162 擎視庁と神奈川県警はこれまで以上の人数を配備するという。そんなものは頼りにならな 。現場における擎視庁と県警の対立関係はいまだ根強く残っている。 午後四時ジャスト、特殊班の携帯電話が鳴った。オンにするなりあの電気的な声が耳に届 「環八から世田谷通りに入り、西へ走れ」 すぐに切れた。公子は窓の外に集まっている曽根たちに今のム哭を復唱した。 「よし行こう」と曽根のひと声で皆が散り、追跡車両に次々と乗りこむ。楢崎家には持田だ けが残り、曽根は公子の後方支援をしてくれる。 公子がエンジンをかけた時だった。車窓の外から「おい」と顔を近づける者がいた。 片野坂だった。 きり 「 : : : 何ですか」公子は錐のような眼差しで見上げる。 「納得がいカオし ゝよ ) 、どうして犯人がお前を指名したのか」 「まだそんなこと言ってるんですか。どいてください」 「犯人が金を自分のところに持ってこさせようとするなら、場数を踏んだべテランを使うは ずだ」 「母親の気持ちが分かる子持ちの婦人警官で、あわよくば自分の手足になりそうな警官だと 犯人はタカをくくってるんです。発車します。どいてください」
142 「同じ年頃の子供を持っ母親なんだろ、あんた」 公子は見つめる。本当にただそれだけの意味か。我が身に同じことが振りかかって、誘拐 された親の気持ちがやっと分かっただろう。そう言いたかったのではないか。 縄張り意識を持ちだして、現場に混乱を招いた男。その気になれば、現場をどこまでも混 乱させることができる男。公子の中で疑惑が上げ潮のように高まった。 荷だその顔は」 熱を帯びたままそらさない公子の眼光に、片野坂は息苦しさを感じ始めたようだ。視線を またた 外して玄関に向かい、瞬く間にいなくなった。 誰だ。誰が私を監視している。一人で脱衣所に立っていても、公子の警戒心の糸はちぎれ んばかりに張り詰めたままだった。 リビングの電話が鳴った。捜査本部との直通電話だった。コール音の種類で分かるように なっている。 公子は脱衣所を出て、リビングの扉をくぐる。曽根が受話器を取ったのが見えた。小指の 指紋の鑑定結果が出たに違いない。奥の部屋から、彰一と香澄が揃って亡霊の如き風貌で現 われた。この一時間、部屋に閉じこもってどんな会話をしていたのか、その顔色から想像す るのは難しい : : : え ? もう一度言ってくたさい」
115 「おい、母親」 片野坂は曽根から顔をそらし、公子を狙いすましたように見た。 「何でしよう」 ほアごき こちらに矛先が向かっているようだ。公子は身構える。 「なぜ、母親は警察の介入を認めた。警察に通報したかとホシに訊かれて、なぜあっさりと 認めた」 九月十日、朝の電話のことを一一 = ロっている。その数時間前の深夜、捜査本部は駅前に白石に 金を持たせて待機させ、犯人が現われるのを待った。肩透かしを食らわされた夜があけ、か かってきた電話である。犯人は現場付近で警官らしき姿を見たと言い、母親役の公子にその ことで問い詰めたのだった。 「ホシは九条物産の内情に詳しい人間です。会社が警察に誘拐事件として通報しなければ一 億円が出ないことを知っている。隠しだてをしても仕方がないと思いました」 しかも日本における誘拐事件では、ほば百パーセント、被圭暑は警察に通報するという現 実がある。シラを切り、警察には知らせていませんと嘘をつき続けることは、犯人を余計に 苛立たせて事態の悪化を招くというデータもある。 「腹芸で切り抜けろとは教えてもらわなかったのか」 公子を見る片野坂の目に、くつきりと敵意が浮かんでいる。
