眦「砂糖はいらないわよね」 るり子は呆れたように萌を眺めている。 「崇くん、このこと知ってるの ? 」 「まさか」 「だろうね。で、それで萌はいいの ? 」 いいの」 「どうして ? 崇くんが若すぎるから ? 」 萌はトレイにカップとグラスを乗せた。 「確かにそれもある。でも、それだけじゃなくて、私、今、すごくいい感じなの。気持ちが 安定してて、見るものも聞くものもみんなすごく楽しくて、お腹の中から幸せホルモンがぶ るぶる出てくるみたいなの。満ち足りてるの。それでもう十分なのよ」 るり子は長く息を吐いた。 「そっか、幸せホルモンか」 「こんな気分、生まれて初めてよ」 「ふうん、ま、それならそれでいいわ。崇くんの遺伝子なら、きっといい子が生まれるだろ それからるり子は食器棚のガラス戸を開いて、グラスを取り出した。 「私、コーヒーやめる。ウォッカにする」
「 , っ , つん、 しいの、大丈夫」 エステの脱毛コースを受けていた。電気を通した針を、毛穴の中ひとつひとつに差し込ん で、毛の生える元の部分を電気で焼いてしまおうという仕組みだ。痛くて当然だ。しかし電 流を弱めたら、効果も半減する。通う回数が増えるだけだ。 脱毛のために、もう一年近くもサロンに通っていた。なのに、ようやく半分程度に減った くらいで、完璧と呼べる肌になるのはまだまだ先の話だ。今のチケットが終わったら、流行 りのレーザー脱毛に変えようと決めている。 女にはしなくてはならない不毛の行為というのがある。 そのひとつが脱毛だ。面倒臭くてうんざりしてしまうが、この不毛の行為にちゃんと興味 を持っていられる期間を「女」と呼ぶのだと、るり子は思っている。 世の中には、性別として「女」であっても「女」として生きていない女が山ほどいて驚い てしまう。るり子は基本的に男にしか興味がないので、女なんかどうでも、 しいと思っている が、見ていて理解に苦しむ種類の女がいるのは確かだ。どうして女であることにあんなに怠 けることができるのだろう。 ストッキングの中で膸毛が渦巻いていたり、半袖の袖ロの奥に黒い脇毛が見えたりすると、 性器を見せ付けられたようないたたまれない気分になる。デブなのに痩せようとしない女、 プスなのに整形しない女。るり子は高校卒業の春に、鼻にプロテーゼを入れている。美容整 形のことをとやかく言う人もいるが、るり子は悪いことだなんて全然思っていない。鼻筋が なま
き、崇を眺めた。 噛むとカリンと音がするような男の子が、悩む姿を眺めているのは悪くない気分だ。中年 のオヤジが、セーラー服の女の子をやましい気分で盗み見する気持ちがちょっとだけわかる。 健全過ぎる男の子は、あんまり好きじゃない。そう言えば、物心ついた頃から、グラウンド を汗だくで走り回っている男の子より、放課後の教室でばんやり外を眺めている男の子の方 が好きだった。付き合ってくれと言ってくるのは、たいてい、汗だくの方だったけれど。 「ねえ、いぬたまに行かない ? 」 るり子が一一 = ロうと、崇はいくらか気の抜けたような顔をした。 「どこ ? 」 「いぬたま。犬の展示場みたいなところ。一緒に遊べるし、散歩なんかもさせてもらえるの 「犬、好きなの ? 」 「。こあーいすき」 それから付け加えた。 「犬の嫌いな人なんか世の中にいる ? 」 「そりや、いるだろ。とりあえず、ここにひとりいる」 「君、嫌いなの ? 」 「 , っ′ル」
おずおずと、信之が顔を上げる。 るり子はほほ笑んだ。 「そう、これで決定ね。届けは後で送るから」 それから、るり子はエリに顔を向けた。 うぬば 「別にあなたのせいじゃないわ。自惚れないで」 るり子は背を向けた。 レストランの客たちが、慌てて視線をそむけた。当然ながら、やりとりは聞こえていただ ろう。ぜんぜん、恥ずかしいなんて思わなかった。こんなことで、恥ずかしいと思うくらい 。しつだってどこでだ なら、最初から男なんかと付き合わないことだ。女を張るってことま、、 って胸を張っていられるということだ。 るり子は再び大通りに出た。解放されたような気分になって、これから何をしようか考え 。昔の 衝動買いで服を買うのもいいし、頭が痛くなるくらい甘いケーキを食べるのもいし いっそ道端で可愛い男の子をナ 人ポーイフレンドを呼び出してセックスするのも悪くないし、 窈ンパしてホテルに連れ込もうか。 ごそんなことを考えて、美容院に行くことにした。セオリー通りのところが癪だけれど、や つばり気分転換には髪を切るのがいちばんだ。 しやく
