あるのは、俺の手だ。 だけだ。なんとかそこまでに並びたい。 今の淡島には内田とロープしか見えていなかった。 内田とホアキンは同時にスタジアムへ飛び込んだ。びっし マラソンは自分との戦いだ。長い歴史の中で科学的なトレ りと埋め尽くされた客席から一斉に大きな歓声が沸き起こ る。 ーニング方法が編み出され、競技のスタイルも大きく変わっ てきたが、それでも最後の最後にはやはり自分との戦いが 淡島は自分の肉体の動きを内田に合わせることに集中し 待っている。 た。俺は存在しない。今ここを走っているのは内田だけだ。 だが俺たち伴走者は違う。 俺も内田だ。コンマ一秒たりとも動きをすらさない。一、 も狂わさない。俺は完全に内田に一致する。それが伴走者 視界に光が戻った。目の前には海が広がっていた。青かっ た。この青さを内田にも伝えたい。淡島はそう思った。 淡島はちらりと横目でホアキンを見た。エンリケスと目が 海の手前にあるカープを右に曲がればあとはスタジアムま合う。苦しそうに顔をゆがめていた。ホアキンとまったく同 での直線だ。 じ表情をしている。そうか。この二人も俺たちと同じなんだ 「まもなく全力」淡島は声を出した。思わず叫びたくなる気な。 ゴールまであと五〇メートル。淡島はそのことを内田には 持ちを抑える。ここで叫ぶ必要は無い。ただ走るだけだ。も あとはどうなってもいし この二キロを走り抜く。 告げなかった。もうすぐゴールだと思えば気が緩むかも知れ そのために俺たちはここに来たんだ。 ない。最後の最後まで、ゴールするその瞬間まで全力疾走す 内田のギアが入った。トップスピードで走り出す。速い るには、ゴールの位置は知らせないほうがいい。 走れ。走れ。走れ。走れ。 ここでまだこのスピードが出せるのか。なんという体力だ。 「ホアキンまで二五」 最後の瞬間、淡島はロープから手を離し、ほんの少しだけ ホアキンの背中がどんどん大きくなってきた。行ける。追後ろへ下がった。伴走者が先にゴールしてはいけない。 いつける。このスピードなら必ず捕まえられる。 四人が塊となってゴールを駆け抜けると、競技スタッフの者 手からゴールテープがゆっくりと抜け落ちていった。音が消走 「行ける、行けます」 「うあああ」内田が吠えた。 え、全てがモノクロームの映像のようになる。 「どうだ」荒い息のまま内田が聞く。 あと一〇。スタジアムに入ればあとはトラックを一周する
が理想の練習だった。基礎体力をつけるために公道を走るの市民ランナーたちが日替わりで伴走者となり、早朝の練習に つきあってはいるが、彼らはプロではない。それぞれの伴走 は危険が多すぎる。だが盲人である内田が通えるプールはな かった。どの施設も事故があったときの責任を恐れる。スポ者にも生活があり、毎日何時間も走る内田の練習につきあい ーツジムも同様だった。障害者用のリハビリセンターのみが続けることは難しかった。伴走者の不足は盲人ランナーにつ きまとう大きな問題なのだ。 内田を受け入れる練習場所だ。だが内田は気にもしなかっ 「どうすればいいんだろう」淡島の嘆きに内田はふてぶてし た。金で買える物は金で買う。内田は自宅を改造し、ジムと プールをつくった。 い笑みを浮かべて答えた。 「そんなものは金で片づければいい」周りが鼻白むほど嫌味 「金でメダルは買えねえが、近づくことはできるからな」 淡島の作ったメニュー通りに体を作ろうとすれば日に一〇な口調で内田は言う。確かにスター選手としてヨーロツ。ハの キ , ロのロード走を五本はこなさねばならない。盲人である内 クラブチームと契約していたのだ。金があることは間違いな 田にとっては負担が大きいものであった。伴走者がいなけれ ば公道を走ることはできないのだ。 「金で買えるものは金で買う」内田は嘯いた。それは内田ら しい照れ隠しなのだと淡島は考えているが、ときおり本当に 内田に限らず、どの選手も地元で伴走してくれる人を探し ている。学生や市民ランナーの中にそうした練習を買って出嫌味な人間ではないかと思うこともあった。 