犬が地面を蹴った瞬間は見えなかった。ただ、あっと思った時には、わたしの横にいたピア ス男に、犬が飛び掛かっていた。立派な体格をしたシェパードだ。暗い中でも、黒い体毛は濃 く見えた。貫禄がある。襲い掛かられた男は、ひっと声にならない悲鳴を上げて、地面に倒れ 込んだ。 「いいぞ、食い殺せ ! 」通りすがりの男が、笑いながら声を上げた。 河崎だ。わたしはようやく、その男の正体に気がつく。 大が、倒れた男の服を咬んで、 ぐいぐいと引っ張っている。 「ふざけんなよー女が慌てて、駆け寄ってくる。暗いためによくは見えなかったけれど、彼女 の姿勢と、薄ばんやりと浮かぶシルエットから、ナイフが握られているのは分かった。 大が刺される、とわたしは目を瞑った。心臓の表面がめくれ上がり、ささくれ立つような、 恐怖だった。 けれど、覚悟していたシェパードの悲鳴は聞こえてはこない。ゆっくり目を開けてみると、 シェパードは倒れた男から顔を上げて、女のほうに向き直っていた。そして、牽制するかのよ うに唸り声を上げて、睨んでいる。 女はその勢いに怯んだのか、ナイフを持ったものの、近づけないでいた。 わたしはそこで身体を思い切り左右に振った。 羽交い締めにしている男も、シェパードに気を取られていたためか、隙があった。 わたしの身体はそのまま地面に落ちて、解放された。四つん這いで、必死に逃げる。転がり、 けんせい 279
するとドルジが、人差し指で、一一つ離れたところのネットを指差した。「 ( あれ、河崎さんか 「え ? 」目の前を黒猫に横切られたような気分になった。不吉、と言うべきか、不快、と言う べきか、縁起でもない。その名を呼んではいけない、と。 そうしん 痩身の男が、わたしたちには背を向けて、つまりは左打席に人り 、ヾットを振っていた。特 別にうまいわけでもなかったが、それでも三球に球くらいは、快音を響かせた。 ネット越しに横顔が見えて、わたしは顔をゆがめる。「 ( そうね、あの男だ ) 」 知らぬふりをして帰ろうと思ったのだけれど、その前に、ドルジが近づいていってしまう。 ホームペース脇の筒のような入れ物にバットを戻し、河崎が外に出てきた。「やあとドルジ に手を上げた。 相変わらずの中性的な顔立ちだった。細くて柔らかそうな髪は美しく、目が大きかった。く つきりとした眉毛が鋭敏な印象を作っている。 「琴美もー彼は、馴れ馴れしく、わたしに向かって手を上げた。 「呼び捨てにしないでほしいんだけど」 河崎は長袖のシャツを着ていた。ラフだったが、細身のパンツと合っている。「怖いな。 しいじゃないか、琴美は琴美なんだから」と能天気に笑う。「下手に、『さん』付けで呼ぶと、 親しくない感じがする」 「親しくないんだけど」わたしは鼻息を荒くした。わざとらしく周囲に目を走らせる。「珍し
「河崎君はどうして、やらなかったの」麗子さんが、河崎に訊ねた。 動物園を一周した後、小さな売店でアメリカンドッグを買い、三人でべンチに座っていた。 「やらなかった ? 」 「彼が計画を立てたんでしょ ? 江尻を殺す計画を練った。それなのに、どうして、彼は実行 しなかったわけ ? 」 簡単な答えだよ、と笑った。 「その前に死んだから」ドルジが眉を上げた。死んだらやれない。 「俺に計画を話していたのに、突然、死んだんだ」 「せめて、実行してから死ねば良かったのに」麗子さんは妙なところに憤っている。 そういう問題ではないだろうに、と僕は思うのだけれど、ロを挟めない。 「河崎の知ってる女の子がその頃、死んだんだ。同じ病気で」河崎が溜め息の後で言う。「そ の後、急に元気がなくなった。あっという間だった」 「彼がうっしたの ? 」 「彼はそう思ってた」 ◇現在◇ 344
