「会社戻らなくて大丈夫なの ? 」 「まだ大丈夫です。研究所から口止めばかりされているんで 元がとれるかはわかりませんが、ここで色々と自分の使命に 目覚めたというか : : : 変えられる気がするんです、今まで自 分が向きあってきたものを。必要とあらば、なんだってやっ てやるんですよ僕は。ええそうです、やってやりますよ 途中から、須賀の言葉は独り言に近くなり、目も虚ろに なりやすい人の特徴【内輪にしか通じないコミュニケー ションをとりがち。他者が作り出した流れや考えにのつかっ たり盗んだりしがちで、かっそのことに対する自覚やためら . い、か薄。い 〈意識的文脈支配者 ( ″救世主し〉 概要【変質暴動者に噛まれても変質暴動者にならず、変質 暴動者を噛むと二五 5 三〇 % の確率で人間へ戻せる人 なりやすい人の特徴】内輪以外にも通じるコミュニケー ションを重要視する。他者が作り出した流れや考えに頼らな い思考や行動がとれる。また、他者が作り出した流れや考え にのつかったり引用する場合もそのことに自覚的であり、自 分なりにそうするための意義を見つけ、引用する対象や文脈 目を覚ました理江が手に取った新聞朝刊の一面に、その新を意識的に再構築することができる。 情報は大きくとりあげられていた。機密保持のためすべては ″救世主みの正体は、大勢が作り出す文脈に甘んじてこな 明かせないものの、政府系研究機関による確固たる研究結果 ザ かった人々だった。 が政府判断で公示されたと記事には記されている。表に、わ 書斎へ戻り、昨日書いた創作ノートを読み返すうち、なに かりやすくまとめられていた。 オ かか弓つかかった理江は入念に読み直した。一つの単語へ目 がいった。「ゾンビ」という単語を当たり前のように用いてス 「変質暴動者化 / ″救世主″化分ける鍵」 ク いることに、違和感があった。実質的にはアメリカの映画監 テ ン 督が広めたに等しい単語を、まがりなりにも同じ作り手たる コ 〈無意識的文脈受動者 ( ″ゾンビし〉 自分があたりまえのように使ってしまっていた。そういう無 概要【変質暴動者に噛まれやすい人 & 噛まれてもいないの 自覚的なところが駄目なのではないか。他人が作った言葉や に生きた状態から変質暴動者になってしまう人 よっこ。
私の精神は繊細で、すぐに飛び上がる。考えに耽っていると 補注 き、ほんの微かな蠅の羽音にもかき乱される」 ( Ⅲの十三 ) 。 引用に用いるテクストは、ピエール・ヴィレーによる校定本 Les しかし蠅はともかくとして、書斎にはだれも近寄る気遣いは Essais ミミ 40 ミミミ e (Presses Universitaires de France, ない。そこは彼の精神が君臨する聖域であって、むやみに人 Paris, 1978 ) を使用する。訳文のなかに挿入された符号同 原文の執筆時期を示すためにヴィレーが本文中に施したもので、それぞ が近づかないようにだれもが言い渡されているからである。 れ以下のことをさす。同は一五八〇年に刊行された二巻本の「エセー』 彼はいったんは机に向かって坐っても、すぐに書斎のなか のテクストを、⑤はこのテクストへの加筆部分と一五八八年に刊行され を歩きはじめる。散歩が好きなルソーもそうだったが、モン た三巻本の「エセー」の第三巻のテクストを、回は一五八八年版の「エセ テーニュは、肉体の運動が精神の活動に欠かせない人間なの ー』の余白に著者が死ぬまで書き込んだ修正と加筆部分をさす。長い引 である。彼の時代は馬や馬車が移動の手段だったが、彼はど 用文には巻数と章を、第三巻第三章であればⅢの三のように略記する。 こへ行くにも馬で行くのが好きで、何時間馬に揺られても疲 れを知らなかった。馬で遠乗りをしていると、広々とした野わっている。といっても、人はいつまでもひとりで夢想に 原や森や街道を行くうちに、馬の歩みに刺激されて、頭が動耽ってばかりいられるものではない。彼は本棚からなにか一 きはじめる。「⑤私の夢想は馬上で一番のびのびとかけめぐ 冊、お気に入りの本を抜き取ると、椅子に坐って読みはじめ る。 