「あんさん、ご存知でした ? 」 さない。「ご覧の通り、わしはハッタリの多い人間ですが、 水を向けられてあせりながら、いや知りませんでした、わその淵を覗きこんできた方には、余さず白状することにしと たしはこの人のことは何も知らないのですと口にした。これ るんですわ。せやからあんさんにも白状しますわ」 は、この場におけるいかなる会話においても大叔父上の世話 わけがわからない。わたしは憮然とした表情で相手を見つ を焼く理由は自分にはないという宣言でもあった。 めて返答とした。 「そらいかん。事情は知らんけど、これから人には言われへ 「わしにも大叔父はいるんやけども、あんさんの疑った通 んような場所に二人きりで行こう ? ちゅうんでしよう。まし り、誕生日までは覚えとりませんのや。だから、 Jerome て血もつながっとるのに誕生日も知らんやなんて」 David Salinger の生年月日を言うたんですわ」 こうなると、わたしも言い返さないわけにはいかなかっ 流暢な英語の発音をこてこての大阪弁に混ぜて発する奇妙 た。じゃあ、そう一一一一口うあなたはご自分の大叔父さまの誕生日 さについて指摘するのは憚られた。知らないのに知ってると を知ってるんですか ? もちろんおられればの話ですけれど嘘をついたんですかと問いかけると、男は悪びれる様子もな も。 くむしろ楽しそうな顔を見せた。 「大正八年の一月一日、御年九十七歳ですわ」 「そういうことですわ。そんなもん、覚えてた方がええに決 返す刀に驚きながらも、こんな時にすぐさま和暦と西暦を まってますやろ。ええか悪いかは知らんけども、田中角栄か 対応させてしまうのが、わたしの中学受験以来の特技という て近しい人の誕生日を残らす覚えて人を仰天させたといいま か習慣だった。一九一九年一月一日。サリンジャーと同じ生すやんか。少なくともハッタリは利きますわ。だからわし 年月日ですねとわたしは思わず、日頃の会話では決して出さ も、確かめようもない場面なら生年月日をすらすら暗唱でき ない名を口走った。 るようにして、角栄さながら頭のええャツやと思わせること すると男が、今までにない性急な首の動きでわたしを見返 にしとるんですわ。ただ、当てずつばうで言うとあとあと下 した。土気色の肌に走った細い切り口のような目の奥から、 手を打ちますよってに、小説家から拝借しますんや」 まじまじと見つめる。やがて分厚い唇をつり上げて、にやり わたしはちょっと恐れをなした。この多分に能力のいりそ と笑った。 うな処世術にしても英語にしても、それから立派な外見にし わたしは気味悪くなって、なんですかと訊いた。 てもそうだが、この男は相当なエリートなのかもしれない。 「いやいや、まいりましたわ」と男はわたしの顔から目を離それでも落ち着きを装った声で、しかしどうしてサリンジャ
十四時間使える飲み物や菓子バンの自動販売機に似ている。 前回のあらすじ 自動販売機とちがうのは、私たちが会釈をするとにこにこし 私はピエタ。高校の時、転校してきたトランジと仲良くなった。ト て軽く会釈を返してくれるところだ。 ランジは頭が良くて、周りで起こる事件を次々と解決する。私は医大 でも、沢田 ( 妻 ) はちがった。沢田 ( 妻 ) はめったに笑わ へ進んだ。医学の知識があれば、今後の捜査に役立っと思ったから。 ・の門限と点 ず、信じがたいことに、寮則に書いてある ジが私と向かい合う向きで手前に収まっていた。 の消灯、【以降の勉強や歓談は一階の共用ラ 「でも、こうして出てきてる」道路をうかがうトランジの目 ウンジで、などなどの現実的でない文一言を、現実のものとす 尻あたりで、白目がぬるっとしてきらめいていた。 ることに全力を尽くしていた。 「まあね、たまにはね。窓があるし」と私は言った。私の部 「大切なお嬢さんをお預かりしているのだから、一私には責任 があるんです」と沢田 ( 妻 ) は静かに、真面目な口調で私た屋の窓の真下に立派なひさしが張り出しており、そのひさし には丈夫な庭木が枝を伸ばしているから、出入りはそう骨の ち寮生に言い渡した。 沢田 ( 妻 ) は本気だった。