「でも、好きって言ったはずよ。それに、いちばん信用してないのは私自身ということも」 一時間前、崇を公園まで呼びに行って、部屋に入れて、一緒にコーヒーを飲んで、順番に シャワーを浴びて、毛布を出して、電気を消して、寝室のペッドと居間のソフアに別々に寝 て、そして萌はドア越しに言った。 「こっち、おいでよ」 だから、これは萌の罪だ。 柿崎のことといい、何だか最近こういう状況が続いている。一回こっきりを「損をする」 などと思わなくなったのも、オス化の兆候なのかもしれない。 ペッドに入って来た崇はものすごく不器用だった。キスは歯が当たってガチガチいったし、 胸を掴む手は痛くて跡が残りそうだったし、ショーツを脱がすのに汗だくになった。そして、 まだ入れてもないのに「わっ」と言って、慌ててティッシュを山ほど引き抜いた。それから すっかり悄気て、可哀相になるくらい背中を丸め、すごすごとソフアに引き上げていった。 笑ってはいけないことぐらいわかっている。それは男の自尊心を相当傷つけるものらしい 人 ちまた 恋ということも知っている。巷では、そういうことで殺人事件も起こるぐらいだ。 できなかったことを彼の失態などと思ってもいなかった。むしろ、セックスなんかするよ 肩 りずっと楽しい気分が残っていた。こんな気分で眠るなんて、これは結構幸せなことかもし れない。 て」
122 ちょっと遊びたい気分になる。となると、今のところ、柿崎しかいない。 急だから無理かと思ったが、 連絡を入れると「じゃあ、七時に」と、彼は新宿の喫茶店を 指定した。約束までに少し時間があったので、萌は本屋で求人誌を買った。 約束の喫茶店に入って、コーヒーを注文し、求人誌のページを開いたものの、すぐに絶望 的な気分になった。高野課長の言葉を肯定したくはないが、次の職を見つけるのは確かに甘 くない。職種、勤務地、労働条件、賃金、年齢制限。それらの項目を目で追いながら、これ はダメ、これはパス、と呟く。一緒にため息がもれた。 今、二十七歳だが、もうすぐ二十八歳になる。持っている資格は英語検定の一級くらいで、 これといった特殊な技能は何もない。。ハソコンも人並みで、得意というほどじゃない。経理 は疎く、外回りをするような営業経験もない。接客経験もない。就職して五年もたっという のに、キャリアと呼べるようなものは何ひとつないのだった。 私、何やってきたんだろう。 「元気 ? 」 その時、頭上から声があり、萌は顔を上げた。 すっかり見慣れた柿崎のはずなのに「あれ、この人ってこんなだったかな」と思っている 自分がいオ 「こんにち一は」 思えば、こういう感覚は、ずいぶん前からあったように田 5 う。そうして、どこか彼とのこ
家を出てから、半月がたとうとしていた。 そろそろバイトでもしなければ、と思いながら、るり子は毎日ぐーたらと暮らしていた。 もともとぐーたらは大好きだから、信之の口座からお金が引き出せる間はこうしていようと 考えていた。 信之からはちゃんと毎日、律儀に電話がかかってくる。それを拒否するほど、信之を嫌い になったわけではない。だからるり子もそれなりの態度で応対している。 電話の内容は他愛無いものだ。お天気の話とか、課長が異動になったとか、近くでポヤが あったとか、新しい靴下の入っている場所はどこかとか。そういったことを話していると、 時々、遠距離恋愛をしている恋人同士のような気分になることがある。 電話で話しているのは楽しかったが、困るのは信之が「それでいっ帰る ? 