ろ 19 「早く食わないと、これからお前の飯も抜くぞ」 グレイ・ウオンが睨みつけると少年はトレイに顔を近づけた。手は使わせない。食事のあ と、指に粥がついていたら小指だけでなく手首から切り落としてやるとたつぶり脅してあ る。 少年は少女に「ごめんね」と謝るような表情を投けかけて、トレイに口を突っこんだ。鼻 そしやく まで粥だらけにして咀嚼を始める。 少女は涙目で見つめているだけだった。どうして自分だけがこんな罰を受けるのかと、グ レイ・ウオンへの怒りを目に溜めている。その感情はやがて、一人で満腹になった少年のほ うに向けられるはずだ。 どうして一緒に罰を受けてくれなかったのか、と少女は言い始める。すると少年は自分を 責めながらも、友情よりも食欲が勝ったことを自覚するようになる。こうして本能が剥きだ しになることをグレイ・ウオンは知っていた。生きるためなら何でもできることに子供たち が気づいた頃、海の向こうに優しい「ワニ男」が現われる。 鞭で叩かれ続けたあとにあまい飴がある。生まれたての鳥のヒナが初めて見たものを親と 信じるように、ゼロから人間を始める子供の姿をグレイ・ウオンはいくつも見てきた。 四カ弖則にさらった三人の子供のうち、一人もそうだった。南シナ海からタイ湾に入った しかばね 時には生ける屍だったが、パタヤで身綺麗にし、「養子縁組」をするフランス人に引きあ
ろ 1 ろ 最初は身内の追跡をまいて、金を奴らに渡し、俺たち追跡班には『不意を突かれて金を奪わ れてしまいました』と報告すればいいと考えた。ところが金の受け渡しの現場で奴らとひと もんちゃく 悶着があって、殺されそうになった。とにかく計画に支障をきたして、逃亡せざるをえな ゝ 0 すると心配なのは子供だ。子供と引き離されてしまうという母親の恐怖から、あらかじ め他の場所に移しておいた子供を連れて逃けることにした」 「他の場所 ? 「犯人側と決裂した場合に備えて、子供には学校を休ませ、安全な場所に待たせていた」 「なぜ、なんの罪もない子供の手を引いて逃ける」 「誘拐の片棒を担いだ特殊班の婦警とうしろ指を差されれば、子供の未来もないと悲観す る。あとは一一人で一家心中か、あるいはけるところまで逃けて、子供とできるだけ長く一 緒にいたいと考える。どっちにしたって自滅には変わりはないが、何をするのか分からない ものを秘めているのが母性っていうもんでしよう。男の論理では割り切れないものを抱えて いるんですよ、女は子宮に」 片野坂が言いきると、曽根は黙ってしまった。 「ごちそうさま」紙コップを置き、片野坂は立ち上がった。小康状態の夜だ。こういう時に 睡眠時間を稼いでおかなくては。 「子供が三人いなくなった、例の事件だろ ? ししっ ; トっ
皿開き、同じ駐在商社マン夫人に誘われるまま、バンコクのストリート・チルドレンのための 孤児院でボランティアを始めたのだった。 「アジア・チルドレンズ・シェルター」では、バンコクで人身売買の餌食となった子供たち を保護していた。モルモン教徒のアメリカ人が院長だった。 みの その孤児院が児童売春の中継地であることがやがて明らかになった。院長の信仰も隠れ蓑 にすぎなかった。施設の子供たちが毎月決まった日の夜に、一一人ずつ姿を消していた。施設 で感染症を治し、明るい笑顔を取り戻した少女や少年たちが次の朝にはいない。院長には事 実関係を調査しようとする意志はなかった。人買いグループと結びついていて、子供を売っ た金で私腹を肥やしていたのだった。 香澄は施設の宿直をしていたある夜、見知らぬ男によって子供が連れ去られる現場を目撃 した。 それがグレイ・ウオンとの出逢いだった。口止め料として渡された大金を香澄はつつばね た。ただ、施設を出された一一人の子供がどんな世界に辿りつくのか見せてほしいとグレイ・ ウオンに求めた。真実を知りたい一心だった。いや、体がアルコールやドラッグにかわる刺 激を求めていただけだった。 ゅうかん 好奇心たつぶりの有閑夫人に巣くう孤独。グレイ・ウオンは見透かしたように薄ら笑いを 浮かべ、香澄の腕をとり、車に乗せた。 しふく えじき