私は彼女の本気を見誤り、門限折れる仕事ではなかった。「ところでさ、この自動販売機っ て使う人いると思う ? 中のコンドームって、入れ替えされて 時の点呼を二、三度すつばかして、その都度罰則として沢田 んのかな ? 劣化しててもう使っても意味ないんじゃないの」 ( 妻 ) 監視のもとトイレ掃除をやらされた。 「足音」 「あんなの、書いてあるだけかと思った」しよばくれて私は 私はロを閉じた。トランジの頭ごしに、スマートフォンで トランジに愚痴った。 夜中の三時に、連続親指切断魔事件の犯人のあたりをつけ下から眠そうな顔を浮かび上がらせた女の人が、スニーカー の底をアスファルトに軽く擦り付けながら歩いていくのが見全 て、住宅街の電信柱の真後ろに設置してある、ポストみたい えた。私はポリエチレンの手袋をはめた手で金属バットを握 な形をしたばろばろのコンドーム自動販売機のさらにうしろ ジ ン の、家屋とマンションのあいだの細長くて狭い隙間に身を潜り直した。彼女の足音にびったり合わせて、別の足音が近づ いてくるのがわかったから。 めて張り込みをしている最中のことだ。コンドーム自動販売 でもそれは、言ったとおり本当にたまに、のことだった。 タ 機は黄緑色にばんやり光っていて、黒々とした隙間をますま 工 呼ばれて飛んできた私が青あざみたいに目の下にクマをつ す黒々とさせて、私たちの姿を完全に見えなくしていたはず くっていたり、昼間なのにマスカラも塗らずそれどころか眉 だ。ふたり並んで立つどころか、正面を向いて立っこともで きない狭い空間だった。横歩きをして私が奥に入り、トラン毛が半分しかなかったりするのを見て、トランジは私に知ら
通の姿が描かれているのは貴重なことだなせつなさをこのナンセンスな歌詞に付与しると、「オスらしい対抗心が自ずと頭をも と思って読みました。その一方で、亮太がている。そういうふうに言葉の意味を変えたげてもくる」。さらに、川田君がミーナ たのは巧みで、読んでよかったと思えるとに接近していると知ると、「脚がぶるぶる 何を考えているかはよくわからなかった。 ころでした。 けれど、サジャダに「帰国することにした 震えてきて、頭も張り子の虎のようにぐら んだ」と聞かされたとき、「あまり歓迎で奥泉海外へ行って異質なものと出会う留ぐら揺れはじめ」て貧血を起こす。ほとん きない状況らしいことが察せられた。何か学生モノの小説は過去にいくつかあって、ど中学生男子だけど、三十代なんですよ 言ってやりたいけど、その思いはたとえ日昔から書かれてきた主題です。そのなかに ( 笑 ) 9 一番笑ったのは、国別対抗の出し物 本語でも言い表せそうになかった。彼のこ置くと、ちょっと物足りないかなという印で、川田君の殺陣が見事だったチャンバラ とは、ほとんど自分のことのように思え象です。異質なものとしては、イラン人留ショーのところ。彼に一緒に出ないかと誘 た」という一節があって、ここでも亮太が学生が描かれるんだけれども、やや突っ込われて断ったのに、「いっそ斬られ役とし サジャダに対してどう思っているかは明言み不足というか、サジャダのイメージが今て彼の刀をこの身に受けたなら、男として と亮 されないんだけれども、近づくわけでも離一つ浮かび上がらぬままで、主人公の亮太気持ちよく蘇生できたかもしれない、 れるわけでもないふたりの距離が表されてがコーランの講義を受けるところは面白い太は思い、断ったことを少し後悔した」。 いるところが、とてもいいなと思いまし展開だと思うと同時に、なぜ彼がコーランそれで「勉強に専念しよう」と決意するわ に魅かれていくのかがいまひとっ分からなけだから、バカだよね ( 笑 ) 。ある意味か これは「マイソング」というアンソロジかった。単純に長さの問題というのもあるわいらしい小説で、そこはよかった。 ー企画の一篇です。の「アジアでしようけどね。短篇ですから。 大澤横山さんはこれが群像新人文学賞受 の純真」は、歌詞も曲調も非常にノーテ冫 一方で僕は、亮太という主人公の造形に賞第一作だそうですが、受賞作の『吾輩ハ キですが、この作品のあとに置かれると、可笑しさを感じて、そこが楽しかった。