世界のなかで実在的な「目的結合」を想定して、「意図的 身によって、無条件的で、自然的事物から独立したもの に作用する原因」を想定するばあいには、そこで同時に問 として表象されており、それ自体としては、しかし必然 題となる「生産的な知性」を規定する客観的根拠が問われ 的なものとして表象されているような存在者、というこ なければならない。その根拠こそが究極的目的なのであ とだ。こういった種類の存在者こそが人間であり、しか る。 すでに確認してきた消であるように、自然は究 もヌーメノンとして見られたかぎりでの人間である。こ 極的目的を与えることができない。自然が与えるものは条 れは自然的存在者のうちで唯一、それにかんして私たち 件づけの系列であるのに対して、究極的目的は「無条件的 が、それでも超感性的能力 ( 自由 ) と、さらにそのうえ unbedingt 」なものであるからだ ( ト 434f. ) 。 〔自由の〕原因性の法則を、この原因性の客体ーー・・・この客 有機的存在者であるなら、その部分どうしはたがいに手 体を当の存在者は、最高目的としてみずからのまえに据 段となり、目的ともなる。当の存在者はそのいみで自然目 えおくことができる ( それがすなわち、世界における最高善 しほかならない ) ーーーとともに、 的であった。有機的存在者の存在は、自然全体を目的論的 くだんの存在者が有す な体系として思考することを可能とする。けれども有機的 る固有な性状の側から認識することができるものなので ある。 ( ) 存在者は、まさにそのことをつうじて「外部的な条件」 ( 435 ) に依存している。外部性の連鎖に依存するものは、 目的そのものではありえない。究極的目的を与えるものと かりに世界がたんなる物質と、生命があるとはいえ「理 はそれ自体が目的であるもの、自己目的となるものである性を欠いた存在者」とからなりたっていたとしよう。その 必要がある。 ような世界はおよそどのような価値も欠落させているはず である。そうした世界には「価値にかんしてほんのすこし ところで私たちはこの世界のなかで、その存在者の原でも理解しているような存在者」が存在していないからで 因性が目的論的なものである、独自な種類の存在者をた ある。それだけではない。人間以外の被造物はそれ自体と だひとつだけ手にしている。つまりその原因性が目的へ して目的となることができず、自然はなんら価値を分泌も と向けられていて、しかも同時にその原因性がそなえて ないからだ (vgl.449)0 いる性状がつぎのようなものである存在者がそれであ 人間が存在していないか芋り、世界は「たんなる荒野 る。すなわち、それらの存在者がみずからに目的を規定 bloße Wüste 」 ( 442 ) にすぎない。人間に対してだけ自然 しなければならないさいしたがう法則が、その存在者自 はみずからを美しくよそおう。第 2 回・第一項で確認して
が理想の練習だった。基礎体力をつけるために公道を走るの市民ランナーたちが日替わりで伴走者となり、早朝の練習に つきあってはいるが、彼らはプロではない。それぞれの伴走 は危険が多すぎる。だが盲人である内田が通えるプールはな かった。どの施設も事故があったときの責任を恐れる。スポ者にも生活があり、毎日何時間も走る内田の練習につきあい ーツジムも同様だった。障害者用のリハビリセンターのみが続けることは難しかった。伴走者の不足は盲人ランナーにつ きまとう大きな問題なのだ。 内田を受け入れる練習場所だ。だが内田は気にもしなかっ 「どうすればいいんだろう」淡島の嘆きに内田はふてぶてし た。金で買える物は金で買う。内田は自宅を改造し、ジムと プールをつくった。 い笑みを浮かべて答えた。 「そんなものは金で片づければいい」周りが鼻白むほど嫌味 「金でメダルは買えねえが、近づくことはできるからな」 淡島の作ったメニュー通りに体を作ろうとすれば日に一〇な口調で内田は言う。