「練習用に専属の伴走者を雇うってことですか」 てくれる者がいないわけでは無いが、内田レベルになると伴 「さすがにそれは無理だった」 走者にも世界レベルの実力が必要になる。そこまでの力を持 それはそうだろう。伴走者という職業が存在するわけでは っ伴走者が見つからない場合、短い距離を繰り返し走るイン ないのだ。もしも内田が走るのをやめてしまえば次の仕事は ターバルランにするか、伴走者が交代しながらのロードトレ ーニングをするしかない。 ない。それなりの報酬をもらっている淡島でさえ、伴走者だ けを仕事にする覚悟は持てなかった。 東京で暮らしている淡島と普段は九州にいる内田とでは、 生活圏があまりにも離れている。公式大会の直前には、淡島 「実は伴走者なしでスピードトレーニングをしているんだ」者 走 が内田の元を訪れ、あるいは内田が淡島の元へ赴いて合宿や 二日間の合宿を終えた後、内田が得意げに言った。 伴 調整を行うが、普段の練習はそれそれが個別に行っている。 「待ってください。どういうことです ? 」 しまさ 淡島が伴走者になって二年以上が経っというのに、、 だが内田の練習は一人ではできない。一〇〇人を超す地元の
倒くさい」 「それでバイク練習はうまくいってるんですか」淡島はわざ 「そんなわけで今じゃ、応援にも来てくれるんだぜ」 と明るい声を出して話を戻した。 「暴走族と練習してるんですか」淡島は唖然とした。 「おいおい、何を言ってんだよ。それは俺が聞きてえこと 「バイクなら誰が運転しても同じペースで走れるからな。画 だ。うまくいってるかどうかをチェックするのがお前の役目 期的だろ」内田は自慢する。「田舎の道だからできることだ だろうか」 けどな」 「あ」 短距離走の練習方法の一つに、先導するバイクにロープを 「ちゃんとしろよ。まったくどんくさい男だな」 引かせて、限界を超えたスピードを体に覚えさせるというも 淡島は黙り込んだ。この男は勝っためなら本当に何でもす のがある。だが、それはあくまでも安全が確保されたスペー スで行われるものだ。公道でペースづくりのために行うもの るらしい。体の芯に熱が籠るのがわかる。こうまでして勝っ ことに貪欲な男に俺は出会ったことがあるだろうか。いや、 ではないし、ましてや内田は視覚障害者ではないか。 俺自身は、ここまで勝っことにこだわってきただろうか。 「危ないですよ」 「下手な伴走者と走るよりも、よっぱど安全だし練習になる まだ多くの国で、障害者スポーツは福祉の一環として扱わ さ」 れている。 「でも暗いじゃないですか」 「ははは」内田は笑う。「俺はずっと夜にいるからな」 最近になって、日本でもようやく遠征や合宿のための費用 の一部を連盟が負担するようになったが、それまで障害者ス 淡島はハッと口を噤んだ。 ポーツ選手はどれほどの実績があっても練習費用は自費で持 「すみません」淡島のこめかみに脂汗が浮かぶ。内田が光を っしかなかった。 感じられないことをすっかり忘れていた。 障害者はどうしても健常者より金がかかる。盲人ランナー 「俺の目は節穴だぜ」 伴走者になってから、障害者が自分たちのことをジョーク だけでなく、障害者スポーツに携わるものにとって最大の障者 走 にするところは何度も見聞きしてきたが、そのたびにどこま害は金なのだ。 伴 車椅子や義足は競技用のものが必要だし、海外遠征ともな で笑っていいのかわからず、淡島はよく困った。 「いいんだ。障害者だからといちいち気を遣われるほうが面れば、運送費用もバカにならない。盲人ランナーに装具は必
