしとちゃいますか。おとうさん、倒れてたかもわかりま しばらく誰も喋らなかった。きっとこの場を楽しみたいだけ へんで」 の男にあせった様子はない。通路に首を差し出すようにし わたしは自分と同じように昼食を済ませてきていると思っ て、悠々と車内を眺め渡している。 てましたし、我々は着いてすぐに別れる手はずになっている わたしと大叔父上は向かい合わせでまた同じ景色を眺め んですよ、だから着いた後の予定なんてないのです。弁解した た。だらしなく広がった利根川を渡って茨城県へ入る。晩秋家 いあまり、いらぬことを口走った時にはもうすでに遅かった。 の土手は、夏の終わりに刈られたのだろう、寒風に揺らぐ草読 「はー、お二人は高萩でお別れでつか」男は揚げ足をとった 丈もなく、薄黄色にただ塗られたように陰影がなかった。そ物 ことを示すまでもない暢気な口ぶりで言った。 わたしはだから、実際そうなのだが、そんなことは意に介こに立って、こちらを見下ろしている車内の大叔父上を見上 さないとばかりに、あなたには感謝していますと続けた。わた げれば、もっと好感と情感を覚えるのかもしれない。ところ

10. 群像 2016年9月号

は、もうずいぶん慣れた。こういうとき、し 「お前バカか。あまりにも早いと気持ちを立て直す時間がで 選手に精神的な圧力をかけようとする。 きちまうだろ。こういうのはレースの直前がいいんだよ」 「大会委員にチクるんだよ」 内田が嬉しそうに手を振ると手首のプレスレットがじゃら 「何をですか」 じゃらと音を立てた。 「そんなのは何だっていいんだよ。シューズがおかしいと か、ロープが長いとか。とにかく大会の規定に違反してい 一四キロ地点を過ぎても先頭集団のペースは変わらなかっ るって言やあいいのさ。地元選手じゃなければ厳しくチェッ たが淡島は気にしなかった。先頭集団にいるベトロワやクリ クされるだろう」 スチャンセンが逃げ切ることはないだろう。あんなペースで 「でもそれって嘘じゃないですか」松浦が目を丸くした。 最後まで走れるはずがない。まちがいなくどこかで彼らは潰 「だからお前らが嘘にならないものを探すんだよ。違反か違れる。淡島はそう判断した。問題は第二集団だ。今すぐ前を 反じゃないか、微妙なやつをさ」 走る選手たちこそが、優勝争いの相手なのだ。ホアキンとマ 「そんなの無理ですよ」 ガルサ。二人とも長い足をいつばいに使ってストライドを稼 「だったらウェアですね」淡島は独り頷いた。「スポンサー いでいく。この二人にどこで仕掛けるか。 ロゴが大き過ぎると指摘すればいい」 まもなく一五キロ。円形交差点を利用して設けられた給水 「おつ。それいいアイディアじゃねえか」軽い口調でそう所は道の左側にあった。これだけ気温が高い中でのレースに 言った内田はべッドから起き上がり、ペットボトルの水を口水分補給は欠かせなかった。まだレースは中盤だ。ホアキン に含んだ。 たちとの差が開こうとも、ここは確実に水分を補給しておき 指摘があれば大会委員はロゴの大きさを測ろうとするだろ う。動揺した選手はリラックスできなくなる。マラソンは平 「このまま真っ直ぐ。俺は左に移ります」 常心を保ち続けることが重要だ。余計なことを考えてしまえ 二人をつなぐロープを離し、淡島は内田の肘に触れた。伴 ば、フォームさえ崩れかねない。 走者は常にロープか手で選手につながっていなければならな 「よし。一五分前にチクれ」 。内田が素早く口ープを左手に持ち替えるのを確認する 「だけど、それじゃこっちも準備してる時間ですよ。もっと と、淡島は後ろから内田の左側に回り込み、右手でロープを 早めに言ったほうがよくないですか」松浦が聞いた。 掴んだ。どれほどの信頼関係があろうとも、この僅かな瞬 、つも内田は相手