る」 ( Ⅲの五 ) と、乗馬好きの彼はいったものだ。 またこれは前にも引用したことがあるが、書斎での仕事に 彼の本との付き合いは、ポルドーのコレージュに在学して ついて、彼はこんなことをいっていた。「@私の考えは、坐 いた七、八歳の頃にまで遡る。父の言いつけで幼くしてラテ ン語を母語のように身につけた少年の彼がオウイデイウスの らせておいたのでは眠ってしまう。私の精神は、脚がそれを 揺り動かさなければ進まない。本なしで勉強するものはだれ 『変身譚』などを耽読したことはすでに述べたが、幼いとき に知った本の愉しさは終生消えることがなく、本との付き合 もこうしたものである」 ( Ⅲの三 ) 。たしかに机に向かったま までいて考えが行き詰まったとき、体を動かしたり、散歩に いは一生続くことになった。 出たりすると、堰き止められていた思考が流れ出して、頭が 「三つの交際について」 ( Ⅲの三 ) という題のエセーがある。 ふたたび動き出す。わたしたちもよく経験することである。 三つというのは付き合うに値する紳士との交際、美しい貞淑 こうしてモンテーニュは「本なしで」、室内を歩きまわり な女性との交際、そして本との交際の三つである。彼によれ ながら夢想を愉しみ、ひとりでいることの至福を静かに味ば、本との交際にはどんな取り柄があるかというと、最初の 294
論に示されているとおり目を瞠るばかりであるが、またそれそのときプルーストは読者あるいは翻訳者から創造者へ転身 ほどの批評眼をそなえた人間だったから、わたしたちの精神しようとしてもがき苦しんでいた。このいわば反読書論とで 生活、ひいては創造的な仕事にとって読書の役割の限界をだ ししたい考えはそうした時期に書かれていた。自分の精神 れよりも深く認識していた。いまわたしはモンテーニュを引生活を形成するのは古今の名著ではなく自分であり、自分の 用しながら、それを語ったプルーストの一節を思い出したの 思索しかない。そう覚悟を決めたプルーストが未来の作家と である。そこにはモンテーニュが読書の役割と限界について してこの一節にこめた思いにはいいようもなく重いものがあ 考えていたことに通じるものがあるので、それをここに抄訳る。彼はそれ以降、作品が生まれ出るはずの自らの精神生活 して引いてみよう。 の深みへ精神の努力だけを頼りに下ってゆくだろう。 「私たちの叡知は著者のそれが終わるところから始まる。こ 二人はたしかにすぐれた読書家だった。しかし同時に、書 れは私たちが非常にはっきりと感じていることである。とこ こうと意欲する創作者としての意識は、読書家としてのそれ ろが私たちは、著者にできることは私たちに欲望を与えるこ をはるかにうわまわるものがあった。それゆえあれほど愛し とだけであるのに、著者に答えを与えてほしいと望んでい た読書を、彼らはそれそれの作品のために精神の活動の場か る。 : 私たちはだれからも真実を受け取ることはできな ら遠ざけたのである。 。真実は私たち自身が創造しなければならないのだ。・ 読書は精神生活の入り口にある。読書は私たちをそこへ導く ことがあるかもしれない。だが精神生活を形作りはしないの だ」 ( 「読書の日々」 ) こうしてモンテーニュは、読書について迷いのない判断を たしかにわたしたちは、読もうとしている本に「答え」が下すと、注意深く自分の内面を見つめ、自分との対話を反復 あることを期待して読むものである。しかし、そこに答えはすることによって『エセー』を書きつづけた。 斎 ない。求める答え、求める真実は自分のなかにしかない。プ ところが、その過程で、彼の意識に注目すべきことが起きの ュ ルーストはそう教えているのである。 た。書くという行為をくりかえすうちに、その反復は、やが ここに引いた一節はプルーストが彼のラスキンの翻訳の序て彼に数世紀を飛び越させて、書く営みについてほとんど近 文として書いたものである。ということは、例の大作『失わ代的といっていい意識をもたらすことになったのである。 れた時を求めて』に取りかかる数年前のことであって、彼は 最晩年のある日、この自己凝視を長年にわたって重ねた末 翻訳の時期を閉じて、いよいよ創作へ向かおうとしていた。 に、彼は自分のしてきた仕事の方法についてこう記してい 303 モンテー
