15 5 曽根はリビングに戻った。 その時、公子の決心は固まった。親が犯人に対峙するという前人未到の状況に挑む覚悟が 腹に据わった。 犯人の指示に従う。仲間の目を欺いて、犯人に一億円を届ける。その段階まで犯人の手先 になったとしても、自分にはまだチャンスがある。犯人がたとえ貴之を受け取り現場に連れ てこなくても、たとえ味方の援護がなくても、身代金を届けた瞬間に犯人と接触できる。犯 人の姿を見ることができ、肉声を聞くことができるという局の状況が待っている。逮捕の チャンスもあるかもしれない。主犯が現われず、捕まえたのが共犯の雑魚であっても、犯人 側の核心に大きく踏みこめるではないか。 十一一時ジャスト、楢崎家の電話が鳴った。 持田が電話会社との直通電話をとって逆探知を要請し、公子が受話器を取りあげた。 「もしもし、楢崎です」 視線が公子を取り巻いていた。録音機をスタ 1 トさせた持田、ヘッドホンで聞く曽根、凍 りついたように電話機を凝視している彰一、ロの前に手を組んだ祈りの姿勢で身を乗りだし ている香澄。ふと気配に目をやると、リビングのドアロにいつの間にか片野坂もいた。 公子の視線は片野坂の顔に貼りついたまま、受話器を握りしめていた。 たいじ ざこ
113 わら して呼びだしてもらおうか。いや、楽しく勉強している息子を邪魔してはならないと思い直 し、電話するのは今夜まで我慢しろと公子は自分を諫めた。 香澄の寝息を聞き届けてからリビングに出てくると、片野坂は楢崎彰一への事情聴取を終 えたところだった。メモ用の小型ノートを閉じて、立ち上がっている。益岡たち幹部はとう の昔に帰ったようだ。 「ご面倒かけました。今夜にでも例のビデオを届けます」 関内を移動する楢崎彰一の周辺を撮影したビデオだ。映っている通行人に見覚えのある人 あざ 物がいないか、彰一本人に見てもらうためだった。犯人が右往左往している彰一と警察を嘲 笑っているのだとしたら、現場周辺に出没しているかもしれない。県警はビデオを使った が、警視庁はこれまでの配備ではスチール・カメラを使っている。 「お気をしつかり持って、頑張ってください」 片野坂がありふれた慰めの言葉を彰一に投げかけ、廊下へ去ろうとした時、あゆみの部屋 から出てきた公子と出会い頭で目が合った。 のしかかってくるように見下ろされた。この男は自分に何か言いたいに違いないと公子が 思った時、言葉が飛んできた。 「なりきってるそうじゃないか、母親に」 ゆが 見上げると、あばたの残る頬が皮肉つばく歪んでいる。被害者対策なのだから当たり前だ
アクセスしたか警視庁のコンピュ 1 ターがすぐ突きとめることを、有働公子は知っている。 警官が駆けつけてくる危険をおかしてまで、彼女が確かめたかったことは何だ。楢崎あゆみ 誘拐事件との共通点か。拉致されたのが同年代の子供という類似性だけではないか、と片野 坂は考えこんだ。 あと一一件の被害者は川口と入間だった。か細い糸だが、片野坂はこれを辿っていくしかな 。覆面車両に乗りこんで携帯電話を取りだし、川口市の被害者宅の電話番号を押した。 永和大学付属病院の旧館に暮色がたちこめていた。 中原街道から路地に入り、旧館の職員通用門と駐車場を見渡せる道端に古賀はカリーナを 止めている。 公子が古賀とここで張込みを始めてから一一時闃視界の先、渋滞の中原街道をパトカーが 何台か通り過ぎていった。荏原署がすぐ近くにある。指名手配犯の心境がいやでも理解でき る。 公子は病院に電話をしてみた。冨家医師は夫人が言っていたように、今日は夜から勤務時 リ間になっている。 車内では沈黙が続いていた。子供をさらわれた親同士がどう気持ちの交流をさせていいの か分からないまま、冨家という一点に向かって緊張が続いている。 295 えばら ぼしよく
