会える。秘書なら、重役のお供で出掛けることが多く、エリートたちの目につく機会もある。 重役に気に入られれば「息子の嫁に」とか「いい男がいるんだが」と紹介される可能性もあ る。考えただけで、期待が広がった。 意気込んで出向いたものの、しかし、るり子はそこで思いがけない仕打ちを受けることに よっこ。 すがも 「えつ、巣鴨の青果市場ですって」 声が思わず裏返った。 「ちょっと、それ、ど , つい , っことよ」 るり子より確実に三歳は若い係員の女性は、淡々とした態度で説明した。 「ご不満かもしれませんが、今のところ、青木さんにご紹介できる仕事はこれしかないんで 「ちょっと、待ってよ。私はここに登録してからずっと受付か秘書をやってきたの。もっと よく調べてよ。私の履歴、間違って入力されてるんじゃないの ? 」 人係員が困ったような顔をする。 恋 の 「データに間違いはありません」 「だったら」 肩 思い切ったように、係員は言った。 「青木さん。今、世の中がどんな状況かおわかりでしよう。新卒でさえ、就職先が見つから
柿崎がマルポロの箱を押し出す。 しいの。やめたこと忘れてた」 「へえ、やめたんだ」 「半月ほど前にね」 つでもやめられるつ 「いいことだよ。僕もやめたいと思ってるのに、結局やめられない。い て変な自信があるから尚更やめられないんだろうな。何かきっかけになることでもあればい いんだけど」 「そうね、何でもきっかけね。何かを変える時はいつも」 「僕は、そのきっかけというものが、どうもうまく掴めないんだ」 意外な一言葉を聞いたような気がして、萌は顔を向けた。 「柿崎さんはいつも落ち着いていて、舞い上がって我を忘れたりすること、全然ないでしょ う。あなたみたいな人が、本物のきっかけを攫むんだと思うわ」 「きっかけなんて、舞い上がって我を忘れるからこそ掴めるものだよ」 人柿崎はコーヒーカップを口に運んだ。 窈萌は黙った。柿崎はきっと、上手に生きるコツを知っている。他人に不快感を与えたり、 ご人生を放り出すようなこともしない。そして、たぶんそんな自分に少し失望している。 「あなたは素敵だわ」 萌が言うと、柿崎は苦笑した。
崇は一瞬目を伏せたが、すぐに見慣れた笑みを口元に浮かべた。 「楽しかったよ、すごく。ここで萌さんとるり子さんと暮らしたこと、絶対に忘れないか るり子はますます悲しくなる。 「やだ、そんなこと言うとまるで永遠のお別れみたいじゃない。 これで会えなくなるわけじ ゃないでしよう。また遊びにいらっしゃいよ。家出したくなったらいつでも泊めてあげるか 「うん、その時はよろしく」 崇が笑いながら頷き、ソフアから立ち上がった。 「じゃあ、そろそろ」 汚いザックを肩に掛け、玄関に向かう。 その後を、るり子と萌がついてゆく。 たたきでシューズを履いて、崇が振り返った。 人「いろいろありがとうございました」 初めて会った時から、季節がひとっ過ぎている。たったそれだけの時間なのに、崇はずい ごぶん変わったように思う。顔つきだけでなく、言葉遣いや態度から子供つばさが消えて、ど ことなく余裕さえ見えるようになった。身長だって少し伸びたみたいだ。もう男の子とは呼 べなくなっている。
さすがにこの状況の中で、ひとりレジの前に座り続けているとぐったりした。 だから六時に交替のバイトがやって来て解放された時は、心底ホッとした。彼も当然のこ とながらホモセクシュアルらしく、客の何人かが彼の顔を見たとたん、萌の時とは打って変 わったように親しげに声を掛けてきた。 「じゃ、お先に」 萌は少しでも早く、ここから遠ざかりたくて、カウンターの下からバッグを引っ張りだし、 表に飛び出した。 足早に駅まで来た。女の姿を見てほっとした。女を見てほっとするなんて初めてだと、可 笑しくなった。 改札を抜ける前、公衆電話が目に入った。相変わらず携帯電話は家にある。少し迷って、 、、こ。バッグからテレフォンカードを取り出し、受話器を上げる。いつの間にかすっか りその番号を覚えていることを、ちょっと悔しく思った。 「、もし・もし」 人聞こえてくる声を、とても懐かしく感じた。 窈「萌です」 「今から会えない ? 新宿にいるの」 「いつも、急なんだね」 か