メリオリズム 社会の改良論となる、そのためには宗教と科学を対立させ ものとしてある、それゆえ人間という生命体は実践的に自 己と社会を変革していくことが可能である、と説くアメリ るのではなく、「科学の宗教」 (Religion of Science) を打 「科学の宗 ち立てなければならない、と説いていた 力の新たな哲学、プラグマティズムの諸理念が生まれてく ることになった ( ただしプラグマティズム成立に関して教」は、オープン・コート社が展開していく叢書のタイト ルにもなった。ただし、ケーラスの改良主義のもつあまり は、当然のことながら、他の複数の要因もまた考えにいれ なければならない ) 。 にも楽天的な展望 ( 人間が環境を実用的に変化させること 『モニスト』は、チャールズ・サンダース・ ースに一貫で豊かな未来が築き上げられる ) 、さらには哲学から生物 してその誌面を提供し、いち早くウィリアム・ジェイムズ学までを一様にカバーしてしまうあまりに安易な折衷主義 の特集を組んだ。アメリカに生まれた新たな哲学プラグマ が、ケーラスを、現代では忘れられた思想家にしてしまっ ティズムのはじまりに、パ ースとジェイムズを位置づける た。ケーラスを頼りに、希望に満ちて新大陸アメリカに ことに誰も異存はないはすだ。『モニスト』に集約された渡った大拙の幻滅も早かった ( 西田幾多郎に宛てた書簡に 一元論は、疑いもなくプラグマティズムの一つの源泉と はケーラスに対する不満と失望が赤裸々に記されている ) しかし実際には、すぐ後に検討するように、ケーラス なっている。プラグマティズムは意識を変革させるための 哲学であり、同時に社会を変革させるための哲学でもあっ と大拙という両者の影響関係はより複雑で微妙なものを孕 た。ジェイムズはその基盤として、主体と客体 ( 主観と客んでいる。 観 ) 、意識と宇宙が、一づに重なり合う「純粋経験」を見 感覚の一元論にして生命の一元論を土台として、存在の 出した。「純粋経験ーは、ある種の宗教者が体験する「神一元論にして意識の一元論を打ち立てる。それが同時に社 秘」としてはじめて可能になるーーーしかしその「神秘」 ' 会変革の理論ともなる。ケーラスの一元論のもっ性格をい 主観的に溺れるのではなく、新しい科学の基盤として客観ち早く見抜き、それに対して同時代的かっ根底的な批判を 的に分析しなければならない、・ シェイムズはそうつけ加え加えたのは、ヨーロッパとアジアの境界に位置する北の大 ることも忘れなかった。鈴木大拙と西田幾多郎に共有され国で、やはり精神と物質の二元論に抗い、物質の一元論 る「純粋経験」は、そこからはじまっている。 ( 唯物論 ) にして社会の一元論 ( 革命論 ) を説いたレーニ モニズム ケーラスもまた、自らが推し進めていく一元論は同時に ンであった。レーニンは、社会の変革は世界認識の変革と 151 大拙
のであることを考えると、やはり自分の同類であるのかもし しい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれな れない。わたしはそう思いながら男の話を真面目に聞いてい いから、勢い、『孤低』にならざるを得ないのだ。と言って っ ) 0 も、それも嘘で、私は私なりに『徒党』の苦しさが予感せら 「我々のような孤低の人間が偶然集まってこそ、一回こっき れ、むしろ『孤低』を選んだほうが、それだって決して結構 なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気りの親友交歓がおこなわれるのかもしれませんなー。太宰は 『徒党について』のあと、『如是我聞』をものしますけども、 楽だと思われるから、敢えて親友交歓を行わないだけのこと 志賀だけやなく川端のことも批判して、阿諛追従の俗物作家 なのである」 で論外やとまで言うてます。おとうさん、このあたりはどう 打って変わって狂い無い標準語で暗唱されたこの文をわた しは読んだ覚えがあった。