いな気がしてしまうのです。 中高年で仲が悪い夫婦というのもそうですし、どんどんどんどん相手を変える人、という のもそうですが、そういうことをわりと恥ずかしげもなく口にしてしまったりします。でも、 そういう人の顔を見ていると、「私のセクシュアリティのあり方について」というのが全部 書いてあるような気がして、聞いているとすごく恥ずかしい感じがします。「私は相手はい るけどそんなつまらないセックスしかしていないんです」と書いてあるように思えてしまう かのは考えすぎでしようか。 の 具体的な性に関わる身体技術という意味でも、今は鍛える場所が減っているのでしよう。 7 たとえば従来の花街などに見る、色筋の方というのは、すごいパフォーマンスで自分たちを = 鍛え上げてきた人たちです。ある意味では身体技法のプロフェッショナルだというふうにも オ ぜとらえることができる。モラルといった視点で見ると、何を言っているんだ、ということに はなってしまうのですが、日本人のもともと持っていた身体文化の、一番のエッセンスが、そ 女 こには伝承されていたと思います。そういうものを通じて、セックスに関わる身体性という 4 ことで男性が鍛えられる機会がたくさんあったわけでしよう。 第 性に関わらない身体性なんて本当はない、と言い切ってもいいくらいかもしれません。そ 16 ろ
女性が定期的な性生活を持たないとき、どのように自分の身体性と折り合いをつけていく か、ということの具体的な処方箋は、じつはあまりたくさんありません。 女性の身体性は、うまく発散されていかないと、破滅的なものになっていく可能性があり ますから、本当は、さまざまな文化がそれぞれにいろいろな処方箋を持っていたのかもしれ ません。アイヌの産婆さんも、「子宮を空き家にしてはいけない」とつねづね言っておられ たそうです。 今、女性が結婚しなくなり、また、させなくてもいいではないか、という方向になってい ると、とてもたくさんの人数の「結婚までたどりつけない」人たちは、とてもつらい立場に なってしまうのではないでしようか。 そのために、もう少しよく考えられた身体のトレーニングを行なうとか、発想を変えたパ ートナー探しを行なうとか、さまざまな方法を考えるべきときに来ているような気がします。 若者は背中を押されるのを待っている ? 配偶者探しということに、どの民族もこだわっていたのは、それなりにわけがあるという のは、先にも述べました。自分で相手を見つけられる人は本当に強い人間で、自分で見つけ 158
ことで、それほど一一一口語化する必要のない身体所作だったのだろうと思います。上の世代から の「気をつけなさい」「しくじらないようにしなさい」というひと言で、からだが自然に対 処していたというふうにしか思えません。 ただ、この年代まではそれでも伝えられていたのに、次の世代になるとまったく伝わって いない、ということは、それまでは言語化されなくても必然的に伝わっていかざるを得ない ような生活環境・文化環境に身を置いていたのが、ある時期から生活様式が激変していった ことによって、伝承の必要がまったくなくなってしまった、ということなのでしよう。 なぜ九十代から次の世代に伝わらなかったのか なせこの九十代の母から七十代の娘に伝わらなかったのかを具体的に考えてみましよう。 まず生活が急速に近代化しました。生活自体が大きく変わったのと同時に、先にも述べま したように出産も自宅出産から施設出産へと移行しました。女性の生殖にまつわることがら が、急速に医療や医療品に頼り始めた時代です。 そしてさらに、「きもの」という生活様式が捨てられ、洋服で過ごす洋式の生活が中心に なってきました。きものというのは、じつはからだ全体をゆるめ、骨盤底が自然にすっと引
