存在 - みる会図書館


検索対象: 群像 2016年9月号
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1. 群像 2016年9月号

リアリティ 宇宙を超越することなく、宇宙そのものが「法身」自体の実在と、われわれは「心」を通じて、一つになることが 顕現Ⅱ表現 (manifestation) となっているのだ、と。だか できる。その瞬間に救い ( 「涅槃」 ) が訪れる。「涅槃」と らこそ、「この汎神論的 (pantheisic) で内神論的は消滅のゼロではない。生成のゼロである。われわれ有限 (entheisic) な法身は、すべての感覚あるもの ( 衆生 ) の存在は、「我」を滅ばすことによって、そうした生成の 働きかけ、すべての感覚あるもの ( 衆生 ) は法身の自己顕ゼロ、永遠の「涅槃」にして無限の「法身」へと到達する ことが可能になる。 現日自己表現なのである」。あるいは、さらに、大乗仏教 ニルヴァーナ 徒にとっての究極の覚りたる「涅槃」とは、「法身」が人 それが『大乗起信論』を解釈することによって創り上げ 間になることであり、「涅槃」が主観的な表現であるとすられた『大乗仏教概論』の結論である。だがしかし、大拙 れば、「法身」は客観的な表現なのである、とも。 の提唱する「大乗仏教」は、仏教の教義そのものを逸脱し 第四章では、大拙の唯神論日唯心論的一元論の核心ともい ている。それは仏教全体からすればごく一部の、あるいは える一言が記される。「宇宙は一つの、一元論的かっ汎神論的な異端の、「密教」と総称されるセクトに特有の偏った教義 の体系を成り立たせている理論神学であり、実践哲学なの 体一糸で ~ める ( ( he universe is a monistico-pantheistic system) 」。 この一元論的にして汎神論的な宇宙の中心に位置するの だ。刊行されたばかりの『大乗仏教概論』はそのような激 が「法身」なのだ。「法身」とは「一」にして「全」な 烈な批判を浴び、封印されることになった。 るものなのである。そうした「法身」という概念を集中的 に論じた第九章で、大拙は、さらに「法身」を、こう定義 『大乗仏教概論』は大拙思想のアルフアであり、オメガで している。仏教は、率直に認めているのだー「ー「現象する 、いたるところに内在ある。 ものの諸限界を超越していながら しかしながら、この書物は原著刊行から一〇〇年近くの して、輝き満ちわたる光のなかに自らを顕現し、しかも、 その内でわれわれが生活し、移動し、自分自身の存在を成 、封印されていた。大拙自身が再版に難色を示し、それ り立たせている一つのリアルな存在が、この世界にあらわゆえ、英語から日本語へと翻訳されることもなかった。結 れ出でているということを」。 局のところ、一九〇七年に英語で書き上げられた原著が日 超越にして内在、一にして多、あらゆるものの存在の源本語に翻訳されたのは、二〇〇四年のことだった。一体な 泉にして、あらゆるものの表現の源泉。そのような究極の ぜなのか。邦訳を担当し、本文批判の詳細な注と長文の解 8

