いてないわよ」 コーヒーメーカーがばこばこ呑気な音を立て始めた。 「この子は私の子、それだけじやダメ ? 」 るり子の目が、コーヒーをいれる萌を凝視している。 「それはい、 しわよ、私だって野暮なこと言うつもりはないわよ。でも、相手のこと私にも言 えないなんて、それって何か悲しいじゃない。五歳の時からの付き合いっていうのに」 るり子の声がちょっと怒っている。 「ごめん、言えないわけじゃないわ。ただ、驚くだろうなって思って、なかなか言えなかっ たの」 「そんなに私が驚くような相手なの ? 」 「たぶん」 るり子はすぐに何かを察したようだった。 「・もしかして ? 」 人「コーヒーにミルク入れる ? 」 窈「そうなの ? ね、ね、そうなの ? 」 ご萌はゆっくりと首を縦に振った。 るり子は壁に寄り掛かり、ため息に似た声で呟いた。 「そうか、崇くんなんだ」
「物は一言いようよね」 崇は両手でストップをかけるように、萌の言葉を遮った。 「わかった。百歩譲ろう。もしかしたら、あなたの言う通り、肉体的にはレイプされたとは 言えないのかもしれない。でも、レイプされたという意識を、あのおばはんは僕に植え付け た。それだけで十分レイプと言えるんじゃないかな」 萌はグラスを止めた。 「少なくとも精神はレイプされた、確実に」 少しの間、萌は黙っていた。崇がいくらか不機嫌そうな声を出した。 「ま、こういうのは実際にされた者じゃないとわからないさ」 「されたわ」 言ったとたん、喉の奥から胃が丸ごとせり上がってきそうな気がした。 「私も、されたことあるわ」 崇は驚いた顔をした。 崇が梅ハイをせわしなく口に運んだ。 何で、こんな初対面のガキに、こんなことを口走ってしまったのだろう。今まで、それを 話したことは一度もなかった。
自分が今、どんなに残酷な一言葉を口にしているか、萌はもちろん知っていた。それでも止 ごまか められなかった。飾った言葉などで誤魔化すのではなく、ちゃんと傷つけようと決めていた。 そうしなければ崇は大人の男になれない。 それでもロの中に苦い後悔が残った。 「お母さん、こうも言ってたわ。崇がそんなに継父を嫌っているなら別れたって構わないっ て。あの子を不幸にするために再婚したわけじゃないって」 答えはない。 「これで気が済んだでしよう。お母さんは夫より君を選ぶって言ってるの。そうさせたかっ たのよね。君の目的は達成されたわけね」 「違う、そうじゃな、 崇は首を振った。 「何が違うのよ」 、って思ってるわけでもない。確かに僕はあの男が嫌 「うまく言えない。でも、別れればいし 、だけど、あいつ、母さんには優しいんだ」 「挈」 , つ」 なまぬる 「ただイヤだった、そうとしか言えない。あの家の中のやけに生温い空気を吸ってるのが息 苦しくてたまらなかった。母さんが、僕に気づかれないよう、こっそりするすべてのことに うんざりした」
だま あの顔に何人の男が騙されたことか。いいや、男だけじゃなく、女だって騙される。そし て、それは自分にも言えることだった。萌はオードプルの魚介のテリーヌにフォークを突き 立てた。 幼稚園で初めて一緒になった時から、不本意ながら、萌はいつもるり子の騎士役だった。 それは本来、男の子が任されるべき役回りなのだろうが、何かあるとるり子は必ず萌に泣き 付いてくる。そのために周りの男の子から嫌われたり、女の子たちから総スカンをくらった こともある。損な役割だとわかっていても、るり子のあの可愛い顔で泣き付かれると、つい イヤとは言えなくなってしまう。 高校でやっと別の学校になったが、大して変わりはなかった。その頃はまだ家も近かった せいで、用もないのに、よくるり子は遊びに来た。そうして、好きでもない男の子に告白さ れて困っているとか、友達の付き合ってる男の子が私を好きで三角関係の真っ最中とか、そ もら んな話を聞かされた。貰ったラブレターを見せられることもあった。内容は、これが高校生 の文章かと思えるほど幼稚で「好きで好きでたまりません」とか「あなたは僕の理想の女の 子です」とかいうようなことが、てにをはも不完全に書かれてあった。 恋男の子の低レ・ヘルにはぐったりしたが、何より、男どもはいったいるり子のどこを見てる しのだろう、と呆れてしまう。こんな見かけ倒しの女はいない。優しくて、可愛くて、女らし うめば 肩 、という皮を一枚めくれば、気紛れで、自惚れ屋で、浅はかでしかない。だいたいるり子 9 は誰よりも自分が大好きな女だ。自分が大好きな女ほど、始末に悪いものはない。
「あなたが都合の悪い時は、断ってくれていいの。私は全然、傷ついたりしないわ。考えて みれば不倫にはびったりの愛人よ」 ちやか 茶化すように萌は言った。もちろん、自分を愛人だなんて考えているわけではない。だか らこそ、言えるセリフだった。けれど、そうじゃないならどういう関係なのかと聞かれても、 ふさわしい答えは出てきそうになかった。 柿崎が上目遣いで萌を見た。 「ところが、状況がちょっと変わったんだ」 「どうしたの ? 」 「不倫じゃなくなりそうだ」 「ど ) , つい , っ一と ? 」 「妻が出て行った」 「ゆうべ、離婚したいって、置き手紙を残して」 萌は半分口を開けたまま、柿崎を眺めた。 つん