き上がるような姿勢が自然にとりやすい衣服です。きもの中心の生活をするようになるとよ くわかるのですが、きものを着て美しく見える姿勢は、月経血コントロールができるような 身体性を基礎にしているのです。 衣服以外の生活様式も洋風に変わります。京都で生まれ育ってきた友人は、正座するとき は、「おいどをしめなさい」、正座を崩すと「おひしがくずれますえ」と言われて育ってきた といいます。「おいど」というのは関西方言で「おしり」のことですが、現実には「おしり のⅡおいど」ではありません。「おいど」のニュアンスは、女性外性器の後ろ側あたりをすべ よて含む感じになります。「おいどをしめなさい」は、だから、肛門だけを締めるのではなく、 て 子宮、膣、外性器全体をきゅっと引き締めるようなイメージだと思います。 し 「おひし」というのは、女性性器をあらわす美しい上方言葉です。ひな祭りの菱餠は、「お ひし」の菱なのだそうです。女性の性器を何と呼べばいいのか、ということが話題になった をこともありましたが、わたしたちの文化は、こんなに美しい言葉を持っていたのだな、とあ いんび りん 月 らためて思います。「おひしがくずれますえ」は、品があり、凛とした言葉です。淫靡さ、 みしん 亠早わいざっ 猥雑さが微塵もありません。 第 私たちはこのようにして、幼い子どもたちを教育し、身体のトレーニングを行なってきた
たないのであれば、それに代わる何かが必要なように思われますが、そのための答えを用意 した人はそう多くはいません。 先ほども少し紹介しましたが、ルドルフ・アーバンという人が一九四八年に書いて、日本 では一九八一一年に邦訳が出版された『愛のヨガ』という本があります。アーバンは医者で、 セックスのことをずっと研究していた人です。彼はふつうの女性が成熟した年齢に達してい て、結婚できなかったり、身体のふれあいが得られない環境にあるときどうするか、という かことに対する具体的なレシピを書きました。 の る もちろん、ふつうの女性 ( ここでいうふつうの女性、というのは、聖職者や芸術家など特 7 別な使命を持って独身を選び取る女性以外の女性ということです ) がそういう環境にあると = き、女性の健康に問題が起こりやすい、ということを前提としています。アーバンは、お風 せ呂でお湯を還流させながら長く入る、という、具体的な方法を提示しています。 、は 野口整体の創始者、野口晴哉は、男性の場合は「回春法、といっていつまでも若くいられ 性 女 るように整体術を使うこともあったが、女性の場合は必ずしも、そうやって若くてみずみず 4 しいままでいることがよいわけではなくて、「花月」という、女性性を閉じてしまうような 7 第 骨盤の動きを導き出したほうがよいこともある、ということを書いておられます。
が積極的に取り組んできたところに、女性がもともと持っていた身体性を生かすようなお産 の経験が出てきていると思います。 お産と女性の変化 今、そういった助産所では、本当に手付かずの自然なお産が奇跡のように残っています。 まったく医療介入をしないで、女性が自分のからだに向き合って赤ちゃんを産んで、自分の からだをしつかり感じて、ということができているのです。そしてそれができるように妊娠 性 体期から関わります。 す そういう場所でお産をした女性の手記を読むと、あふれるような言葉が躍り、長い長い文 戻 取章が書かれています。今、お産をするような年代の女性が、文章で自分を表現することが特 て っ に得意だと思えません。ほとんどの人は、文章を書けといってもそう巧みに書けないでしょ よ 産 出 それが、助産院での産婦さんたちの手記を読むと、あふれるように文章が出てきているの 章 です。そして書いてあることにいくつかの共通点があります。 第 「宇宙との一体感を感じた」「自分の境界線がないようだった」「大きな力が働いていてそれ 101
とき、ああすることも、こうすることもできたのではないか : ですから、を経験できなかった女性、豊かに出産を経験することのできなかった女 性にこそ、そのあと多くの身体的経験が重ねられるように、ケア提供者の細やかな配慮が必 要なのだと思います。 出産で身体と向き合う経験ができなかったとしても、たくさんの″復帰″のチャンスがあ ります。とはいってもやはり、出産はもっとも多くの人が、身体性に深く向き合うことので きる機会です。ですから「ほかにできない人がいるから」といって、「出産がこういう経験 体でありうる」ということを遠慮して言わないでいることは、あまりに大切なことを見逃して すしまう可能性があるのではないかと思います。 取出産がこのような経験でありうる、という提示は、女性を不安にさせるよりも、むしろカ つづける ( エンパワーする ) ものではないでしようか。出産経験を通じて女性は大きな変革を とげることができるのです。 産 出 このような、深い身体経験である「出産」の本質を、次の世代にもっともっと伝えていき 3 たいと思います。 第 1 め