な」と言った。額から汗が流れているのが見える。どういうわけか、シンナーの匂いがした。 左右を見る。この近くに、壁に落書きをする人間でもいるのだろうか。 「歌うテンポが速かったのかもしれない」僕は言い訳をした。 「行こう」河崎が言う。 「広辞苑は ? 」 「ばっちりだ」彼は、抱えていた分厚い本を僕に向けた。 暗闇に目を凝らし、その表紙を見て僕は声を上げる。「『広辞林』だよ、それ。『広辞苑』じ 河崎は驚いたように、本を持ち直す。背表紙をじっくり見て、「そうかーと、疲れた声を出 間の抜けた終わり方だな、と僕は思った。せつかく手に人れたのに、一字違いの別物だった なんて、地味で下らないオチだ。 「大したことはなかった」車をバックさせながら車道に出ると、ギアを替え、河崎はそう一言っ 「僕がやったのは強盗とはとても一言えないよ、ただ立っていただけだし。でもまあ、とにかく、 無事に終わって良かったよ」 「大事なのはこれからだ」 147
「どうせ、河崎が教えた言葉ですよ」 「そうだ、河崎さんと、病院、行きました」 「え ! 」わたしは大声を上げてしまう。「病院ってどこか悪いの ? 「違います。河崎さんです」 「ああ」とたんにトーンが落ちるのは仕方あるまい。「あの男、そう一一一口えば健康診断に行って たつけ。どうして、ドルジも一緒に行ったの ? 」 ええと、とドルジは日本語を探すために首をひねりはじめる。観念したかのように、苦い表 情を浮かべると、「 ( 興味があったから ) 」と英語に戻した。「 ( 病院に行ったこともなかったし。 河崎さんも、一緒に来るか、って言ってくれたし。だから、待合室で座っていた。あんなに混 んでるとは思わなかったけど ) 」 「 ( 健康な人だって、あんなに混んでるところに行ったら、病気になるよ ) 」わたしが冗談めか すと、彼は、「ほんとです」としみじみとうなずいた。そして少ししてから、「実は」と言い出 した。「悪戯しました」 「悪戯 ? 」 「河崎さんの袋、へ、これ人れました」とわたしの持っているレコーダーを指差した。「ボタ ン、押して」 「これを ? 」 「ヌスミキキです」 236
「誰に、渡します ? 」 「くじを渡す相手 ? 猫に任せればいいじゃない、そんなの」 「河崎さん、あげますか」 「あの男には、たとえ外れくじだってあけたくない」 「あの猫はいつも、何するので、来ますか ? 」 テレビの前で、足を上げて、膝のあたりを舌で舐めはじめた猫を、ドルジが指差した。 「暇潰しじゃないの」 「潰す ? 何、潰しますか ? 」 「暇を潰すのよ」 「叩いて、潰しますか ? 」ドルジは冗談を言っているような顔ではなかったので、おそらくは 本当に分からなかったのだろう。 電話が鳴り、黒猫が真っ先に反応を見せた。首をびくっと動かして、電話機を睨みつけるよ うにした。舌を出しっ放しにしているのが、愛らしい わたしも同じように、身動きをせず、電話を眺めていた。すぐに受話器に手を伸ばさなかっ たのは、不吉な予感のようなものがあったからだ。 「出ないですか ? ドルジがわたしの顔を、怪訝そうに見る。 部屋の電話は、ドルジではなくてわたしが取ることになっている。田舎の両親からの電話だ と、面倒だからだ。ためらっているうちに、留守番電話に切り替わった。録音されたわたしの
屋で待っている段ボールのことが気になっていたからでもあったが、何よりも、このままこの 部屋に居座っていると、そのうち高価な壺やら簟笥やらを買わされる羽目になるのではないか、 とそんな恐怖に襲われはじめた。 「それで」河崎が言った。「それで、俺は辞書をプレゼントしたい」 「それはい、 しと思うよ」ますいな、早く帰らないと、と膝を立てる。 「ただの辞書ではなくて、厚くて、立派なやつを」 僕は腰を上げるタイミングを計り、そわそわとしていた 「広辞苑を奪ってやるんだ」 河崎の言葉が耳に飛び込んできた。はじめは聞き間違いかと田 5 った。 「何をどうするって ? 」 いくぶん興奮を見せながら、ロの端を吊り上げた。「広辞苑を奪うんだ」 彼は鼻を広げ、 言葉を失った。床が抜けて、自分だけが宙に浮いているような、取り残されている感覚にな る。顔の皮膚に細かい震えが走るのが分かった。 「というわけでだ」彼はさらにつづけた。「一緒に本屋を襲わないか」 教訓を学んだ。本屋を襲うくらいの覚悟がなければ、隣人へ挨拶に行くべきではない。