「が閉ざされた二は廃墟を思わせた。奥の部屋には一一段べッド。子供のパジャマが無雑作 に脱ぎ捨てられている。 外階段の足音に振り返ると、持田が学校での聞き込みを終えて駆けつけた。 「・・・・ : どういうことだ、これは」 部屋の様子に持田も怪訝な顔になる。 「子供は家にいるはずだと担任教師が言ってました。昨日母親から電話があって、風邪で寝 こんでいるということです。家にいないということは : : : 入院でもしているんでしようか」 もし重病なら有働から何らかの相談があったはずだ、と曽根は思う。事件の真っ只中であ っても便宜を図ることはできた。公子はそんなことで遠慮をする婦警ではない。 「ランドセルがないな」と持田が気づいた。学校に行ったまま帰ってこなかったことを物語 っていた。 有働家の緊急連絡先として、特殊班の名簿にはもう一カ所、電話番号が記されていた。 相沢知子は小竹町に住んでいる公子の友人だった。ここから徒歩で十五分ほどのマンショ ンに住んでいて、公子が仕事で徹夜の時は、有働貴之の面倒は相沢知子が見ていたという。 曽根は電話で朝一番に訪問したい旨を相沢知子に伝え、持田とともに覆面車両で小竹町に 向かった。 し」っしゃ 環七沿いの瀟洒なマンションだった。曽根は部屋に上がらず、玄関で話を聞く。相沢知子
は城北公園の散策道をすいすいと自転車で走って、最初のカープも楽々と曲がりきる。左側 の視界にお母さんが見えて、「凄い、凄い」と小躍りしている。 思いだせない。どうしてお母さんの顔が思いだせないんだろう。貴之は記憶の器を探る。 「プランコのあるところで、夕方になるまで遊んでいようよ : 思いだせない辛さを噛み殺して、貴之はあゆみに語りかける。一一人は過去を振り返るので はなく、未来を作らなくてはならないのだ。 「そのうち君のママが呼びにくるから。そろそろ晩ごはんだよって呼びにくるから : いけない、涙声になってしまった。泣いちゃ駄目だって言ってる本人がこれじやどうしょ うもないと自分を諫めた。すると嗚咽とともに激しい咳きこみが襲う。 咳。咳。咳と涙。あゆみが「大丈夫 ? ーと貴之の背中をさすってくれる。貴之は「ごめ ん、水、水を飲めば、少し治るんだ」と切れ切れに応えた。目蓋のスクリーンには緑の風景 がまだ残っている。幻にすがり、ロを開け、新鮮な空気を求めた。 きれつ 闇に亀裂が走った。光が差しこんだ。船室の扉が開いて、仁王立ちのデビルがそこにい 「喋るなと言っただろう ! 悪魔の怒号で緑の風景も消える。せつかく作った町がデビルに壊された。 「罰として、トイレのバケツはそのままだ」
ろ 76 きつほん 殉職した警官の弔い合戦という思いで、犯人検挙と有働公子の発見に同僚たちが狂奔して いたが、玉川署の捜査本部に出向している片野坂は蚊帳の外である。片野坂にできることと いえば、有働公子がパソコンで閲覧していた捜査資料を追うことしかなかった。 五階に着いた。突き当たりのドアの前に古賀英寿がいた。片野坂も週刊誌の記事で顔を知 っていた。 「お忙しいところすいません。神奈川県警の片野坂と言います」 「どうぞ中へ 古賀はどことなく緊張した様子で、片野坂の視線を避けるように事血蔀のフロアに招き入 れようとした。 この男は何か知っている、と片野坂は直感した。もしかしたら有働公子が接触を図ったか もしれない どんな表情も見逃すまいと古賀を凝視し、片野坂はフロアに足を踏み入れた。 ろうごく すす 牢獄の闇にくるまれている貴之は、自分の気管支の音の他に、啜り泣きを聞いた。 あゆみが泣いていた。空腹の涙だろうか。一一度目の食事も、貴之は一人で食べるしかなか った。デビルがトレイの中身を平らげるまで許してくれなかった。その時もあゆみは目を閉 じ、空腹を堪え、貴之が食べ終わるのを待っていた。 かや
367 のはっきりした端整な顔。年齢は自分と同じくらいだろうと公子は見当をつけた。 女は画面方向にやってくる。古賀のいる場所とは離れているが、女も会場を見下ろすポジ ションに立つ。 古賀が示したボディアクションの意味が、公子には初めて分かった。携帯電話の相手がこ のスタンドの下にいる。そう言いたかったのだ。 うず やがて銃声が響き渡り会場は恐荒状態に陥る。悲鳴の渦に翻弄され、カメラはただ激しく ぶれるだけ。古賀はテープを戻して、青年に指小を送る黒シャツの女の姿でストップ・モー ションにした。 「見覚えは ? 」 古賀に訊かれて、公子は一一日前の夜の記憶を振り絞る。車のヘッドライトをバックに、エ 場の食堂跡に現われた主犯格の女。ビデオに映っている女がそれだとは断言できない。 「分からない : ・ : 」と正直に首を振った。 古賀は溜め息をつき、「しばらくここで休んでてください。僕はやることがあるんで」と 席を立った。 「データベ 1 スで冨家の経歴を調べてみる。医療関係の人名録も確かあったはずだ」 古賀が出ていくと、公子は会議用のテ 1 プルに突っ伏し、深呼吸を繰り返しながら、今ま で知りえたことを整理してみた。