2. 群像 2016年9月号

て、新たな存在をいまここに生み出す。ケーラスは、ヘッ の感覚、そしてヘッケルの生命が一つに結び合わされるの しかし、雑 である。ヘッケルは母親の胎内の胎児の成長過程の観察を ケルの見解に全面的に同意したわけではない。 誌『モニスト』やオープン・コートの「科学の宗教」叢書 もとに、「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼ の周辺に集められた生物学者、生理学者、心理学者たちは を打ち立てた。胎児は、受精から出産までの十カ月の間 、母親の胎内で、生命の原初形態 ( 「モネラ」ーーただ みな、ヘッケルの生命進化論と共振するような「記憶の遺 しへッケルが発見したと称したそのサンプルの存在は否定伝」説を提唱している者たちばかりであった。 されており、現在では、ただ理念としてのみ想定される ) 「記憶」もまた遺伝する。人間の個体とは、そこにいたる から人間に到るまでの生命進化の過程を反復し、誕生すまでの生命の連鎖の、あるいは、記憶の連鎖の結果なの だ。だから「自我」など存在しない。存在するのは、ただ る。人間は、人間に到るまでの生命の記憶を反復すること で、はじめて人間となるのだ ( カール・グスタフ・ユング 「業」の連鎖であり、感覚諸要素の連鎖であり、生命の種 による、個人の無意識を越えた「集合無意識」概念の一つ子たる「モネラ」の、あるいは種族の「記憶」の連鎖なの だ。ケーラスⅡ大拙が『因果の小車』で語る、次のような の源泉でもある ) 。 「さら 一節は、そのように理解されなくてはならない 人間をはじめ森羅万象あらゆるものは、生命の原初形態 として、「モネラ」という生命の種子のようなものを共有ば御身に秘密の鍵を授け申さん、今遽かに之を会し得ずと も信じて聞かれよ、それ我は幻なり、我の赴く処に従はん している。有機物と無機物という分割を乗り越えて、あら とするは陽炎を逐ふ鹿の如し、罪業の泥土に陥るをまぬか ゆる生命体は、「一」なる「モネラ」の多様な表現となっ マーヤ るべからず、我の幻なるを知らざれば摩耶「妄念による ている。そしてその「一」なるものから「多」なるものヘ 幻〕の妖霧に鎖されて眼昏み、己れと他人との間には免れ の変化進展はやむことがない。「モネラ」という生命の 種子のなかには種が変化するための無限の可能性が、潜在ぬ種々の因縁ありて、御身の体中にある五臓六腑の相互に 的な状態のまま秘められている。つまり、人間という種に関係あるよりも尚一層親しき関係あるを看る能わず、御身 おいても、その内部には、未来の未知なる種へと変化進は他人の心霊の中にも御身自らの影像の歴然として現はれ おるを悟らざるべからず、無明「迷いの源泉〕は罪業の本 展する可能性が秘められているのだ。変化の可能性を無限 に孕んだ生命の種子をもっているのだ。生命は反復によっ なり真理を知らぬ人のみ多きこそ歎はしけれ、まづ左の密 エヴォリューション

3. 群像 2016年9月号

世界のなかで実在的な「目的結合」を想定して、「意図的 身によって、無条件的で、自然的事物から独立したもの に作用する原因」を想定するばあいには、そこで同時に問 として表象されており、それ自体としては、しかし必然 題となる「生産的な知性」を規定する客観的根拠が問われ 的なものとして表象されているような存在者、というこ なければならない。その根拠こそが究極的目的なのであ とだ。こういった種類の存在者こそが人間であり、しか る。 すでに確認してきた消であるように、自然は究 もヌーメノンとして見られたかぎりでの人間である。こ 極的目的を与えることができない。自然が与えるものは条 れは自然的存在者のうちで唯一、それにかんして私たち 件づけの系列であるのに対して、究極的目的は「無条件的 が、それでも超感性的能力 ( 自由 ) と、さらにそのうえ unbedingt 」なものであるからだ ( ト 434f. ) 。 〔自由の〕原因性の法則を、この原因性の客体ーー・・・この客 有機的存在者であるなら、その部分どうしはたがいに手 体を当の存在者は、最高目的としてみずからのまえに据 段となり、目的ともなる。当の存在者はそのいみで自然目 えおくことができる ( それがすなわち、世界における最高善 しほかならない ) ーーーとともに、 的であった。有機的存在者の存在は、自然全体を目的論的 くだんの存在者が有す な体系として思考することを可能とする。けれども有機的 る固有な性状の側から認識することができるものなので ある。 ( ) 存在者は、まさにそのことをつうじて「外部的な条件」 ( 435 ) に依存している。外部性の連鎖に依存するものは、 目的そのものではありえない。究極的目的を与えるものと かりに世界がたんなる物質と、生命があるとはいえ「理 はそれ自体が目的であるもの、自己目的となるものである性を欠いた存在者」とからなりたっていたとしよう。その 必要がある。 ような世界はおよそどのような価値も欠落させているはず である。そうした世界には「価値にかんしてほんのすこし ところで私たちはこの世界のなかで、その存在者の原でも理解しているような存在者」が存在していないからで 因性が目的論的なものである、独自な種類の存在者をた ある。それだけではない。人間以外の被造物はそれ自体と だひとつだけ手にしている。つまりその原因性が目的へ して目的となることができず、自然はなんら価値を分泌も と向けられていて、しかも同時にその原因性がそなえて ないからだ (vgl.449)0 いる性状がつぎのようなものである存在者がそれであ 人間が存在していないか芋り、世界は「たんなる荒野 る。すなわち、それらの存在者がみずからに目的を規定 bloße Wüste 」 ( 442 ) にすぎない。人間に対してだけ自然 しなければならないさいしたがう法則が、その存在者自 はみずからを美しくよそおう。第 2 回・第一項で確認して