確かにスター選手としてヨーロツ。ハの キ , ロのロード走を五本はこなさねばならない。盲人である内 クラブチームと契約していたのだ。金があることは間違いな 田にとっては負担が大きいものであった。伴走者がいなけれ ば公道を走ることはできないのだ。 「金で買えるものは金で買う」内田は嘯いた。それは内田ら しい照れ隠しなのだと淡島は考えているが、ときおり本当に 内田に限らず、どの選手も地元で伴走してくれる人を探し ている。学生や市民ランナーの中にそうした練習を買って出嫌味な人間ではないかと思うこともあった。 「練習用に専属の伴走者を雇うってことですか」 てくれる者がいないわけでは無いが、内田レベルになると伴 「さすがにそれは無理だった」 走者にも世界レベルの実力が必要になる。そこまでの力を持 それはそうだろう。伴走者という職業が存在するわけでは っ伴走者が見つからない場合、短い距離を繰り返し走るイン ないのだ。もしも内田が走るのをやめてしまえば次の仕事は ターバルランにするか、伴走者が交代しながらのロードトレ ーニングをするしかない。 ない。それなりの報酬をもらっている淡島でさえ、伴走者だ けを仕事にする覚悟は持てなかった。 東京で暮らしている淡島と普段は九州にいる内田とでは、 生活圏があまりにも離れている。公式大会の直前には、淡島 「実は伴走者なしでスピードトレーニングをしているんだ」者 走 が内田の元を訪れ、あるいは内田が淡島の元へ赴いて合宿や 二日間の合宿を終えた後、内田が得意げに言った。 伴 調整を行うが、普段の練習はそれそれが個別に行っている。 「待ってください。どういうことです ? 」 しまさ 淡島が伴走者になって二年以上が経っというのに、、 だが内田の練習は一人ではできない。一〇〇人を超す地元の
倒くさい」 「それでバイク練習はうまくいってるんですか」淡島はわざ 「そんなわけで今じゃ、応援にも来てくれるんだぜ」 と明るい声を出して話を戻した。 「暴走族と練習してるんですか」淡島は唖然とした。 「おいおい、何を言ってんだよ。それは俺が聞きてえこと 「バイクなら誰が運転しても同じペースで走れるからな。画 だ。うまくいってるかどうかをチェックするのがお前の役目 期的だろ」内田は自慢する。「田舎の道だからできることだ だろうか」 けどな」 「あ」 短距離走の練習方法の一つに、先導するバイクにロープを 「ちゃんとしろよ。まったくどんくさい男だな」 引かせて、限界を超えたスピードを体に覚えさせるというも 淡島は黙り込んだ。この男は勝っためなら本当に何でもす のがある。だが、それはあくまでも安全が確保されたスペー スで行われるものだ。公道でペースづくりのために行うもの るらしい。体の芯に熱が籠るのがわかる。こうまでして勝っ ことに貪欲な男に俺は出会ったことがあるだろうか。いや、 ではないし、ましてや内田は視覚障害者ではないか。 俺自身は、ここまで勝っことにこだわってきただろうか。 「危ないですよ」 「下手な伴走者と走るよりも、よっぱど安全だし練習になる まだ多くの国で、障害者スポーツは福祉の一環として扱わ さ」 れている。 「でも暗いじゃないですか」 「ははは」内田は笑う。「俺はずっと夜にいるからな」 最近になって、日本でもようやく遠征や合宿のための費用 の一部を連盟が負担するようになったが、それまで障害者ス 淡島はハッと口を噤んだ。 ポーツ選手はどれほどの実績があっても練習費用は自費で持 「すみません」淡島のこめかみに脂汗が浮かぶ。内田が光を っしかなかった。 感じられないことをすっかり忘れていた。 障害者はどうしても健常者より金がかかる。盲人ランナー 「俺の目は節穴だぜ」 伴走者になってから、障害者が自分たちのことをジョーク だけでなく、障害者スポーツに携わるものにとって最大の障者 走 にするところは何度も見聞きしてきたが、そのたびにどこま害は金なのだ。 伴 車椅子や義足は競技用のものが必要だし、海外遠征ともな で笑っていいのかわからず、淡島はよく困った。 「いいんだ。障害者だからといちいち気を遣われるほうが面れば、運送費用もバカにならない。盲人ランナーに装具は必