自分の身体性の根をお産のときに確立する人が出てきている、というのは大きな希望では ないでしょ一つか 「原身体経験」の砦としてのお産 このような、「しつかりとからだに向き合ったお産」のときに感じる宇宙とつながったよ うな経験を、私は「原身体経験」と言っています。人間の根っこになるような経験です。自 分は一人ではなくて、誰かとつながっている、また、自然、宇宙ともつながっていて、つな 性 体 がっているところからカが出てくる、そういう経験です。 身 すプラジルのインディオやオーストラリアのアボリジニー、といった昔のままの生活を今に 取体現している人たちの生活を知ることによって思うのは、その昔、人間の生活のすべてはこ て つういう原身体経験の連なりだったのではないかということです。 はいせつ こ そこでは、食べることも排泄することも、生まれることも死ぬことも、生殖もすべて自然 産 出 丑日はそ一つい一つ の一部として行なわれていて、自分は自然の中の一部として生きていた おそ 章 連綿とした生活を送っていて、一人一人というのはきっと自然の力を畏れてもいたのでしょ 第 うが、自然とつながる自分の力を信じてもいたでしよう。 105
どうしても「それでは施設のそばで」とか「施設の中で」とか、「危ないことが起こるかも しれないから分娩監視装置を全員につなげば : : : 」という考え方になっていきます。 私が専門としている「疫学」とは、調査を通じて、研究者の伝えたい本質をなんとか量的 なデータで示そうとするツールです。 ( 根拠に根ざした医療 ) の理論的根拠になるも のです。女性の積極的な出産経験をなんとか目に見える具体的なかたちで示したい。それが できれば、現在使われている医療科学の枠組みのなかで、説得力あるかたちで女性のよりよ い出産経験を示すことができるのではないかと考えました。 そこで、しつかりからだに向き合って自分が変わっていけるような、「原身体経験」とし ての出産経験を、「変革に関わるような出産経験」 (Transforming Birthing Experience 】 と呼んで、定義を試みています。これをはっきりと定義することができれば、どうす れば母子が出産経験を通じて、より自らの力を信じ肯定的な生活を送ることができるように なるのか、という視点を持っことができます。そして、定義ができれば、このような出産の 状況がどういう場所でどういう条件で起こるのか、ということも研究することができるよう になります。そしてさらに具体的に言えば、そのような出産経験ができるようなケアとサー ビスの定義づけをすることもできるでしよう。 リ 0
のです。しかし時代とともにきものが消え、ちゃぶ台が消え、正座の生活が日常生活から消 え、女性の身体能力は徐々に低くなっていったと思われます。 女性性の中心軸を作る 正座する女性はきゅっと下腹部が締まり、「おひし」がきれいに菱形に保たれていたこと でしよう。足を崩すと文字通り、菱形がぎゅっと崩れるのが感じられるような気がします。 正座をする民族は多くはないと思いますが、日本人の正座は、じつはからだをゆるめて骨盤 底を引き上げ、身体の中心軸を作るような日常的トレーニングだったわけです。 前述の高岡先生がおっしやっていますが、センターが形成されると、身体に軸ができて、 心身共にぶれのない人間になっていくということです。その感覚は、月経や生殖、妊娠・出 産という女性性の核とも言うべき経験を積み重ねることによって、次第にゆるぎないものと して確立されていくものだそうです。つまり女性は男性よりもずっとセンター感覚を身に付 けやすくなっているといいます。 このような観点から見ても、月経という毎月の経験を、意識的に過ごすということは、と ても大切なことだといえます。垂れ流し状態の現状は、月経を無意識的にやり過ごしており、