捕獲時の危険性。港から公海へ運ぶまでの危険性。そもそも蛇頭のような連中と信頼関係 を築こうとすることの危険性。 「これ以上、私をアテにしないでほしい」と最終的な回答がグレイ・ウオン経由で送られて じだんた くると、智永は地団太踏んだ。 つまり、智永たちは今、ふたつの問題に直面している。 蛇頭を完全にコントロールするための多額の「準備金」をどこから捻出するか。そして、 さらった子供をより「金の生る木にするために、どう足場を築くか。 智永は三日三晩考えに考え抜いて、ふたつの問題を一挙に解決するための方法を思いつい た。グレイ・ウオンは「名案だ」と微笑んでくれた。さすが「微笑みの国」で生まれ育った 男だった。 , 彼の笑顔は智永に自信を与えてくれる。 「そろそろ泉水が帰る頃ね」 こんせき 智永は黒いポックス・シーツをベッドから剥ぎ取り、洗濯機に入れる。情事の痕跡を隠す ためだった。どう隠しても泉水は気づくだろうが。 テープルに広げられた世田谷区の地図。縮小は一万三千分の一。子供の住む家は玉川一丁 ミ目にあり、地図では手の中にすつばり納まる大きさだ。 泉水は今日、少女の通学路を調べている。獲物は多摩川を隔てた神奈川県に越境している 小学校一年生だ。 ねんしゆっ
さなくてはならない。伊にも学説にもない状況だから分かりませんでは通らない世界なの 試験の結果がどうだったのか公子に教えようとしないのは、忠告には感謝したものの、婦 人警官ごときに馬鹿にされたくないという若者のプライドかもしれない。警察社会は骨の髄 まで男社会だ。 氷川神社の脇のゆるい坂道を上る。 こうばい この坂の勾配に身を預ける時、公子は決まって、婦人擎管という生き方をどうして選んで きしかん しまったのかと自問自答してしまう。坂道の既視感が三十四年の人生を振り返らせるのだ。 公子の故郷の福井にもこんな坂道があった。低気圧が通過したあとの、あの地独特のフェ 1 ン現象を、啝の今頃の陽気に思いだすこともできる。熱波は足許から生き物のように立 ち上ってくる。 故郷を出たかったからといって、何も警官になる必要はなかった。深く内省するほどでは ないが、軽い苦笑が公子のロ許からこばれる。 父親は高校教師、母親も小学校教師という家庭に育った。弟が一人いて、現在は地元の県 庁に勤めている。 ぜ・、く 公子は幼い頃から体が弱かった。小児喘息だと医者に診断されたのは五歳の時だ。学生時 あすわがわ 代にマラソンの選手だった父親は、よく公子を連れて足羽川の河原を走った。土手の桜並木
119 あるのだな、と公子は感心した。 が、感情の回路が断たれたような彰一の姿を見るにつけ、むしろ精神的に危ないのは、精 神安定剤を常用している香澄より、一見冷静沈着に見えるこの亭主のほうではないか、と公 子は思えてならない。この男が負荷に耐えられなくなって破裂する時が、すなわち楢崎家の 終末のような気がする。 その夜、県警捜査員からビデオが届き、公子たちも外野としてテレビを遠巻きにした。 関内一帯を奔走させられる彰一の姿。カメラはしきりに周りの風景へパンする。目が疲れ る映像だった。 並んで画面に目を凝らしていた彰一と香澄は、見終わって首を振る。見覚えのある人物は どこにも映っていないと答えた。 県警の捜査員と入れ違いに、特殊班の人間が膨大な写真の束を持ってやってきた。九月十 日、読売ランド前駅に始まって、町田市つくし野までを白石が移動させられた一日、現場の 周囲を撮影したスチ 1 ル写真だ。深夜に帰宅するサラリーマンがタクシー乗り場に列を作っ ている写真。たまプラーザのショッピング・センターに買物にやってくる中年女性の写真。 一一子玉川の銀行に現金の引出しにやってきたらしい大学生の写真。カントリークラブから出 てくる素人ゴルファ 1 の写真。ファーストフード店の前でだらんと座りこんでいる高校生の
299 る時だ。 男生の顔に目をやると、額のあたりが白く光っていた。玉の汗が頭髪の生え際から額一面 に広がっている。脳死者にも生理現象はある。暑ければ汗もかく。 もう少しの辛抱だ。この心臓が肉体から切り離されたら、冷や汗や脂汗にまみれた人生か ら解放される。冨家はそう心で語りかけて、メスを握った。自分が神のように思える時。 不意にエルステ・マーゲンの頃が思いだされた。 研修医が執刀資格を得るための通過儀礼。新人の外科医はまず、体表の外傷の治療でメス ちゅうすいえん の持ち方や針糸の使い方を覚え、次に初級クラスの手術として、そけいへルニアや虫垂炎の 執刀が許可される。そして外科医が一人前になるための節目であるエルステ・マ 1 ゲン、胃 の切除手術が待っている。 その日の手術室には、勤務のない先輩外科医が見にきて、どことなくザワザワしたお祭り 気分が漂っている。冨家のメスを持つ手が一瞬たじろいだのを見たのか、当時の副部長の声 とどろ か轟いわに 0 「失敗しても死ぬのはクランケで、お前じゃないぞ。びくびくしないでメスをしつかり持 副部長や看護婦の言う通りに工程をこなせばよかった。エルステ・マーゲンは外科医とし ての技術認定試験ではなく、外科医の仲間に入るための儀式にすぎない。