ために存在しているのか」と問うことが意味をもたない。 は、つまり他の存在者との関係にあってはきわめて合目 的的なものでありうる。とはいえそのとき他の存在者の有機的な存在者をめぐっては、そのように問うことがで き、さらにまたそういった存在者との関係にあっては、水 側は、つねに有機的な存在者、すなわち自然目的でなけ ればならない。そうでないならば、前者の事物もまた手や大気や大地が「なんのために存在しているのか」を問う ことが有意味でありうる。かくて、いっさいが合目的的で 段として判定されることができないだろうからである。 ありうるのである。 かくして水や大気や大地は、山岳の隆起のための手段と 見なされることができない。なぜなら山岳のばあいは、 なんらかの存在者が現に存在するのは他の自然的存在者 のためであって、その目的が当の存在者自身の外部に存在 目的にしたがってそれが可能となる根拠を必要としたも のを、それ自体としてはなにひとっふくんでいないからするにすぎないとき、そのものは「必然的に同時に手段と して」存在する。これに対し、なんらかの自然的存在者が である。山岳の原因はそれゆえだんじて、それを可能と する根拠との関連において、 ( その原因に役だつような ) 存在する目的が「そのもの自身のうちにある」ならば、く だんの存在者は同時に「究極的目的」であると見なされな 手段という述語のもとでは表象されることができないの である。 ( 425 ) ければならない (vgl. 425 こ。カントの論述にしたがい、い ちどは考察の糸が断ち切られるほかはなかった、究極的目 カントは、外的合目的性あるいは相対的合目的性はたん的をめぐる問題がいまひとたび取りあげられる必要がある。 に有用性をあかすにすぎないしだいを認定し、そこに見ら 第 9 回・第二項の末尾であらかじめ見ておいたとおり、 れる目的ー手段の系列に対して完結性を拒んだ。これに対究極的目的、つまり「それ自身だけで自然の目的」と考え られるものが見いだされたばあいには、目的ー手段の系列 して、その内部で目的ー手段関係が互恵性をともなうもの で ・ま が完結して、手段から目的への無限後退が断ち切られるは が「有機的な存在者、すなわち自然目的」であり、この自 こびとなるだろう。かくしてまた、世界と自然の創造の目 然目的の存在を承認することが、右の引用に見られるあら の と一 たな視点を導入している。そこではつまり、自然目的を的が解きあかされるしだいとなるはずである。 きっかけとして、外的系列のなかに内的な項を、相対的関 そのばあい解明されるのは、ただたんに「自然はなぜ現倫 と にそのように存在するとおりに存在しているのか」だけで 係のうちで絶対的な観点をみちびき入れることが可能と 美 なっているのである。 はない。そのときむしろ、世界が現に存在する意味と目的 が説きだされる。ライプニツツふうに語るなら「なぜ無で 大地、大気、水そのものなどについては「それはなんの
いる通りである。作品が翻訳を通じて解き直され、別の言語 、人と人との間の友愛の問題です。文学の領域でもそうい の土壌で新たな意味を持って生き始めるーー・優れた翻訳には うことが一番大事です。コマーシャリズムとも政治的なパワ つねにこういう奇跡のような面があるのだが、それこそディ ーポリティクスとも無縁の場での、具体的な小さな出会し と、それをきっかけに涵養される友情の積み重ねが、「国際ヴィッド・ダムロッシュの言う「世界文学」に他ならない。 