の量が多いのだ。かなり苦しいのだろう。 悪い笑い方をした。 どうも意地の悪いことを楽しんでいるようにしか思えな よし、仕掛けよう。淡島は内田に英語で声をかけた。 い。淡島は首を傾げた。この人は本当に根っからの悪人じゃ 「このまま行きます」 ないのか。 「抜けます」 だが、そうした駆け引きが伴走者に求められる資質の一つ 「ほら、ほら、行きます」少しずつ声を大きくしていく。 ・であると、そして、それこそが勝利に対する執念なのだと、 だが二人はペースを一定に保ったまま、少しも変えようと 内田とともにレースへ参加するたびに淡島は思い知らされ はしなかった。ただ、淡島の声だけが大きくなっていく。 た。その執念を持たない者が、勝利を手にすることはないの 明らかに前を行くマガルサが動揺しているのがわかった。 音だけを頼りに走る盲人ランナーは、後ろの音が次第に大き 坂を上りながら淡島は周囲の風景をばんやりと眺めた。坂 くなれば、他の選手が追いついてきたと考えてしまう。 の左手にある高い壁はもともと城壁だったのか、石が積み上 マガルサが伴走者に何かを呟き、伴走者がちらりとこちら を振り返った。濡れて黒くなった髪がべったりと額に張り付げられている。道の両側に植えられた巨大な樹木が、青々と した葉で屋根のように道を覆っていた。日が遮られて影に いている。マガルサの伴走はべテランのアミンだ。おそらく なっている。僅かな時間でも日光から逃れられるのはありが こちらの意図はお見通しだろう。アミンがマガルサに何かを 一一一一口っている。 たかった。ほんの一瞬だが淡島の集中力が途切れ、観光気分 になる。 淡島はわざと足音を立て、さらに大きな声を出した。 「おい淡島」 行きます、行きます」 内田の声が耳に入って淡島は我に返った。右手に持ったロ ギリギリで走っている選手の精神は案外と脆い。自分を安 ープをしつかりと握りなおす。 心させるために伴走者が嘘をついているという考えさえ選手 坂を上り切ったところで、大理石を削ってつくられた巨大 の頭には浮かぶのだ。疑心暗鬼になった選手は、伴走者の指 なモニュメントが正面に現れる。老若男女が複雑に絡まり 示を完全には信用できなくなる。 初めてこの作戦を聞かされた淡島は、感心すると同時に内あったように見える彫刻の向こう側には家の屋根がびっしり と並んで見え、さらにその先には海が広がっている。 田の底知れぬあくどさに、嫌悪感すら持った。 マガルサのフォームが乱れた。 「これもプラフってやつだな」内田はグへへへという気味の 、、つ ) 0 105 伴走者
のかはわからないが、薄緑色の壁面にはロココ調の細かな彫 科学的なトレーニングが取り入れられるようになり、本気 刻が施されている。 で世界の頂点を目指す盲人が増えるに従って、盲人マラソン 眩しい太陽の光が先を行く選手たちの姿をシルエットに変 の記録は次々に塗り替えられるようになった。彼らが二時間 えた。 三〇分を切るのは時間の問題だし、いずれは二時間一五分二 五秒という、晴眼者の女子が持っ世界記録に達するだろうと 伴走に誘われた淡島は鼻からふっと息を吐き、自分の足元 言われている。 を見た。競技用のシューズではないが、それでもジョギング 内田の自己ベストは二時間三四分三一秒。これは日本歴代 くらいならできそうだ。軽い練習代わりに目の見えない人と 二位の記録だった。この記録を出した時にも二人の伴走者が 一緒に走るのも、 しいだろう。それほど足に負担もかからない 交代で走っている。 はずだ。 選手の体調を注意深く読み取り、他の選手の動きに合わせ 「ええまあ、一度くらいなら」片瀬に向かって頷いた。 て作戦を修正する。刻々と変化する路面の状況を伝え、給水 「なあ、お前。盲人と一緒に走るなんて楽勝だと思ってんだ所では選手が確実に水を補給できるように補助をする。世界 ろ」 レベルの伴走者は、そういった仕事を全てこなしながら選手 図星だった。 とともに四二・一九五キロを二時間三〇分台で走るのだ。 「泣くなよ」内田がニャリと笑った。 「内田さんの伴走者を務めるには、少なくともフルマラソン 控え室に風が通って耳元がすっと涼しくなる。 を二時間一〇分台で走る実力が要るんだよ」片瀬はそう言っ 「全盲クラスの世界記録は二時間三一分五九秒だ」 て肩をすくめた。 一瞬、淡島は耳を疑った。二時間三二分を切っているとい それが伴走者なのか。 うのか。たとえ目が見えていたとしても並の市民ランナーで ぞわと腕に鳥肌が立った。もしかするとフルマラソンで入 は出すことのできない記録だ。 賞するより難しいことかも知れない。 「実際のレースでは複数の伴走者が交代することが多いんだ 「俺はな」内田はそんな淡島の心を見透かしたかのように静 けどね。そうしなければ対応できないほど盲人ランナーのス かな声を出した。「何が何でも勝ちてえんだ」 ピードは上がっているんだ」片瀬は得意げな顔をして説明を 淡島の背筋に何かが流れた。 始めた。 79 伴走者
