表情 - みる会図書館


検索対象: アヒルと鴨のコインロッカー
73件見つかりました。

1. アヒルと鴨のコインロッカー

「和久井さんに ? 」麗子さんもじっとしていられなかったのか。 「そう。せんせん喋ってくれなかった」 「でも、最初は、自分で言い触らしに来たんですよね」 「そう。ただ、こっちから会いに行くと、馬鹿にされてると感じるみたい」 和久井さんは、ペットが盗まれたことを自分の失態や汚点だと感じはじめたのだな、とわた しは想像した。はじめは、同情を引こうとしていたけれど、そのうち、嘲笑されるような気に なった。ありえないことではない。 さらに彼女はもともと、麗子さんに競争心を抱いているのだ、とわたしは踏んでいた。年齢 も同じくらいであるし、未婚である点も一緒だった。置かれている状況が似ていると、仲間意 識が芽生えるか、反撥心が生まれるか、そのどちらかだと思うのだけれど、和久井さんの場合 は明らかに後者だ。麗子さんは美術品のような美しさを備えているにもかかわらず、男には 興味がなさそうだし、無表情で冷たい応対しかしていないように見えるのに、実は客からの評 判が良かったりするので、和久井さんとしては気に人らない点はいくつもあるのだろう。 「でも、ちょっと聞いてきます」ライバルではないわたしには、もう少し話をしてくれるので はないか、と期待した。「いいですか ? 」 「そう、だね」 「軽く聞き出してきますよ」わたしは自分の右腕にカ瘤を作って、叩いた。それを見ながら、 麗子さんは冷静な声で、「和久井さん、手強いから。無理せすに」と言った。 ちからこぶ 156

2. アヒルと鴨のコインロッカー

「無表情、冷静沈着、『明日から一日ひとつずつ核兵器を爆発させていきますので、地球はち よっとずつ滅んでいきます』なんて言われても、動揺ひとっしない」 わたしの懇切丁寧な譬え話のどこが可笑しいのか分からないが、河崎は聞いているそばから しやく 笑い、それはそれで様になっているので癪なのだけれど、とにかく、はしゃいだ声を出した。 「大丈夫、俺と交際をすれば、麗子さんも表情豊かになるよ」 「あんたのその、自信がどこから来るのか、知りたい。どこから来たの」 「自信は、経験と実績から来るんだ」言った後で、河崎の表情が濁るのを、わたしは見た。自 分の発言によって、刺し貫かれたようでもあった。 「違うって」わたしは、目の前の水を振りかけてやりたいのを我慢する。「それは過信でしよ。 不安をともなわない自信は、偽物だ」 「こう見えても、俺はさ」 「『べッドで女を幸せにすることに関しては、自信がある』でしよ」わたしは先に言ってやる。 それは彼の昔からのスローガン、もしくはキャッチフレーズのようなものだ。 「よく覚えてるなあ」 「でもね、麗子さんは仮にあんたとセックスしても、眉ひとっ動かさないから」根拠はないが、 自信はあった。経験と実績なしの、自信だ。 「最近、俺はようやく大事なことに気づいたんだ」 「何 ? 」 128

3. アヒルと鴨のコインロッカー

「昨日来た、あの河崎君というのは面白い子だね」麗子さんは、客から預かってきたという三 毛猫の爪を切りながら、床を掃除しているわたしにそう言った。 午前中の開店後の時間帯は、表通りも空いているし、店の仕事ものんびりと進められる。店 ひなた そそのか の前で、陽射しに唆されたわけでもないだろうが、普段はいないはすの土鳩が、日向を選ん で、三羽うろついていた 「もしかして、ここにまた来ました ? 」 「さっき」麗子さんは、相も変わらぬ無表情だった。「一時間くらい前。開店と同時に人って きて、それを置いていった」 ドア近くにある、玩具や首輪を並べた商品棚の上に、可愛らしい白い花の鉢植えが置かれて 「あの」わたしは気にかかる。「何か下らないことを言ったんじゃないですか」 「『花が世の中を豊かにするなら、麗子さんは花ですよ』だって。可笑しい」と言いながら、 くすりともしない。 ◇ニ年前 ◇ 149

4. アヒルと鴨のコインロッカー

「よく聞こえません」ドルジが眉を下げた。「でした」 「 ( 隠して録音したから仕方がないよ ) 」わたしはレコーダーをドルジに戻す。「 ( でも、よく、 袋から回収できたね ) 」 「 ( 河崎さんがトイレに行った時に、取った ) 」 「でも、あんまり大した情報は得られなかったね」わたしは伸びをして、大袈裟に残念がった。 「ひどい病気だと分かったら、それをネタに攻撃できたんだけど 「攻撃 ? 」と不安そうな顔をしたドルジは、爆撃や殴打などの物理的な攻撃を思い浮かべたの かもしれよい。 腕を上げたまま、麗子さんと目が合った。いつも通りの無表情ではあったけれど、右手を顎 にあて、小首をかしけている。「麗子さん、どうかしました ? 」 「いや」と彼女は、わたしの質問をはねのけたがっているように見えた。 ドルジがそこで、肩を叩いてきた。「僕、時間です。行きます」 時計を見て、わたしもうなすく。 「 ( じゃあね ) 」ドルジはレコーダーを振って、そうして背中を向け、出て行った。閉まるドア が壁を揺らした。その振動が他の雑音を吸収したかのように、店内に静寂が広がった。 麗子さんは何事かを思案しているようだった。もちろん、表情では分からないけれど、わた しにはそう田 5 えた。 「どうかしたんですか ? 」 239