4. 群像 2016年9月号

れるばあいには、その事物の概念には偶然性がむすびつ おし、そこに判断力のアンチノミーの所在を認定したうえ き、なんらかの自然的事物が目的としてのみ可能であると で、規定的判断力と反省的判断力とをあらためて区別する 見なされるなら、その事物の存在は「世界全体の偶然性 ことでアンチノミーの解消を図ったのであった。 ただし、自然学において目的論を使用するさいに、決定 die Zufälligkeit des Weltganzen 」をしめす卓越した証明と なると考えていた。そのとき、世界全体はかくて知性的な 的に不利な消息が存在する。それは、目的とは観察される ものではなく、たんに思考されるものにすぎないというこ存在者に依存し、かくてまた「目的論」は「神学」とむす びあうことによってのみ完成される見こみを獲得するはこ とだ。い つまう、機械論にとって乗りこえることのできな い障壁が存在するとするなら、それは、自然現象のある部びとなるだろう ( KU398f し。 とはいえ、目的論から神学への移行は一方で不可避であ 分には決定的なかたちで偶然性がまとわりついているとい りながら、他方では不可能でもある。カントが『純粋理性 う事情である。 世界全体の偶然性は規定的判断力に対しては、根源的な批判』のなかで確認していたとおり、偶然性から必然的存 在者の存在を推論することはできず、そもそも可能である 知性的存在者の存在を想定させる主観的根拠となりうる。 ことと現実に存在することを人間の認識能力は繋ぎあわせ それはしかし、知性をそなえた根源的な存在者つまり ることができない。それでは目的論は、学の体系のなか 「神」の存在を理論的に証明する根拠とはなりえない。目 で、いったいどのような位置を占めることができるのだろ 的論から神学への移行は、一方では必然的であり、他方で うか。第三批判・第二部の附録「目的論的判断力の方法 は不可能なのだ。 論」は、その最初の節 ( 第七九節 ) であらためてこの問題 ここで問題はふたたび「自然の目的 Zweck der Natur 」 で を論じている。 を問うことへと回帰する。しかもその「究極的目的」を問 本稿の第 3 回でも確認しておいたとおり、第一批判・方 題とすることへと還帰してゆくのである。 の と 法論におけるカントの論述によれば、哲学は予備学として 理 の批判と、ほんらいの哲学的認識とに分かれる。おなじく 追認したところであるように、カントは『判断力批判』序美 論で、後者にかんして理論哲学と実践哲学とを区別してい た。したがってかりに目的論が「哲学的な学」そのもので 前回末尾でも引用を採っておいたとおり、カントは、な んらかの事物が目的を条件としてだけ可能であると考えら