8 「うん」 キッチンに入って用意を始める。トーストにオムレッ、サラダ、そしてコーヒー。どこか のホテルのセット朝食のようなものだ。それらをトレイに乗せて居間に戻った。 「ここ、景色悪いね」 「 , つん、すごいでしよう」 隣のマンションのペランダはすぐそこで、ゴムの伸びたプリーフやレースのほっれたプラ ジャーや、ピカチュウがプリントされた子供の e シャツなんかがはためいている。 テープルについて、崇はオムレツを口に運んだ。 「おたくたちって変わってるね」 「私と萌のこと ? 」 「僕みたいなどこの馬の骨ともわからないような奴を、あっさり家に泊めちゃったりして さ」 「昨日、自己紹介したじゃない 「そんなの口から出まかせかもしれないとは思わないの ? 」 「そうなの ? 」 「そうじゃないけど、可能性はないとは言えないだろう」 「だって萌が家に泊めたんだもの、それだけで十分」 崇が上目遣いをする。
146 「呆れて、ものも言えないわ」 タクシーの中で、萌はため息をついた。 「たまたま募集の貼り紙を見つけたんだ。ちょうどいいと思ってさ」 崇は悪びれる様子もない。 「それにしたって、あんな所でバイトしようなんて、いったい何を考えてるのよ」 「あんな所って言うのは、ちょっと問題発言なんじゃないの ? 職業に貴賤はないって言う だろ」 生意気な口調に腹が立つ。 「職業のことを言ってるんじゃないわ。君、自分がいくつだと思ってるの。十五でしよう、 少年法に引っ掛かったらどうするのよ」 「うまくやるよ。どこに行っても十八で通るよ」 崇がアクビをして、シートに深くもたれかかった。 「わかってないわね。もし警察にでもバレて、あの店が営業停止にでもなったら、どう責任 取るつもりなのかって言ってるの」 あき きせん
「もしかしたら、あれからずっとあそこで待ってるんじゃないのかしら」 「シャワー浴びてからでもいいよ」 「君も、そのこと知ってるわよね。そうよね、駅使ってるんだもの、もちろん見てるわよ 「ビールにする ? それともチュー、 ノイ ? 冷酒もあるけど」 萌はソフアから立ち上がり、声を高くした。 「ちゃんと聞きなさいよ、ちゃんと話してるんだから」 キッチンの中で、背を向けたまま崇は答えた。 「ここを出てゆけって一一一一口うならそうするよ。僕はどうせ居候の身なんだから」 「そういうこと言ってるんじゃないでしよ。、 しくらひどい継母とは言え、あの姿を見て何か 思わないの ? 」 「全然」 返事はあくまで素っ気ない。 「でもね、いつまでもこのままではいられないわ」 ふてくさ 崇は不貞腐れた顔をした。 「わかってるよ、それくらい。僕だってそれなりに考えてるさ」 「本当に ? 」 「当たり前だろ」 ね」
弁護士はるり子を見ると、呆れながらも、どこか親しみを持った目で出迎えた。 「まったくあなたも懲りない人ね」 るり子は首をすくめた。 「次は必ずいい男を捕まえてみせますから」 弁護士が目を丸くする。 「まだ結婚するつもりなの」 「もちろん」 今回は信之の浮気という、原因がはっきりしている離婚なので揉めることはないだろうと 言われた。 「でもね」 と、弁護士がソフアにもたれて、足を組んだ。 「あなたの場合、離婚のことよりも、結婚そのものについてもっと考えた方がいいんじゃな いかしら」 人お説教とも言える言葉だったが、るり子は余裕をもってほほ笑んだ。 「結婚すれば幸せになる、その幻想を捨てない限り、女は自分の足で立てないのよ」 肩 殊勝な顔で頷きながらも、るり子は内心では違うことを考えていた。 女にはふたつの種類がある。自分が女であることを武器にする女か、自分が女であること
「君もそこらの家出少年と同じようなこと一一 = ロうのね」 「おたくは、僕の親父を知らないからな」 「何もかも親のせいにするつもりなの ? 本当に君は自分が何も悪くないと思ってるの ? 」 崇の表情が堅くなった。 「じゃあ聞くけど、僕に家出以外の何ができるって言うのさ。おたくも一言うわけ ? 言いた いことがあるならちゃんと自分で稼いでから言えって。すねかじりは黙って親の言うこと聞 いてろって。それって、まさに大人の発想だよ。おたくの視点は親父そのものだよ」 萌は黙る。そして気がつく。 しつの間 本当にそうだ。崇の言う通りだ。あんなに大人に反発していた頃もあったのに、、 にか自分が大人になっている。そんなエラそうなことを、年上であるということだけをたて にして、正当化しようとしている。 「いいよ、わかったよ」 崇は足元に置いていたザックに手を伸ばした。 人「何なの ? 」 窈「降りる」 ご「帰るってこと ? 」 「まさか」 Ⅷ「じゃあ、どうするのよ」