ろ 1 ろ 最初は身内の追跡をまいて、金を奴らに渡し、俺たち追跡班には『不意を突かれて金を奪わ れてしまいました』と報告すればいいと考えた。ところが金の受け渡しの現場で奴らとひと もんちゃく 悶着があって、殺されそうになった。とにかく計画に支障をきたして、逃亡せざるをえな ゝ 0 すると心配なのは子供だ。子供と引き離されてしまうという母親の恐怖から、あらかじ め他の場所に移しておいた子供を連れて逃けることにした」 「他の場所 ? 「犯人側と決裂した場合に備えて、子供には学校を休ませ、安全な場所に待たせていた」 「なぜ、なんの罪もない子供の手を引いて逃ける」 「誘拐の片棒を担いだ特殊班の婦警とうしろ指を差されれば、子供の未来もないと悲観す る。あとは一一人で一家心中か、あるいはけるところまで逃けて、子供とできるだけ長く一 緒にいたいと考える。どっちにしたって自滅には変わりはないが、何をするのか分からない ものを秘めているのが母性っていうもんでしよう。男の論理では割り切れないものを抱えて いるんですよ、女は子宮に」 片野坂が言いきると、曽根は黙ってしまった。 「ごちそうさま」紙コップを置き、片野坂は立ち上がった。小康状態の夜だ。こういう時に 睡眠時間を稼いでおかなくては。 「子供が三人いなくなった、例の事件だろ ? ししっ ; トっ
ようがないが、運搬車が網の目をくぐったことには間違いない。片野坂の脳裏に有働公子の 得意げな表情がちらついた。 三十分後、現金運搬車の行方不明が神奈川県警によって確認され、捜査本部に伝えられ 発信は続けるもののべンツの姿はなかったため、片野坂が発信元の車を止めて確認をした ところ、それは横浜ナンバーの国産車で、現金運搬車は婦人警官ごと消えたという。 「特殊班の婦警が金を持ち逃けしたっていうのか ? 」 益岡は裏声になった。その驚愕から立ち直ったあと、県警に責任転嫁する論理展開は可能 か、とすぐに考え始めた。 特殊班の婦警は発信器を別の車につけ替えた。それが犯人の要求にせよ、とるべき行動に ついて捜査本部に判断を仰ごうとしなかったことは責任重大だ。「楢崎あゆみの命を助けた かったら、上司に報告せず、発信器を別の車につけろ」という犯人の要求に素直に従ったと いうことか。それが誘拐事件のエキスパ 1 トと言われる特殊犯捜査係の行動かと、益岡は何 度も首を振った。 非は擎視庁にあるという論調は受け入れよう。そのあとが肝心だ。配備の判断ミスを責め られるより、一婦人警官の資質に問題を一一 = ロ及されるほうが傷は浅いと益岡は計算した。
169 ふんきゅう 三旦則の県警との合同幹部会議で、紛糾の末、それぞれのテリトリーを責任持って守ると いう方針で意見の一致を見た。つまり、所轄がその領域を固め、他に手出しさせないとい う、融通の利かない配備計画だった。 しかも、益岡にとってはひとついやな条件もついた。捜査本部に出向している県警の捜査 員だけは、境界を越え、両方の管内を行き来できるようにすべきだと県警幹部が強硬に主張 したのである。 出向している県警の捜査員とはすなわち、あの片野坂のこと。 なぜ、県警本部があの問題児を性懲りもなく前線に配置しているのか理解に苦しんだ。片 野坂を出向させたのは、警視庁へのいやがらせとしか益岡には思えない。 擎暈が鳴った。運搬車の位置が五分ごとに知らされる。 けいおういなだづつみ 「運搬車は京王稲田堤駅の踏切を越えました。そのまま北へ進んでいます」 地図上で車のマーキングが移動させられた。あと数分で川崎市多摩区を抜けて警視庁管内 に戻るはずだと、益岡は手ぐすね引いて待っていた。運搬車周辺の配備を手薄に見せかけて ノ犯人を誘いだす。身代金奪取に焦っている犯人は、必ず運搬車に接近するはずだと益岡は確 信している。 片野坂は多摩置の路上で待機していた。
2 ろ 8 号はプラックリストに載る。ただし、まだ試験運用の段階でシステムはすべて整っていない ため、プラックリストに載ったパスワードでもアクセスだけはできる。 今、桜田門に一一十四時間常駐している管理者はどう反応しただろうか。 ダウン・ロードされた捜査資料の閲覧はウインドウズ対応になっていた。 『連続幼児失踪事件』『ワンダ 1 ランド』 検索項目にキーで打ちこむと、すぐ反応した。画面は「お待ちください」となって、低い 電子音を奏でて資料がめくられた。 早く、お願い早く、と公子は画面を凝視する。桜田門から玉川署にいくまで一分、連絡を 受け取った人間が益岡に伝えて、厚木署にム哭が下るまで三分、近くの交番から警官が駆け つけるまで一分 : : : 計五分の猶予があれば幸運なほうだろう。 片野坂は国道 246 号線、厚木市文化会館前の信号で車を止めていた。昨日まで行動をと もにしていた高津署の後輩刑事は別班に追いやった。刑事は一一人一組で行動しなければなら ないが、片野坂は単独行動をとっていた。 今日未明に厚木市郊外の採石工場跡でべンツを発見したあと、ずっと厚木市周辺を覆面車 両で流していた。仮眠は車内で一一時間。携帯電話で一度だけ、自宅に電話を入れた。 留守番電話になっていた。この時間にいないということは、妻はまた実家に帰っているの