交流」などといった抽象的なスローガンよりもはるかに重要そもそも世界文学というものは翻訳抜きには成りたたないの だから、世界文学のヒーロー、ヒロインとは、作家たちであ なことなんだと思います。翻訳行為もまた、そうした友愛の ると同時に翻訳者たちでもあるのだ。 身ぶりの一つであるべきなんじゃないでしようか。 文化庁の ( 現代日本文学の翻訳・普及事業 ) とい 沼野素晴らしいまとめです。ここまで三組のゲストをお迎 うプロジェクトは、残念ながら「事業仕分け」の憂き目に えして、翻訳をめぐっていろいろなことを話してきました あって、それが眼目としていた翻訳出版事業は廃止に追い込 が、今日話し合ってきたことの意味もそれに尽きますね。ど まれてしまったが、日本文学の翻訳を奨励し、翻訳者を支援 , つもありがと , っ」イ、いました。 することの重要性がそのような「仕分け」によって否定でき るはずもない。 文学の翻訳者は大部分が、収入も少なく、権力からも遠 後記 、感謝されることもない地味な存在である。しかし彼らこ 文学の翻訳者は、原作者に対してどうしても二次的な存在 そは偏狭な国粋主義の解毒剤となり得る最高の外国理解者で と考えられがちである。実際、現代の欧米では翻訳者の名前 が本の表紙などに大きく書かれることはほとんどない。翻訳あって、そういう人々が一人でも増えればそれだけ領土紛争 や戦争の危険は少なくなる。戦車を一台買う金を翻訳奨励に 者はヴェヌーティが言うように「透明な存在」にされてい て、読者は自分が読んでいるものが翻訳だということを意識回したほうが、よっぱど世界の平和に貢献するのではないだ 家 ろうか。なお、今回の企画で三組もの豪華な顔ぶれがそろっ 訳 させられないのが理想とされる。 翻 と 今回の企画では、普段そういう「黒子」に徹している日本たのは、ひとえに事務局長をつとめる小川康彦さん 文学の翻訳者たちをあえて引っ張り出し、原作者本人と向き ( 五柳書院 ) の人徳のおかげであることを、特に記しておきた 。 ( 沼野 ) 合っていただく、ということを考えた。その結果がいかに豊 かなものになったかは、ここに掲載する三つの対話が示して
「彼は盲人なんです。見ることはできません」淡島は食い下と歩を進めた。 がった。柵の外にいては革命家を感じることはできない。 「ここに壁があるってのは、わかるんだよ」 もっとも触れて感じることができるとも思えないが、それで 「見えなくても ? 」 も内田の願いを叶えてやりたかった。 「壁のある方向からは音が来ないからな」 「なぜ盲人がここに来たのだ」 「へえ」以前の淡島なら驚きを隠しただろう。障害者に対し 「彼自身を変えるためです」 て失礼なことを言っているのではないかという怯えがあった 「お前は何者だ」 のだ。だが、今はそうした感情はなくなっている。おかしけ 老人は怪訝そうな表情になった。 れば笑い、知らないことに出会えば驚く。当たり前のことだ 「俺は伴走者です」淡島は胸を張った。「革命家にだって伴が、内田と長くつきあっている間に、ようやく素が出せるよ 走者はいたでしよう」 うになっていた。 伴走者はレースを共に走るだけの存在ではない。誰かを応 「それが解るまでには、三年くらいかかった」 援し、その願いを叶えようと思う者は、みんな伴走者なの 「音が無いことに気づくのに ? 」 「最初のころは必死で音を聞いてたんだよ」 内田の願いを叶えるのが、ここにいる俺の役割だ。伴走者 「今は聞いていないんですか」 としての俺の役割なのだ。淡島の必死の願いを聞き、老人は 「ああ。聞いていない。耳で見ている」 静かに目を閉じた。目尻から涙がこばれ落ちる。 「見ている ? 」淡島は首をかしげた。 「儂が彼の伴走者だった。彼の革命をすぐ側で見つめてきた 「晴眼者は周りの様子を見ながら、いろんなことを同時に把 のだ」濁りのない瞳は淡島の遥か後ろを見つめているよう握するだろ。それと同じことだよ」 。