のレースに出ることになる。アフリカ勢じゃあるまいし、あ 「台風だからしかたねえだろ」内田が肩をすくめた。 台風だからまずいんだ。淡島は首を振った。 まりにも無茶な予定だと淡島自身もよくわかっていた。それ でも三週あれば、ある程度は回復できるだろう。あまりメ 「速い奴らがどんどん棄権してくれりや、こっちには有利だ ぜ。へへつ」内田が笑った。 ディアには注目されていない小さな大会だが、淡島はどうし てもこのレースに出たかった。 「ですよねえ」松浦も大きく頷く。 淡島はばんやりとカレンダーを見つめた。振り替えられた 「俺の伴走の妨げにならなきや構わねえよ」 淡島が一定の成績を収めれば、伴走者の存在を広く知らせ新しい日程は、淡島が個人で参加するレースと重なってい ることにも役立つ。ただでさえ障害者スポーツに関心の薄い いいじゃないか、一度くらい。俺だって勝ちたい。人のた この国で、人々の関心を集めるには伴走者自身も話題になっ わ」ほ , つかしし めに走るのではなく自分のために走りたいと思うのは当たり 内田はそう考えているようだった。 前のことじゃないか。誰だって最後は自分が一番大切なん 「勝ち負けや記録はどうでもいいんですよ。伴走者としての だ。どうしたって自分を優先する。それが人間ってものなん レベルを保つには、自分も一線で走る必要があるってだけで だ。みんなそうじゃないか。きっと内田だってわかってくれ すから」 るはずだ。 淡島はロではそう言うが、本心ではまだ自分の記録を諦め 「チームじゃねえのかよ俺たちは。お前の勝手な都合でチー 切れていなかった。夏のレースだ。うまくレース運びを組み 立てることができれば、自分がこれまで走ってきた証を残せ ムを壊すつもりか」内田は声を荒らげた。 「俺の伴走の妨げにならなきやって約束だろ」 るかも知れない。淡島は内田の伴走者としてではなく、淡島 そし 「俺だってまだ自分の力を試したいんです」淡島は思いきっ 個人としての記録が欲しかった。それさえあれ、 て本音を口に出した。 て、それ以上は望まない。 「はん。本物のバカだろ、お前」内田は鼻で笑った。「トレ 大会日程が変更されたのは、前日のことだった。 ーニング方法もレースの組み立て方も、お前は最高レベルだ者 走 よ。そこまで科学的に積み上げられる選手はそういない」 「延期ってなんだよ。雨天決行のはずじゃないか」電話を 褒められているのか貶されているのかわからず、淡島は怪 切って淡島は大きな声を出した。松浦が目を丸くしてこちら 訝な表情になる。 を振り返る。
俺がやるしかない。 「すみません。普通の水です」 「大丈夫です」そう言い切った。 淡島の右手は内田の左手と繋がっている。 「ホアキンの伴走をやっているエンリケスなら、金を積めば 淡島は左手に容器を持ち体をひねるようにして走った。体 伴走してくれるんじゃねえかな」内田はどこか楽しそうだっ の前に伸ばされた内田の手に容器をしつかりと手渡す。内田 が確実に持ったことを確認してから淡島は容器から手を離 「何をバカなこと言ってるんですか。あの二人は交代なしで し、時計を見た。 フルを走るんですよ。エンリケスがいなければ、ホアキンが 一五キロのタイムは五六分三六秒。ほとんど計算通りだっ 走れなくなりますよ」 た。予定よりは数秒遅いが誤差の範囲だ。さすがにこのペー 「どははは。だったらなおさら好都合じゃねえか。よし、引 スで最後まで行くことは無理だが、行けるところまでは行き き抜こうぜ」 盲人ランナーと伴走者は一心同体だ。細かな部分まで互い 体に水が入って淡島の体内に籠っていた熱が下がった 9 一 の動きを熟知していなければ、力を最大限に発揮することは気に汗が噴き出してくる。