彼猫ニナル』と同じく、文体は読みやすいも 歌詞が哀切を帯びたものに感じられてきまはミーナに恋をし、彼女が蜂蜜が好きなののでした。主人公の基本的な感覚は、何か す。「彼のことは、ほとんど自分のことのを聞くと早速買ってきて、「蜂蜜って、うチャラチャラしているやつはムカつくとい ように思えた」という裏には、絶望的なわまいなあ ! 」と夢中になって食べる。そのうことで、それも共通しているところだと からなさみたいなものがあるわけで、その後、サジャダがミーナに気があるのを察す思います。ただ、今回は全体的にあまりに っ ) 0 338
さまは本物の読書家ですわ」 「そうでつしやろ」と男はひねた笑みを浮かべ、本の縁をつ そんなことはありませんよ、これもたまたま知っていただ まんでいる指を上下にこするように動かすのだった。「しか けですとわたしは首を振った。少し得意になっている自分を し我々のような世に紛れた本物の読書家にかかりますと、需 訃めながら。 要と供給を鑑みて、さもありなんという値段に変わりますん 「こんな古い絶版本を知っとるいうことはもちろん、たかだ ゃ。そして、こんなもんを人目につかんように肩身を狭くし か数十秒間に、このどぎついヒゲゃなしに文章に目を通し てちびちび繰り返し読み進めて、思うことといえば世の中の て、わずかな手がかりからタイトルを導きだすなんて、並の役にも立たん、愚にも付かん戯れ一一一一口ばかりですわ」 人間にはできない芸当でっせ。空谷の跫音を聞いたような思 男の演説を聴きながらわたしは、心中ひとしきり相づちを いですわ。実は、わしはここにあるタイトルも慎重に隠しな打っている自分に気がついた。 がら見せとったんですけども」 「わしは何とも言えずこの本が好きでしてなー。い つも鞄に 男が本の左上隅に置いた指を離すと、『黒い笑い』という 忍ばせてますんや。人に見せるもんでもあれへんし、こうし 文字が現れた。さらに男が奥付を開いて何か確認しようとすて大手書店のカバーで隠したったら、ごく普通の読書家に見 るのを察したわたしは、すでにいくらか心を許していたせい えますやろ。それでちょっかいをかけてくるような似非読書 だろうか、肩を寄せてのぞきこんだ。 家には一発かますことにしとるんやけども、今日はわしの目 「初版は一九六四年です」肩を寄せ返し、わたしにもそれを論見はことごとく空振りですわ。たいていの輩はまずこのヒ 確認させてうなずいた男は、大叔父上の方にも示した。「お ゲにショックを受けてもうて、書名はもちろん、下手したら とうさん、本には酸性紙と中性紙があって、今やと傷みにく 作家も知らん、泣き面に蜂でキャン言うて黙るんです。 い中性紙が使われるんやけれども、この時代はどれも酸性紙 Anderson なんて、そないに無名の作家ではあらしまへんの ですわ。経年劣化で目も当てられまへん。本は未来永劫残る やけど」そこで男は言葉を切って、わたしを一瞥すると、大 ゃなんて言うけども、何があるやらわからしまへんし、眉唾げさに首を振る姿を大叔父上に披露した。「ところがこのあ もんや。とにかくこれに、人の手垢どころか、どこの馬の骨 んさんですわ。おとうさん、さっきの会話、聞いてはりまし とも知らん男の糸引いて抜かれたような顎ヒゲがざっと千本たか ? こんなもんよく読めますねとおっしゃいながら、 ほどっいて、三千円。さあ、おとうさん。買いまっか」 こっそり文章に目を走らせて、タイトルを心に浮かべとるん 大叔父上はすぐさま首を弱く振った。 ですわ。いっそ白状すると、わしは今回はどうなるもんかと