ほとんど誰も知ることのない雑誌お考えでつか」 全ての道を川端康成に通じさせるのは、何も大叔父上だけ 掲載の文章であるけれど、確かめるように耳を傾けていたあ ではない。 この男だって頭を使って難なくやってのける。わ たり、わたしは男の信じがたい能力をすでにやすやすと受け 容れているのだ。気付けば、電車はすでに神立駅を発ってずたしは大叔父上に注目した。 「仕事の関係でレンコン農家の娘を知ったのです」何の前触 いぶん速度を上げ、子供の声も止んでいる。 「わしが巷でこんなことを始めますと、見た目とロぶりも相れもなく大叔父上が言った。「その人は昭和三十六年の台風 まって、意地の悪いひけらかしにしか見えんのですわ。波風で、崩れた家の梁の下敷きになりました」 喋り終えたばかりの男はさすがに虚をつかれたか、息をの 立てんようにと思たら、孤低で過ごす以外に手段はあれへ んだ。 くだらんことならその ん。知っとることでも知らんように、 ・「幸い命は助かりましたが、代わりに腕を失くしたのです」 逆も然り。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。と かく住みにくい人の世に関わらんようじっと底に沈んどるの が孤低のたしなみでつしやろ。わしの見立てでは、どうあれ 御二方もそのロや」 男が普段、この弁舌を抑えて慎ましく暮らしているなど想 像もっかないが、こうして話していることが自分が平生考え ていることに驚くほど近いこと、むしろそれを明確にしたも 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るも のはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということ
た。所詮自分は、今を生きる日本人たちの間で共有される価 値観や文脈の範囲内でしか、ものごとを認識することができ ない。浩人たちの側、青き変態者たちがなにをどう認識し、 どういう文脈に従っているのかは、まるでわからなかった。 黒いセダンの助手席に座る晶は、無人都市の街並みに目を 奪われていた。札幌市に入ったようだ。軽トラックに残って 鏡には、朱色に染まった全裸体が映っている。典打が良い いたガソリンをセダンへ詰め替え、トランクに食料や荷物も 状態でいるせいもあってか三〇歳にしてはとてもみずみずし く、どこを食べても美味しそうな肉体だと理江は自分のことすべて積み、午後二時頃に水我流武の家を出発した。走り始 めて二時間が経過している。交通量は皆無だが道路上に停 ながら思った。 まっている車が多く、一速度は出しにくい。 ふと理江の頭に、とんでもない考えが浮かんだ。 ハスタオルで身体を拭きながら、悪い冗談だとしてそれを 車の進む先、道路の真ん中にひとまとまりの人影が見え 忘れようとする。しかしなにかもっと建設的な他のことを考た。車が近づくと全員が歩道へ寄り、何人かが手を挙げた。 えようと意識するたび、悪い冗談のような考えは、理江の中十数人いた全員、一〇代から四〇代ほどの人間だった。いず れにせよヒッチハイクも無理な人数で、通り過ぎる。 で強固さを増した。 イチかバチか、やってみるしかないのだろうか。 「スタジアムを目指していましたね、おそらく : : : どこかで 今までの小説家にとって末知の思考方法を体得するには、 情報でも仕入れたんでしようか」 「波動は本州へ向け放射されているけど、敏感な人間は発信デ 彼らの側へ、行ってみるしかないのではないか。そしてその ための鍵を、半地下室にいる浩人はもっている。 源の波動を感じとる。さっきの集団の中にもきっと一人二ザ 部屋着に着替えすぐべッドにもぐりこんだ理江だったが、 人、感じとった人がいたんだろう」 オ なかなか寝つけそうになかった。夜の静けさに意識をもって 首都東京を守るため、本州にいるゾンビや内輪志向の強い いかれそうになるたびに、正体不明のなにかが理江の意識を人々を「北の島へおびき寄せ閉じこめる遮断・隔離プログラ ス ク ム。その鍵となる装置が、道内にいる敏感な人々をも発信地 覚醒中の世界へと引き戻すのだ。それが何度も続くうち、自 テ ン へ導いている。 分はもうこれから眠ることも醒めることもできないのではな コ 日本文脈研究所の上級技術士だったシゲモリは三年前に東 いかと、理江は漂う意識の中でかすかに思った。 京の支部から札幌本部への異動を命じられ、当時一〇歳だっ