し、ま , つ。 柿崎とはすでにべッドの関係もあるのだから、今更そんな言い方はおかしいかもしれない が、萌は感じていた。今までと違う何かがきっと始まる。 ひげ 今はまだ、柿崎に向いているのは体の半分だ。いつでも、たとえば急に柿崎の髭の剃り残 しが生理的にイヤだと感じたら、するりと身を翻してしまえる。何事もなかったように、柿 崎と出会う前の自分に戻ることができる。けれども始まってしまったら、全身で柿崎を見つ めてしまうようになるかもしれない。鼻からちらりと覗く鼻毛だって愛しく見えてしまうよ うになるかもしれない。 本当にそれでいいのか、萌には自信がなかった。そんなふうに、男と正面から向き合うこ となど、もう長い間していなかった。 「ごめんなさい、実はまだちょっと迷ってる」 「挈よっか」 「今度、私から連絡するわ」 人「無理強いするつもりはないんだ」 窈「わかってる」 し 肩 言ってから、柿崎は言葉を途切らせた。電話の沈黙は、顔を合わせている時とは違う特別 な意味を持っている。
萌のペッドの隣では、るり子が幸せそうに眠っている。 萌は目が冴えて、天井を眺めている。 ひとよ 中学の頃、クラスメートから「萌はお人好しだから」と言われたことがある。お人好し、 というのを、おめでたいことに、ずっと褒め言葉だと思っていた。善と悪なら、善の方。意 地悪と優しいなら、優しい方。でも、馬鹿と賢いだったら、絶対、馬鹿の方だ。 何回もやって失敗して、もう絶対にしないと決めているのに、やつばりやってしまうこと がある。 ロ火を切る、というやつだ。 困ったことが起きた時、誰もが黙る。そんな時いつも思う。ここでロ火を切ったら面倒な 役回りを押しつけられる。だから、黙っていよう、知らん顔していよう、誰かが何か言い出 すまで待っていよう、と堅く決心して、だんまりを通そうとする。けれども、たいていの場 合、その沈黙に耐えかねて、つい言葉を発してしまう。 その発した言葉が何であれ、結局はこういうことになる。 人「わかったわよ、私が幹事を引き受ければいいのね」 窈「仕方ないわ、課長に抗議してくるから」 「じゃあ、彼にあなたの気持ちを伝えてあげる」 肩 そうして面倒に巻き込まれる。 沈黙に耐えられる女は、最後にこう言ってにつこりほほ笑む。
ンをはくと、 が映っていた。顎の辺りにも何だか肉がついてしまったように見える。ジー ノーかきつい 案の定、ジッヾ 萌はすべてを脱いで裸になった。鏡に映して、じっくり眺める。胸は大きくはないが、結 構、いい形をしている。けれど、おへその横にあった筋肉の縦線が見事なくらい消えていた。 あいまい 横を向くと、下腹がばっこり突き出ていて、ヒップと太ももの境目も曖昧になっている。 いかん。 いかん。このま、まじゃ、 思わず叫びそうになった。世の中から取り残されてゆく。取り残されてゆくことに、平気 な女になってしまう。 慌てて、萌は裸のまま引き出しを片っ端から開いていった。確か、るり子から貰ったエス テティックサロンのサービス券があったはずだ。あちこち探し回って、ようやく見つけだし た。よかった、まだ期限は切れてない。 夕方には、びかびかになっていた。 人サウナと、全身オイルマッサージと、フェイシャルで、溜まっていた毒素が抜けたような 窈感じだった。 エステティシャンの「ぜひ入会を」との、ものすごい勢いの勧誘もうまくかわして外に出 肩 た。それくらいの対応は、会社の顧客苦情で散々鍛えられてきたからお手のものだ。 サロンで無料で使える化粧品で、メイクもしつかりしてきた。こうなると、誰かを誘って