5. 群像 2016年9月号

そして、一見するとまったくかけ離れた、大乗仏教思想前の根源的な「一」なる領野を探究する。ケーラスは、ス の「如来蔵」思想と、スエデンポルグの神秘神学は、おそ ピノザが説く、森羅万象あらゆるものは「神即自然」の表 らくは、大拙にとって表裏一体の関係にあるものだった。 現である、あるいは、「神即自然」という「一」なるもの から森羅万象あらゆるものが生成されるというヴィジョン を、最新の科学と共振する哲学として、現代に甦らそうと 大拙は、ポール・ケーラスのもとで『大乗起信論』を英したのだ。そのためには、さまざまな学問分野を代表する 語に翻訳し、『大乗仏教概論』を英語で書き上げた「 研究者たちとの討議が必要不可欠となる。ケーラスは、主 ケーラスの名前は、アメリカでも日本でも、現在ではほ観と客観が成立する以前にはただ「感覚」 ( 厳密には「感 ば忘れ去られている。ドイツからの宗教的な亡命者であっ覚」を構成する諸要素 ) しか存在しないと説いたオースト たケーラスが、やはり先にドイツからアメリカに移住して リアの物理学者エルンスト・マッハ、有機物と無機物が分 財をなしていた実業家エドワード・ 0 ・ヘゲラーと協力し かれる以前に根源的な生命物質が存在し、その生命物質 ( ケーラスはヘゲラーの娘婿となる ) 、出版社オープン・コ 「モネラ」からあらゆる生命が発生して現在まで変化と展 エヴォリューション ートを経営、雑誌『モニスト』を創刊、初期のプラグマ開 ( すなわち「進化」 ) を続けていると説いたドイツ ティズム哲学の基礎を築き、その発展に寄与した、という の生物学者エルンスト・ヘッケルなどと対話を交わし、彼 のがほば一般的な理解であろう。そこまでの知識がある人らの見解をーー・もちろんケーラス自身によるいくばくかの 間もまた、現在ではきわめて少数であるはずだ。ケーラス反論を付した上でーーー『モニスト』に掲載していった。 の主張は、『モニスト』 ( M 、 「一元論者」 ) とい 感覚の一元論にして生命の一元論。ダーウインの進化論 う雑誌の名称に集約されている。旧大陸ヨーロッパの伝統 ( 単純で「一」なるものから複雑で「多」なるものへの変 的な二元論哲学に対抗して、新大陸アメリカに新たな一元化進展が存在している ) の衝撃を消化吸収しながら、生 論哲学を樹立する。しかも、ひらかれた討論の場 ( 「オー 理学や心理学、そして生物学にまず認識の革命が起こり、 プン・コート」 ) を通して、というわけである。 やがてそれらが哲学をはじめとする人文諸科学へと波及し 精神と物質、主観と客観という一一元論、二項対立的な思 ていく、というわけである。そこから、存在と意識あるい 考方法を解体して、精神と物質、主観と客観に分かれる以 は宇宙の発生と意識の発生は等しい、環境と生命は一体の 150