らませた。 「こんな馬鹿、放っておいて、もう行こう」わたしは、ドルジに言う。腕時計を見る。休憩時 間がだいぶなくなっていた。 「ドルジはまだ平気だろ。もう少し、喋ろうじゃないか 「まい。 平気、です」ドルジは、どういうわけか河崎に親しみを抱いているようで、楽しげだ。 「まだ、話、したいですー 「やめたほうがいい って。こんな男と一緒にいるとさ、軽薄が伝染する。浮気怪人が乗り移る ドルジはきよとんとしていた。たしかに、「軽薄」や、「怪人」という日本語は、難易度が高 いかもしれない。「ソウデスネ」と答えてきたものの、席を立とうとはしない。 「そうそう」河崎は別に、わたしを帰すまいとしていたわけではないだろうが、さらに話し掛 けてきた。「琴美は、最近のペット殺しの事件をどう思っているんだ ? 」 まさにその事件こそがわたしを苦しめている問題であったので、危うく悲鳴を上げてしまい そうになった。コップの水で、悲鳴を流し込んだ。 「あれはどうなんだ」河崎が訊ねてきた。 「どうって何が」 「新聞で読んでいるだけでも、一一十件くらいは起きている。犬や猫はかりだろ。ペットショッ プでは話題にならないのか 132
「そういう曖昧な返事がさ、舐められる原因になるんだよ」河崎がすかさず、指摘した。 「舐められ、ますか」 「舐められるね。人気のソフトクリームより舐められる。貼りなおしの切手より舐められるせ」 「つまらない譬えなんだけど」 「プータンはいいよなあ」河崎は両腕を上げて、伸びをする。 「行ったこと、ある、ですね」ドルジは、わたしが昨日話したことを覚えていたようだった。 「十日くらいしかいなかったから、偉そうなことは言えないけど」河崎の数少ない長所のひと つは、自分に不足しているものは不足していると認めることだ。「でもね、レッサーパンダと 宗教が存在する国なんて、すごく羨ましい」 ドルジは耳をかたむけていた。どうにか単語を拾うことができたらしく、「 ( 宗教を信じる の ? ) 」と訊き返していた。 河崎は困ったように眉毛を下げた。彼が何と答えるのか、わたしも少しだけ興味があった。 「難しいな」河崎がそう答える。「君たちにとっては、宗教というのは信じるとか、信じない とか、どうせ、そういうものではないんだろう ? 君たちにとっては、宗教はそこに『ある』 ものなんだろ。はじめから、ある」 . 「ソウデスネ 「プータン人は蠅も殺さないんだせ」河崎は自慢話をするかのように、わたしに言った。「生 まれ変わりを信じてるから、その蠅が自分のおじいちゃんじゃないか、おばあちゃんじゃない
もし仮に、僕に日記を書く習慣があったら、欄に書ききれないくらいにさまざまな出来事が 起きた場合、どうしていたたろう、と田 5 った。たとえば、今日みたいに。 猫がくじを持ってやってきた。鍵をかけていたはすの部屋から、教科書がごっそりと消えて 書店に行ったら、妊娠と出産の問題に思い屈する少女に会った。 これだけでも盛りだくさんであるのに、おまけに夜の部もあったのだ。眠った後に、だ。 唐突に鳴った電話が僕を起こした。枕元の目覚し時計を見ると、夜の十時だった。「どうし てこんな時間に」と電話の主を叱るには早い時刻だったし、むしろ、「どうしてこんな時間に」 とすでに就寝していることを相手に怒られても仕方がない時刻だった。 受話器を上げる。寝惚けていたせいだろう、これが誰か若い女性からの間違い電話で、そこ から恋愛がはじまったりしないかな、と馬鹿馬鹿しい期待がよぎった。求む、劇的な展開、と 頭に、そんな願いが映し出される。残念なことに、受話器の向こうから僕の名前を呼んだのは、 聞き慣れた母の声だった。 ◇現在 9 ◇