こっこ 0 「同じことって」 老人は柵の玩に大きな鍵を差し門扉を開いた。門の開く音 「どこからどんな音が聞こえているかを意識せずに聞いてい に内田の顔が緩む。 る。言ってみれば、音で観察しているようなものさ。たぶん 「建物までは三〇センチほどの丸い石で道がつくられていま先天性の盲人とは感覚が違うんだろうけどな」 す」。淡島は素早く足元の状況を伝えた。ここで足を痛めてし 晴眼者も何かを意識的に見ているわけではない。視覚の中 まっては、わざわざ来た甲斐がない。内田は頷き、ゆっくり に自然に入ってくるものから、様々な情報を受け取っている 116
「会社戻らなくて大丈夫なの ? 」 「まだ大丈夫です。研究所から口止めばかりされているんで 元がとれるかはわかりませんが、ここで色々と自分の使命に 目覚めたというか : : : 変えられる気がするんです、今まで自 分が向きあってきたものを。必要とあらば、なんだってやっ てやるんですよ僕は。ええそうです、やってやりますよ 途中から、須賀の言葉は独り言に近くなり、目も虚ろに なりやすい人の特徴【内輪にしか通じないコミュニケー ションをとりがち。他者が作り出した流れや考えにのつかっ たり盗んだりしがちで、かっそのことに対する自覚やためら . い、か薄。い 〈意識的文脈支配者 ( ″救世主し〉 概要【変質暴動者に噛まれても変質暴動者にならず、変質 暴動者を噛むと二五 5 三〇 % の確率で人間へ戻せる人 なりやすい人の特徴】内輪以外にも通じるコミュニケー ションを重要視する。他者が作り出した流れや考えに頼らな い思考や行動がとれる。また、他者が作り出した流れや考え にのつかったり引用する場合もそのことに自覚的であり、自 分なりにそうするための意義を見つけ、引用する対象や文脈 目を覚ました理江が手に取った新聞朝刊の一面に、その新を意識的に再構築することができる。 情報は大きくとりあげられていた。機密保持のためすべては ″救世主みの正体は、大勢が作り出す文脈に甘んじてこな 明かせないものの、政府系研究機関による確固たる研究結果 ザ かった人々だった。 が政府判断で公示されたと記事には記されている。表に、わ 書斎へ戻り、昨日書いた創作ノートを読み返すうち、なに かりやすくまとめられていた。 オ かか弓つかかった理江は入念に読み直した。一つの単語へ目 がいった。「ゾンビ」という単語を当たり前のように用いてス 「変質暴動者化 / ″救世主″化分ける鍵」 ク いることに、違和感があった。実質的にはアメリカの映画監 テ ン 督が広めたに等しい単語を、まがりなりにも同じ作り手たる コ 〈無意識的文脈受動者 ( ″ゾンビし〉 自分があたりまえのように使ってしまっていた。そういう無 概要【変質暴動者に噛まれやすい人 & 噛まれてもいないの 自覚的なところが駄目なのではないか。他人が作った言葉や に生きた状態から変質暴動者になってしまう人 よっこ。
実践的な能力そのものとして、自然の秩序の諸条件に制限造物を超えて、とくべつな地位を世界のうちに占めてい されることなく、諸目的の秩序と、それとともに私たちの る。その特権的な位置によって人間は自然の「最終的な究 現存在とを、経験と生の限界を超え拡張することを正当化極的目的 der letzte 「 Endzweck 」にほかならない。 されている」 ( 以上、不 V423 ・ 425 ) 。つづけて引用する。 最終的な目的と究極的目的とを区別する『判断力批判』 の立場からすれば、カントのこの認定にはなおも、その根 この世界のうちで生きている存在者において、どのよ拠において不充分な部分があるだろう。けれども、主張の うな器官、どのような能力、どのような衝動、したがっ方向とみちすじについては、第一批判のこの主張は、カン ていかなるものについても、不必要なもの、あるいはそ トにあって不変な立場の表明であるといわなければならな の使用に対して釣りあっていないもの、かくてまた合目 。