6. 群像 2016年9月号

説を寄せた佐々木閑の見解をもとにまとめてみれば、次の宇宙の根本原理たる「法身」から流出し、またそこに回帰 よ , つになる。 するーーーのエッセンスに過ぎない、という非難である。当 まずそこには、サンスクリット表記の多くの誤りととも時のヨーロッパで劇的に発展したサンスクリット文献学の に、大乗仏教の発展史における重大な事実誤認が見受けら権威から、『大乗仏教概論』は痛烈に批判された。 大拙自身がその批判について直接答えた形跡はない。そ れる。大拙が、『大乗仏教概論』で依拠しているのは『大 乗起信論』に代表される「如来蔵」系の経典に表現された れでは、大拙は『大乗仏教概論』に記した自身の見解をそ 思想である。「如来蔵」には、大乗仏教の発展史の上で激の後、否定したのか。おそらく、そうではあるまい。大拙 烈な論争を繰り広げた中観派 ( 「空」と「縁起」を重視すは『大乗仏教概論』で依拠した「如来蔵」という考えを生 る ) と唯識派 ( 意識の階層性と根底的な「識」の存在を重涯捨てることはなかった。逆に、それをより論理的かっ実 践的に深めて行った。そこに最後の大拙が立ち現れてく 視する ) の主張を一つに総合するような側面が存在する。 大拙は「如来蔵」から中観 ( 「ゼロ」 ) と唯識 ( 「意識」の る。『大乗仏教概論』の刊行からちょうど半世紀を経て、 階梯 ) が生まれたと考えたが ( 当時の一般的な理解でも 、一九五七年に刊行された大拙晩年ーー八〇代後半ーーの英 あった ) 、現在ではまったく逆であることが文献学的に証文著作『神秘主義キリスト教と仏教』 ( 邦訳Ⅱ坂東性 明さ・れている。「如来蔵」は大乗仏教の源泉ではなく、そ純・清水守拙、岩波書店、二〇〇四年 ) には、『大乗仏教 の結果だったのである。 概論』の本文中で定義された重要な概念 ( 「真如」 次に、上記の点とも関係し、より本質的な問題であると Suchness 、等々 ) がほとんどそのまま使われ、さらに『大 思われるのが、「如来蔵ー系の経典が生み出されたのは大乗仏教概論』ではほのめかされるだけだった「神秘主義」 乗仏教の展開としてはより後期の、特に「密教」的な思考を介した一神論の極たるキリスト教と無神論の極たる仏教 方法の確立と密接な関係をもっていた、という点である。 の比較対象が全面的に論じられていた。大拙にとって、 「如来蔵」思想を核としてもった大乗仏教によって、超越 神人合一、すなわち即身成仏を理論づけるのである。大拙 の「一神」と内在の「汎神」は一つに結ばれ合うのだ。そ は「大乗仏教」全体のエッセンスを概説する、と主張して の点をより明らかにしていくためには、「大拙のアメリカ」 いたが、そこで論じられていたのは、実は大乗仏教のうち のヒンドウー教化されたごく一部分、特殊な一セクトたる を成り立たせているもう一方の極、スエデンポルグのキリ 「密教」思想ーーさまざまな仏たち ( 聖なる神的存在 ) が スト教神秘神学が大拙の思想に与えた影響をあらためて検 161 大拙

7. 群像 2016年9月号

大拙は、レーニンとはまったく対照的に、アメリカに勃 ているとし、それは「自我 (ego-soul) の不滅性を否定し て、業の不滅性を支持するものだ」とも断言する。大拙は興した一元論哲学を、唯物論ではなく唯心論の方に向け 「業」の在り方を説明するために、植物の「種子」を例に て、大きく舵を切ったのだ。アメリカの一元論哲学は、唯 あげる。「種子」は、「業」の具体的な表現になっているか物論と唯心論が拮抗する場に生み落とされた。レーニンは らだ。「種子」は、花を咲かせ、実をつける潜在的なエネ物質を選び、大拙は精神を、すなわち「心」を選んだ。そ ルギーを自らのなかに秘めている。しかも、そのエネルギ の地点に、『大乗仏教概論』で全面的に展開される大拙の ーは個々の植物の死とともに終わるわけではない。あらた大乗仏教理解の真のはじまりが位置づけられる。 な種子が地上に撒かれ、成長の過程が繰り返される。エネ ルギーは不滅であるとともに、個々の種子のなかに潜在的 に秘められ、個の死を超えて持続し、変化していくのだ 9 『大乗仏教概論』において、大拙は、ケーラスによる 『大乗起信論』は、「大乗」 (Mahäyäna 、「摩訶衍」 ) を端 「業」の捉え方を否定しているわけではなく、逆に、それ的に、こう定義していく ( 以下、大拙による英訳をあらた に一つの総合を与えていた。「業」の種子、「感覚」の種めて日本語として訳出する、しかしながら、その際かなり 子、「生命」の種子。種子のなかに秘められた、無限にし の言葉を補っている ) て永遠の「一」なるエネルギー。アメリカ時代の大拙は、 そのようなヴィジョンに過不足のない理論を与えてくれる 「大乗」とは何か、簡潔に述べれば、二つの側面から問 大乗仏教の理論書を発見したのである。それこそが、人間 うことができる。つまり、それ自体では何かと問うこと であり、また、その意味するところのものは何かと問う をはじめ森羅万象あらゆるものには「如来」 ( 仏すなわち ブッダ ことである。 覚者 ) となる種子が秘められている、と説く『大乗起信 論』であった。それでは一体、その種子はどこに秘められ 「大乗」とは何か、まずは、それ自体を問う。それは心 (soul) である。すべての感覚あるもの (all sentient ているのか。『大乗起信論』は答える。「心」のなかに、 「如来蔵」ーーー如来になるための種子をそのなかに蔵した beings) の心であり、その心は、世界のなかに、現象と 存在の子宮ーーーとして秘められているのである。 して存在するもの、現象を超越して存在するもの、あり 156