品だが、ここではそうした側面は裁ち落とされている ) 、 「私語り」は、結局、この砂漠のなかでしか維持できな い関係なのであって、履歴、来歴を得々と語ったり、友要するにイメージだけにされた人間、すなわち「ホログラ フィー」としての自己と他者というのが、この小説の中心 人、先輩、恋人とのやりとりをだらだら書き記したり、 に据えられたアイデアである。主人公は最後に、自分以外 言葉や文学作品についての蘊蓄を傾けたりすることと の人間たちがすべて自動映写装置の「映像」でしかないこ は、まったくべつの次元のことがらなのである。そうし た些事に属する話題や一人称の変奏のむなしさをよくわとに気づき、機械を破壊する。だが「その瞬間、彼自身も 消えてしまうのである。なぜなら、島にやってきた彼もま きまえたうえで、「私」へのアプローチでも「私」から た、命のないホログラフィーたちのひとりだったから の離脱でもない孤独の場を措定すること。 ( 略 ) 「私」だ け、「ばく」だけ、「あたし」だけの物語をいくらたどっ 堀江は、島民たち、そして主人公自身も、モレルという てみたところで、すぐ隣に茫漠とひろがっている「他 者」の砂漠に目をやる勇気がなければ、真の「私語り」発狂した科学者の「発明」であるという意味で「出自はひ とっ」だと述べる。「顔かたちも年齢もまちまちなのに、 は生まれないだろう。 ( 同 ) 男は、自分の孤独のむこうに、「私というひとりの他者」 そして堀江は、この「砂漠」という魅力的な隠喩を「孤を任じる一体一体の像の孤独をも見出し、それゆえさらに 島」と言い換えてみせる。ジョルジュ・ペロスに代わって深い孤独に陥っていく」。 召喚されるのは『モレルの発明』のアドルフォ・ビオイ日 「複数の私」を動かそうとしている作者としての「私」 カサーレスである。周知のように、ポルへスの親友にして は、どこにいるのだろうか。 ( 略 ) しかし、「ものを書く 共作者でもあるビオイカサーレスの代表作である同作 人間」の一人称と限定したうえでの「私」たちが踏み留 は、実体を持たないひとびとによる同じ一連の出来事が まるべき境界線は、まさしくこの映写機破壊の一歩手前 延々と繰り返し映写され続けている島に行き着いた主人公 にあるのだ。ぎりぎりのところで手控えて、高さも厚み の悲劇を物語るものである。堀江の「レジュメ」はかなり も色もあるのに、重さと体温のない亡霊たちを、そうと 恣意的に纏められているが ( たとえば私にとってこの小説 知りつつ眺めようとっとめること。このままいっしょに は、ひとはなぜ「映画」の虜になるのか、というシネフィ 消え失せてしまいたいというとてつもなく魅力的な誘惑 丿ーの問題と、究極的には常に片恋である「恋愛」の本質 に屈せず、あきらめに満ちた気持ちで、落ち着いてその を痛切に抉った「映画恋愛小説」として極めて重要な作 271 新・私小説論
ばらって地べたに寝そべろうとしてたんだって : : : そんなこ 息せききって仕事に追われていた。 凉太とさし向いで食事をする間も、書きさしの原稿が頭の とされたら、近所の人に見つかったら、あなたの顔に障るつ て、市川が心配してるの」 中いつばいで、うわの空で返事をするものだから、凉太はい 「ごめんなさい : つの間にか話しかけなくなった。むつつりとテレビや新聞を : いつまでも心配かけるわね」 見ながら、手じゃくで酒を呑むようになっていた。そんな仏 「そんなこと、どうでもいいのよ。せつかくここへ来てうま くいってるようだったのに : 頂面を可哀想と思う余裕もなくなって、私は一刻も早く食事 を終り、蔵の二階へ閉じこもりたがっている。 「 : : : みんな私のせいだと思う。仕事に追われすぎて : : : 」 珍しく河野多惠子から電話がきた。 「少し、減らせないの ? 」 「もし、もし、あたし : ・・ : 」 「あなたも知ってるでしよ、書きはじめの時、批評家のおか ゆっくり喋る声をひどくなっかしく思いながら、この蔵の げで悪口いわれ五年干されたこと」 「 : : : そうだったわね : : : 」 中と、一度だけしか見せてもらっていない洋館の彼女の部屋 との距離の近さに吹きだしそうになった。 「あの時の後遺症が残っていて、仕事がなくなることから、 恐怖心がぬけないみたい : : : 」 「何がおかしいの ? 」 「わかった : : : おせつかい云ってごめんね」 「え ? 何も笑ってないわよ」 「笑ったわよ、息のしかたでわかる」 どういたしましてという私の言葉の終らないうち、電話は 「は、よ、は」 向うから切れた。 私は自分のここ三年ほどの仕事をつくづくふりかえってみ 「笑いごとじゃない。