ネスは英語中心に動いていて、圧倒的に強い言語ですが、そ タベースを見たら、このウクライナ語訳は拾われていません の一方で非常にローカル、マイナーなところでいろいろな言 ね ( 笑 ) 。別にデータベースの不備を批判したいのでは決し てありません。こういうデータを世界の隅々までカバーする 語の営みがある。辛島さん、スナイダーさんは、ここでは一 ように集めるのは、、かに難しいかということなんです。そ番強い英語圏の代表者になるわけですが、そういういわば 「強者」の英語を使う立場から、いまの世界の言語と翻訳を れにしてもウクライナのような、多くの日本人の意識からは めぐる状況について、どうお考えでしよう。例えば文芸フェ とても遠い地域でも、松浦作品に興味を持って訳す人が出て くるのは、すごいことだなと。 スティバルをやっていると、英語を共通言語にしないと国際 的なイベントとしては成り立ちませんよね。私は反英語主義 松浦不思議なことですよね。狐につままれたような、とい う最初の感想に戻りますが : : : 。人と人との出会いという話者ではありませんが、国際交流をしようとするとやつばりこ が前のセッションでありましたが、 そのウクライナの方から ういう現実があることは認めざるを得ない。 突然連絡があって、ウクライナ語に翻訳したい、と。ウクラ辛島そうですね、小説、詩に限定すれば読み手はさらに減 るかもしれない。文学作品の場合は数千人の世界なので、あ イナは、沼野さんは専門領域だからよくご存知の土地だと思 いますが、僕にとってはなんの馴染みも親しみもない、地球まり国単位とか言語圏単位で考えなくていいのかなと、最近 上のとある任意の場所でしかなかった。そこから突然、僕の考えが変わってきました。もちろん英語を p 一 vo ( language と 日本語の小説を読んで、興味を持ってくださる方が出現し して他一一一一口語の翻訳が世界中に出回る、あるいはブックフェア た。不思議な出会いが人生には起こるのだなという驚きと感という存在もいまだに大きいし、英語にいったんなると他の 一言語になりやすいというのはあると思いますが、長期的に考 動がありました。 えると、訳者と編集者、その先にいる読み手というコミュニ ・翻訳の未来 ティが重要になってくる気がしますね。そういう関係の中家 で、作品に惚れこんだ翻訳者が訳して、次を作っていくのが 沼野口シアだけじゃなく、そのほかのスラブ語圏でもへ日 本文学への関心は高いんです。これらの国々には、まだ本を 必ずしも英語、ブックフェア経由ではなく、もうすでに始家 まっていると思いますが、アジアはアジアで個々のつながり 読むという文化も根強く残っています。さて、ここで辛島さ ができて、広まっていくほうが理想的だと思います。英語圏 んに、今の話題を受けて伺いたいのですが、世界の出版ビジ
社会を考えれば思い切った発言である。というのも、当時の て、わたしはその最大の存在はヴァレリーだったと思ってい 貴族たるもの、城主たるものにとって、書くという仕事は決る。彼が第一次世界大戦後のフランス、ひいてはヨーロッパ して誇れるような性質のものではなかったからである。彼に の社会に精神的指導者としてどれだけ大きな役割を果たした は城主をはじめとしていくつかのりつばな肩書があったが、 かは、彼が死んだとき、フランス国民が国葬をもってその死 しかしその重みもこの愉しみには勝てなかった。彼はその愉を悼み、その栄誉を称えたことに表われている。 しみのためにあえて書くことを選んだ人間だったのである。 文人の仕事とは思索することである。そしてヴァレリーが しかも彼が書くものは、エセーというまだ社会的に存在を文人として実際に行った仕事というのは文章を書くことだっ 認知されていないジャンルの作品である 9 したがって彼は、 た。