そうやな、と山田が顔を寄せてくる。真似をするように、僕も一覧表を見たが、どうも目が 文字を上滑りする。 とりあえず僕たちには、「いかに講義を受けないで、単位を取得するか」というひどくあり ふれた方針しか設定されていなかったので、友人から情報を仕人れてきた、と鼻を膨らませる 佐藤の一 = ロ葉に従い、目ほしい講義を選んでみることしかできなかった。 「でもな、こういう他人の前情報って、あんま、当てにならへんもんな」山田がぼつりと言う と、佐藤がむくれた。 食べ終えると、本屋に教材買いに行こか、と山田が言った。昨日、教科書を何冊か買ったも のの、まだ足りない。買っても買っても揃わないのは、大学教授たちの陰謀ではないか。 本屋、という一一一一口葉に反応し、僕はその瞬間だけ、昨晩襲った本屋のことを思い出した。あの 店は今、どうなっているのだろうか。ニュースはどうだろう。新聞や、噂や、騒ぎは、警察は、 したいど , つなっているのか。 正面に座る山田が、「大丈夫か ? 何考えてんねん」と怪訝そうな声を向けてくる。 教材を買うお金のことを考えていたんだ」 僕は首を横に振る。「何でもない。 山田が売店の店員の悪口を連発し、佐藤が地元の飲み屋での失敗談をとうとうと話し、それ をたつぶりと聞いた後で食堂を後にした。 屋根のついた通路を横切ったところで、佐藤が僕の腕を、肘でつついた。「おい、あの女、 学生じゃないよな」 174
いっしやせんり 山田はまだしも、車の話題となれは一瀉千里に喋っていた佐藤も車を所有していないと知り、 じようせつ 裏切られた気分になった。さも毎日ドライプを楽しんでいるかのような、そんな饒舌さだった / 、廿一 ) に 0 僕たちは大学構内にある喫茶店で、昼食を食べていた。三人で、面白い話題をつまらなさそ うに、つまらない話を面白そうに、喋っている。 「車、何に使うの ? 」と持ってもいないくせに佐藤は詮索をしてきた。 「いや、行きたい場所があるから、乗せてほしかったんだけど」隣人の後を追うのだ、とは言 わよ、。 「ははん、こないだの美人やな ? 」山田が顔を近づけてくる。安っぽい長いテープルの上の醤 油を手に取って、自分の皿にかけている。 コロッケにはソースでまよ、ゝ、 ( オし力と気になりながらも、「そういうわけでは」と僕は曖昧な 返事をした。すると、その曖昧な返事がよけいに彼らを煽ったようだ。「いいよなあ、やつば り学生生活には彼女がいないとな」と佐藤が首を振った。 ◇現在◇ 261
外国人のことが頭に浮かんだからだろう。それに僕は、今まで相手の国籍を意識するような環 境にいなかったので、実際のところ、他人の姿や考え方には無頓着だった。 「何考えてんか分からへんやろー山田が口をゆがめた。 そんなことを言ったら、日本人だって同じだ、と田 5 ったけれど言わなかった。もしあれがア メリカ人でも君は同じことを言うのか、と問いただそうとしたけれど、それも口には出さなか っ」 0 ただ、言い方を変えて、「もし、僕が外国人だったらどうする ? 」とだけ訊いた。 「え、ホントに ? 佐藤の顔はひどく不愉快そうだった。その反応を受けて、僕も不愉快にな る。「いや、たとえばだよ」 彼は、僕のことを上から下までじっくり観察するように見た。「まあ、好んで喋りたくはな いよな」 「どうして ? 」 「馬鹿にしてる、とかいうわけじゃないけど。面倒臭いだろ。日本人同士なら説明しなくても 分かるような、暗黙の了解みたいなのがあるじゃないか。それを共有しない外国人とわざわざ 話をするなんて、面倒臭い」 引っかかるものを感じたけれど、どことなく納得できる意見のような気もした。 「ようするにさ」と佐藤は言った。「どんなに仲良くなっても、分かり合えない気がする」 それは言えているかもしれない、と僕も田 5 った。山田と佐藤の話に交じりながら、とにかく 111