市川がね、心配してた。真夜中にね、 凉太さんに二度ほど逢ったんだって、一度は新宿の歩道橋た。 で。ひどく酔っぱらって、歩道橋に寝そべってたんだって。 週刊新潮に「女徳」「女優」を連載し、婦人画報に「かの 起そうとしたら、猛然と腕に噛みついてきたから、思わずふ子撩乱」を連載し、つづいて、新聞三社連合に「妻たち」の り払って足げにして見捨ててきたそうよ、話したでしよ、市連載。週刊読売に「煩悩夢幻」、婦人倶楽部に「花怨」、文藝 川は一見小柄だけれど柔道の段持ちよ」 春秋に「美は乱調にあり」、文藝に「鬼の栖」、週刊現代に 「ふうん、それで、もう一度は ? 」 「朝な朝な」の連載。婦人生活に「燃えながら」、中央公論に 「美女伝」、風景に「一つ屋根の下の文豪」、学芸通信に「彼 「おとといの深夜、ついそこの路地の入口で、やつばり酔っ 202
たり小説を書いたりといった行為は、フランス文学の研究や てくる。これはいったい何なのだろうと途惑ってしまいまⅧ , さんの、自分の生み出した子はもう離れて 翻訳とはほとんど関係がない。そもそも、改めて考えてみるす。先ほど小 いって、せいぜい遠くへ行って別の体験をしていらっしゃい と、日本語というのはかなり変わった一言語でしよう。書き言 葉にかなと漢字が混在していること一つをとっても、実に特というお話がありましたが、僕の印象もそれに似ています。 異な一一一一口語だと思う。しかし、それを母語として持って生まれ僕自身からいったん遠く離れていき、言語の境界を越えてさ て、生き続けてきたという偶然の巡り合わせで、 , このいつぶまよいだした自分の作品が、あらためて別の言語の相貌をま とって自分の手元に戻ってくる。実に不思議なことだなとい う変わった一一一一口語が、僕にとっては一種の自然となっている。 うのが実感です。 世界のどの言語もそれそれ特異だと言ってしまえばそれまで だけれど、このどこかきわめて不思議なところのある日本語 沼野松浦さんの文体は、日本語固有の可能性を極限まで が、僕にとって、何の不思議もない自然として存在している使っているところがあって、前のお二方もそれそれ独自の文 という、そのこと自体の不思議さですね。その日本語を使っ体をお持ちとはいえ、松浦さんの文章が一番訳しにくそうな て詩を書くとか、小説を書くとかを試みはじめる時点で、自気がするのですが、辛島さんどうですか、苦労はありません でしたか。 然からはやや逸脱した行為に足を踏み入れることになってく 辛島 。し。過酷な翻訳教室みたいでした ( 笑 ) 。刺激的な るのですが、ともあれ『巴』という長編小説を書き始めて、 書き続けて、書き終えてというプロセスの中に自分を住まわ性描写や、詩人ならではのひらがなが延々続く描写や、最後 にはアクションやチェイスシーンまであって、すべてやらな せていたある時間の持続の体験としては、いずれにしても完 くてはいけないという意味では、翻訳の筋肉を鍛えることが 全に日本語の、ーーー何でしよう、システムという一一一一口葉はあま できた素晴らしい機会でした。これは訳して七、八年ぐらい り使いたくないのですが、日本語による思考、日本語によっ て書くという文章行為の中に、とつぶりとひたりきって暮ら経ちます。記憶が薄れているところもありますが、先週、久 しぶりに読み返してとても刺激的に楽しく読めました。実は していた時期なんですね。そして、書き上がって、本にな もう。ハソコンのデータがなくなっていることに昨日気づき、 り、物質として外界に実在し始めてしまうと、これはもう自 。いったん自分とは縁の切れた存在でもプリントした第一校が残っていました。できあがった本 分の手から離れてしまう になってしまいます。ところが、辛島さんによる翻訳が完成と読み比べてみると、やはり書き出しはすごく大切で、第一 して、それが別の一一一一口語になってあらためて自分の手元に帰っ校は、ほばセンテンスの長さを保っているのですが、最終的