じっさい『倫理の形而上学の基礎づけ』の説くところ 的的でないものはなにひとっとして見いだされず、むし もこの基本線の延長上にある。 ろいっさいは生にあってのそれぞれの使命に精確に適合 一般に意志を規定する根拠は「目的」である。これに対 している。そうした存在者にかんして、理性はこのしだ して、たんに行為を可能とする根拠にすぎないものが「手 いを必然的に原則として想定せざるをえない。このよう段」と呼ばれる。そのばあい仮言命法であるなら、その規 な存在者が有する本性との類比にしたがって判断するな定根拠は相対的な目的であるいつばう、定一一 = ロ命法について ら、人間が、しかも人間だけが、そのようないっさいの いえば、それは絶対的な価値にもとづくものでなければな 存在者の最終的な究極的目的をじぶんのうちにふくむこ らない ( この点をめぐっては、第 3 回・第三項参照 ) 。いま或 とができ、人間はすべての存在者の例外とされるべき唯るものが存在し、その「現存在そのもの」に絶対的な価値 一の被造物でなければならないだろう。なぜなら人間の が帰属しているとするならば、そのものは同時に「目的自 自然素質は、ただたんにそれを使用する才能や衝動の面体」にほかならない。 ところで人間 ( の内なる人格性 ) はだ からばかりでなく、とりわけ人間のうちにある道徳法則 んじてたんなる手段として取りあっかわれることができ という点からして、人間がこの生においてそこから引きず、そのかぎりで人間は目的自体として存在している だすことのできる効用や利益をはるかに超えているから (GMS 427f. ) 。 である。 ( ト 425 ) 一般に理性的存在者、ここでは人間が他の存在者から区 別されるのは、人間だけが、そもそも「みずから自身に対 人間は道徳法則の主体であるがゆえに、他のすべての被して或る目的を定立する」存在者であるからだ。人間とは 286
おいたとおり、自然の美が経験されるさいの適意は、人間 という語を消極的に、つまり人間の「感性的直観の客観で の内なる自然的な次元からの離脱を、そのかぎりでの自由 はないかぎりでの事物」と考えるかぎり、そこにはなんの これに対してヌーメノンを積極的に「非感性 をふくんでいる。自然をめぐる経験のなかで美しいものが 問題もない。 呈示されるばあい、その経験のうちには人間のうちなる自的直観の客観」、すなわち知性的直観の対象と考えるなら 然の超越が、自然を超えた倫理の水準が交差している。美ば、そのようなヌーメノンについてはなにも語ることはで きない (KrV 307 ) 。 しいものの経験とともに人間にゆるされた、超感性的で、 ただしヌーメノンが積極的な意味をもっ場合がひとつあ そのかぎりで叡知的な次元が告げられているのである。 る。「思考する者」をヌーメノンと考える場面である (GS そればかりではない。自然は、端的に大であるものにお XVIII 414 Nr. 5981 ) 。純粋統覚にあっては物自体としての いて、いっさいの抵抗を凌駕するかにみえる威力にあっ て、無限なものを暗示する。無限なものを一箇の全体とし 「私」が意識されているからだ ( XX340 ) 。「私は考える」 て思考する能力は、人間のうちにある超感性的なものにか が、絶対的自発性のありかを「私」のうちでしるしづけて いる。この自発性のゆえに、「私」は一箇の知性あるい かわっている。その能力を覚醒させる自然のあらわれこそ が、崇高なものと称されるのであった。人間はこの能力に は「叡知者 lntelligenz 」である (K 「 V 158 Anm. )。『倫理の おいて「自然を超えてüber die Natur 」いる。それは自然形而上学の基礎づけ』の語るところでは、「叡知的世界」 とは「物自体そのものとしての理性的存在者の全体」であ を越えた倫理を可能とするものであるからだ ( 第 5 回 ) 。 