この先二〇キロまで国道は住宅地 できない。いくらトップレベルの選手だからといって、そう を抜けていく。道の両側には低い屋根の家が迫り、ところど 簡単に伴走者が務まるわけではないのだ。内田だってそのこ ころには整備されていない路面もある。沿道の観客が急に飛 とはよくわかっているはずだ。 び出してくる可能性もあった。これまでの広く走りやすかっ 「だってお前、不安なんだろ」 た自動車専用道路とは違い、淡島は伴走者として緊張を強い られることになる。 ふいにそう言われて淡島は言葉に詰まった。内田は人の心 を見透かす。 淡島は前方を見た。道が大きく曲がっている。 「お前が不安ってことは、俺も不安ってことだ」 「この先、左にカープ」淡島は指示を出す。「あと五〇メー トル」 そうなんだ。淡島は顔を上げた。俺は伴走者だ。内田が恐 怖を感じずに走れるようにするのが俺の役目じゃないか。俺 「ここからカープ。道路の中央が凹んでいるので、左側に が不安がっていちゃいけない。大丈夫だ。走れる。いや、何寄って」 があっても走ってみせる。 「まもなく緩い下り坂」淡島は次々に声を出した。 二人の間では、まもなくと一一一一口えば一〇メートルという約束 っ ) 0
でいえば俺のほうがずっと上じゃないか。 ができている。できるだけ簡潔に伝えるにはこうした細かな 内田が淡島のほうへすっと手を伸ばした。指先が肩に触れ 取り決めが必要で、だからこそ伴走者の交代は簡単にはいか る。 ないのだ。 「ふん。わりとでかいんだな」 「ここで下り坂」 内田はそのまま手を動かし、淡島の腕から背中、腰、足へ 「スピード出しすぎないで」 と何かを確かめるよう触れていく。 「坂の途中で左にカープ」 「お前、三四だっけ」 「まもなく左カープ、一一時の方向」 内田があごを引いた。淡島はそれとなく内田のフォームを 「そうですけど」 、んじゃねえか」 チェックする。坂の下りを意識しているせいか、歩幅は僅か 何がいいんだかまるでわからない。淡島が戸惑っている に小さくなっているが、接地時間はそれほど変わっていな と、内田はいきなり両手で淡島の顔を挟んだ。 かった。同じペースを保ちながら二人は坂を下っていく。 「いいか。髭は毎日きちんと剃れ」 「まもなく坂は終わり」 「はい ? 」 「ここで終わりです」 「俺の伴走者になるなら、見た目もかっこよくねえとダメ 今でこそこうした指示が何よりも大切だと淡島も知ってい るが、初めて伴走したときには、これほど細かな指示が必要だ。ま、俺には見えねえんだけどよ。だははは」内田は大声 こ炎島は顔を強張らせ で笑ったが、あまりにも不謹慎な冗談を冫 だとは思ってもいなかった。 ていた。 「さあ淡島君、これを」片瀬から長さ五〇センチ足らずの太 「伴走したことはあんのか」内田は唐突に聞いた。派手な い紐を渡された。紐は輪になっている。 ジャージを脱ぎもせず、リラックスした態度で総合運動場の 「きづなって呼ぶやつもいるが、俺は単にロープと言ってい トラックに立っていた。 る。二人をつなぐ綱だから、きづなってことらしいがな」内 「いえ」淡島は首を振った。 田は吐き出すように言った「ダセえよ」 「とにかくやってもらおうか。ま、すぐにできるとは思え 「これ、どう持てばいいんですか」 ねえけどな」 「軽く握ればいい」 バカにするような内田の口調に、淡島はムッとした。記録 85 伴走者
「彼は盲人なんです。見ることはできません」淡島は食い下と歩を進めた。 がった。柵の外にいては革命家を感じることはできない。 「ここに壁があるってのは、わかるんだよ」 もっとも触れて感じることができるとも思えないが、それで 「見えなくても ? 」 も内田の願いを叶えてやりたかった。 「壁のある方向からは音が来ないからな」 「なぜ盲人がここに来たのだ」 「へえ」以前の淡島なら驚きを隠しただろう。障害者に対し 「彼自身を変えるためです」 て失礼なことを言っているのではないかという怯えがあった 「お前は何者だ」 のだ。だが、今はそうした感情はなくなっている。