うわっ、と声を上げたのは山田のほうだった。「すげえ美人やな」 「大人の女ってああいう感じかな」佐藤が言うが、十代後半の僕たちから見れば、すべての女 性は、「ガキーか「大人に分類できるような気もした。「学生じゃなくて、事務の人かな」 「でも、白すぎやわあ、あれは」山田が顔をゆがめる。「能面かうどんやで」 「うどんはそれほど白くないだろ」佐藤がつまらないことに、むきになる。 僕には、彼らのやり取りはあまり耳に人っていなかった。それどころではなかった。 彼らの指し示す方向、十メートルほど離れた場所の、講義棟前のべンチに座っていたのは、 僕が一昨日、バスの中で目撃した女性だったのだ。 痴漢に果敢に立ち向かい、停留所で降りて喧嘩をはじめる勢いすら見せた、あの色白の女性 だ。その彼女が、丸太を横にして作ったべンチに、腰を下ろしている。 山田と佐藤が書店へと歩いて行くので、僕は、「別行動を取るよ」と声をかけた。 「どこに行くんだよ」 「あの女の人に用があるんだ」そう正直に話すと、彼らは憮然とした表情で、「おまえって、 結構、行動派なんだな」と驚いた。 「あの」と声をかけると、相手はゆっくりと僕を見上げた。「あ、あの、この間、バスで見か けたんですけど」 「バス ? 」表情がまるで変わらないので、不愉快なのかどうかも判然としない。 175
「チャイムを押してすぐに出てこなければ、留守だ」 僕はうなずいてから、時計を見た。山田と約束した時間が近づいている。「そろそろ学校へ 行かなくちゃいけないんだ」 玄関で、河崎の靴が目に人った。無造作に置かれた赤いバスケットシューズが泥まみれにな っている。千切れた草や土もついたままだ。書店を襲うのにこんなに汚れてしまったのか、と 感心してしまった。一緒に行った僕の靴はそこまでは汚れていなかったので、たぶんそれは活 躍や熱心さの違いのあらわれなのかもしれないな、とも田 5 った。 大学の売店前で山田と佐藤と合流し、他愛ない会話をはじめると、僕の身体に太平楽な思い が広がりはじめた。まるで日干しにされた布団が乾くように、僕の中の後ろめたさが蒸発して 新年度がはじまったばかりのせいか、構内は学生で溢れていた。 壁にはサークルの勧誘チラシが貼られているし、そこここで、新人生が声をかけられている。 盗んできたと思われる、酒屋の看板に紙が被せられ、サークルの名前が大きく書かれたりもし ていた。 構内の食堂で、板張りの安っぽい長机に三人で座り、カレーライスを食べる。 「講義、どれを取る ? 」と、カリキュラムの一覧表を広けて、佐藤が言った。彼の白いジャケ ットは洒落ているが、買ったばかりなのは明白だ。 173
が正しい し - 」う 出会ったばかりで、趣味や嗜好も分からない相手と、お互いのカードを探り合う。そんな感Ⅱ じだった。自然体を装いながらも、失態やマイナスポイントを見せないように、戦々兢々とし ている。新鮮と言えば新鮮だったし、楽しいと言えば楽しい。疲れると言えば疲れる。シュー ト後の位置取りはまだ続いている。 山田は、しきりに地元とこの土地との差異をあげつらっていた。「うちのほうはな」という まくらことば 台詞を枕詞に掲げて、早ロでまくし立てる喋り方は、どこか攻撃的だった。彼の話を聞いて いると、彼の地元、関西はとてつもない楽園に田 5 えてくるのだが、とりあえす話半分に聞いた。 一方の佐藤は、地元出身の男で、どうやら遊び人と認識されたがっているのか、しきりに、 「女ーと「飲み屋」と「車ーの話をしたがった。 「へえ」と僕はそれぞれに相槌を打ちながらも、取り残された気分になった。「へえ、凄いね」 前へ前へと出ていくタイプではない僕は、相手の話を聞くのに精一杯で、敵地で戦うサッカ ーチームのように守備的だった。下がれ、下がれ、勝ち点が取れれは上出来だぞ。 三人で地下鉄に乗っていると、外国人が座っていることに気がついた。民族衣装のようなも のを着ているので、おそらくはインドかそちらのほうから来た人なのだな、と想像する。 「外人って何か嫌ゃなあーと僕の耳兀で言ったのは、山田だった。 「ああ、俺も俺も」と佐藤が言う。 とっさ 「そうかな」僕が咄嗟に反論するような声を出していたのは、おそらくアパートに住んでいる
翌日は、麗子さんとも河崎とも顔を合わさなかった。むしろ、避けるように過ごした。 朝から刑事訴訟法の講義に出て、そのまま夕方まで大学にいた。マイクでだらだらと喋って いるだけの教授もいれば、暑苦しい大声で、生徒を煽るような人もいた。僕は、壇上で動いて いる彼らをほんやりと眺め、時々、思いついたようにノートにメモをする。 あまりやる気はなかった。三島由紀夫の小説に、「法科が厄介なのは二年目だ」とあったの を、その根拠がどこにあるのかもさつばり分からないくせに、信じていたのかもしれない。 年目はまだいいや、とそんな甘えがあったのだ。 受けるべき講義がすべて終わると、帰り支度をはじめる山田と佐藤に声をかけた。 「ばーっと飲もう」と僕は大袈裟に言った。彼らは、さてはあの色白女性にふられたんだな、 と解釈したかもしれない。いいな、そうしようせ、と肩を叩いてきた。 僕は、何もかも忘れたい気分だった。 人院中の父のこと、書店を襲ったこと、麗子さんから聞いた二年前のこと、河崎が河崎では四 なかったこと、彼が夜中に出かけている場所のこと、それらについて考えることをやめて、頭 ◇現在◇