5. アヒルと鴨のコインロッカー

た。抑揚のない、い つもの喋り方だ。 「琴美ちゃんは店員なんだから、店員割引が利くし」 「店員割引ってあったんですか ? 」聞いたこともなかったので、わたしが声のトーンを高くす ると、麗子さんは、「今、作ってみた」と無表情に答えた。 どこまでが冗談なのか分からない。 「でも、うちのアパートって動物飼っちゃ駄目だからな あ」 わたしはドルジの脇に並んで、ケージを覗き込む。子犬は、転がる小さなポールを必死に齧 っていた 「犬は本当に可愛い」麗子さんは数学の公式を発表するかのように、断定的な言い方をした。 彼女は、一日に十回はその台詞を口にする。言外には、「わたしだけがそれを知っている」と いう思いが込められているような気がするのだけれど、彼女のその表情のない顔つきからは何 も分からない。 「その犬を虐待するなんて、わたしは信じられないけど」麗子さんは、つづけた。 はっとして、曲けていた腰を戻す。麗子さんと向かい合う。音を立てて、血が下がっていく のが分かる。 おそけ 「虐待って、あの、例のペット殺しのことですか ? 」口にするだけで、怖気が走った。 いくら、忘れ去ったつもりでも、苦痛や恐怖の記憶というものは消えないらしい。児童公園 の杉林で騒いでいた男女の姿が、瞬時に頭に甦った。記憶の中のあの公園は、実際よりも暗 よみがえ かじ 118

6. アヒルと鴨のコインロッカー

「軍用犬ですか ? 」 「そういう人に、ダックスフントはイメージが違うって言われてもねえ」麗子さんは肩をすく めた。「耳が垂れちゃっているのが気に食わなかったらしい」 「そんなの買う前に分かるじゃないですか」 「だよね」麗子さんが首を振った。「いっか、彼女がドーベルマンを連れて、仕返しに来るの を楽しみにしている」とも言った。 ドルジはその間もすっと、真剣な表情で、録音機を操作していた。彼はわたしよりも器用で、 しかも、覚えが早い。「勉強、これで、できます、ね」 「勉強 ? ああ、なるほど」わたしはすぐにその意味が分かった。自分の発音や相手の言葉を 「いいかもね」 録音し、話しては聞く、を繰り返すのは効果的な練習方法かもしれない。 「いいかもね、です」ドルジの笑みは、柔らかい。満員電車の中で、互いの角をぶつけ合いな がら生きているわたしたちとは別世界にいる。もともとは、商人すらいなくて、大半が自給自 足で暮らしていたというプータンには、そういう緩やかな生活があるのだろう。 「でも、これってどうやって使うんだろ」わたしはレコーダーを受け取って、触ってみた。目 の前に持ち上げて、ひっくり返したり、ボタンを触ったりする。「何時間くらい録音できるの かな」 「五時間、ラクショーです」 「楽勝、ねえ」麗子さんが無表情に、言った。 235

7. アヒルと鴨のコインロッカー

けて、鳥や獣に食わせちゃえば ) 」 「 ( だから、一昨日も言ったけど、鳥葬は葬儀の一種で、殺し方とは違うんだって ) 」ドルジが ほとほと困った、という顔をした。 「 ( 生きたまま鳥に突かれればいいんだって ) 」わたしは言って、指を一一本突き出した。「 ( 特に 目とか ) 」 麗子さんは、英語が得意ではないので、わたしたちの会話には人ってこないが、嫌な顔もし なかった。犬猫のなき声と同じだと把握しているのかもしれない。 人り口のドアが開き、麗子さんが、「いらっしゃいませ」と、客商売とは思えない無感情な 挨拶をした。わたしは、一一人分の温かみを込めて、同じ台詞を発する。 人ってきた客の顔を見て、「げ」と言う。 「奇遇だなあー店内に足を踏み人れた客は、驚いた顔を見せながらも、わたしに微笑んだ。 細身のジーンズを穿いて、丈の短いジャケットを羽織ったその男は、河崎だった。腕には、 化粧の濃い女がしがみついている。わたしよりは年上だろうが、一一十代には違いない。 「知り合い ? 」麗子さんが、わたしの顔を見る。ただの質問でも、表情なく問われると、尋問 されているような気持ちになるから不思議だ。 「河崎さん」ドルジが、嬉しそうに手を上げた。 そ・つ′」う 「やあー河崎が相好を崩した。 「何しに来たわけ ? 」わたしは、むかむかとした気分を言葉に混せる。 122