り、このヌーメノンとしての理性的存在者とは、ここでは ーーー自然の一部である動物も、自然の脅威を怖れることだ 無限の影をやどした自然のまえで、崇道徳法則の主体であって、自然を超えた倫理の主体として ろう。人間だけが、 高なものの感情を懐くことができる。自然のうちに美を感の人間なのである (vgl.GMS458)0 第三批判・第八四節の本文末尾を引いておく。しるして 受し、自然の測りがたさを崇高なものと感じることのでき おいたとおり、第八四節で主題となるのは、世界の存在の る存在者が、さきの引用にいう「ヌーメノンとして見られ たかぎりでの人間」にほかならない。その存在者は、自然究極的目的であり、創造の究極的目的なのであった。 を超えているかぎりで同時に倫理の主体なのである。 人間については、ところで ( また世界における理性的存 第一批判のなかでは、現象としての対象がフェノメノン 在者のいっさいにかんしても ) それが一箇の道徳的存在者 と呼ばれ、物自体としての対象、悟性によってたんに思考 であるかぎりでは、もはや「なんのために ( q ミミ守 される対象がヌーメノンと名づけられていた。ヌーメノン インテリゲンツ 291 美と倫理とのはざまで
の量が多いのだ。かなり苦しいのだろう。 悪い笑い方をした。 どうも意地の悪いことを楽しんでいるようにしか思えな よし、仕掛けよう。淡島は内田に英語で声をかけた。 い。淡島は首を傾げた。この人は本当に根っからの悪人じゃ 「このまま行きます」 ないのか。 「抜けます」 だが、そうした駆け引きが伴走者に求められる資質の一つ 「ほら、ほら、行きます」少しずつ声を大きくしていく。 ・であると、そして、それこそが勝利に対する執念なのだと、 だが二人はペースを一定に保ったまま、少しも変えようと 内田とともにレースへ参加するたびに淡島は思い知らされ はしなかった。ただ、淡島の声だけが大きくなっていく。 た。その執念を持たない者が、勝利を手にすることはないの 明らかに前を行くマガルサが動揺しているのがわかった。 音だけを頼りに走る盲人ランナーは、後ろの音が次第に大き 坂を上りながら淡島は周囲の風景をばんやりと眺めた。坂 くなれば、他の選手が追いついてきたと考えてしまう。 の左手にある高い壁はもともと城壁だったのか、石が積み上 マガルサが伴走者に何かを呟き、伴走者がちらりとこちら を振り返った。濡れて黒くなった髪がべったりと額に張り付げられている。道の両側に植えられた巨大な樹木が、青々と した葉で屋根のように道を覆っていた。日が遮られて影に いている。マガルサの伴走はべテランのアミンだ。おそらく なっている。僅かな時間でも日光から逃れられるのはありが こちらの意図はお見通しだろう。アミンがマガルサに何かを 一一一一口っている。 たかった。ほんの一瞬だが淡島の集中力が途切れ、観光気分 になる。 淡島はわざと足音を立て、さらに大きな声を出した。 「おい淡島」 行きます、行きます」 内田の声が耳に入って淡島は我に返った。右手に持ったロ ギリギリで走っている選手の精神は案外と脆い。自分を安 ープをしつかりと握りなおす。 心させるために伴走者が嘘をついているという考えさえ選手 坂を上り切ったところで、大理石を削ってつくられた巨大 の頭には浮かぶのだ。疑心暗鬼になった選手は、伴走者の指 なモニュメントが正面に現れる。老若男女が複雑に絡まり 示を完全には信用できなくなる。 初めてこの作戦を聞かされた淡島は、感心すると同時に内あったように見える彫刻の向こう側には家の屋根がびっしり と並んで見え、さらにその先には海が広がっている。 田の底知れぬあくどさに、嫌悪感すら持った。 マガルサのフォームが乱れた。 「これもプラフってやつだな」内田はグへへへという気味の 、、つ ) 0 105 伴走者