」と一一 = ロう時だ。 るり子は急にとばけた口調で、「いっかなあ」と、他人ごとのように答える。 正直言って、まだ帰る気にはなれなかった。けれどそれは、信之の浮気を怒っている、と いうよりも、萌と崇との生活が予想以上に快適だからだ。今まで暮らすなら絶対に男と決め 人ていたが、色つばい関係のない相手との生活も悪くないと思う。毎日、まるで修学旅行をし 窈ているような気分だ。 今日、天気のいいのに誘われて、自由が丘のマンションに帰った。 肩 着のみ着のままで出て来たので、時折こうしてマンションに戻って着替えを持って出たり、 化粧品を揃えたりしていた。もちろん、信之が会社に行って留守の間だ。 ひと
何でセックスがつまらなくなったのか、本当はるり子は知っている。これでイベントがみ んな終わったからだ。 考えてみれば、前の二回の結婚の時も、ハワイに来た時点で同じようなことを感じたよう に田 5 , つ。 結婚式までは本当にエキサイティングで、毎日が楽しくて仕方なかった。彼の気持ちをこ っちに向かせたり、前の彼女からのいやがらせに立ち向かったり、プロポーズをセッティン グしたり、向こうの両親の反対を説得したり、ウェディングドレスを決めたり、泣いたり、 拗ねたり、怒ったりしながら、合間にせっせとセックスをしまくって、とにかく忙しい日々 を送る。そして、晴れやかなスポットライトを浴びて、女優のような気分になる。 ところが結婚式を済ますと、何だかみんなに「今日から大っぴらにセックスします」と宣 言したような気分になり、急にしゆるしゆると体中から空気が抜けてばんやりしてしまう。 りやくだっ 最初の結婚は二年だった。何せ不倫の末の掠奪結婚だったから、とにかくドラマチック だった。奥さんが包丁を持ち出した時なんか、これで私もワイドショーに顔が出るのね、と 思わず画面に映る写真のことを考えた。短大の卒業写真だけは使わないで欲しい。風邪をひ いていて、目なんかまともに開けられないくらい腫れた状態で撮ったものだ。それで気に入 ったのを何枚か本気で用意しておいた。 あの時は両親に泣かれるし、奥さんは半狂乱だし、周りからは人でなし呼ばわりされるし、 と、まさに禁断の愛の王道をいっていて、肩で息をするような毎日だった。今でも、あの時
312 萌は答え、カウンターに入って椅子に腰を下ろした。 「風邪 ? 」 「 , っ , つん」 「変なものでも食べた ? 」 「そうじゃないの」 しいから、後は僕がやるよ」 「医者に行った方がいいんじゃないか。今日はもう、 「大丈夫、病気じゃないから」 萌が言うと、リョウは頷いてから少し考え、それから再び尋ねた。 「病気じゃないってどういうこと ? 」 「だから、何て言うか、よくある症状なの。ちょうど今がそういう時期なの」 また考え込み、それからリョウは目を丸くした。 「まさか、それって。いや、まさかね、そんなことあるわけないか」 萌はうっすらとほほ笑んだ。 「たぶん、それ」 「そう、私、赤ちゃんがいるの」 初めて口にした。口にすると、ひどく満ち足りた気分になった。 一週間前、医者から言われたばかりだった。
い。居眠りしながらも、空の様子には気を遣った。 携帯電話が鳴りだした。柿崎だ。 「元気 ? 」 柿崎の声はいつも柔らかくて耳に心地いい。声の質は会話の中でとても大事な役割を果た すものだと、柿崎の声を聞くといつも思う。 「うん、元気」 「雨、降ってきたね」 「こっちはまだよ。でも、今にも降りだしそう」 「そういうの、何かいいな」 「どうして」 つな 「繋がっているって感じがする」 萌は戸惑う。愛していると言われるより、ずっと切ない気分になる。 「この間の話だけど」 「ええ」 「ど , っする ? 」 やまあい 温泉のことだ。温泉に出掛けるのは構わない。柿崎と山間の静かな宿で、ゆっくり過ごす のも悪くないと思っている。 けれども、それだけでは終わらないということも萌にはわかっていた。きっと、始まって