8. 群像 2016年9月号

たり小説を書いたりといった行為は、フランス文学の研究や てくる。これはいったい何なのだろうと途惑ってしまいまⅧ , さんの、自分の生み出した子はもう離れて 翻訳とはほとんど関係がない。そもそも、改めて考えてみるす。先ほど小 いって、せいぜい遠くへ行って別の体験をしていらっしゃい と、日本語というのはかなり変わった一言語でしよう。書き言 葉にかなと漢字が混在していること一つをとっても、実に特というお話がありましたが、僕の印象もそれに似ています。 異な一一一一口語だと思う。しかし、それを母語として持って生まれ僕自身からいったん遠く離れていき、言語の境界を越えてさ て、生き続けてきたという偶然の巡り合わせで、 , このいつぶまよいだした自分の作品が、あらためて別の言語の相貌をま とって自分の手元に戻ってくる。実に不思議なことだなとい う変わった一一一一口語が、僕にとっては一種の自然となっている。 うのが実感です。 世界のどの言語もそれそれ特異だと言ってしまえばそれまで だけれど、このどこかきわめて不思議なところのある日本語 沼野松浦さんの文体は、日本語固有の可能性を極限まで が、僕にとって、何の不思議もない自然として存在している使っているところがあって、前のお二方もそれそれ独自の文 という、そのこと自体の不思議さですね。その日本語を使っ体をお持ちとはいえ、松浦さんの文章が一番訳しにくそうな て詩を書くとか、小説を書くとかを試みはじめる時点で、自気がするのですが、辛島さんどうですか、苦労はありません でしたか。 然からはやや逸脱した行為に足を踏み入れることになってく 辛島 。し。過酷な翻訳教室みたいでした ( 笑 ) 。刺激的な るのですが、ともあれ『巴』という長編小説を書き始めて、 書き続けて、書き終えてというプロセスの中に自分を住まわ性描写や、詩人ならではのひらがなが延々続く描写や、最後 にはアクションやチェイスシーンまであって、すべてやらな せていたある時間の持続の体験としては、いずれにしても完 くてはいけないという意味では、翻訳の筋肉を鍛えることが 全に日本語の、ーーー何でしよう、システムという一一一一口葉はあま できた素晴らしい機会でした。これは訳して七、八年ぐらい り使いたくないのですが、日本語による思考、日本語によっ て書くという文章行為の中に、とつぶりとひたりきって暮ら経ちます。記憶が薄れているところもありますが、先週、久 しぶりに読み返してとても刺激的に楽しく読めました。実は していた時期なんですね。そして、書き上がって、本にな もう。ハソコンのデータがなくなっていることに昨日気づき、 り、物質として外界に実在し始めてしまうと、これはもう自 。いったん自分とは縁の切れた存在でもプリントした第一校が残っていました。できあがった本 分の手から離れてしまう になってしまいます。ところが、辛島さんによる翻訳が完成と読み比べてみると、やはり書き出しはすごく大切で、第一 して、それが別の一一一一口語になってあらためて自分の手元に帰っ校は、ほばセンテンスの長さを保っているのですが、最終的