ろ 14 曽根のだみ声に振り返った。有働公子が逃亡中に閲覧していた捜査ファイルについて、片 野坂が今日一日費やしたことは曽根も知っているようだ。 「子供の手を引いて逃けなきゃいけない女が、なぜそんなものにこだわったんだ」 片野坂本人もどうしても理解できないことに、曽根は鋭い眼差しで光を当てていた。 「今、調べているところです」片野坂は苦し紛れに答えるしかなかった。曽根にこれ以上疑 問点を指摘される前に、捜査本部から姿を消すことにした。 らん グレイ・ウオンは野生の蘭が密生する水辺に、妹の明るい笑い声を聞いていた。曲がりく ねった流れの向こうから聞こえてくる。 薄目を開けて見るのさえ恐かった。この夢の顛末なら知っている。緑の中に、やがて真紅 のシャツを着た妹の姿が見えてくる。早くこっちにおいでよと手招きをする。手が届きそう なところまで近づいた時、突如、ひゅう、と空気を切り裂く音がする。何が降ってくるのか こつばみじん と天を仰いだ瞬間に、妹の笑顔は木端微塵に吹き飛ぶのだ。グレイ・ウオンの目の前は真っ 赤に染まり、頬に何かが食いこむ。あとで知った。それは妹の前歯だった。生えかわったば かりの、うさぎのそれのように白く輝く大きな前歯がグレイ・ウオンの頬に噛みついてい かっしよく 流れの向こうに妹の服の色が見える。褐色の腕がぶんぶん振られている。また妹の死を見 ? 」 0 てんまっ
20 う た。交信が断たれる間際に聞こえた片野坂の声は、まさに牙をむいた肉食獣だった。 「お前を見つけてやる」 公子は無線器を放りやると、ふたたびシートに後頭部を預け、考えを整理しようと試み る。 片野坂だけでなく、神奈川県警の人間全員の興奮が想像できた。そもそもが警視庁のヤマ であり、しかも擎視庁の警官が共犯だったとなれば、公子に手錠をかけることに全精力を傾 けてくる。擎視庁に対する長年の屈辱を晴らす時だ。 ならば擎視庁に駆けこめば助けてくれるのか。同僚たちは誘拐された貴之を発見するため にどれだけ迅速に動いてくれるだろうか。おそらく逮捕されれば事情聴取が繰り返され、よ うやく自分の話を信じてくれたとしても、広域捜査網は後手に回って貴之は死体で発見され るに違いない。官僚主義の権化のような益岡が捜査本部に君臨している限り、迅速かっ正確 な捜査態勢など期待できない。 公子は警察組織そのものに見切りをつけるように、ドアを開け、警察で最も高価な偽装車 両から外に出た。 これまでだって組織に恨みはあった。夫の死を殉職と認めなかった警察。公子は「恨み」 を「意地」という一 = ロ葉に変えて腹の底に沈め、一心不乱に仕事をしてきた。息子のためでも あった。その息子がさらわれたのだから、もう誰に義理立てをする必要もなかった。 ごメ洋・
ここで片野坂泰裕警部補四十一一一歳について記す。 とべ ほどや 神奈川県警本部の暴力団担当四課から、戸部署、保土ヶ谷署を経て、高津署の刑事課勤務 となった。県警内で起こった拉致監禁事件では三度の現場指揮に当たったことのあるべテラ あだ ンだが、縄張り意識の強さが仇となって、各方面で問題を起こしていると聞く。 町田市鶴川駅前やたまプラ 1 ザでの混乱も、片野坂警部補の独断が原因と言われていた。 うなが これまで再三、捜査本部は県警に厳重注意を促してきたが、片野坂警部補に反省の色は見ら れなかった。 ばしやみち 彰一さんは横浜スタジアム前で次の指示を受ける。これ以後、午後一時過ぎまで、馬車道 かんない の関内ホール前、横浜税関前、ホテルニューグランド前 : : : という移動ルートをとらされ る。 当初から予想されたことだが、犯人側は彰一さんを走らせ、配備を混乱させるだけが目的 だった。捜査本部では、彰一さんへの怨恨説がふたたび浮上した。 ニューグランド前に到着したのを最後に、犯人からの電話はなく、一時間後、彰一さんを ト帰宅させ、配備を解く。 ッ 重さ十キロのジュラルミン・ケ 1 スを持って関内付近を休みなく走らされた彰一さんの体 力的消耗も激しく、白石氏の車に乗ったあとはやや脱水症状が見られ、自宅で安静にする。 以後、終日、犯人からの電話はない。