296 公子は古賀の心の痛みに触れることを、少し恐れてもいた。四カ月も子供が帰らない古賀 くもん の苦それに共感すれば自分の未来を覚悟することになる。公子は絶望を先延ばしにした ゝ 0 タクシーが一台、目黒駅方面からやってきて通用門の前に停車した。慌ただしく下りるポ ロシャツ姿の男が見えた。 「あれだ」 古賀が告げた。日焼けした首にゴールドの輝きがある。タ闇の中でも医者の虚飾の一端を 見ることができた。冨家は通用ロへと小走りに入っていく。 古賀が、どうするんですかこれから、と公子に目で問いかけてくる。 冨家が犯行グループに関与している可能性は大きい。しかし正面きって冨家にぶつかるこ とはできない。重要参考人として連行する権限は公子にはない。相手が抵抗した時、助けて くれる同僚もいない。公子は警察組織に追われている身だ。組織の外に追いやられた人間に は、それなりの闘い方しか残されていない。息を殺して被疑者の背中を尾け回し、核心に一 歩一歩近づくしかなかった。 「医者が誰と接触するか、動きを見るしかありません・ : 公子はそう答えながら、苛立ちが身を焦がす。ここで待っている間にも、貴之に残された 時間は減っていく。公子を利用して身代金奪取に成功した時に、すでに貴之の存在価値は失
有働公子と有働貴之。母と子が一度に消えた。彼らの身に何が起こったのかと、曽根はど さいな んよりした不安感に苛まれた。 片野坂は玉川署の捜査本部にいた。 捜査員たちは上古沢の採石工場と本厚木のパソコン・ショップに散っている。捜査本部は 県警と静かな綱引きをしながら有働公子の足どりを追っている。連絡係として会議室に残っ ている数名は皆、片野坂を遠巻きにして近寄ろうとはしない。 片野坂はファクス機の前で三本目の煙草に火をつけた。覚醒剤中毒者の禁断症状に似てい ると後輩に揶揄された左手が、開いたり閉じたり、それ自体が独立した生き物のように片野 坂の体の末端で激しくうごめいている。 擎視庁の情報処理センターからのファクスを待っていた。有働公子がパソコンで閲覧した 捜査資料は何だったのか。それが分かれば彼女の足どりが掴めるという確信があった。 三十分前にこの捜査本部に戻った時、擎視庁に戻る益岡と廊下で鉢合わせになった。 「君には期待していたんだけどね」と、キャリア本部長はあからさまな皮肉を片野坂に投げ かけた。本厚木のパソコン・ショップで有働公子を取り逃がした件だった。それは部下を鼓 舞する時の上司の物言いだ。この男は何を勘違いしているのか、と片野坂は失笑してやり過 わごした。
・デュナン通りの交差点、ルンピニ 1 公園の向かい側にある繁華街は、少年たちをつけ狙 ペドフィリア う小児性愛者たちのメッカである。 最初の客には「ハンバーガーを一個やるから」と誘われた。グレイ・ウオンは食い物にあ ひぎまず りつくと、言われた通り、男の膝の下に跪いた。デパートのネオンを背中にして、まだケ チャップのついたロでフェラチオをさせられた。 やがてベルギー人が経営しているパッポン・ストリートの売春バ 1 に連れていかれ、同じ 年頃の男娼の中に放りこまれた。 タイの売春婦のショー・ウインドーと呼ばれるパッポンには、ヨ 1 ロッパ人が経営するバ ーも数多くある。そのベルギー人はタイ人の女と結婚して店を持っことができた。外国人は 会社の株を四十九パ 1 セント以上は所有できないという法律は、タイ人と結婚してダミ 1 を 立てることで簡単にすり抜けることができる。しかも店は、売上げの一バーセントをピンは ねしていく警察に保護されていた。 グレイ・ウオンにとっては、肛門に丹念にワセリンを塗っておけば苦痛な仕事ではなかっ ざくろ 地獄とはこんなことではない。鼻先をかすめた砲弾が妹の頭を石榴のように割り、その脳 漿を顔一面に浴びる世界に比べたら、そこは天国とは一一 = ロわないまでも、グレイ・ウオンには いちもっ 耐えられる世界だった。ハープ・エキスのキャンディーを舐めてから一物をしゃぶってやる 215