おかしけ 老人は怪訝そうな表情になった。 れば笑い、知らないことに出会えば驚く。当たり前のことだ 「俺は伴走者です」淡島は胸を張った。「革命家にだって伴が、内田と長くつきあっている間に、ようやく素が出せるよ 走者はいたでしよう」 うになっていた。 伴走者はレースを共に走るだけの存在ではない。誰かを応 「それが解るまでには、三年くらいかかった」 援し、その願いを叶えようと思う者は、みんな伴走者なの 「音が無いことに気づくのに ? 」 「最初のころは必死で音を聞いてたんだよ」 内田の願いを叶えるのが、ここにいる俺の役割だ。伴走者 「今は聞いていないんですか」 としての俺の役割なのだ。淡島の必死の願いを聞き、老人は 「ああ。聞いていない。耳で見ている」 静かに目を閉じた。目尻から涙がこばれ落ちる。 「見ている ? 」淡島は首をかしげた。 「儂が彼の伴走者だった。彼の革命をすぐ側で見つめてきた 「晴眼者は周りの様子を見ながら、いろんなことを同時に把 のだ」濁りのない瞳は淡島の遥か後ろを見つめているよう握するだろ。それと同じことだよ」 。こっこ 0 「同じことって」 老人は柵の玩に大きな鍵を差し門扉を開いた。門の開く音 「どこからどんな音が聞こえているかを意識せずに聞いてい に内田の顔が緩む。 る。言ってみれば、音で観察しているようなものさ。たぶん 「建物までは三〇センチほどの丸い石で道がつくられていま先天性の盲人とは感覚が違うんだろうけどな」 す」。淡島は素早く足元の状況を伝えた。ここで足を痛めてし 晴眼者も何かを意識的に見ているわけではない。視覚の中 まっては、わざわざ来た甲斐がない。内田は頷き、ゆっくり に自然に入ってくるものから、様々な情報を受け取っている 116
淡島はロを曲げた。そんなことは言われなくてもわかって いる。でも俺だって機械じや無いんだ。全てを把握すること なんてできない。 「今、何が見える」 二三キロあたりで交差点を大きく右に曲がり、すぐに左 「え ? 」 へ。そのまま右への大きなカープ。レースのちょうど真ん中 「言ってみろ。もし走っているとしたら、俺に何を伝えるべ に位置するこの急なクランクが選手たちの走りにどう影響す きか」 るかは未知数だが、短時間で重心を左右に移動すれば確実に 「前方から車が来ます」 体幹のバランスが崩されてしまう。 「いいそ」 明らかに前を行く選手たちのペースが乱れていた。クラン 視覚がないだけに選手は音に敏感だ。特に車が近づく音に は恐怖を感じる。伴走者が何も言わすにいると、選手は自分クと路面の悪さが影響しているのは間違いない。すぐ目の前 だけが車の存在に気づいているのでは無いかと疑心暗鬼に陥では、先ほど第二集団を抜け出していったはずのカイエルが る。伴走者は、選手が車の存在に気づく前に、ちゃんと認識体を捩るようなフォームを見せていた。どこか痛めたのだろ うか。じりじりとペースを落とし、今にも足が止まりそう していることを伝えてやらなければならないのだ。そうやっ 、、こつつ ) 0 て選手の恐怖心を丁寧に取り除いていく。 「前方にカイエル。ロープはこのまま左から抜きますよ」 「道は ? 」 前を行くカイエルの右側には伴走者がいる。内田に声をか 「えーっと、この先に段差があります」 けて進路を左に修正し、瞬間的にペースを上げる。 「どっちの ? 」 「抜きます」 「はい ? 」 他の選手を抜くとき、淡島は常に自分が相手と内田との間 「上りの段差か下りの段差か言わなきやわかんねえだろ」 を走るようにしていた。自分が内田の右側についているとき 「あ、上りです」 には相手の左側から、自分が左側にいるときには右側から抜 淡島は愕然とした。これだけ練習をしているのに、まだま く。前を走る選手が急に左右へ動くと内田には避けることが だ気づかないことだらけだった。普段、いかに自分が視覚に 頼って生きているかを思い知らされる。周りの状況を正確できないからだ。 に、そして簡潔に伝えること。伴走者には言葉の技術も要求 される。ただ人より速く走れるだけでは、伴走などできな