四何だかだんだん腹が立ってきた。 そう、みんな萌のせいだ。せつかくの新婚旅行が楽しくないのは、萌があまりに淡々とし ているからだ。 るり子は部屋に戻って受話器を取り上げた。東京の萌のマンションの番号を押したが、留 守番電話とわかって、今度は会社に掛けた。信之がむつくり起き上がって「どうかした の ? 」と、寝杲けながら聞いたが無視した。 、早坂でございます」 交換台から回されて、萌の気取った営業用の声が聞こえた。 「ねえ、本当は怒ってるんでしよう ? 」 「私のこと、怒ってるわよね」 萌はようやくるり子からの電話とわかったらしい 「何が」 急にいつもの、どこか人を食ったような低い声に戻った。 のぶ 「信くんのこと、取っちゃって」 「どうかしてんじゃない ? 」 「本当は怒ってるのよね。私は萌の恋人だった男と結婚したんだもの、怒って当然よね」 「そんなことで、わざわざ電話してきたの。勘弁してよ、こっちは仕事で大変なんだから」
ふと、信之とランチをしようかと思い立った。帰る決心はつかないけれど、それくらいの 気持ちの余裕はある。訪ねて行ったら、どんなにびつくりするだろう。 結婚前、何度かそうやって信之の会社の近くでランチデートをした。さすがに会社の人に 見られるのはまずいからと、ちょっと離れた場所にあるイタリアンレストランを利用した。 店の造りも洒ていて、ディナーは高いが、ランチタイムは驚くほど安い。その店のチーズ クリームソースのバスタが抜群においしかった。 あれが食べたい。そう思ったら、我慢できなくなった。るり子はタクシーに手を上げた。 よよぎ 代々木にある信之の会社に着いたのは十二時を五分ほど過ぎていた。タクシーの中から信 之の携帯電話に何度か連絡を入れたが、電源を切っているか、電波の届かないところにいる つな らしく、繋がらない。それでデスクに直接電話した。 応対に出た女性に、信之を呼び出してもらったが、すでに昼食に出てしまったと言う。 せつかくここまで来たのに、と、見当違いと思いながら腹が立った。これが仲直りのチャ ンスだったかもしれないのに。 帰っても、 ししが、せつかくここまで来たのだ。どうせならあのバスタを食べていこう。そ う思って、るり子はオフィス街を抜けて行った。 歩いて約十五分、レストランに到着した。半地下になっている階段を下りると、バティオ のようなスペースが広がっている。店はガラス張りで、半地下でも日差しがたつぶり差し込
「いらっしゃいませ」 男は萌の顔など見ようともしない。萌は裏を返して定価を見た。レジの数字を押した。お 金を受け取り、おつりを返した。袋に入れて、渡した。 「ありがと , っ」ギ、い 6 した」 かばん 男は黒い鞄に大事そうに本を入れ、店を出て行った。紺の三つボタンのスーツを着た、清 潔でルやかなサラリーマンだ。き 0 と会社のたちの人気投票では高い順位にいるに違い ない。萌だって、同じ会社にいたら、きっと一票を投じただろう。 彼も、やつばりそうなのだろうか。女より、男が好きなのだろうか。 萌はカウンターの中にある丸椅子に腰を下ろした。レジからは、店の中が全部見渡せる。 万引き防止のために、死角ができないよう天井には凸面鏡が取り付けられている。全部で十 二、三人の客がいた。 客は、まだ十代とおばしい男の子から、初老に近い男性まで、年齢層は広い。ひとりもい れば、カップルもいる。カップルの中にはしつかり手をつないでいる者もいる。熱心に立ち 人読みしている男もいれば、待ち合わせらしくそわそわしている男や、ナン。ハが目的なのかき 彼らのすべて 窈よろきよろ他の客ばかり眺めている男もいる。男、男、とにかくみんな男だ。 , ごは女ではなくて男に恋をする。必要なのは女ではなく男だ。 何だか見ているうちに頭が痛くなってきた。 どうして男なんだろう。男のどこがいいんだろう。男同士で何が楽しいんだろう。いった
で本気で張り倒してやろうかと思った。それでも、ガラス窓の向こうや、小屋の中で寝てい る犬たちを見ていると、やつばり幸せな気分になる。 「私はね、私以外に可愛いとか、綺麗とか、魅力的とかいうものはみんな認めないことにし てるんだけど、犬だけは別なの」 崇はこんな子犬なのにやつばり怖いのか、常にるり子の背後に立っている。るり子は一匹 ずつ説明してゆく。 「これがシェルティ、これがミニチュアダックスフント、ポメラニアンにプリアード、あっ、 グレートピレニーズがいる」 さく るり子は思わず柵に駆け寄った。 「でつかいな」 背後から崇が呆れたように言う。 「でも、これってまだ子供よ。大人になったら白くまみたいにすごいことになるんだから。 きやっ、こっち向いて笑った」 るり子は柵にへばりつき、こっちに向かせようと必死に唇を鳴らし、無視されると切ない ため息をついた。 「ああ、飼いたしな」 「飼えないの ? 」 「当たり前じゃない。賃貸のマンションだもの。君んちはお屋敷なんでしよう。飼えばいい