たしかに彼はヨーロッパ各地に招かれて、たびたび講演 詩人でも、哲学者でも、劇作家でも、小説家でもなく、なん を行った。だがそれはよくあるような即興の演説ではなかっ の専門分野も持たない書き手である。要するに、アウエル た。彼の講演は、あらかじめ思索して推敲に推敲を重ねた文 ッハが「文筆家モンテーニュ」のなかで指摘した文人、文、章を聴衆の前で朗読すること、要するに思索の跡を示すこと 章家という新しい仕事をもった人間が、この一節のなかに、 だった。彼には思索とは書くことであり、書くことでなけれ 誕生したのである。むろんモンテーニュに文人の意識などあ ばならなかったのだ。なぜなら厳密な思索を保証するものは ろうはずもなかったが、彼が行ったことは紛れもない文人の書くことのほかこよよ、、 し。オしカらである。モンテーニュはこう 仕事だったのである。 いっていた。「それ〔想像力〕が風のまにまに迷い出して、さ 「この職をもたない独立独歩の男〔モンテーニュを指す〕は、 まようことがないようにするには、頭に浮かぶあれほど多く したがって新しい職業と新しい社会範疇をつくりあげたの の微細な考えに形を与えて記録に取るほかに方法はないの オム・ド・レットル ェクリヴァン だった。『文人』あるいは『文章家』、つまり文筆家とし だ」。彼には思索することがどういうことかがわかっていた ての素人である。この職業がまずはフランスで、その後は他のである。 の文化諸国でも 、いかなる栄達を得たかは周知のとおりであ 晩年になるにつれて、モンテーニュは思索という行為につ る。つまりこの素人たちは、真に精神的な人、精神生活の代 いていっそう考えを深めてゆく。なかでも次の最晩年の加筆 : モンテーニュから 表者にして指導者になったのであり、 は、それを「もっとも偉大な精神」のなすべき仕事と見なし ヴォルテールにいたるまで、この事情はとどまることなく上ていて、彼の究極の思想を伝えるものと見ていいだろう。 昇しつづけ」た ( 『世界文学の文献学』 ) 「◎思索は、たくましく自分を探究し、行使する力のあるも この文人の系譜は二十世紀になっても依然として続いてい のにとっては充実した力強い勉強である。私は自分の精神に
いものなどいるはずはない。だから才能とはあれこれの能力 のことではなく、その困難にどこまで堪えられるかという忍 「◎自然はわれわれが独り離れて自分と話し合うことができ る豊かな能力を恵んでくれた。そして、たびたびわれわれを耐のことである。モンテーニュはほば二十年間それに堪え そこへ誘って、われわれがいまあるのは部分的には社会のお た。しかしそれはいま、ここで問題にしたいことではない。 わたしがもっとも興味を感じたのは、モンテーニュがその困 かげであるが、大部分は自分のおかげであることを教えてい る。私は、自分の想像力が多少とも秩序正しく、計画に従っ難の実態に、ということは、そのとき自分の内面で起きてい ることに、彼らしい好奇の目を注いだことである。 て夢想するように仕込んでやって、それが風のまにまに迷い 彼は、自分の思想であり、自分の本質であるはずのものを 出して、さまようことがないようにするには、頭に浮かぶあ れほど多くの微細な考えに形を与えて記録に取るほかに方法表現しようと試みる。しかし、自分の精神のなかにありなが ら、「まるで夢のなかにいるように」、それを「掴むことも活 はないのだ。私は私の夢想を記録に取らなければならないか かすこともできない」。たとえ掴んだとしても、読み返すた ら、自分の夢想にじっと耳を傾ける」 ( Ⅱの十八 ) びに、その出来栄えに「悔しい思い」をしなければならな この一節は、わたしたちを、彼の夢想が聴取され、記録さ 、。彼はその無念の思いに動かされて、書くという営みのむ れる精神の現場に立ち会わせてくれる。彼は書斎のなかを歩 きながら、浮かんで来る「夢想にじっと耳を傾け」、自分をずかしさをますます強く意識せずにはいられなくなった。 それを描いたのが、次の一節である。 知るための自己との対話に没頭する。 