8. アヒルと鴨のコインロッカー

「おい琴美、怖い顔をしてるぞ」河崎が気遣ってくるけれど、それを払いのける元気もない。 「でもよ、若者が集まって、ペットを殺して、いったい何が楽しいんだろうな」 「そのうち」わたしはあの三人の会話を思い返しつつ、言う。「そのうち今度は、人間にも手 を出すつもりなんだよ、きっと。 / さい動物を苛めてるのは、練習みたいなもので」 「練習ーと河崎が不愉快そうに発音した。「本当かよ」 わたしは返事をしようとしたが、声も出せず、足の震えを見抜かれないように、少し退いた。 店のドアが開き、鈴が鳴った。わたしは、「いらっしゃいませ」と弱々しい声をかろうじて 出した。 人ってきたのはサングラスをかけた女だった。濃いグレーのジャケットを着て、胸の膨らみ が目立つ。顎が張って、我の強そうな顔つきだった。ヒールで床を叩き、まっすぐに、麗子さ かご んに近づいた。 「電話で言ったけどさ、この犬、引き取って」と右手に抱えていた籠を突き出 す。中には、黒色の子犬が人っている。「この犬、ぜんせんイメージと違うし、好みじゃない 麗子さんは無表情のままだった。陶器のような顔でうなすくと、その籠を丁寧に受け取り、 そのまま河崎に手渡した。「持っていてくれる」 「何か、他にいい犬いないの」 わたしの嫌いな喋り方だった。 次の瞬間、麗子さんは身体を回転させていた。スムーズに、流れるようだった。腰が回り、 163

9. アヒルと鴨のコインロッカー

起きたのはチャイムのせいだった。部屋の中で、軽快な音が響いた。一度鳴ったくらいであ れば、夢の中でのことだろうとやり過ごせたかもしれないが、あまりにしつこく鳴りつづける ので、観念した。 ジーンズに足を通す。バランスが取れず、右足を突っ込んだところで、転びそうになる。目 ドアを開けた。 をこすりながら、玄関へ向かい、 「今、起きた顔だ」無表情の麗子さんが立っていた。 「何時ですか ? 」 麗子さんは右腕につけた時計をこちらに向け、「午前十一時過ぎ」と答えてくれた。 「午前の講義は間に合わない」そもそも行くつもりであったのかどうか、自分でも憶えていな 麗子さんは隣の部屋のドアに顎を向けた。「こっちに、ドルジがいるの ? 」 僕は靴に足を人れ、外に出ると、ドアを後ろ手に閉めた。「ええ。河崎が」 異なった二つの名前が同一人物を指すのは、実にややこしかった。 彼女にはためらう様子はなかった。腕を伸はすと、隣室の呼び鈴を押した。ピンポーンと鳴 る。待ち切れないのか、何度も押した。まるで呼び鈴の耐久試験をしているかのようで、なる ほど、これは僕も起こされるわけだな、と合点がいった ドアが開き、河崎が出てくる。彼は、ドアの前にいる麗子さんにはじめは顔をしかめたが、 すぐに微笑んだ。悪戯が見つかった小学生のような、純朴な笑みにも田 5 えた。 、 0 321

10. アヒルと鴨のコインロッカー

るようにも田 5 えた。彼らが襲い掛かってくるのではないか、と構えてしまう。 案に相違し、彼らの表情には興奮は見受けられなかった。「まあいいや」とも言った。 「勝手に、仲良くいちゃっいてろよ」急に面倒臭くなったように言うと、わたしたちから遠ざ つ」 0 「そうだ、あんたたちさ」女がそこで思いついたかのように口を開いた。「そっちの林に行っ た ? 」 「行ってないけど」わたしは自分の声が震えていないことに、安堵する。 「罠に猫とかかかってなかった ? 」女は、わたしの返事など聞いていないのか、さらに質問を してくる。 わたしの心臓が早鐘を打つ。 「もし、見つけたら、教えてよ」後ろにいた男がつづけた。微笑みもした。その笑みを浮かべ る表情は、接客業が務まるほど自然でもあって、わたしは、彼らに感じた不穏さについて、錯 覚だったのだな、と納得しそうになった。 「あ」そこで男が口をぼかんと開け、静かに言った。 「どうしたの」女が眉間に皺を寄せる。 「やつばり、そろそろ、人間もありかもよ」 男の一一一一口葉に、女ともう一人の男が一瞬、きよとんとした。もちろん、わたしも意味が分から ないから、きよとんとする。しばらくして女が、「この女ってこと ? 」とわたしを指差し、そ