「十日たったわ」 萌は言った。 「 , っ , ん」 短く、崇は答えた。 テープルの上には、お好み焼きの用意がされてある。ホットプレートと溶いた粉と刻んだ 野菜と豚バラ肉。るり子はいない。今夜もリョウに会いに文ちゃんの店に行っている。 「それより、食べようよ」 「話が先」 一いばし 崇はいったん手にした菜箸を下ろした。 しゃん、そんな深刻にならなくても。あれから結局、あいつは駅に立たなくなっ たろう。諦めたのさ。心配してるって言ったって、しよせん、その程度のことなんだから」 確かに、駅前に母親の姿はなくなった。けれどもそれは諦めたからじゃない。 「君、嘘をついたわね」 萌は崇を見据えて言った。 「何のこと ? 」 「あの人、継母じゃないんですってね」 崇が驚いたように顔を上げた。
「え、リョウさん ? 」 「そう。あんたが迎えに来る少し前まで、ふたりで散々やりあってたのよ」 「そう、じゃあ明日謝っとかなくちゃ。じや私のビール代」 「一万円」 「ええつ」 「嘘よ。お代はいいからとっととその子を連れてって」 「ありがと」 それから、萌は今度はいくらか乱暴にるり子の肩を揺らした。 「ほら、るり子、立つ」 るり子はようやく目を覚ました。 「あー萌だ」 「帰ろう」 「 , つん」 今度は子供みたいに素直に頷き、 「ねえ萌、私にはもう萌だけ。男なんかいらない。萌だけがいればいい」 と、抱きついて来た。るり子の柔らかくて大きな乳房が萌の胸にびたりとくつつく。同性 ながらちょっとどきどきとする。 「わかった、わかった」
けではなかった。 部屋に戻ると、萌と崇がコーヒーを飲んでいた。もちろん、崇がいれたコーヒーだ。 「私も飲みたい、 ミルクのいつばい入ったの」 労働提供係になった崇が、しぶしぶキッチンに立つ。 「るり子、自分のダンナに対してあれはないんじゃないの」 「聞いてたの ? 」 「聞こえたの、玄関のドア、開けつばなしなんだもの」 崇がコーヒーを持って来た。るり子は受け取って、両手でカップを包み込んだ。 「あったかい」 「ねえ、彼のどこが不満なの ? るり子のこと、あんなに大切にしてくれてるじゃない」 「わかってる」 「わがままもいい加減にしないと、本当に大切な人、なくしちゃうよ」 「 , つん」 萌の言う通りだ。信之は、間違いなく、私を心から愛してくれている。 けれど、愛される重さは、愛する重さと、一緒だとは限らない。 「萌」 言いたいことがあるような気がしたが、何を一一一一口えばいいのかるり子はわからなかった。
当然と言えば当然だが、その中で、るり子だけがあからさまに退屈な顔をしていた。ずつ とその調子なので、さすがに友人がそれを咎めた。 「るり子、あなたももう少し、こういった社会的なことにも興味を持つべきなんじゃないか しら」 するとるり子は、スリットの深く入ったスカートで、ゆっくりと足を組み替えて、事もな げ・に一一 = ロった。 「フェミニズムを叫ぶ女って、プスばかりなのよね」 友人は一瞬、惚けたようにるり子を見つめ、やがて唇の端を震わせた。 「あなたみたいな、あなたみたいな女がいるから : : : 」 「だから、何 ? 」 「女性の立場がいつまでも向上しないのよ」 「立場を向上させる前に、あなたのファッションとか化粧とか、そういうのを向上させた 「ムま : 人不。 恋 の けれど、その後の言葉は続かず、彼女は席を立って出て行った。 ごその後ろ姿を眺めながら、るり子は心底、不思議そうな顔をした。 「私、何か変なこと言った ? 」 るり子はそんな女だ。 とカ
「せつかちだね。もちろんイエスさ」 宴も終盤に入った。まさかとは思うが、両親への花束贈呈というのをやるのだろうか。さ すがに三度は見たくない。 むな けれどその願いも虚しくセレモニーは行なわれた。るり子の両親が、まるで初めて娘を嫁 に出すような切ない表情で、何度も目にハンカチを当てている。学習能力がないのはやつば り家系なのだった。 まだ三時前で、この時間にアルコールが飲める店など知らない。 きようざ ワインの酔いが心地よくて、今さらお茶なんかでそれこそお茶を濁したりしたら、興醒め してしまいそうに思えた。 「どこに ~ 打こ , つか」 男が尋ねた。 「そ , つね、じゃあホテルにしましょ , つか」 いい、ね」 ホテルのラウンジなら昼でも飲める、という意味だったが、男が勘違いしているのはすぐ あ にわかった。けれど、敢えて訂正はしなかった。内心、それならそれも悪くないと思ってい 後は任せておくと、男はタクシーを止め、車内から携帯電話で部屋をリザープし、物慣れ こ。
それから、自信たつぶりに萌を眺めた。 「私の一一 = ロってること、間一っているかしら」 萌は首を振った。 「おっしやる通りだと思います。だから、いやなことは我慢しようと思います。けれど、本 当にいやなことは、我慢したくありません。そういう自分でいたいんです」 「ずいぶんりつばなことを言うのね」 「生意気だって思われても仕方ありません。課長からすれば、私なんか世間知らずのひょっ こにしか見えないでしようけれど、私はどう自分を説得しても、規制ぎりぎりのバイプレー ターやエロビデオを売ることに価値を感じられないんです」 「あなたが、アダルト系の仕事をしたくないのはわかるわ。それに価値を見いだせっていう のも確かに難しい話よね。私だっていつまでもあなたをそこに置いておく気はないわ。しば らくの辛抱よ」 「しばらくって、たとえば、どれくらいですか ? 」 人「そうね、二年か三年」 窈「そんなに」 ご「先の年月は長く感じるけど、過ぎてみれば、何だ、こんなものと思えるわ」 「そして、どうなるんですか」 「あなたの好きな部署に配属してあげるわ」