9. 群像 2016年9月号

ている。大拙が「業」について述べていることも重なり合 あった。『大乗起信論』は理論神学と実践哲学からなる。 理論神学を代表する概念が「真如」「如来蔵」「アーラヤ 「真如」「如来蔵」「アーラヤ識」。大拙は、『大乗起信論』識」であり、実践哲学を代表する概念が「法身」である。 が説くこの三つの連続する概念を、大乗仏教の「思弁的」 そして大拙による、こうした「法身」の理解こそ、ヨー (speculative) な側面を代表するものとして、『大乗仏教概ロッパで発展した文献学的な仏教学の研究者たちから激烈 論』の前半、特に第五章と第六章で詳述していく。この な非難を浴び、おそらくは、その後の大拙に「大乗仏教」 「思弁的大乗仏教」という大きな括りは『大乗仏教概論』 という術語を使わせないようにした遠因となり、また同時 の第三章からはじまり、第八章の「業」で終わる。いわば に大拙をスエデンポルグ神学に接近させていく遠因とも 大乗仏教の理論神学である。 なったと推定される。 しかし、『大乗起信論』は大乗仏教のもつ「思弁的」か 実は、『大乗仏教概論』は、最初から最後まで「法身」 っ理論的な側面のみを提示したものではない。「実践的」 を説き続けていた。序論の段階ですでに「真如」と「法 (practical) な側面もまた提示してくれている。大拙は、 身」を並べて、「最高の存在にして最高の原理 (highest 『大乗起信論』が提示してくれた大乗仏教の「実践的」な being and principle) 」と称している。「真如」が原理だと 側面を代表する概念として、「法身」を取り出す。「真如」 したら「法身」は存在なのだ。そして、第一章でも、「法 は「如来蔵」であり「アーラヤ識」である。しかしなが 身」は、「個別にあらわれる現象すべての基盤となる究極 ら、それら諸概念はすべて「法身」という概念に集約され の実在 (the ultimate reality) 」であり、「存在することが るのだ。この「実践的大乗仏教」という大きな括りは、ま可能な個々のものに現実の存在を与え、宇宙の存在理由で さに「法身」と題された第九章からはじまり「涅槃」と題あり、出来事と思考に方向付けを与える存在の規範であ された最終章 ( 第十三章 ) で終わる。いわば大乗仏教の実る」とされている。さらには、キリスト教にいう「神」 践哲学である。 や、インドのヴェーダーンタ哲学にいう「プラーフマン」 『大乗仏教概論』は広義の序論 ( 序論、第一章、第二章 ) 、 ( 宇宙原理たる「梵」 ) と、ある意味では比較可能なもので 「思弁的大乗仏教」 ( 第三章から第八章まで ) 、「実践的大乗仏 はあるが、重要な点で異なっている、とさえ続けられる。 教」 ( 第九章から第十三章まで ) という構成をとっている。 キリスト教徒によれば「神」は宇宙を創造し、その宇宙か それは同時に大拙による『大乗起信論』の理解そのもので ら超越しているが、大乗仏教徒によれば「法身」は、この 159 大拙

10. 群像 2016年9月号

もちろん、同じ古典主義時代の世俗的絵画も、文字通りの シェイクスピアの惨めな王たち 意味で〈タブロー〉を見出した。〈タブロー〉は、自らの 志向的な相関項を、つまり〈タブロー〉を対象として見つ 政治と文化は、西洋の近世においては、互いに独立した める主体の存在を前提にしている。それこそが、抽象性を 異なる機能的システムである。それらは、包括的な社会シ ステムから分化した下位システムだ。しかし、われわれ要件とする , ーー・つまりそれ自体は知覚・感覚的に現前する ことがないーーー超越的審級である。科学革命もまた、絶対 は、ここまでの考察を通じて、それらが、互いの間の分化 空間の中の物体を一挙に同時に把握することができる にもかかわらず、同一の形式の機制によって存立してい た、ということを確認した。その機制の中核となる契機「神」の存在を、つまり抽象的な超越的審級を前提にして いる、と前回述べた。そして何より、このような超越的審 は、十分な抽象性をその本質的な条件とするような超越的 級の原型は、王の政治的身体にある。 審級 ( 第三者の審級 ) である。 近世において、王の政治的身体がどのようにして生成し たとえば、フーコーが見出した表象の知は、表象がその てきたのか、その生成を駆動した論理はどのようなもの 上に配置される〈タブロー〉を前提にしている。そして、 連載評論新 〈世界史〉の哲学大澤真幸 3 篇死の ン一フ ダ 308