「違うよ」 「何だよ、学生に恋人は不要なのかよー 「そういう意味じゃなくてさ 学生、という言葉を聞いたせいか、僕は一昨日の晩にかかってきた母からの電話を思い出し た。「おまえさ、大学、辞める気ある ? 」というあの台詞は、驚くほど軽かった。気を抜いて いたら、「喜んで」と安請け合いをしてしまいそうなくらいの、軽さだった。 派手な職業でもないし、利幅の 自分の気持ちを明かせば、僕は靴屋が嫌いなわけじゃない。 少なさそうな商売は、それで生活できるかどうかを別にすれば、性格に合っているようにも田 5 靴というのは生活には必要な品物だし、煙草や刃物に比べれば危険が伴わない気がするし、 お客さんの足に靴がフィットしたら嬉しいだろうし、「自分の売った靴を履いて、それで誰か が一日を生きているんだな」と勝手に想像して幸福感を得ることも、僕にはできる気がする。 だから、店を継ぐことに対する強烈な抵抗感はないのだけれど、それにしても、急だ いずれ靴屋をやるにしても、学生生活を楽しむくらいの猶予はあってもいいんじゃないだろ うか。心構えというものもある。 「でもさ、車でデートするにしても、椎名だって免許持ってないんだろ ? 」佐藤はまだその話 題を口にする。 「そうやな、タクシー使いいや、タクシーでデートやって」と山田がからかってくる。 262
いたが、他の歩行者が歩けないこともない。 それなのに、河崎は次々と自転車を蹴った。がしゃん、がしゃんと派手な音を立てて、自転 車が転がった。その脇に停められていた自転車が一一、三台、ドミノ倒しのように倒れた。 「なんや、あいつ」山田が言った。「頭おかしいんちゃう ? 自転車蹴りたい症候群ゃな」と 冴えないことを口にした。僕は、儀礼的に笑う。 「よっぽど腹が立ってるんじゃないか ? 」と佐藤が答える。 「うちのほうには、あんな奴はいてないで」山田はそんなことにまで、地元を引き合いに出し 」 0 僕は茫然としたまま、声が出せなかった。その光景を眺めているだけで、精一杯だった。山 田の言う、「あんな奴」が、自分の知り合いだとは言い出せない。 また、自転車の転がる音がする。 そんな臆測が生まれた。 河崎には、突発的に荒っぽい行動を起こす癖があるのかもしれない。 書店を襲って広辞苑を盗む、だとか、街に停めてある自転車を片端から蹴り倒していく、だと か。常識外れのことはかりやろうとする病気が彼にはあるのかも。 ふとそこで僕の視界の端に、男性の姿が映った。 杖をついている。立ち止まったままの僕たちを、追い越していった。 白い杖だ。それから男性がサングラスをしているのを見て、この人は目が見えないのかもし れない、と気がつく。
大学の売店前で、佐藤も含めた三人で待ち合わせる約東をし、電話を切った。 自分の気分が萎れないうちに家を出ようと、新品のトートバッグを抱える。 猫の鳴き声がしたのはその時だった。窓は開け放しのままだ。あ、ますい、と思った時には、 シッポサキマルマリが抜け目なく、部屋に人ってきていた。 ふてぶてしさを見せ、シッポサキマルマリは部屋を歩き回る。追い出そうと思い、手を伸ば すが、効き目はない。 シッポサキマルマリは部屋の角へ移動し、走ったり、止まったりを数回 繰り返した。 尻尾に紙切れが結ばれていることに気がつくのに、さほど時間はかからなかった。折れ曲が った部分に結わえられているのが見えた。シッポサキマルマリの、まさにシッポサキマルマリ たる箇所に、というわけだ。 目の前を通り過ぎたタイミングを狙い、紙をつまむことに成功する。念人りに結ばれたもの ではなく、一一回ひねると、簡単に取り外せた。 シッポサキマルマリは、突然シッポをいじられたことに驚いたのか、不快に感じたのか、棘 のある声を上げると、窓から出て行った。僕は大慌てで、窓を閉める。 手に残った紙切れを、あらためて確認する。手の平におさまるくらいの小さな紙だった。折 り畳まれているのを開いていくと、数字当てのくじだ、ということは分かった。 四桁の文字が印字されている。 買ったことはなかったが、町中で売っているのはよく見かける。購人者が三桁や四桁の数字 167