518 が笑っているのだと分かった。 の、つしよう 血と脳漿を噴き上げるようにして死んでいった妹、その最後の笑顔が瞳の前をよぎってい くと、鳥肌は粟だっ怒りへと変わった。食事用のステンレスのトレイに粥をあけると、甲板 に出る。忍び足で船倉への階段を下りる。 前触れもなく扉を開けると、檻の中で身を寄せあっていた子供たちがグレイ・ウオンを見 て凍りついた。慌てて床を手で拭く。グレイ・ウオンは無表情のまま一一人に近寄る。檻の中 の床には拭ききれなかった字がある。「森」と「鳥」が見えた。漆喰のかけらで書いた漢字。 「離れろ」と二人に命じた。怯えた目で、檻の右と左へ二人の子供は分かれる。グレイ・ウ オンは鉄格子の間から少年のほうに食事のトレイを差しだした。 「食え」 深夜の一一時過ぎだが、闇の世界にいる子供たちの体内時計は狂っていた。そろそろ食事の 時間である。 「食え」ともう一度命じた。少年は少女のほうに視線を泳がせる。どうして彼女の分はない の、と言いたげだ。 「お前だけが食え」 そして、少女に一一一一口う。「お前は笑った罰だ。一一回、食事を抜く」 少女は唇を噛み、恨めしそうな顔でグレイ・ウオンを見上げる。 かゆ
517 った。智永という同じ女を肉体的に共有している気やすさなのか。日本人がこういう男一一人 の関係を「兄弟ーと呼ぶことは、グレイ・ウオンも知っていた。 「とにかく早く連れてきてくれ」 「了解 : : : で、どうだい、子供らの様子は」 「そろそゑ = ロ葉を忘れる」 一歩一歩、家畜への道を歩んでいる。一一一一口葉を忘れ、親の顔を忘れるようになる。グレイ・ ウオンが子供たちに敷いた人生のレールだ。 「女のガキのほうは手荒に扱うなよな。ビジネスの約 ~ 舉爭として返してやることになってん だから」 婦警の子供のほうはビジネスに当たらないというわけか、とグレイ・ウオンは失笑する。 しかも九条物産に対して一一度目の要求をしようとしている。ビジネスの線引が随分といいカ 減だ。金の生る木には徹底的に食いつく。それが智永の考えならば自分もついていくしかな いと覚悟している。 電話を切ると、グレイ・ウオンは波音に耳を澄ませた。満潮時のうねりは、昨日よりも高 波音の隙間に少女の笑い声が聞こえた時、夢の中で感じた鳥肌がグレイ・ウオンの腕を覆 った。妹がこの闇にいる。確かに聞こえる。操舵室の下からだ。妹ではない。檻の中で少女
496 あゆみは父親の遺影を見上げている。バンコク駐在時代の写真。熱帯の花に囲まれた父親 の笑顔だった。花の色は血の色を思わせる。自分を守るために父親が流した血を、あゆみは 思いだしているのかもしれない。 父を失い、隣に母もいないまま、輝きを取り戻せないあゆみの瞳は宙を彷徨うばかりだっ た。会葬者の誰もが、献花を済ませると痛ましい表情であゆみを一瞥し、教会の礼拝堂を離 れていく。 公子は杖をつき、参列者の間を縫い、礼拝堂の裏手へと回った。香澄が消えた方角だっ 裏口をくぐり、廊下の先に親族の控え室を見つけた。 部屋では一人、香澄が窓辺に立っていた。生け垣の向こうまで続く会葬者の列を、ばんや りと見つめている。扉の音に振り返った。 「いらしてたんですか : : : 」 公子を見て、黒いレースのべ 1 ルを髪に上げた。丹念に化粧が施された白い顔が現われ た。かろうじて作られたような微笑。 公子はこっこっと杖をついて何歩か近寄った。それ以上に近づくことを許さない何かが香 澄にあった。公子を擎戒の眼差しで見ている。 「葬儀が終わるまで待たせていただこうと思いました。奥さんにお話があって参りました」 ほどこ