210 海老のかけらを皿の隅に器用によけてゆくフォークの動きに、その時は自覚していたわけで ひ 。なかったが、惹かれたのではないか。 今日、柿崎は約束通り、六時少し前に本屋に現われた。午前中に電話があって、夕食を共 にする約束をしていた。外車販売の営業ということで、柿崎は時間が作りやすい立場にいる。 「いい蕎麦屋があるんだけど、そこでいいかな ? 」 「もちろん」 柿崎はいつも少しも気負ったところがない。気に入らなければ、遠慮せず断ることができ るゆとりのようなものを、言葉の中に含ませてくれる。もちろん、気に入らないことなど一 度もないのだが、悪いからと無理に相手に合わせるような状況にはしない。 「でも、終わるまでまだ少しあるの」 「じゃあ、立ち読みしながら待ってるよ」 ゲイの男たちの中に立っても、柿崎は少しも動揺しない。 好奇の目にさらされても平気だ。 文ちゃんという友達の影響があるのかもしれないが、柿崎はいつだって、そこに自分の場所 をちゃんと作り上げてしまえる才能を持っている。 予定の時間に交替のアルバイトが来て、ふたりは西新宿に向かった。高層ビル群から少し はずれたところにある一軒家を改装した蕎麦屋だ。 ししお店ね」 すきや 萌は壁やら天井やら庭に目を向けた。凝った数寄屋造りのこの蕎麦屋は、落ち着いていて
笑うと、奥二重の目が温和に細くなる。対照的に口元にちょっと癖があり、それがいかに も世間慣れしているといった感じがするが、決して悪い印象を与えるわけではない。 この男か。さすがのるり子も落とせなかった相手というのは。 半年前まで、るり子から聞かされるのはこの男の話ばかりだった。といっても、るり子が 。しつでも男かプランド製品か芸能人のことしかなかったので、ほとんど聞き流し 話すのま、、 ていたのだが、その話だけは印象に残っていた。 「彼ったら海老が嫌いなの。ねえ、そんな人がいるって信じられる ? 海老天も海老フライ もシュリンプカクテルも海老しんじよもお寿司の甘海老も伊勢海老のグラタンも、みんな嫌 いなんですって」 るり子は海老が高くておいしいものの代表だと思っているようなわかりやすい女だから、 そういう人間がいることが不思議でたまらなかったのだろう。 「それでね、一緒に食事している時に言ったのね、海老が嫌いなんて変わってるって。そし たら彼、言ったわ。みんなが好きでも、僕が好きだとは限らないって。ねえ、それってもし かしたら私のこと ? 」 人 恋るり子にしてはなかなか深い判断をしたものだと思う。実際、しばらく付き合ったものの、 彼は離れていった。というのも、男にはすでに上司の娘という婚約者がいたからだ。泣きな 肩 がら、怒りながら、嘆きながら、るり子は言った。 Ⅱ「その婚約者っていうのが、ひどいプスなの。おまけに国立大を出てるような可愛げのない
っ払い ついった、普通なら強すぎる印象を与えてしまいがちな一一 = ロ葉も、アルファベットみたい に機能的かつあっさりと存在できる。これは、私が唯川さんの小説を読むたびに、いちばん びつくりすることだ。辞書にのっているときのままの顔で、しつかり使われる一一一一口葉たち、そ れを可能にする梨の筆。 唯川さんの小説を読むしみの一つに、アフォリズムがある。『肩ごしの恋人』にも、も ちろんある。「女はいつだって、女であるということですでに共犯者だ」とか、「我慢してい とこかで安 る女はみんな貧乏臭い顔をしている」とか、「男が結婚しているという事実は、、、 心感を連れて来る」とか。どうしたって、深くうなずいてしまう。 という点だ。正しい すばらしいのは、唯川さんのアフォリズムは絶対に説教にならない、 著者は、ト説において説教なんかしている暇はないはずだ、と固く信じている私はまた、正 ということも固く信じている。 ( = しおいて説教なんかされている暇はない、 しい読者は、 一冊の小説のなかには時間が流れている。著者も読者も、だから前に進まなくてはならない。 説ひとところにじっとしてはいられないのだ。 この小説は、前へ前へ進む。数々のアフォリズムも、また、たとえばしばらく家を離れて 解 いた妻が、ひさしぶりにマンションに帰ったときの部屋の違和感、「同じ水槽なのに、中を 満たしている水が変わってしまったような感じ」という直接肌に響くような表現なども、夜