「◎われわれの精神の歩みのような、こんな放浪する歩みの それを重ねるにつれて、彼のいう「夢想」に、すなわち 「あれほど多くの微細な考え」にことばを与えることが生易あとを追いかけて、その内部の襞の不透明な深みに分け入っ て、たち騒ぐ精神のあれほど多くの微細な姿かたちを選び出 しい仕事でないことを実感するようになる。「私の作品と し、定着させることは、思っている以上に手の付けようもな 来たら、私に微笑みかけるどころではない。手に取って見直 いほど困難な企てである。またそれはいままで経験したこと すたびに、悔しい思いをする。 ・ : 私はつねに精神のなか のない異常な愉しみであって、その愉しみはわれわれから世 に、ある観念◎と、あるばんやりした映像@を持っている。 の通常の仕事を、それどころか、もっとも敬意を払われてい それは◎まるで夢のなかにいるように、実際に使ってみた る仕事さえも取り上げてしまうのだ」 ( Ⅱの六 ) ものよりすぐれた形をしている。しかし私はそれを掴むこと 驚くべき一節である。わたしはこういう文章をモンテー も活かすこともできないのだ」 ( Ⅱの十七 ) ニュのなかに読もうとは思ってもみなかった。これは、一 = ロ語 どんなに才能豊かな書き手でも、書くことの困難を知らな っ ) 0 304
品だが、ここではそうした側面は裁ち落とされている ) 、 「私語り」は、結局、この砂漠のなかでしか維持できな い関係なのであって、履歴、来歴を得々と語ったり、友要するにイメージだけにされた人間、すなわち「ホログラ フィー」としての自己と他者というのが、この小説の中心 人、先輩、恋人とのやりとりをだらだら書き記したり、 に据えられたアイデアである。主人公は最後に、自分以外 言葉や文学作品についての蘊蓄を傾けたりすることと の人間たちがすべて自動映写装置の「映像」でしかないこ は、まったくべつの次元のことがらなのである。そうし た些事に属する話題や一人称の変奏のむなしさをよくわとに気づき、機械を破壊する。だが「その瞬間、彼自身も 消えてしまうのである。なぜなら、島にやってきた彼もま きまえたうえで、「私」へのアプローチでも「私」から た、命のないホログラフィーたちのひとりだったから の離脱でもない孤独の場を措定すること。 ( 略 ) 「私」だ け、「ばく」だけ、「あたし」だけの物語をいくらたどっ 堀江は、島民たち、そして主人公自身も、モレルという てみたところで、すぐ隣に茫漠とひろがっている「他 者」の砂漠に目をやる勇気がなければ、真の「私語り」発狂した科学者の「発明」であるという意味で「出自はひ とっ」だと述べる。「顔かたちも年齢もまちまちなのに、 は生まれないだろう。 ( 同 ) 男は、自分の孤独のむこうに、「私というひとりの他者」 そして堀江は、この「砂漠」という魅力的な隠喩を「孤を任じる一体一体の像の孤独をも見出し、それゆえさらに 島」と言い換えてみせる。ジョルジュ・ペロスに代わって深い孤独に陥っていく」。 召喚されるのは『モレルの発明』のアドルフォ・ビオイ日 「複数の私」を動かそうとしている作者としての「私」 カサーレスである。周知のように、ポルへスの親友にして は、どこにいるのだろうか。 ( 略 ) しかし、「ものを書く 共作者でもあるビオイカサーレスの代表作である同作 人間」の一人称と限定したうえでの「私」たちが踏み留 は、実体を持たないひとびとによる同じ一連の出来事が まるべき境界線は、まさしくこの映写機破壊の一歩手前 延々と繰り返し映写され続けている島に行き着いた主人公 にあるのだ。ぎりぎりのところで手控えて、高さも厚み の悲劇を物語るものである。堀江の「レジュメ」はかなり も色もあるのに、重さと体温のない亡霊たちを、そうと 恣意的に纏められているが ( たとえば私にとってこの小説 知りつつ眺めようとっとめること。このままいっしょに は、ひとはなぜ「映画」の虜になるのか、というシネフィ 消え失せてしまいたいというとてつもなく魅力的な誘惑 丿ーの問題と、究極的には常に片恋である「恋愛」の本質 に屈せず、あきらめに満ちた気持ちで、落ち着いてその を痛切に抉った「映画恋愛小説」として極めて重要な作 271 新・私小説論