「いいや、わかってへん。あんたやわしみたいな素人が、駄で、脂汗を浮かせて倒れてしまいたいのを隠して座ってい こ 0 作を書いて打ち明けるのが恥ずかしいっちゅうようなもんと は次元がちゃいますのや。こんな大事なこと、おとうさんへ 「どうして川端康成の住所を知ってはったんです」 の感謝を忘れたらあきまへんわ」 「大学時代の伝手がありました。同人雑誌に参加して文壇と あきれるような男の物言いにわたしの顔は強張った。突通じている者もいましたからね」 然、ひどい。ふらっきかけた頭を支えたくて、うつむいて膝 「当時、手紙はどこに送られましたか」 に手をついた。 「最初は鎌倉で、京都を指定されることもありました。当 「まあまあ」となだめる声が聞こえた。「どうそお読みにな時、お知り合いの家に住んでおられましたから」 るがいいでしよう」 男は黙り込んで考えたどうやら事実関係に間違いはない 「すんまへんな」 らしい。あなたは、リ , 端康成がいつどこに住んでいたとかま 男がわざとゆっくりページをめくる音が聞こえた。老人で頭に入れているのですかとわたしは顔を上げ、精一杯の平 め、さっさと一一 = ロえばいし 、ものを。わたしはごちゃっいた文面静を装って訊いた。顔は青白い気がした。 をちょっと横目で盗み見るだけをした。男は改まる目的の咳 「そんなことは今どうでもええがな」と男の視線は大叔父上 払いを打って、しばし黙って読んだ。 から離れない。「覚えてまうと最初に証明しましたやろ」 「写し終えたのに、まだ原稿は送っとらんようですわ。短い とりつく島もない。わたしのしよばくれた目にふっと涙が 日記が続いて、狭山で起こった事件のことも書いてあります にじんだ。男はもう、自分には、これつばっちの興味もない けど、コレは狭山事件でつしやろ。狭山事件いうたら確かに のだ。誰もこちらを見ていないのをいいことに、わたしは沢 一九六三年や」男はそこで一一 = ロ葉を切ると、顔を上げることな 山のまばたきで波打つものと気分をごまかした。 、取り調べを始めるような調子で言った。「おとうさん、 「おとうさんの様子を見てると、不思議なんですわ。『片腕』 いくつか質問してもよろしいでつか」 が代作やったなんて、ただでさえ身辺ばっかり嗅ぎ回ってき わたしが伏し目がちに確認したところによれば、大叔父上た川端研究がひっくり返るよな一大事でっせ。せやけどおと は杖を取って開いた足の間につき、わずかに波打っている うさんは、それを自分からロに出す気はなさそうや。わしら 取っ手に両手を重ね置いて、それから準備が整ったとでも言 が無理に秘密を暴こうとするのを待っているような気がする うように男を見た。わたしは斜めに走る二人の視線の埒外んですわ。とても懺悔と呼べるもんやおまへんで」
コンテンツに無自覚的にのつかってばかりな文脈頼りの人間 ただ自己顕示欲の発露手段としてだけで、小説を書いている でいるからこそ、浩人を救えないのだ。 のではない。本当に古典作品が好きで、それでもなお、書き 自分が〃救世主″になるには、″純文学みの文脈にとらわ たいと思っている。小説の力を、信じているのだ。古典作品 れない、真に新しい小説を書きあげるしかない。 しかし、過とは違うことを、今に生きる自分が書いてみたいと、本気で 去に偉大なる先人たちが素晴らしい作品を残してきた創作分願っているのだ。 野で、どうすればそれができるのか。本棚に並ぶ膨大な数の それから数日間、理江は本棚に並べられている純文学文芸 古典作品の背表紙を眺めながら、理江は考える。ここに並ん誌を手当たり次第に引っ張りだした。日頃読まない文芸誌だ でいる本はほとんどすべて一〇年以内、つまりは小説家とし が、前衛的とされる作家たちにより書かれた前衛的作品を読 てのデビュー後に買ったものだ。無教養だった当時二〇歳の めば、文脈に頼らない小説の書き方がわかるのではないか。 娘も、形を取り繕い自主的に文学的価値観の矯正を行うう 読み始めて三日目の深夜、文芸誌に掲載されていた前衛的 ち、いっしか本当に古典作品が好きになっていった。ただし 作品を一五作品読み終えた理江は、ぐったりしながら浴槽に かし、これだけ読んできて、一〇年で本を三冊しか出してい 身を横たえた。″ 文脈に頼らない前衛的作品″の定義を文芸 ないとはどういうことなのかという疑問が、最近ものすごく 誌から学ばうとした結果、〃 純文学文芸誌に掲載されるよう 強くなってきていた。 な前衛的作品みという文脈へ逆にどっぷり浸かってしまっ 別の本棚に、ここ半年以内くらいに自分の記事が掲載され た。理江にも途中からその自覚はあったが、もっと読めば答 た雑誌や新聞が、ずらっと並んでいる。素晴らしい古典作品 えは見つかるかもしれないと、現実逃避を続けてしまったの が存在する中で自分が書く意味を考え続けてきた結果、小説だ。 を書いている日より書いていない日のほうが多くなってし 文学の進化とその役割は終わったと言われて久しいこの時 まっていた。いつばう、雑誌で紀行文や映画評やおすすめ料代に、文脈の力に頼らない真に新しい小説など、書きようが 理店紹介等の仕事をこなしたり、ラジオやテレビの・ 0 あるのか ? 風呂から上がって身体を拭きながらも、理江は 番組なんかに出演したりと、小説と関係のない、自分を前 ずっと考えていた。長風呂をしすぎたせいで身体は熱つば 面におしだす仕事を断ったことはほとんどなかった。 、発汗しないよう全裸で脱衣所の鏡の前に立つ。 ただの目立ちたがりなのか。その事実を受け入れつつある 完全変態してしまった半地下室の浩人には、妻の顔や、こ 理江はいつばうで、それだけではないと思いもする。自分は の世界がどう見えているのだろう。理江には想像できなかっ
男の言葉が側頭に刺さるようだった。・そうしようとわたし 男はまだわしらと言ってくれる。もはや冷静な判断ができ は思った。そうしよう。変な色気を出さず、今までそうして ないわたしは黙っていなかった。代作が行われたんなら、印 きたように、ここでも振る舞うのだ。そうするべきだったのだ。 税を渡すなり、何らかの契約があったはずでしよう。雑誌掲 「おっ」という声が遠くに聞こえた。「四月二日に『とうと 載だけでなく、『片腕』は表題にした単行本も出ているはず う送った』の記述があって、次がなかなか見物でっせ」 です。そのあたりで、何か自分からは言えない事情があるの ではないですか。 四月廿三日。川端先生より手紙来て、歓喜し手を震わせ 「もう川端が自殺して四十四年でっせ ? 」男はここそとばか 有難く何遍も何遍も読む。この傑作は是非とも活字にしな りに眉間にしわを寄せ、深いため息までつくのである。「著 ければなりませんという文面に恐悦し、また震える。筆を 作権もばちばち切れますわ。確かに、他の作品で代作騒ぎに 執るも容易ならず。眠りも然り。また読み返し震える。 なったもんかて、生前は単行本にも全集にも入ってませんけ ども、今さら隠し通す意味もあれへんがな。わしは、そんな 「かわええもんや。当時の川端言うたら問答無用の大作家や 実益のからんだしがらみのせいやないと思いまっせ。金が欲 し、無理もないですけどなー。茨城の田舎でくすぶっとる文 しいなら、むしろ公表した方が何倍もおいしいわ。間氷はん はおとうさんについて、何か根本的な勘違いをしてるようで学青年にしたら神様みたいなもんでつしやろ」 わたしは蚊帳の外で声だけを耳に入れながら、神様、志賀 すなー」 直哉と愚にもっかないことだけを思いながら、一向に去らな 言葉が進むうち、わたしの胸は執拗にねじを回すようにき い体の異変と闘っていた。 つく締めつけられた。その圧迫は一つの塊になり、上半身の 「このあたりで日がずいぶん空きますけども、手紙のやりと 血を真綿のように吸い取りながら、汚物のように体をせり上 りで手一杯ゅうとこでしようなー」 がってきた。喉の奥をこすり上げて吐き気を呼び、がらんど 「直したものをもう一度送るようにと頼まれたのです。川端家 うの頭を重たく揺るがす。全身の臟器が縮み上がるような衝 読 動がきて、わたしは前屈みに倒れそうになるのをなんとかこ先生が伊豆へ行かれる間でした」 らえた。 「なるほど」と男が感嘆の声を発した。「吉永小百合の『伊物 豆の踊子』の撮影を見学したんがこの時でつか。人に書かせ 「こんなこと言いたないんやけど、黙っといてもらえまへん か ? 」 て暢気なもんや。なんでも、吉永小百合のそばから離れんで